第80話 魔法少女リリシア・カーランド

 リリシアには、その男がいつからいたのかわからなかった。鷲鼻に黒縁の眼鏡を引っかけ、白衣を身にまとった貧相な男で、リリシアがいる船尾に向かって歩いてくる。


 ――この船のお医者さんかな。


 客室には、リュウヤとクリューネしかいなかった。この船の操舵室には入っていないから、もしかしたら船員の一人なのかもしれないと、リリシアは推測した。


「向こうは、大変な騒ぎになりましたね」


 白衣の男――サナダはリリシアの隣に立ち、空に立ち上る黒い煙を眺めていた。

 船はトレノに引き返している。少し前まで船員が慌ただしく行き交っていたのだが、今はひっそりと静まりかえっている。

 落ち着いたのだろうとリリシアは解釈していたが、実際はサナダが、ここに来るまでに船員たちを皆殺しにしていたからだった。船自体は稼働していたので、リリシアは静けさを不審にも思わなかった。


「ええ……」

「しかし、争いに巻き込まれずに済んだのは、幸いだった」

「そうですね……」

「災いから免れたというのに、元気がないですね。船酔い?お腹痛いのかな?」

「いえ、お医者さまの面倒をかけるようなものでは……」


 リリシアは気まずそうにサナダから目をそらし、黒煙に視線を向けたため、男の目が一瞬鋭く光ったのを見逃してしまった。何かを見た気がして視線を戻すと、そこには心配そうにリリシアを見つめるサナダの表情があるだけだった。


「もしかして、聖霊の神殿に、どなたか大事な人がいらっしゃる……?」


 かしこまった口ぶりに、リリシアは何となく恐縮して、ええとだけ頷いた。


「そうです。大切な人があそこにいて……」


 リリシアが指差す方向を見て、サナダはとりあえず顔をしかめてみた。リリシアの向けた先には、不吉な黒煙が空を隠すように噴き上がっている。


「確かにあんな状況では、大神官ナギの身が心配ですな」

「ナギ様ではないんです。いえ、昔お世話になって大切な人ではあるんですけど。……将来を誓った人……です」


 ほう、と驚きと同情を混ぜたようにサナダは返事をしたが、頭のなかでは目まぐるしく思考が回転している。


「それではご心配でしょう。あんな化物の戦いに巻き込まれたら、無事では済まない。もしかしたら、死……」

「いえ、あの人は、リュウヤ様は絶対に無事です。大丈夫です!」


 リリシアが突然、大声を張り上げて断言したので、サナダは目を丸くしてのけぞった。だが、その内心では確証を得たとほくそ笑んでいる。

 サナダは操舵手に定期便と聞いた時から、ルシフィや情報局によってもたらされた情報から推測し、目の前にいる少女がリュウヤとクリューネの仲間であるリリシア・カーランドだと見当をつけていた。

 しかし、そのことをルオーノたちに黙っていたのは、確証が欲しかったのと、ルオーノに伝えれば、リリシアを人質にするという手段を選ぶだろうと思ったからだった。

 喧嘩にかまけて、醜態を晒す愚劣な将の世話までする気などなかったし、何より、人質などサナダにとって面白くない。

 自分にとって、面白いことで目的を果たさなければ。


「……そのリュウヤという人は大丈夫と断言するのに、あなたはどうして暗く悲しい顔をしているのでしょう」

「……」

「いや、申し訳ない。医者というやつは、患者の心のケアまで行うために、ついつい本音を聞きたがる。職業病ですな」


 サナダはリリシアの思い込みをそれとなく補完し、快活に笑ってみせた。

 一方、リリシアは思い詰めた表情のまま、黒煙を見つめている。自分がどうなるのかという焦りや不安、寂しさ等といった感情が、リリシアのなかで膨れ上がっている。


「そうだ。これをあげましょう」


 サナダは自分のポケットをごそごそと漁り、中からピンク色の小さなウサギのぬいぐるみを取り出した。


「可愛いぬいぐるみですね」


 リリシアはぬいぐるみを受けとると、わずかに頬を弛めてぬいぐるみを眺めた。

 両目には赤い宝石のようなものが縫い込まれ、陽光に反射してキラキラと輝いていた。


「この子は“ミラ”という名前です。辛いことや不安があったら、この子に相談してみるといい。良い返事がありますよ」

「返事?喋るんですか、この子」

「ええ。あなたの心の中に」

「……」

「ご安心なさい。これもぬいぐるみ療法といって、心理療法の一種です。何かに触れること、語りかけることで不安を和らげるという効果があります」


“ミラ”というぬいぐるみと、サナダの顔を見比べている、リリシアの訝しげな表情から察して言った。


「恥ずかしがらず、その子に語りかけてみなさい。人目が気になるなら、私は離れますから」


 サナダは背を向けて、甲板の方向へと歩いていった。ありがとうございますというリリシアの礼にも、片手を挙げただけだった。

 やがて、サナダの姿が見えなくなると、リリシアはじっと“ミラ”に目を落とした。

 まるっこい身体は柔らかく、たしかに触れているだけで一種の安心感があった。


「……こんにちは。ミラ」


 サナダに言われたから、というわけではなく、安心感がリリシアをぬいぐるみに語り掛けさせていた。


「私、どうなっちゃうのかな。リュウヤ様、何で抱き締めてくれたんだろう」


 言ってから、人形相手に馬鹿みたいと、自嘲気味のため息をついた。

 その時だった。

 きんきんと甲高い声が、リリシアの耳に届いた。


“ゴマかしよ。ステルからにキマッテイルじゃない”


