第94話 今日まで、そして明日から
ゼゼルから教えられた物置小屋の地下室入ると、見るからに無理矢理溶接した配管が石造りの壁から顔を出し、配管の口から水が少量ずつ絶え間なく流れて落ち、配管の下に置かれた茶色く口の大きな
溢れた水は近くの排水口へ、キラキラと出入り口の戸から射し込む、細かい月光を反射させながら暗い穴へと落ちていく。
魔族の上流階級の邸宅に使われるという上水道の配管を地下室まで繋げ、見回りの目を盗んで収容施設の人間が利用しているのだという。“水浴び場”と称されているが多くは飲料水として使われ、他には皿洗いと多様な目的で使われる
現在はゼゼルがリュウヤたちのために、人を小屋から遠ざけさせていた。
「なんだか、メキアを思い出すの」
水浴び用に腰布や胸に布を巻き、その上に一枚バスタオルを身に着けたの裸身のクリューネが、水で濡らしたタオルで足や身体を洗い拭きながら言った。まるで造りは異なっていたが、粗末な配管を利用している点が、かつてクリューネが暮らしたメキアの壊れた蛇口を思い出させていた。
身体を洗うのは1週間ぶりとなる。旅の途中、水浴びをすることはあったが、魔物や魔王軍に盗賊を警戒して、腰を落ち着ける暇など無かった。出来れば温かな湯船に浸かりたいというのが本心だが、そこまで贅沢は言えない。
「しかし“蛮族の王”、“恐ろしく強いがバカ”。あのゼゼルという男もなかなか言うの」
「……でも、ゼノキアが自身の力を
クリューネと同様の格好をしたリリシアは、クリューネの隣に座り、タオルに固形石鹸を当てて泡立てている。早く
王都ゼノキア周辺の気候は一年中温暖だが、冬にあたる今の季節は、夜になれば水もかなり冷える。
「ゼノキアて神様みたいに凄い力を持っていて、エリンギアもすぐに負けちゃうと思っていた」
「ゼノキア云々より、ここ数年での兵器の進歩のおかげかもしれんな。ゼノキアまでには敵わなくとも、
「ゼノキアは何故、
「バカと煙は高いところが好きだからじゃろ」
「……」
リリシアが納得しかねるといった表情を向けると、頭を洗いながらクリューネが続けた。
「地べたで這いつくばっているのが嫌いで、空から愚民を見下ろしたい。空に浮かぶ城みたいな魔空艦は、その欲を満たすのにちょうどいいからな」
「そんなバカみたいな理由で……」
「ゼゼルがいったろ。ゼノキアはバカだと。それに、いつも空から小さい者共を見下ろす神竜の私が言うのだ。気持ちはわかる。間違いない。気分良いぞ」
クリューネはいたずらっぽい笑みをリリシアに向けながら、豊かな金色の髪を拭っていた。
半ば冗談のようなクリューネの推測だったが、実際にそんな子どもじみた理由なのかもしれない、とリリシアは思った。
「のう、リュウヤはどう思う?」
クリューネは、向かいで体を洗っているリュウヤに声を掛けた。先ほどから無言のまま、ゼゼルから借りた桶で冷水を
寒くないのかとクリューネは不思議に思うが、リュウヤは気にしている様子もない。
リュウヤも腰に一枚タオルをふんどしのように巻いているだけの姿だが、ここまでの長い旅路で、裸を見られることをいちいち気にもしていられない。
「……時代か」
リュウヤは固形石鹸で頭を泡立てながら、ボソリと呟くように言った。
「クリューネが言ったように、文明が飛躍的に進歩したことが大きいな。竜魔大戦の頃のように、一部の強大な強さ持った者同士が正面からぶつかっていたのとは違う。本来は微弱で脅えるしかなかった人間でも兵器の力で強い魔物とも互角以上に戦えるようになった。だが、変えさせたのはゼノキア自身だ」
「あやつが?」
「サナダをこの世界に喚んだのは、ゼノキアだろ」
魔王に喚ばれたサナダの知識と技術は、わずか数年で世界を一変させた。
レジスタンスの技術屋ハーツ・メイカが更に発展させているが、そのきっかけをもたらしたのは間違いなくサナダだった。
「サナダか……。あいつは一体、なんだったんだろうのう」
「わからん。推測できるのは、俺がいた時代よりもっと未来から来たことくらいかな」
「未来?まさか」
「魔空艦だとか魔装兵、
