第122話 あの頃のように

 リュウヤは闇が広がる虚空を睨み据え、脇構えに構えていた。

 兵庫から水心子正秀作の刀を譲り受けてから二時間余り、リュウヤは一人、稽古着に替えて道場で剣を振るい刀の感触を確かめていた。

 既に型を何百本も繰り返してきたため、大量の汗が身体中から噴き出し、滴り落ちた汗が道場の床を濡らしていた。リュウヤの目には見えない敵が映っている。

 それはかつて戦ったリルジエナであり、アズラエルであり、ルシフィであり、エリシュナであった。仮想の敵の動きを意識しながら、足を運び、身体を転身させ剣を振るう。踏み込み剣を振るう度に汗が飛び散り、窓から射し込む月の明かりがキラキラと反射させた。


 ――まるで違う。


 リュウヤは刀を振るいながら、腕に伝わってくる刀の感触と高揚感に、思わず震えをおこしそうになっていた。

 ルナシウスも名剣だったが、水心子正秀の新々刀を振るってみて、その違いと差に驚いていた。

 違いと差があるといっても、新々刀の技法や材質がルナシウスより優れているというわけではない。

 リュウヤの技や気を伝える、その違いと差である。

 凝縮され研ぎ澄まされた気が、刀身へと伝わっていくのを両腕に感じている。

 しっくりくる。

 相性は抜群。

 リュウヤには手にする刀が、自分の身体の一部のように感じられた。

 この違いは異世界に行かなければわからなかったかもしれないが、考えてみれば当たり前かもしれない、と八双に構えながらリュウヤは思った。

 リュウヤの剣技のみならず日本の剣術は、日本刀の特性を活かすために練られた技だ。

 加えて、新々刀は海外列強に時代が激しく揺れ動いた幕末期につくられた刀を指し、水心子はその祖である。まさしく人を斬るための刀であり、これから魔族に立ち向かうリュウヤには、相応しい刀だといっていい。

 両刃直刀のルナシウスでは、技も剣の特長に合わせて、多少の工夫変化せざるを得ない。しかし、それも本来の納まるべき場所に戻った。

 身構えるリュウヤの前には、仮想のエリシュナが立ちはだかっている。

 エリシュナは白い日傘を振りかざし、猛烈な勢いで次々と打ち込んでくる。それをリュウヤは柔らかく受け流し、右に足を送って転身し、変化した脇構えから踏み込んだ。

 シッと歯の隙間から発した無声の気合いとともに、掬い上げた一刀が、幻のエリシュナの顔面を切り裂くと、リュウヤは残心したまま虚空を注視していた。


 ――斬れる。


 リュウヤは全身が粟立つような感覚をおぼえた。

 不安や懸念はある。

 ルナシウスが粉砕したように、増幅された強大な魔力に日本の刀が耐えられるのか。しかし、今のリュウヤにはこれしか頼れるものはない。

 リュウヤは静かに残心を解くと、神前に一礼し道場の出入り口を振り向いた。

 そこには月に照らされ、ひとが一人佇んでいる。

 先ほどから気配には気がついていたが、区切りがつくまで剣の手を休めたくはなかったのだ。


「アイーシャはもう寝たのか」

「ええ、やっと……。他の皆さんも、もう床に就きました」


 立っていたのは、パジャマ姿のセリナだった。リュウヤは刀を師範席に置くと、腰にさげた手拭いで汗を拭きながら、セリナの傍に歩いていった。


「そうか、俺もそろそろ寝るよ」

「あの……、アイーシャを本当に連れていくんですか」


 セリナの質問に、道場を出ようとするリュウヤは立ち止まってセリナを見返した。

 表情を強張らせたままリュウヤを見つめるセリナに対し、きょとんとしてまじまじとセリナを見返していたが、やがて表情を崩してプッと吹き出してセリナから顔を背けた。


「何が可笑しいんですか。アイーシャはやっと一人でトイレに行けるようになった子ですよ。それを戦いに巻き込むなんて……」


 兵庫から刀を受けとった後、茶の間に戻ってきたリュウヤに、アイーシャは自分の決意を示して同行を申し出を聞くと、しばらくアイーシャを見つめた後、「ありがとう」とアイーシャを抱き締め、同行をあっさりと許可したのだった。セリナもリュウヤの母も驚愕して反対したのだが、リュウヤは二人を無視して二階に上がると、稽古着を抱えて道場へと行ってしまっていた。

