おまけ 明智光秀 解説

 明智あけち十兵衛じゅうべえ光秀みつひでの前半生は闇につつまれており、こんなもん一流の歴史学者ですら解明できていないのだから、はっきり言えば無理だ。

 だが、一応自分なりの解説はしてみたい。


 通説では土岐とき明智家の光継みつつぐの嫡子で明智光安みつやすの甥ということらしいが、まったくもって確証はない。

 明智光安を架空の人物と断じる歴史家の先生もおられる。

 だが明智光秀が『土岐明智氏』と全く関係がないとも言い切れないので、一応出自とされる土岐明智氏について解説したい。


 そもそも土岐明智氏の宗家は別にあり江戸幕府で大名になっていたりする。

 江戸幕府において、下総しもうさ相馬郡そうまぐん守谷もりや1万石となった土岐定政ときさだまさの家系がそれである。

 土岐定政が徳川家康に仕えて大名となり、家名が残ったことで、この系統が土岐明智氏の宗家とされた可能性は否定できないが、一応宗家であろうと考える。


 土岐定政の系譜は室町幕府の初代美濃守護である土岐頼貞ときよりさだの孫で土岐(長山)頼基よりもとの子である明智頼重あけちよりしげを祖としている。


『寛永諸家系図伝・土岐』


 土岐頼貞━土岐頼基┳明智頼重━明智頼篤━明智国篤━明智頼秋━明智頼秀

          ┣土岐頼高

          ┗土岐頼助

 ━明智頼弘━明智頼定━明智頼尚┳明智頼典

                ┗明智頼明━明智定明━土岐定政


 上記は信憑性しんぴょうせいの面で恐ろしく怪しい江戸幕府編纂へんさんの『寛永かんえい諸家系図伝しょかけいずでん』によるものであるが、明智家の系図ではまともな部類だったりする。(苦笑)

 土岐頼貞は太平記などでは正中しょうちゅうの変で死んだことになっていたりするが、しっかりと生き延びており、建武の親政や足利尊氏に従い、室町幕府において初代美濃守護となった土岐家の中興の祖である。


 次代の土岐頼基は『長山頼基ながやまよりもと』ともされ、明智城の別名『長山城』の長山であろう。

 その子の明智頼重は初めて『明智』を号したとし、明智氏の初代とされる。


 また、土岐頼貞の子で長山頼基の兄の『土岐十郎じゅうろう頼兼よりかね』が明智頼兼ともされるが、土岐十郎頼兼は建武の親政の前の正中の変で討たれており、その子の頼古や孫の頼孝は明智を名字とはしていないようである。

 同じく土岐弥十郎やじゅうろう頼明よりあきも明智頼明とされるが、土岐弥十郎頼明は四条畷しじょうなわての戦いで戦死しており、子はなかったようである。


 明智頼重は土岐頼兼の養子となったという説もある。

 確定できるものではないが明智頼重は、父の長山頼基と伯父の明智頼兼らの地盤を引き継ぎ、現在明智城、明智長山城といわれる明智長山の地、明智荘あけちのしょう岐阜県可児市ぎふけんかにし)や妻木郷つまきごう地頭じとう職などを獲得したのであろう。