リュウヤが住んでいた日本という異世界でもピンとこないのに、未来という言葉に、それこそ絵空事でも聞いているような気分になって、クリューネやリリシアはどう反応していいかわからず、戸惑いながらリュウヤを眺めている。
その間にも、リュウヤはざぶりざぶりと、水を頭からかけている。
元軍団長のシシバルによれば、サナダは「科学と魔法の融合」を唱えていたらしい。様々な兵器を開発し、将来、魔王軍を牛耳ることを目論んでいた気配はあったが、その先の何を目指していたのかは、今となっては誰にもわからないこととなった。
――人間にわざと技術を流出させて、魔王軍に対抗できるようにはしたかったんだろうがな。
その隙に地位をあげ、邪魔者を排除する。
エリンギアに無差別攻撃を仕掛けたのも、シシバルを反乱させる方向に向かわせたのも、サナダの狙いではあったのではないかとリュウヤは思うところがある。
――まあ、今となってはどっちでもいいことだ。
リュウヤは宙を
「……リュウヤ様、大丈夫ですか?」
「そんな雑な洗い方しとるから、後ろ髪や肩に石鹸残っとるぞ。お主もバカの類いか」
「バカは余計だろ」
「相変わらず、放っておけんやつだの」
クリューネは桶を手にして立ち上がると、リュウヤの背中にまわった。
「ほれ、背中も満足に洗えとらんではないか」
私が洗ってやるからタオル貸せ、とリュウヤに言うと、リュウヤは「すまんな」と無造作に膝にも掛けていたタオルをクリューネに渡した。
「……」
これまでの旅の途中で水浴びする際、何度か同様の行為をしているはずなのに、クリューネはどうしても慣れずに、いつも緊張してしまう。急速に弾む心臓の鼓動が収まらない。
クリューネは緊張のあまり、思わず
いくら優れた魔法があったとしても、治らない傷というものはある。
動揺を感づかれないようクリューネは息をひそめているが、クリューネと違いリュウヤは随分とリラックスしているように思えた。
洗う作業に紛れて、クリューネの指先がリュウヤの背中に触れる。腰や尻にも思いきって触ってみるがリュウヤに特段の反応はない。
「……リュウヤよ、髭はどうするな?」
クリューネは肩ごしにリュウヤの無精髭へとそっと手を伸ばした。同時に、それとなく自らの身体を、リュウヤの背中にわざと密着させる。
タオル越しにリュウヤの厚くゴツゴツとした筋肉の感触や体温が胸や腹に直接伝わると、電流に打たれたような衝撃がクリューネの全身を駆け抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。
リュウヤに悟られないよう、心持ち声を明るくしてクリューネが言った。
「リュウヤのこの髭は、けっこう似合っていると思うがの」
「そうかな。昔、はやしていた時あったけど、すぐにセリナに剃れと注意されたぜ」
「……そうか。私は良いと思うから、セリナに剃ってもらうのに、とっておくか」
「そうだな。そうしようか」
クリューネに密着されたままでも、リュウヤには動じた様子もない。普段通りの口調で話している。
リュウヤは我慢しているわけではなかった。
クリューネとリリシアの裸身を見ていないわけでもない。性欲を失ったということでもない。
ただ、リュウヤの心が二人に向いていなかった。見えてはいるが、見ているものは目の前の二人ではなく、いつも別の女だった。
「セリナとアイーシャに会おうな」
「もちろんだ。無為に一年過ごしてきたわけじゃないからな」
リュウヤはククッと狂暴な笑みを浮かべた。しかし、この一年余り流浪の旅に付き合ってきたクリューネにはその笑みの正体がわかる。クリューネには、リュウヤの笑みは狂暴ではあっても、そこから希望と強靭な意志を感じていた。もう少しで大切なものを取り戻せるという希望と意志。クリューネにはそれが痛いほどわかっているから、未練がましく身体を密着させている自分がいたたまれず、クリューネがひっそりと身体を離すと、同時にリュウヤも前を隠そうともせずに悠然と立ち上がった。
「先に出るよ」
さっぱりした口ぶりで乾いたタオルで拭い、部屋の隅に畳んであった下着や衣服を素早く身につけると、先に寝ると言って水浴び場から出ていった。