 リリシアは慌てて周りを見渡した。視界に映るのは、海と雲と太陽と船。そして――。


「……誰」

“ここヨ、ココ。ミラよ”「あなた?ミラ、喋れるの?」

“ハナシているのはアナタよ。リリシアは自分にカタリかけてイるの。”

「ごめん……。よくわからない」

“ワタシはアナた。心ヲうつス鏡。モウ一人ノ自分にハナシテ、答えを一緒ミツけるの”

「もう一人の私……。答え……」

“ソウ、アナタはもうすぐステられる。それがヒトつの答え。真実”

「でも、リュウヤ様をぎゅっと抱き締めて……」

“ソレがオトコのやり方ヨ。ダケバ、自分ノオモイどおりにナると思っている”

「リュウヤ様に限って、そんな……」

“オとコはみンな一緒。汚クて野蛮ナ、バケモのなんだかラ”

「化物……」


 リュウヤ様はそんな化物ではない。

 そんな言葉が喉まで出掛かったが、泡のようにポンと消えてしまっていた。ミラを見つめるリリシアは無表情となり、ミラの紅い瞳は妖しげな輝きを放っていた。


 ――上手くいったな。


 サナダはククッと口の端から笑みをこぼして、客室の物陰から、リリシアの様子を窺っていた。


「頼むぞ。魔法生物“ミラ”」

 

 サナダの呟きに呼応するかのように、ぬいぐるみに縫い込まれた二つの瞳が輝きを増す。

 対照的にリリシアの瞳は輝きを失い、井戸の底のような虚無に満ちた暗い瞳となっている。

 魔石によって生み出された魔法生物ミラ。

 彼とも彼女とも判別つかないぬいぐるみには、とある仕掛けが施されていた。

 魔法生物としてのミラの能力は催眠程度だが、ミラの頭部には小型の脳波制御装置ブレイン・コントロール・システムが仕組まれている。

 本来、脳波や思考波を感知して機体を動かす脳波制御装置ブレイン・コントロール・システムだったが、ミラのそれはリリシアが抱く不安や恐れといった負の感情を感知し、肥大し歪ませた情報をリリシアの脳へと逆流させる。


“リュウヤ、リュウヤ、リュウヤ。アなたは、ソレバッカリね”

「当然じゃないの。だって、あの人は私の……」

“アイじんでしょ?”

「私……愛人なんかじゃ」

“なら、妾にセフレ。ナにがオ好みカシラ?”

「……」

“気づきなサイよ。所詮ハステられル女だっテ。あの人にハ、愛スる奥さンがいるのよ。戻るノは当タり前。捨てラれるノも当たり前”

「いや……、いやよ。捨てられたくない」

“くやシイとオもわない?アれだけアナタを抱いテ、昔ノ女二戻るのヨ?”

「悔しい……。悔しいわよ」

“アなタを、誰が助ケてくれる?”


 誰もいない。独り。


“カワイそう。アなタは独りぼっち”


 そうだ。なんで私がこんな目に。


“両親ハ殺サレ、男にステられる。こンな世界、なくなっちゃえばイイのにネ”「……そう。無くなっちゃえばいい」


 良いこと何て何もない。

 こんな腐った世界など、無くなってしまえばいい。

 リリシアの暗い瞳に、ほのかな光が生まれた。

 だが、それはミラの瞳と同じように紅く妖しい光を帯びていく。


「私は、どうすればいいの?」

“アナたは、もうワかっているじゃない”


 そう。わかっている。

 あの男に。私を苦しめたあの男を。奪っていった女を。男たちを。女たちを。全ての人間を。

 この世界を。


「……全てを破壊」


“正解。良い子ねリリシア。大好キよ。ゴ褒美とシて、アなたにその為の力をあゲる”


 そう言うと、ミラの瞳が燦然と輝き、リリシアの足元に、リリシアの魔法陣が浮かび上がった。そして魔法陣から、白い光が炎のように吹き荒れリリシアの身体を包んでいく。


「素晴らしい。実験は成功した。おめでとう、リリシアさん。ついに、パンドラの匣を開けてくれたね」


 再び姿を現したサナダが、邪悪な笑みを浮かばせて、ゆっくりとリリシアの下へと近づいていく。


「これであなたは、災厄となる全ての感情を解放させた。空の匣となったあなたは何も悩まされない。苦しむこともない。“希望”だけが残されている」


 リリシアの黒装束の衣服は白い炎によって焼失し、代わりに白をベースに銀の装飾が施された衣服が、リリシアの身体を覆っていく。

 機能的なつくりとなっているが、ふわりとしたスカートなどから、一見するとドレスのようにも映る。

 黒い髪も銀色に変色し、黒真珠のような濡れた瞳も、ミラと同じく紅い光を帯びた瞳に変わっていた。


「あなたは私の“希望”。新世界への“希望”」


 目を見開き、口に泡を溜めて笑うサナダの表情は邪悪そのもので、腹の底からわき起こる愉悦な感情に押されて哄笑していた。

 魔族も含めて、人間とは何と脆いのだろう。感情をいじるだけで、こうも思い通りに動いてくれるとは。


「さあ、行こうか」


 白い炎が消えると、サナダは無表情に佇むリリシアに声を掛けた。リリシアの肩に、ミラがちょこんと座っている。


「あなたの力を見せてみなさい。魔法少女リリシア・カーランド」


 サナダの足元に、青白い光を放った魔法陣が浮かぶと、共鳴するかのようにリリシアの足元にも魔法陣が描かれる。

 リリシアの空っぽな心には思考も感情も残されていなかったが、暗い世界にミラの紅い瞳がじっと見つめている。


“私ガ傍にイるヨ”


 リリシアは小さく頷くと、背中から銀色に輝く翼が広がった。

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