 明智頼重のあとは、明智頼篤よりあつが幼かったため頼重の弟の頼高や頼助に所領などが一旦分与されたようだが、頼篤の成人後に両名から頼篤に譲られている。


 以降の系譜は若干おかしく、明智頼秋よりあきが兄で明智頼秀よりひでが弟という兄弟の継承や、同一人物であろう明智頼弘と明智頼尚が別人のようになっていたりする。

 兄弟での継承や当主の再登板などがあったのではないかと推測するが、史料には名が見えるため実在は間違いがないものと思われる。


 さて、明智頼典よりのりなのであるが、系図には「父に仕えること不孝なるゆえ、家を継ぐことあたわず」とあり、父の明智頼尚に廃嫡はいちゃくされているようである。

 明智家の家督は頼典の弟の明智頼明よりあきが継いでいる。

 あまり情報がないのだが土岐明智宗家は守護土岐宗家の被官ひかんであり一門衆であったと思われる。


 そして頼明の子の明智定明さだあきの代、天文21(1552)年に『濃州乱の時、一族と同じく討死』とあり、ここに土岐明智家は一旦滅びてしまう。


 1552年といえば、土岐頼芸ときよりのりが斎藤道三によって美濃を追放された年になる。

 明智定明には明智定衡さだひらという弟がおり、定明はその弟に殺害されたとも、小栗教久に攻撃されたともいうが、このあたりはまだ闇の中である。

 土岐明智家は土岐頼芸と斎藤道三の争いに巻き込まれ滅亡したというのが無難なところかもしれない。


 その後の土岐明智家だが、明智定明の遺児とされる、土岐定政が母方の菅沼すがぬま家を頼り美濃から逃れ、のちに徳川家康に召し出されてその家臣となっている。

 徳川家康に仕えた土岐定政は菅沼藤蔵、明智定政、土岐定政と名を変えながら徳川家に仕え、下総相馬郡守谷1万石の大名となり、子孫は最終的に上野国こうずけのくに沼田藩ぬまたはんとして存続し明治維新を迎えている。


 いろいろあったけど土岐明智家は大名になり、明治まで続いてめでたしめでたしだね!

 では『明智光秀』がまったく出て来なくて困るのでもう少し解説させてください。


 ◆


 実はこの土岐明智家とは別に、奉公衆ほうこうしゅうとして活躍したであろう別の『明智家』が存在したりする。


『尊卑分脈』

                          (玄宣)

 土岐頼基┳明地頼重━明地頼秀━明地頼高━明地光高┳明知光重━明地光兼

     ┗土岐頼澄               ┗明知政宣


 比較的信頼性が高いとされる『尊卑分脈そんぴぶんみゃく』に記載される、もう一つの明智家である。(明智、明知、明地の記載はあまり気にしないで良い)

 ただし、明地頼重以降は点線の表記になっており、底本ていほんに追加で加筆されたものと思われる。(よくあります)


 室町幕府では有力守護やその一門などを奉公衆として取立て、守護家を牽制させることをよくやっており、『奉公衆明智家』もそのようなものだと思われる。

 明智荘で活躍したであろう『土岐明智宗家』とは別に在京した『奉公衆明智家』があったということである。


大武鑑だいぶかん』に記載の長享ちょうきょう元年(1487)の番帳には、四番衆に『土岐明智兵庫助ひょうごのすけ』と『同左馬助さまのすけ政宣』の名が見える。

 明智兵庫助は明智光重みつしげ(玄宣)であり、明知政宣とは兄弟であろう。

 この兄弟は二人して京にあって連歌れんが会の活動などに活発であったようである。

 宗祇そうぎ東常縁とうつねより古今伝授こきんでんじゅを受け、北野きたの連歌会所の宗匠そうしょうともなった、この時代における連歌会の巨匠なのだが、この明智光重(玄宣)はその宗匠としての後継者指名を受けるなど(辞退している)連歌では有名な人物であった。


 そして京で連歌会など華々しく活動していた『奉公衆明智家』であるが、ここにも戦乱の影が忍び寄る。


 1495年にこの在京の『奉公衆明智家』土岐明智兵庫頭入道玄宣と、美濃在国の『土岐明智宗家』土岐明智兵部少輔ひょうぶしょうゆう頼定とが知行ちぎょう(所領)の争論を起こすのである。

 1495年といえば、美濃ではあの「船田合戦ふなだかっせん」の真っ最中である。

 美濃の奉公衆などはこの前から所領を押領おうりょうされており、『奉公衆明智家』も例外ではなくその所領を押領されたのであろう。


 ここで『奉公衆明智家』の明地光兼は所領を守るため美濃へ下向げこうすることになったのであろう。

 そして、ここで『奉公衆明智家』の歴史は終わる。

 一応、玄宣や政宣が在京のままであり連歌会に出席しているようだが、やがてその記録も途絶え、美濃へ下向したあとの『奉公衆明智家』の記録などはまったく無いのである。


 船田合戦のあとは斎藤道三の父と道三が活躍し、土岐頼武と土岐頼芸などのお家騒動などもあり美濃はとってもヒャッハーな状態になってしまうので、もしかしたら『奉公衆明智家』は滅んでしまったのかもしれない。


 ここまでがもう一つの「明智家」であるのだが、うん困ったな。

『明智光秀』が本気でのである。

 しょうがないので解説を続けざるを得ないのだが許して欲しい。

(明智光秀の解説のはずなのに、まったく明智光秀が出てこないのー助けてー)


 というわけで(どんなわけだ?)、私もそうだが、いろいろな人がかなり昔から、この明智光秀と全く関係の無さそうな、両方の明智家になんとか明智光秀を結び付けようと無理やり頑張るハメになるのである。


 ようするに比較的な物と考えられる系図や史料には明智光秀と結びつく物などは全く出て来ないのである。

『明智光秀』なる者がいかに胡散臭うさんくさいかお分かりであろうか?