 リュウヤの態度に、セリナは思わず怒気を顕にしたが、セリナの言葉を遮るようにリュウヤは軽く手を挙げた。


「お前、あんなのを信じたのか。意外と馬鹿なんだなあ」

「馬鹿て何ですか。馬鹿て」

「そんなもん、アイーシャを安心させるための方便に決まってるだろ。お前ならわかってくれてると思ったがなあ」


 わざとらしく嘆息するリュウヤに、セリナは呆気にとられていた。


「誰に似たのか、こうと決めたらなかなか頑固だからな」

「……」

「そりゃあ、あいつが秘めている力は凄まじいものがあるよ。でも、ちゃんと扱えてこその話だ。起きるかどうかわからない神頼みに、頼るわけにはいかない」

「でも、幾らなんでも馬鹿は言い過ぎじゃないですか……」


 馬鹿とからかわれたのがよほどのショックだったのか、涙目になるセリナに、悪かったよとリュウヤは苦笑いしながら謝った。泣き顔が愛娘とそっくりだと思った。セリナは目の端にたまった涙を拭うと首を傾げて言った。


「……でも、リュウヤさんらしくないですね。アイーシャに嘘をつくなんて」


 本気だったからなとリュウヤが言った。


「アイーシャは本気で俺たちと一緒に戦うつもりだった。でも、アイーシャは小さな子どもだ。戦場に連れていけない。だけど、その気持ちだけでも連れていきたかった」


 戦場という言葉を聞いて、セリナは思い出したように急にうなだれて、リュウヤに身体を寄せてきた。リュウヤがそっと抱き締めると濃い汗の臭いがセリナを包んだ。


「……ご無事で」

「アイーシャを頼むな」

「はい」

「明日、五時に小野田が迎えに来るから、セリナも早く寝ろよ」

「……せっかく、みんなで賑やかに暮らせると思ったのに」

「大丈夫。すぐ元通りになるさ」


 リュウヤが身体を離すと、セリナの潤んだ瞳がリュウヤをじっと見つめた。

 大丈夫と言ってみたものの、リュウヤの本心では強い不安や恐怖がある。帰ってくることが出来るのか。次にまた会えるのか。リュウヤにも確固たる自信などなかった。


「セリナ……」


 リュウヤが顔を寄せてセリナと唇を重ねた。

 新たな戦いを目前にして、怒りと恐怖、身を縛るような緊張で身体の中で感情が沸騰し爆発しそうだった。爆発しかけた感情を、どこかにぶつける必要がある。セリナならそれをすべて受け入れてくれるはずだった。

 リュウヤがセリナの衣服に手をのばすと、唇を離して「こんな所で良いんですか」と恥ずかしさと畏れを交えて言った。

 道場は神聖な場所だとリュウヤから聞いている。その声には、聖霊が存在する異世界の者らしく畏れがあった。


「良いんだ。これから戦いの前の、神聖な儀式を行うんだから」


 自分で言ってみて、いささか大袈裟な表現だとは思ったが、淫らだとは思わなかった。今夜が最期かもしれないという意識が底にあるのと、清々しい月の輝きに照らされたセリナが美しくて、幻想的な雰囲気を醸し出していたからかもしれない。


「ミルトの夜を思い出すな。あの時も月が綺麗だった」

「でも、ここは二階じゃないから、戸を開けたままだと外から丸見えですよ」

「もう皆は寝ているんだろ?丸見えでいいじゃん」

「……馬鹿」


 セリナの顔が、みるみるうちに真っ赤となっていく。山奥の村育ちで厳粛な神殿で暮らし、人質として魔族の王宮で過ごしてきたセリナは少女のように初な心を残していて、他愛のない戯言にもすぐに動揺する。そこは十七歳の頃と少しも変わらない。


「セリナはずっと可愛らしいな。出会った時のままだ」

「そんなこと……ないです。私だって変わりました」


 セリナの念頭には、魔空艦でリリシアが救出に来た際に、娘の前で見せた醜態が浮かんでいる。

 自分のことすらわかっていなかった、十七歳の自分とは違う。セリナは「変わらない」という認識が、二人の間にズレがあることに気がついていたが、さすがに醜態の件をリュウヤには言えなかった。


「仕方ないな。戸を閉めるか」


 何も気がつかないリュウヤはいたずらっぽく笑い、出入り口の戸を閉めて施錠すると、再びセリナに向き直り二人は見つめ合った。擦りガラス越しに月明かりに照らされるリュウヤから笑みは消え、瞳に悲しげな光が宿っているのをセリナは見た。

 

「リュウヤさん」


 セリナはそれだけ言って、リュウヤを促した。

 これが、最後かもしれない夜に、他に言葉が見つからない。何を言えばいいのだろう。

 リュウヤは無言のまま小さく頷く、とゆっくりと手を伸ばし、ミルトでのあの夜と同じようにセリナのボタンを丁寧に外していった。

 そしてパジャマの前をひらくと、あの夜と同じように、月に照らされたセリナの白く豊かな胸が、輝くようにしてあらわれた。

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