竜に喚ばれた男

下総一二三

序章

第1話 竜に喚ばれた男

 ついてない。


 片山竜也はその言葉しか浮かばなかった。

 眼前には巨大な岩のようなダンプカーが迫り、今まさに竜也の命を奪おうとしている。一秒にも満たないわずかな刻のなかで、目まぐるしく竜也の記憶が交錯こうさくする。

 浮かんだのは今日一日の記憶だった。

 今日は朝からついていなかった。

 その声を初めは空耳だと思っていた。


『……ここだ』


 竜也は日課としている早朝の素振り稽古の最中だった。

 特に今日は期末テストということもあって、気合いを入れるというつもりで朝稽古に励んでいた。

 ふと自分が呼ぶ声に本能が警戒し、声のした方向に身構えて振り向くと、手にした木刀の柄があたって祖父の大事にしていた鉢を割ってしまい、こっぴどく叱られて、朝からテンションだだ下がりとなる。

 そして登校時、忘れ物をして一度帰宅したあげく、慌てて自転車を漕いでいると、また『ここだ』と声がして思わずよそ見をし、わずかに揺れたタイヤが運悪く落ちていた釘を踏んでパンクし、結局遅刻した。

 他の教科が今一つな出来なのはいつものことなのだが、もっとも自信のあった国語のテストも、『ここだ』というあの声が気になって、提出間際に一問ずつ解答欄がずれていたことに気がつき、死にたい気分で頭を抱えたまましばらく自分の席から動けなかった。


「今日の竜也くんは冴えねーな。天才剣士くんでもそんな日があるのか」

「当たり前だろ……。唯一、得意分野だったのに」

「めげんな、めげんな。俺が天才剣士くんにハンバーガーでも奢ってやるから」


 級友の小野田は陽気に笑う。

“天才剣士”というのは単に冗談ではなく、片山竜也を表す一つの言葉として用いられていた。

 ただ、それを使うのは小野田のように、竜也の家を行き来する仲の者や師範である祖父の兵庫だけにとどまっている。

 大袈裟過ぎて竜也はその呼び名を好まない。

 顔をしかめて竜也は不機嫌そうに言った。


「いい加減、“天才剣士”なんてやめろよ。恥ずかしい」

「そういや、竜也てなんで剣道部に入らなかったの」

「こっちの稽古ばかりで、部活動なんてやる暇ねえよ」

「ハードだもんな、お前んとこの道場」

「まあな」

 

 小野田は一度、道場を興味本意に覗きに来たことがある。

 延々と続く打ち込みや素振り、様々な敵を想定しての投げやミットまで用いて徒手や蹴り打撃など、見ている小野田が引いてしまうような激しい稽古内容だった。

“天才剣士”という呼び名も、その時に祖父であり竜也の師でもある片山兵庫から聞いたらしい。

 だが、小野田には話してはいなかったのだが、剣道部に入部しなかったというのは真実ではない。

 実際に一度は入部していた。

 剣道は強くはないと聞いてはいたが、「学生生活は大切にしろ」といつもは厳しい祖父が意外にも承諾してくれたほどだった。しかし、強くはないどころか、素振りを多少行った後にゆるい打ち込み。後はおしゃべりの方が長いというおそろしい活動内容で、やる気というものがあまりに欠けていた。

 あまりに不毛だと一週間ほどで退部したのだが、次の部活が決まらないまま、小野田と帰宅部の学生生活が続いている。

 しかし、次の部活に入らないのも、下校中の約30分、小野田との他愛のない雑談は楽しかったというのもひとつにある。同じ雑談でも、やるべきことから外れて雑談に付き合うより、気の合う人間と帰る時間を過ごしている方が有意義に感じるのが、竜也には不思議に感じられた。

 小野田は中学では陸上部だったが、家庭の事情もあって部活には入らず、途中のファミレスでバイトをしているらしい。一見、頼りなげだが小野田の飄々ひょうひょうとした人柄は竜也とどこか気が合った。

 でもさ、とそんな小野田が言った。


「大会も無しじゃ、物足りなくね?」

「うん。だから、月二くらいのペースで実業団とか、じいちゃんの顔見知りの道場連れてかれて、試合形式の稽古やってんだ」

「へえ?どんな人とやるの」


 興味深そうに小野田が目を丸くしながら竜也を見てくるので、竜也は照れ臭そうにうんと頷(うなず)いて話を続けた。


「そこで、インターハイ優勝とか、実業団で日本一になったりして活躍してるような人と試合してるよ」

「どうよ。実業団レベルてやっぱ凄いの?」

「……まあ、強かったよ」


 竜也はそこまでの表現にとどめておいた。

 外で試合稽古をするようになったのは中学二年の頃からだが、相手につけ入る隙を与えず、これまで一回も負けたどころか、一本取られたことすらない。

“天才剣士”と呼ばれるのもそれが理由だが、それでも竜也はこの呼び名を好まない。

 竜也は小野田に誘われるまま、国道沿いにあるハンバーガーショップに寄った。そこで約束通り、小野田からハンバーガーを奢ってもらったのだが、セットにサラダをお願いしたのにフライドポテトが出てきた。