 ◆


 だが、これでは『明智光秀』の解説にはならないので、明智光秀が記載されている、かなり胡散臭い系図類に手を出さざるを得ない。

 とりあえず明智光秀記載の系図としては以下のようなものがある(一部抜粋)。


『明智氏一族宮城家相伝系図書』


 明智頼弘┳明智光継┳明智光綱━明智光秀

     ┣明智頼定┣明智光安┳三宅光俊(明智光春・明智秀満)

     ┣石森頼敏┣明智光久┗三宅光景

     ┗明智光鎮┣明智光広

          ┗明智光廉


『続群書類従・土岐系図』


 明智頼弘━明智頼定━明智頼尚┳明智頼典━明智光圀━明智光秀

               ┗明智頼明━明智定明━土岐定政


『続群書類従・明智系図』


 明智頼尚━明智頼典━明智光隆┳明智光秀

               ┣信教(筒井順慶)

               ┗康秀(三宅弥平次)


『系図纂要』


 頼兼の7世・明智光継┳明智光綱━明智光秀

           ┣明智光安━明智光春

           ┗明智光久━明智光忠━明智光近


 はい、全部胡散臭い! もう無理! これ全部です。

 明智光秀なんて、土岐明智一族なんかじゃありません、以上! 終り!

 と言ってしまいたいほど、めちゃくちゃにしか思えんのだわ……

 でもに解説をしなければならないだろう。


 まず『明智氏一族宮城家みやぎけ相伝そうでん系図書』だが、『明智頼典』を『明智光継』として、一般的に知られる明智光秀の一族を繋げている。

『明智頼典』は義絶の上、廃嫡されているので繋げやすかったのかもしれないが、頼典と光継を同一人物にするのはどうかと思う。


 つぎの『ぞく群書類従ぐんしょるいじゅう・土岐系図』も同じで『明智頼典』の子に『明智光圀』という光秀の父を置いている。


 その次の『続群書類従・明智系図』は語るのもアホらしい出来なのだが、『明智頼典』の子に『明智光隆』という光秀の父を置いている。

 問題なのは光秀の弟たちであり、筒井順慶つついじゅんけいとか三宅弥平次みやけやへいじ明智秀満あけちひでみつ)などがおり、多分この系図は記憶から消して良いレベルです。

 一応擁護ようごすると明智光秀の娘が筒井定次つついさだつぐの妻になっている説や同じく娘が明智秀満室になっている説があるので、何か間違えたと好意的に解釈してみよう。


 最後の『系図纂要けいずさんよう』は、無理やり誰かに繋げることをせず、諦めがよくていさぎよい系図だね。

 一般的に知られる明智光秀の一族だし、なんとなく好感が持てます。(苦笑)


 結局のところ系図類から明智光秀を土岐明智家の者とするのは、かなり無理があると思います。

 明智光秀の父として、明智光綱、明智光圀みつくに、明智光隆みつたかと三種類あり、胡散臭いどころではないのである。

 正直いって明智光圀、明智光隆の名は忘れて良いと思います。


 あと、『明智頼典』に無理やり『明智光秀』系を繋げるのはいいかげん胡散臭うさんくさ過ぎるので諦めたほうが良いと思われる。

 たしかに『明智頼典』は実在しているのだが、廃嫡されたことをいいことに、そこに繋げるのは作為さくい以外の何ものでもないだろう。


 ……もうダメだぁ、ここまでやっても『明智光秀』と『土岐明智家』が繋がる気がしねえ!

