第61話 聖霊たちが告げる
「ナギよ。洗濯物はここでいいかの?」
勝手口から現れたクリューネが、籠一杯に詰まった洗濯物を庭に運んでくるのを見ると、庭で洗濯物を干していたナギは意外そうな顔をし、ありがとうございますと礼を言って籠を受け取った。
「洗濯場で、ばあさんが腰を辛そうにしとったからの。ちと、見とれんかったから休ませた」
ナギの疑問に答えるように、クリューネが言った。
聖霊の神殿には、住み込みで働いている婆さんがいるのだが、しばしば腰を痛めるようで、クリューネが通りがかった時、籠を前にうずくまっていたのだった。そう言うと、ナギは助かりましたと頭を下げて、再び礼を言った。
「クリューネさんの方は、お身体、大丈夫なんですか?」
「丸一日寝たら、すっかり回復してしまったわ。ただ、少し腹が減ったの」
「余り物なら台所にありますけど、それで構わないですか」
「うむ、ここの飯は上手いからの。文句は無いぞ」
相変わらず、背伸びしたように尊大ぶっているクリューネが可笑しくて、思わず噴き出すナギだったが、それとも知らないクリューネは、釣られて闊達に笑ってみせた。
それにしても、とクリューネは庭を見渡した。晴れ晴れとした青空の下、ひらひらと洗濯物が涼やかな微風にそよいでいる。静かで人の姿もない。
「前に来た時は子どもたちがおったが、見かけんの」
「午前中のこの時間、礼拝堂に集まってお勉強しているんです。私がいると邪魔しちゃうから、お勉強の間はここでお洗濯」
「何も大神官が自らやらなくても、良いのではないか?」
「これは、私が好きでやっていることですから。子どもたちにも手伝ってもらいますけど」
ナギは鼻唄を鳴らしながら、慣れた手つきで、洗濯物を洗濯用ロープに整然と干していく。
「ナギ以外で、勉強を教えられる奴がおるんか?」
「セリナさんですよ」
「セリナ?」
クリューネは引っ掛かるものを覚えて聞き返すと、ナギは白いシーツを干しながら、そうですと答えた。
「クリューネさんを看病していた方です。覚えていますか?」
「ああ、あの……」
「読み書きも出来て、計算も早いんですよ」
幼い子を連れた若い女の優しげな笑顔が、クリューネの脳裏に浮かんだ。
「ちらと聞いたが、記憶を無くしているそうだの」
「ええ、クリューネさんと同じように、神殿の傍で倒れていたんです。衣服も汚れきっていて、はじめは自分の名前も思い出せなかったんですよ」
「私と同じ、か……」
「クリューネさんは、自分がどうやってここにきたのか、覚えていますか?」
いや、と首を振った。
「私の場合はどうやって来たか、何となく想像はつくがの。どうして聖霊の神殿を選んだかはわからん」
バハムートになって無我夢中で飛んできたと、おぼろ気には想像できる。
しかし、自身の力をコントロールしきれていないことを一から説明するのが億劫で、クリューネは口をつぐんだ。それに相手がナギとはいえ、聖霊の神殿は多くの旅人が行き交う場所でもある。どこに人の耳があるかわからず、安易にべらべらと口にするものではなかった。
ナギはそんな空気をクリューネから察して、それ以上は尋ねてこず、話題を変えてきた。
「そういえば、リュウヤさんはお元気ですか?」
「うん、あれから色々あったがの。元気にやっとるよ今は別行動になったが」
「色々とお忙しいでしょうが、今度来られる時は、ぜひ二人でいらしてくださいね」
「ああ、あいつも喜ぶ」
ナギは急に素っ気なくなったクリューネの言動から、レジスタンスと接触できたと覚ったらしく、以前、話をしていたレジスタンスには触れてこなかった。
勘の良い女だと内心、感心していた。
「ナギ様」
礼拝堂の陰から、スケッチブックとクレヨン箱を抱えた女の子が現れ、とことこと歩いてくる。
セリナと一緒にいた女の子だと、クリューネは思いだした。
「どうしたんですか。アイーシャ」
「絵を描いたの。お母さんに見せたら上手て誉められたから、ナギ様にも見てもらおうと思ったの」
「そう。何を描いたの?」
「ええと、魔物と戦う剣士様と女の人」
「へえ、上手ですねえ」
ナギとアイーシャと呼ばれた女の子の和やかなやり取りを、クリューネは呆然と眺めていた。内心では、飛び上がるほどの驚きだった。
――アイーシャだと?