「……あのままいけば良かったのに。リュウヤ様だって受け入れたはず」
バタン戸が閉まり、少ししてからリリシアが口を開いた。
「もう誰も責めない。私も、おそらくセリナさんも。明日は死地へ赴く。私たちは生きているかどうかもわからない。未練を残すのは良くない」
「それなら、お主だって同じだろうが。何でリュウヤに抱いてもらわん。お主とは色々あったが、今さらどうこう言うつもりはないぞ」
「……そうしたら余計に未練を残す。戦いが怖くなるかもしれない」
「そういうもんかのう」
「それがために、心の迷いを招き、心の隙間を突かれ、サナダに心を操られた。今の状況を招いたのは私のせいでもある。あの時の屈辱は今も忘れられない」
「……」
「それにリュウヤ様の腕の中にいると、凄く安心できる。すべてを委ねてしまいたくなる。それから……、私が私でなくなるから」
どういうことだと言いたかったが言葉が出なかった。今は解消されているが、かつてリュウヤとリリシアは婚約まで交わした間柄でもある。クリューネには想像もできない未知の世界の話だった。
「自分では認識ないけど、とても
顔を真っ赤にさせて、リリシアが立ち上がった。
「リュウヤ様と夫婦になることは諦めたけれど、それでリュウヤ様への想いは変わったというわけじゃない。未練を無くすためにリュウヤ様に抱かれれば、きっと私は惑溺する。もっと一緒にいたいと願う。より未練が増す。未練は恐れへの引き金。明日への戦いにもきっと支障が出る。だから……」
リリシアはそこまで言って口を閉じた。両目にはうっすらと涙が溜まっていた。リリシアは
「私も出る」
リリシアは拭くのも着替えも荒々しく済まし、足早に水浴び場を後にした。
ひとり残されたクリューネは、濡れた床にじっと目を落としていた。
明日、ゼノキアは戦地となる。
敵の本拠地にたった3人で乗り込む。
リュウヤの妻子を助けるためだけに。
全ては独断の行動で、レジスタンスからは何の支援も期待できない。今夜で最後になるかもしれないという予感はリリシアだけではなく、クリューネの胸の内にもあった。
それでも、クリューネを思い止まらせたのは、より未練が増すと言ったリリシアと同じ気持ちだった。
リュウヤに溺れ、もっとリュウヤを求め、やがて戦いを恐れ、なりふり構わずリュウヤを引き留めようとする自分が想像できる。
そんな醜い自分を晒して、リュウヤを失望させるのが何よりも嫌だった。
「リュウヤ……」
クリューネの指先に、身体にまだリュウヤの感触が残っている。リリシアが言う“自分が自分でなくなる”とは、どんなものだろう。
クリューネの身体に先ほどまで触れていたリュウヤの肌の記憶が甦る。体の奥が熱くなり頭がどうにかなってしまいそうなほどの衝動がクリューネを突き動かしていく。
「ええい、くそ!」
クリューネは叫ぶと、近くに置かれた桶をとり、水を汲んで何度も何度も頭からぶちまけた。
これから闘いに行くというのに。
これから死地に向かうというのに。
求められないものなのに、何を求めているというのか。
自分を惑わせるこんな感情などいらない。
前へ。
前へ。
冷えた水は体に震えを起こすほどだったが、今の火照(ほて)った体を冷ますには十分な冷たさだった。冷水がクリューネの頭を冷やしていくとともに、身の内をかき乱すような激情はどこかに霧散していった。
「……もうすぐじゃ」
裸身のクリューネは肩で大きく息をしながら、ただ一点、虚空を睨み据(す)えながら、自らを鼓舞するように両頬を大きくはたいた。
ピシャリと鋭く大きな音が“水浴び場”に響いた。
※ ※ ※
五時間後。
空にはまだ星が瞬き、王都ゼノキアは眠りについていて、町は深閑としていた。
鬱蒼と生い茂る庭の雑草から、鈴虫の一種がリンリンと鳴いている。
リュウヤ一行は王都ゼノキアの南東側にある空き家の一室にいた。元は居間らしく部屋の隅に崩れた暖炉があったが、それ以外はガランとして調度の品もない。
以前は貴族の邸宅だったが没落してしまい、今はレジスタンスの隠れ家のひとつとして利用されている。この空き家が王宮に最も近い位置にある。