 でも諦めない人も居たりする。


 マンガ「信長を殺した男」や「光秀からの遺言」、「本能寺の変431年目の真実」などで最近有名な「明智憲三郎けんざぶろう」氏である。

 むろん私も読んだし、一部は多いに参考にもしている。


「明智憲三郎」氏は『奉公衆明智家』説を採っている。

 結局のところ『寛永諸家系図伝・土岐』系図と『尊卑分脈』の系図とを繋げることをやっているのだが、いまのところ多少無理を感じる。

 ただ、『奉公衆明智家』の特に明智玄宣の研究には力を入れており、「明智憲三郎」氏の説には期待もしている。


 一応『奉公衆明智家』にしは、『明智光秀』が居たかもしれないという可能性を感じるので、私も『奉公衆明智家』を追いかけてはいる。

「明智憲三郎」氏の系図とは違うのだが、一応可能性として自分が考えている系図を下記に掲載するので、与太話の一つとして見てくれれば嬉しい。


 あくまで趣味で作っている系図ですので鵜呑みにはしないで下さい。

 それと相変わらず見にくくてすいません。画像を選択してリンク先に飛び、画像を大きくすれば見れると思います。(手間をかけさせてすいません)


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 あと今さらなんですが、3つ目の「明智家」などもあったりします。

 遠山七頭とうやましちとうのひとつの『明知遠山氏あけちとうやまし』である。

 いわゆる『明智城』といわれる城は岐阜県可児市瀬田長山の『明智長山城』と岐阜県恵那市えなし明智町あけちちょうの『明知城』(白鷹城)の二つがあったりする。


 岐阜県恵那市明智町の『明知城』もなぜか大々的に、明智光秀生誕の地とか謳っているので、あまりおおきな声では言えないのだが、それ無理! 無理がありすぎる。

『明知遠山氏』は遠山氏だから。


 一応、明智光秀の叔父の明智光安(宗寂)と明知城主遠山景行とおやまかげゆき(宗叔)の同一人物説とかもあるのだが、ご苦労様である。

 ちなみに『明知遠山氏』は甲斐武田家に滅ぼされたり、金森長近かなもりながちかと戦ったりしながらも戦国をかろうじて生き延び、江戸幕府の旗本はたもと交代寄合こうたいよりあいとして存続し、血縁ではないが子孫には、かの『遠山の金さん』のモデルである北町奉行きたまちぶぎょう遠山景元とおやまかげもとが居たりする。


 ◆


 さていい加減系図のお話は終りにして別の角度から『明智光秀』を解説しよう。

 明智光秀の動静が確実に分かるのは、永禄えいろく12年(1569)1月5日に三好三人衆や斎藤龍興たつおきらが京都の本圀寺ほんこくじを仮御所にしていた足利義昭を攻めた「本国寺の変」(六条合戦ろくじょうかっせん)である。


 この戦いでは明智光秀は近江・若狭の国衆らと本国寺を防戦し、援軍もあり本国寺の防衛に成功している。

 明智光秀は幕府の足軽衆として参加し功をあげ、戦後に奉公衆へと取り立てられたと思われる。


 本国寺以前の動静としては、『大武鑑・巻之1』に修められている『永禄六年諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下集覚』の後半部分に足軽衆として『明智』の記載がある。(光源院殿=足利義輝)

 ちなみに同じく足軽衆に記載されている『柳澤』は柳沢元政であり、奈良御供衆のところには米田こめだ源三郎(求政)が居るし、『松井』が三名記載されているが、そのどれかが松井康之やすゆきだと思われる。(細川藤孝は御供衆にいるが、松井康之も米田求政もまともな幕臣の地位ではない。松井康之や米田求政が代々将軍家に仕えたことには疑問がある)


『永禄六年諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下集覚』は番帳、ようするに幕臣の名簿であり、前半部分が永禄六年に足利義輝が生存している時に作られ、後半部分は越前に居た頃の足利義昭が付け足したものといわれている。

 足利義昭の時代に明智光秀は足軽をやっていたのである。(幕府の足軽なので、一般的な足軽よりは上)


 また光秀の史料として、ここ最近の新しい史料なのだが、『針薬方しんやくほう』というものがある。

 これは米田貞能こめださだよし求政もとまさ)が永禄9年(1566)10月20日に近江の坂本で書き写したとされるもので、その内容は沼田勘解由かげゆ左衛門尉さえもんのじょう高嶋田中たかしまたなか城に篭城中の明智十兵衛尉じゅうべえのじょうから聞いた薬の調合になっている。