 竜也はフライドポテトのギトギトした脂ぽさが好みではない。いつもサラダを注文する。


「竜也君、そんな若く鍛えているのに、もう中年みたいな健康思考ですかな」


 と小野田にからかわれるが、合わないのだから仕方がない。

 ともあれ、サラダに交換してもらおうかと思ったのだが、小野田が「二十円得したじゃん」と異様にはしゃぐので、竜也も一時は得した気になってそのままにしておくことにした。このハンバーガーショップでは、フライドポテトのがわずかに高値である。

 しかしというのか、やはりと言うべきか、好みでないものはあまりうけつけないらしく、竜也は胃もたれを感じながらポテトをかじった。

 脂で重くなった腹を抱えて店を出て、横断歩道を渡り終えようとした頃、またどこからか『ここだ』と声がする。

 いい加減にしろと思いながら立ち止まって周囲を見渡すと、先ほどの声とは別に「落としましたよ」などという声が聞こえたので、そちらに向くと、小学五年生くらいの利発そうな女の子が、竜也の財布を手にして明るい笑顔を振り撒きながら横断歩道を走ってくるのが見えた。

 赤信号の横断歩道。

 そして女の子の横手から迫るダンプカー。


「あぶないよ!」


 と竜也は叫ぶと、反射的に駆け出していた。

 祖父の影響で幼い頃から夢想神伝流の流れを汲む真伝流の道場で鍛練も欠かせていないので、足にも相当な自信がある。

 女の子を抱えて自分もヒラリとかわす。

 周囲からの感嘆と喝采(かっさい)。

 いつもの竜也ならそれが出来たはずだが、足が一瞬出遅れた。もしかしたら、胃もたれした腹の影響かもしれない。

 女の子を突飛ばすのが精一杯で、ダンプカーが竜也に迫る。

 待っていたのは悲鳴と怒号。


 ――死にたくねえ!


 鉄の重い衝撃が竜也に触れた瞬間、目の前が闇に包まれた。周りの悲鳴や雑音は既に失せ、静寂だけが残った。これが死の世界かと竜也の胸中にざわめきを感じた。

 ああ、死というものはあっけないもんだ。もっと辛いかと思っていたけど、意外と痛みや苦しみも無いもんなんだな。もう試合も出られないのか。じいちゃん、父さん、母さんに姉ちゃんもごめんよ。小野田、ハンバーガー奢ってくれてありがとよ。

 それにしてもと竜也は思う。生きている間に彼女ひとりくらいは欲しかったなあ。

 神様のいじわる。


「はああ……」


 竜也は思わず漏らしたため息に疑問を持った。確かに今、ため息を口から漏らした。自分の耳に自分の声が聞こえた。背中にチクチクと刺す感触や冷たさも感じる。どうも仰向けの姿勢で倒れているらしい。


「……」


 竜也はおそるおそる目を開けてみた。

 見える。そこには世界が確かに広がっている。

 空には星が輝いて見えた。倒れている場所は草野で、さきほどから刺すような感触は草の葉だったらしい。


「俺、生きている……?」


 竜也は上体を起こし辺りを見回した。すると不意に背後から気配を感じて、本能的に立ち上がっていた。 傷一つ無い自分に驚くよりも先に、竜也の意識は凶暴な動物のような荒々しく獰猛な気配に向いていた。しかし、そこには闇に染まった小山しか見えない。


『よくぞ来た。異世界の者よ』


 鐘のように重く割れた声が闇の奥から響いた。


「……イセカイ?お前、誰だ。ここは?」

『落ち着け、異世界の者よ』


 その時、闇がうごめいた。山のようだったものが形を変えていく。動物というにあまりに巨大な生物の影がそこにあった。月を覆っていた曇がとれ、月明かりが次第に生物の姿を照らしていく。

 その生物は紅蓮の外皮に覆われ、竜也四人並んだほどの巨大な四肢を持っていた。その四肢の指先には鋭い爪を生やし、逆三角状の頭部にも巨大な二本の角や牙があった。

 だが、その身体中には無数の傷を負い、その傷口からどす黒い体液がふきだしている。おそらく血なのだろうと、竜也はその不気味さに身を震わせた。


『この世界にお前を喚んだのは私だ』


 竜也は息を呑んだ。

 漫画やアニメ、伝承の類いでもうんざりするほど目にしているはずの生物のはすだ。


「ドラゴン……?」


 呻(うめ)く竜也の前に、血まみれのドラゴンがうずくまっていた。《ルビを入力…》

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