セリナとアイーシャ。
リュウヤが寝言で口にした女の名前と、リュウヤに力を託した紅竜ヴァルタスの亡き娘の名前。
これがそれぞれ別の場所で聞いていれば、それほど驚きもしなかっただろうが、奇妙な偶然と思えない何かを感じていた。呆然と佇むクリューネをナギが怪訝そうに覗きこんだ。
「どうしました?クリューネさん」
「あ、いやいや、何でもないぞ。どれどれ、アイーシャとやら。このクリューネ様が出来具合を見てやろうぞ」
急に割り込んできたクリューネを見て、アイーシャは渋る様子を見せていたが、ナギから「クリューネお姉ちゃんに見せてあげなさい」と促されると、恥ずかしそうにスケッチブックを手渡した。
スケッチブックには二人の人の姿が描かれていた。
剣を掲げている剣士は男で、もう一人は髪形からして女のようだった。背景は茶色が多く使われ、どこかの山の中だろうと思った。
幼児にしては上手いという印象だったが、結んだ長い黒髪の女が、あの癪にさわるリリシアを思い出してしまい、思わず唸り声をあげて、アイーシャの身体がビクリと震えた。
「うん。よく描けておるな。剣士はこれでいいが、もう一人は金髪にした方が、キャラの違いが明確になって良かったかもの」
「……金髪?」
「そうじゃ。私の髪なんかを参考にすると良いぞ。綺麗じゃろ」
「だって、違うもん」
アイーシャは頬を膨らませてむくれながら、スケッチブックを抱えていた。
「この剣士様は黒髪の人と一緒にいるから、そう描いただけだもん」
「お主も不思議なことを言うの。ま、お主も子どもだからまだわからんだろうが、キャラを差別化するには、語尾や髪形などで印象づけして、誰がどれかと明確にだな……」
「それにお姉ちゃんより、この黒髪の人の方が可愛いもん」
「なんじゃと!」
自分よりリリシアの方が可愛いと言われた気分になって、クリューネはムキーと猿のような奇声を発し、「私の方が可愛いわ」と、傍にいたナギが、内心呆れるほどの発言を口にした。
「まあまあ、クリューネさん。子どものことですから、そんなに向きにならないで……」
ナギの動きが不意に止まり、視線を正門に向けていた。
「どうしたな。ナギよ」
強張った表情で見詰めるナギに気がついて、アイーシャの両頬をつまんでいじっていたクリューネも、正門方向に顔を向けた。
高く厚い壁が邪魔をして、それ以外は何も見えない。
「邪悪な気配、招かざる者たちが近づいていると聖霊たちが告げています」
「招かざる者?」
「人数は二人。おそらく魔族かと」
そこまで聞くと、クリューネはやにわに駆け出し、正門へと向かった。門を守る老いた衛兵が、血相を変えて走ってきたクリューネを見て、ぎょっとして振り向いたが、構わずクリューネは広がる草原の果てまで、竜の力を使って目を凝らした。
数キロ地点のわずかに起伏がある草むらで、ふたつの人影が映る。一人が細身に対して、もう一人は獣のような体つきだった。両方ともボロボロの衣服を身につけていたが、細身が誰であるかを認識して、クリューネは息を呑んだ。
あの下品な化粧は落ちているが、くねくねなよなよした特徴的な仕草や歩き方には見覚えがある。瞬間、クリューネの全身を悪寒がはしった。
難敵というのもあったが、生理的に無理が先行している。
「あいつは、ミスリード……か?」
※ ※ ※
『アズライル様。いったい、ここどこよ。人家も全然無いし、ありえなくない?』
『俺が知るか。ミスリード、お前が漕いできたのだろう』
『漕いできたわけじゃないわよ。いつの間にか外海に出て流されたの』
バハムートによって魔空艦が撃沈され、何とか一命をとりとめたミスリードとアズライルは、陸地を目指して漕いでいたものの、方向を誤って内海から外海に出てしまい、何日も海上を漂流して、昨日になって陸にようやく上がることができたのだった。
『とにかく、休みたいわ。お塩とお日様にさらされて肌が荒れちゃってるし』
『魔王軍の将たる者が情けないことを言うな。サイナスが嘆くぞ』
『あら、サイナス様はこんな私を受け入れてくれたわよ』
『何……?』
『サイナス様は、いつも私に優しくして下さったわ』
しなをつくって頬を染める中年男に、アズライルは悪寒を覚えて、ミスリードから視線を背けた。ただでさえ男女の色恋沙汰でも苦手なのに、特殊な恋愛感情など、理解の範疇を越えてしまっている。
そんなアズライルに気がついて、ミスリードが高らかに笑う。
『あら、大丈夫よ。アズライル様は全くタイプじゃないから』
『やかましいぞ、貴様。それよりも飯だ。休める場所だ。魚や小動物程度ではちっとも力にならん』
吐き捨てるように言って、アズライルはずかずかと歩きだす。その後姿をミスリードは肩をすくめて見守っていたが、やがて小走りでアズライルの後ろについていった。
『とにかくあの建物だ。あそこなら、人間もそれなりにいるだろう』
『柔らかなベッドにお風呂。それに、美味しそうな人間もけっこういそうよね』
二人が向かう先には、高い壁に囲まれた建物が見えていた。
造りから神殿と思われるそれは、建物自体は小さめなものの、白く塗られた外壁や、綺麗に刈られた周囲の草むら、台所らしき煙突から煙が出ている。そこで人が住んでいることを窺わせるのに、充分な材料だった。
『エリンギアの憂さを、少しは晴らせそうね』
ミスリードの呟きに応えるかのように、突如、アズライルとミスリードの身体から、禍々しい殺気が溢れでてきた。飢えた獣のように獰猛な目つきへと変わり、邪悪な笑みに顔が醜く歪んでいる。
二人は獲物を前にし、喜びを抑えきれないといった様子で、数キロ先に見える神殿、聖霊の神殿へと足を早めた。
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