 ようするに1566年10月20日より前に明智光秀が高嶋田中城に篭城しており、沼田勘解由左衛門尉と親しいことが分かる。


 この沼田勘解由左衛門尉とは『沼田清延ぬまたきよのべ』のことであり、若狭熊川わかさくまかわ城主『沼田光兼ぬまたみつかね』の子で幕府の奉公衆であり、なんといっても細川藤孝の妻である『沼田麝香じゃっこう』の兄にあたり、のちには熊本藩士沼田家の初代になる人である。

 バリバリの細川藤孝関係者と言ってよい。


 このころの沼田家は1560年に父の『沼田光兼』が没しており、長兄の『沼田上野介こうずけのすけ光長みつなが』は1565年の『永禄えいろくの変』で足利義輝とともに討死し、家督は次兄の『沼田弥七郎やしちろう統兼むねかね』が継いでいると思われる。

 弟の『沼田清延』は細川藤孝と行動を共にしていたのではないだろうか?


 そこで、問題になって来るのが、明智光秀が細川藤孝の家臣や中間ちゅうげんであったという数々の証言である。(中間は足軽の下、小物の上の身分)


老人雑話ろうじんざつわ』には、「明智始め細川幽斎ゆうさい(藤孝)のしんなり、幽斎の家老米田こめだ助右衛門すけうえもん(求政)など悪くあたられたのでこらえきれず信長に仕えた。信長の元では丹波一国50万石、近江10万石を得た。明智常々つねづね米田なりのお蔭といっていた」とある。(嫌味くさい)


武功雑記ぶこうざっき』にも、「明智という者は、本来は細川幽斎(藤孝)の家来なり」との記載がある。


多門院日記たもんいんにっき』にも光秀は細川藤孝の中間ちゅうげんだったのを信長に引き上げられたとの記載がある。


 ルイス・フロイスの『日本史』では、「明智光秀はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には公方様の一貴人、兵部大輔ひょうぶだゆう(細川藤孝)と称する人に奉仕していた」とある。


 同時代でコレだけの証言があるのだから、幕府に足軽として属する前に明智光秀が細川藤孝に中間ちゅうげんとして仕えていたのは、ほぼ間違いがないのではないだろうか。


 では細川藤孝に中間として仕える前の明智光秀はどこで何をやっていたのだろうか? 

 その鍵は『遊行ゆぎょう三十一祖さんじゅういちそ 京畿けいき御修行記ごしゅぎょうき』の一節になる。


 ◆


遊行ゆぎょう三十一祖さんじゅういちそ 京畿けいき御修行記ごしゅぎょうき』には明智光秀について書かれた箇所があり、

惟任これとう方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人ろうにんたりしか、越前朝倉義景頼被レ申長崎ながさき称念寺しょうねんじ門前もんぜんに十ケ年居住故念珠ねんごろにて、六りょう旧情きゅうじょうはなはだに付て坂本暫留被レ申。』


 この記載で今まで採用されてきたのが、『越前朝倉義景あさくらよしかげ頼被』になる。

 明智光秀は朝倉義景を頼り仕えていたのだということにされてきた。

 だが明智光秀が朝倉義景に仕えていたことは近年否定されている。


 そして一番大事なものが『長崎称念寺門前に十ケ年居住故念珠』の一節である。

 明智光秀は越前の長崎ながさき称念寺しょうねんじの門前に10年住んでいたということである。

 この称念寺は時宗じしゅうの寺院で当時は長崎道場とも呼ばれ日本海沿岸に勢力を持ち北陸では一番の念仏ねんぶつ道場として栄えていた。


 時宗では出家しゅっけの僧と在家ざいけの信者との中間ちゅうかんにあり、半僧はんそう半俗はんぞく的な存在で、『客寮きゃくりょう』と呼ばれる身分があり、明智光秀は称念寺ではそのような存在であり、伝説にあるように称念寺に属しながら寺子屋で子供たちに勉強を教えるなどで生計を立てていたのかもしれない。