「……セリナがいるのは、この後宮の一室。ここから魔空艦の係留場所までの間に、王族を守るため近衛兵が各地点に三名ずつ配置されることになっている。後宮に一番近いのはこの東門だ」
リュウヤが床に腰を下ろして、魔法の火を使った小さな灯りの下、広げた地図と王宮をそれぞれ小枝で指しながら説明した。光が外に漏れないよう、ローブで灯りと地図を覆っている。
「ここの東門には二十名の兵士が配置されている。門から朝議の間までは担当の巡回兵は二人組五十名。そこから後宮へ入るのに三名の兵が護衛。あと二時間で奴らは次の当番兵と交替の時間だ」
「……」
「主力のほとんどが前線に出払っている。ベリアは始末した。ルシフィも不在。だけど、将軍のネプラスと情報局長のマルキネスと面倒な部下数名が残っている」
リュウヤはそこまで言うと顔をあげて、クリューネとリリシアを見比べた。クリューネとリリシアはわずかな灯りを頼りにして、緊張した面持ちで食い入るように地図を見つめている。
二人が見ているのは、ゼゼルが入手した王宮の古い地図である。建設時に使われた相当古いものらしく、間取りやメモ等が事細かに記載されている文字も、半世紀以上の年月を経て、かすれて読めない箇所もあった。
「あとは、これまでの打ち合わせした通りだ。頼むな」
「……わかった」
「了解しました。リュウヤ様」
クリューネとリリシアは、厳しい表情をしたまま頷いた。
「それにしても、向こうの警備計画や人数、配置までよくここまで把握してるな」
傍らでゼゼルが感心した様子でリュウヤに言った。
情報は常に変化する。
レジスタンスに提供する情報でも、なかなかここまで正確な情報は得られない。
「この一年余り、遊んできたわけじゃないからな」
リュウヤは素っ気ない口ぶりで言うと、もうひとつの頼んだ件は済んだのかと鋭い視線をゼゼルに向けた。ゼゼルは苦笑いしつつ肩をすくめた。
「王宮周辺の連中には伝えてある。真実までは伝えられないからな。“人間狩り”を臭わせて退避させた。周辺数キロは人っ子ひとりいないはずだぜ」
「助かる」
「ただ、まだ起床前だから誰も騒がないが、魔族の連中が気がつくのも時間の問題だぜ。俺がやってる橋げた工事もあと二時間ばかりで人が集まり出す」
「大丈夫だゼゼル。その頃には別の大騒ぎで、工事どころじゃない」
リュウヤはニヤリと口の端を歪めながら、そろそろ時間だと言って立ち上がった。ゼゼルも倣って立ち上がる
「……しっかりやれよ」
「ゼゼル、ありがとう。アンタのおかげで助かった」
「今度は、もうちょっと余裕の持てる仕事にしてくれよ」
「考えとく」
男二人は互いに笑みを交わすと、リュウヤは準備をしているクリューネとリリシアに向き直った。
「ふたりとも、シラネハの実は持っているか」
リリシアがはいと返事をし、クリューネは無言のままポケットから赤色の小さな玉を取り出した。リュウヤも赤色の玉を二人に示している。
自裁用としてレジスタンス全員に配布されている毒薬で、噛み潰したり唾液で溶けないよう特殊な包装がしてある。戦闘中は常に口中に含み、魔王軍に捕まった際は、いつでも自裁するのがレジスタンスの掟だった。
レジスタンスの一員であるゼゼルも常に携帯し、こんな確認の光景は何度も目にしている。しかし、リュウヤたちがこれから魔王軍の本拠地に乗り込むことを考えると、漂う悲壮感がいつもより濃いように思え、ゼゼルは硬い表情で三人を見守っていた。
リュウヤたちはそれぞれ口中にシラネハの実を含むと、互いの視線を交えてうなずき、屋敷の玄関へと足を進め始めた。ぎらついた眼差しに全身から殺気がみなぎり、ゼゼルは思わず戦慄し、掛ける言葉が見つからなかった。
固唾を呑んで見守るゼゼルの横を通り過ぎる際、リュウヤが口を開いた。
「ゼゼル、あとはよろしく頼むな」
「……生きろよ」
ゼゼルの振り絞るような声に、リュウヤは背を向けたまま軽く手を挙げた。
ゼゼルは三人の姿が闇に紛れて完全に見えなくなるまで、同じ姿勢のままじっと見送っていた。
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