 また称念寺は北陸で栄えた時宗の一大寺院であり、時宗といえば東山文化ひがしやまぶんかを支えた同朋衆どうぼうしゅうの母体ともなっており、茶の湯、香道こうどう連歌れんが猿楽さるがくなど時宗は当時の文化の隆盛にも寄与している。

 明智光秀は連歌や茶の湯に通じた教養人であったというが、その教養は称念寺における10年で身につけたものであろう。


針薬方しんやくほう』の発見で、光秀が薬の調合に詳しく、薬の知識があるのだから医者だったのではないかという説もあるが、そんなわけはないと考える。

 この時代の医学書は漢籍(漢文)なので、漢籍が読めれば薬調合などはある程度分かる。


 この時代では医学薬学は公家や武家の一般教養であり、公卿の山科言継やましなときつぐ卿や西美濃三人衆の稲葉一鉄いなばいってつ、幕府御供衆の大和晴完やまとはるみつに徳川家康などもかなりの医学薬学の知識を持っていたが、彼らは医者であったろうか? 否である。

 かなりの医学の知識はあったが彼らは公家であり武家が本分であるのだ。

 本職で専業の医者は曲直瀬道三まなせどうさん坂浄忠さかじょうちゅうなど多数の者がしっかり居る。

 明智光秀の医学の知識などは連歌や茶の湯と同じく称念寺で身につけた教養の一つでしかないであろう。


 そして時宗にはもう一つ大事なものがある。

 それは『遊行ゆぎょう』である。

『遊行』とは、時宗の僧が諸国を行脚あんぎゃして布教勧進かんじんすることであるが、もしかしたら明智光秀もこの『遊行』を行ったのではないだろうか?

 あまりにも胡散臭い『明智軍記』に記載される、光秀の武者修行や全国の大名に会ったという話などは、『遊行』の脚色なのかもしれない。

 個人的に光秀は『遊行』をしており、その遊行中に細川藤孝に出会い、そして中間ちゅうげんとして取り立てられた気がしているのだが、それは憶測の域を出ないものではある。


 さてさらに時代を下って、長崎称念寺門前にて10年暮らしていた前の明智光秀が何をしていたかを探ってみよう。(いい加減長くてすいません)

 また『遊行三十一祖 京畿御修行記』に戻るのだが、『濃州土岐一家牢人たりしか』の一節がある。

 やはり美濃に居たのではないかというになりそうだ……


 ここまで『明智軍記』や『美濃国諸旧記しょきゅうき』などのたぐいはあえて無視していたのだが、結局ある程度は頼る必要があるのかもしれない。

 正直いって、明智光秀が美濃に居たのか、美濃で何をやっていたのか全然分からないのである。

 まともな記録などないのだから終わりにしても良いのだが、もうちょっとだけ続けてみよう。


 ◆


『美濃国諸旧記』による系図


 明智光継┳明智光綱━明智光秀

     ┣山岸光信

     ┣明智光安┳明智左馬助

     ┃    ┗三宅第十郎

     ┣明智光久━明智光忠

     ┣原 光頼━原 久頼

     ┣斎藤道三室

     ┗明智光廉━明智光近


 明智光秀は美濃に居て、土岐明智家の一族だったと仮定して話をしてみると、

 上記の系図のような明智家の家族がいたのかもしれない。

 そしてこいつらは明智長山城に居て、明智荘を支配していた可能性がとはいいきれない。(悪魔の証明だと思うが)


 とりあえず物語では、明智光安あけちみつやすが長良川の戦いのあとに、斎藤義龍に明智城を攻められ落城する。

 明智光秀は叔父の光安に明智の家名と子供らを託され、明智城を脱出し、身重の妻を背負っての油坂峠あぶらさかとうげを越えて、越前国に逃れたという。

 もしかしたら叔父とかいう山岸光信やまぎしみつのぶの所にも寄ったかもしれないけど、物語だからどうでもよいかもしれない。

 その後、朝倉家で500貫で召抱めしかかえられたというが、物語だからといって盛過ぎではなかろうか? まあ創作だからなんでもいいけどね。


 1552年に土岐明智宗家は滅んでいるようなので、その後から1556年10月に明智城が斎藤義龍に攻められるまでは、明智長山城に明智光安や明智光秀が居た可能性があるかもしれない。(どちらも史料では確認できないが)


 では1552年までの明智光秀の一族はどこにいたのだろうか?

 可能性の一つとして『奉公衆明智家』の末裔と考えるならば、1495年以降に明智玄宣の子の明智光兼が美濃に下向しているので、その末裔が美濃に居た可能性はある。

 所領を押領され土豪以下レベルに成り下がったか、土岐明智宗家に仕えたかで生き残っていたかもしれない。


 そして斎藤道三の登場により、明智光秀の一族は浮上する機会を得る。

 斎藤道三の室となったいわゆる『小見おみかた』とその娘であろう『濃姫のうひめ』の存在である。

『小見の方』の名前は別として織田信長に嫁いだ女性を産んだ斎藤道三の夫人が居たのは間違いがない。

 言継卿記ときつぐきょうきの1569年8月1日の条に信長の「しゅうとめ」の記載があり、その頃までは生きていたようである。


 物語では『濃姫』は明智光秀の従姉妹で『小見の方』は叔母とされることが多いが、まったく史料では確認が取れない。

 だが、小見の方が明智光秀の一族であれば、小見の方を側室にした斎藤道三により、小見の方の一族が取り立てられた可能性はある。


 個人的には『小見の方』は正室ではないと思っている。

 物語では名族(笑)『土岐明智家』の娘だから正室だとされることが多いが、恐らくは逆であろう。

 明智光秀の一族は『小見の方』が道三に嫁いだため、道三派として取り立てられ、もしかしたら明智荘を与えられ明智長山城主ともなったかもしれないのだ。


 明智光秀が土岐明智一族であったかもしれない可能性を上げる話を一つしよう。

 それは明智光秀の妻とされる、いわゆる「妻木煕子つまきひろこ」の存在である。(この時代は現代の夫婦別姓のようなもので、実家の名字を名乗ります)

 妻木煕子の父は妻木勘解由左衛門かげゆざえもん範煕といい、土岐明智一族で妻木郷を領していた妻木家の一族ということになる。


 妻木家も系譜はかなり不明なのだが一応土岐明智家の一門であろうとは言われている。(土岐明智家が妻木郷の地頭だった)

 明智光秀が一応土岐明智の者だから、同じ土岐明智一門の妻木家から嫁を貰ったとも考えられるのだ。


 最後に明智光秀の生まれに関しても考察する。

 明智光秀が生まれた年もまったく確定はされていない。

『明智軍記』では天正10年(1582)に討死した時に55歳であったとされるので、逆算して1528年生まれとなる。

『続群書類従・明智系図』にも同じ1528年生まれの記述がある。


 肥後熊本藩主細川家の家史である『綿考輯録めんこうしゅうろく』(細川家記ほそかわかき)では57歳で死んだとしているので、1526年生まれとなる。

『綿考輯録』は『明智軍記』をおおいに参考にして書かれているのだが、生年が違うところは少し疑問に思うところである。

 熊本細川家が明智光秀の親族であり、光秀の遺臣いしんの多くが仕官していることもあり、生年に関しては何か知っていた可能性があるかもしれない。


 明智光秀の父親に関しては、光綱、光隆、光国などとする系図があり確定できるものではないのだが、明智光綱が一般的にはよく使われている。


 母親に関しては、『続群書類従・明智系図』では武田義統たけだよしむねの妹としているが、まずありえない。

 武田義統は若狭守護武田家の第8代当主であり家格の面からも、生年からもありえないのだ。

 武田義統は1526生まれであり、明智光秀とほぼ同年代の人物であり、その妹が明智光秀の母親ということにはなりえない。

 系図なので話を盛ってしまったのであろう。


 だが、明智光秀が若狭国と関係するような話はほかにもあったりする。

 明智光秀の父親の説として若狭の刀鍛冶かたなかじ藤原冬広ふゆひろの次男というものが一応あったりするのだ。

 また光秀の母親が光秀の父の死後、姑(光綱母)と仲が悪くなり幼き光秀を連れ明智家を出て、侍女の伝手を頼って若狭小浜の西福庵さいふくあんに身を寄せたという話もあったりする。

 若狭小浜の西福庵は越前の称念寺の末寺まつじであったとされ、明智光秀が称念寺を頼ったのは幼き頃の西福庵の縁であるかもしれないのだ。


 あと余談ではあるが、丹波攻略の際に光秀が老母を敵方の波多野はたの家に人質に出し開城させたが、織田信長が波多野家の者を処刑してしまったため、人質であった光秀の老母も処刑されてしまったという逸話は、最近では無かったことにされている。(圧倒的に勝っていたので人質にする必要がない)


 光秀が生まれた場所としては、『続群書類従・明智系図』には美濃の多羅たら(良)城(岐阜県大垣市上石津町かみいしづちょう)とされている。

 ほかに有力とされるのは明知城(岐阜県恵那市明智町えなしあけちちょう)と明智長山城(岐阜県可児市かにし瀬田)であるが、どこも「明智光秀生誕の地」をうたっている。

 恵那市明智町は『遠山明知氏』の城であり、今のところは無難に岐阜県可児市の明智荘でよいのではないかと思っている。


 長らく解説してきたが、明智光秀の前半生なんて偉い先生でも分からないのに、俺に分かるか馬鹿野郎! 以上おわり!

 最後に「ボクが考えた明智光秀の一生〜♪」を載せて逃亡しまーす。


 ◆


 奉公衆明智家の末裔が明智荘周辺のどこかに住み着く

  ↓

 明智光綱とお牧の方の子として明智荘で明智光秀が生まれた気がする

  ↓

 父っぽい明智光綱が早世(斎藤道三との戦いで死んだともいわれる)

  ↓

 母っぽいお牧の方が姑に嫌われ、子供な光秀を連れて明智家を家出する

  ↓

 侍女の伝手で、若狭国に行き、長崎称念寺の末寺である西福庵を頼る

  ↓

 お牧の方が鍛冶師の藤原冬広と再婚し、光秀は藤原冬広の養子になったかも

  ↓

 お牧の方と藤原冬広が離婚、姑が亡くなっていたのか明智家に出戻りする

  ↓

 明智光秀、叔父っぽい明智光安のもとで平和に暮らし、妻木煕子と結婚する

  ↓

 土岐頼芸が斎藤道三により美濃を追放され、ついでに土岐明智宗家が滅ぶ

  ↓

 叔母の小見の方と斎藤道三のおかげで明智家が、明智長山城主となったかも

  ↓

 長良川の戦いで斎藤道三(もっくん)討死

  ↓

 斎藤義龍に明智長山城が攻められ、明智家滅亡、光秀は越前に逃れる

  ↓

 西福庵の伝手で長崎称念寺しょうねんじ客寮きゃくりょうとなり、寺子屋とかして10年

  ↓

 遊行ゆぎょうに出て、細川藤孝に出会い、中間ちゅうげんとして拾われる

  ↓

 高島田中たかしまたなか城で篭城とかしてみたかも

  ↓

 細川藤孝にくっついて若狭に行ったり、越前に戻ったりする

  ↓

 細川家中では、米田求政にイジメられた

  ↓

 足利義昭に兵力がなく、細川藤孝から幕府の足軽になれと命じられたかも

  ↓

 従姉妹かもしれない濃姫の縁で信長の所へ使者としていったかもしれない

  ↓

 足利義昭の上洛に足軽として従軍、将軍護衛で何もしていないはず

  ↓

 何かの間違いで本国寺の戦いで活躍して、奉公衆に出世する

  ↓

 足利家も細川家も捨てて、従姉妹らしい濃姫のコネで織田信長に鞍替えする

  ↓

 信長の家臣として、に大出世する

  ↓

 波多野氏に母親は殺されていないはず

  ↓

 チャンスがあったので、織田信長も捨てて本能寺する、黒幕? 何それ

  ↓

 細川藤孝に捨てられ、山崎の戦いに負けて落ち武者狩りで死ぬ

  ↓

 南光坊なんこうぼう天海てんかいになってはいない

  ↓

 明智光秀のいろんな説がいっぱい出る <今ココ



 一応作中の明智光秀は、奉公衆明智家の末裔で、幼少は若狭で育ち、小見の方や濃姫は親族で、光秀の一族は斎藤道三によって引き上げられたとしています。

 明智光安などは出すかどうかは気分次第です。

 問題は明智光秀の教養の多くは、長崎称念寺の10年間で得たものと考えているので、うちの光秀くんにはなことである……

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