おまけ 明智光秀 解説
だが、一応自分なりの解説はしてみたい。
通説では
明智光安を架空の人物と断じる歴史家の先生もおられる。
だが明智光秀が『土岐明智氏』と全く関係がないとも言い切れないので、一応出自とされる土岐明智氏について解説したい。
そもそも土岐明智氏の宗家は別にあり江戸幕府で大名になっていたりする。
江戸幕府において、
土岐定政が徳川家康に仕えて大名となり、家名が残ったことで、この系統が土岐明智氏の宗家とされた可能性は否定できないが、一応宗家であろうと考える。
土岐定政の系譜は室町幕府の初代美濃守護である
『寛永諸家系図伝・土岐』
土岐頼貞━土岐頼基┳明智頼重━明智頼篤━明智国篤━明智頼秋━明智頼秀
┣土岐頼高
┗土岐頼助
━明智頼弘━明智頼定━明智頼尚┳明智頼典
┗明智頼明━明智定明━土岐定政
上記は
土岐頼貞は太平記などでは
次代の土岐頼基は『
その子の明智頼重は初めて『明智』を号したとし、明智氏の初代とされる。
また、土岐頼貞の子で長山頼基の兄の『土岐
同じく土岐
明智頼重は土岐頼兼の養子となったという説もある。
確定できるものではないが明智頼重は、父の長山頼基と伯父の明智頼兼らの地盤を引き継ぎ、現在明智城、明智長山城といわれる明智長山の地、
明智頼重のあとは、明智
以降の系譜は若干おかしく、明智
兄弟での継承や当主の再登板などがあったのではないかと推測するが、史料には名が見えるため実在は間違いがないものと思われる。
さて、明智
明智家の家督は頼典の弟の明智
あまり情報がないのだが土岐明智宗家は守護土岐宗家の
そして頼明の子の明智
1552年といえば、
明智定明には明智
土岐明智家は土岐頼芸と斎藤道三の争いに巻き込まれ滅亡したというのが無難なところかもしれない。
その後の土岐明智家だが、明智定明の遺児とされる、土岐定政が母方の
徳川家康に仕えた土岐定政は菅沼藤蔵、明智定政、土岐定政と名を変えながら徳川家に仕え、下総相馬郡守谷1万石の大名となり、子孫は最終的に
いろいろあったけど土岐明智家は大名になり、明治まで続いてめでたしめでたしだね!
では『明智光秀』がまったく出て来なくて困るのでもう少し解説させてください。
◆
実はこの土岐明智家とは別に、
『尊卑分脈』
(玄宣)
土岐頼基┳明地頼重━明地頼秀━明地頼高━明地光高┳明知光重━明地光兼
┗土岐頼澄 ┗明知政宣
比較的信頼性が高いとされる『
ただし、明地頼重以降は点線の表記になっており、
室町幕府では有力守護やその一門などを奉公衆として取立て、守護家を牽制させることをよくやっており、『奉公衆明智家』もそのようなものだと思われる。
明智荘で活躍したであろう『土岐明智宗家』とは別に在京した『奉公衆明智家』があったということである。
『
明智兵庫助は明智
この兄弟は二人して京にあって
そして京で連歌会など華々しく活動していた『奉公衆明智家』であるが、ここにも戦乱の影が忍び寄る。
1495年にこの在京の『奉公衆明智家』土岐明智兵庫頭入道玄宣と、美濃在国の『土岐明智宗家』土岐明智
1495年といえば、美濃ではあの「
美濃の奉公衆などはこの前から所領を
ここで『奉公衆明智家』の明地光兼は所領を守るため美濃へ
そして、ここで『奉公衆明智家』の歴史は終わる。
一応、玄宣や政宣が在京のままであり連歌会に出席しているようだが、やがてその記録も途絶え、美濃へ下向したあとの『奉公衆明智家』の記録などはまったく無いのである。
船田合戦のあとは斎藤道三の父と道三が活躍し、土岐頼武と土岐頼芸などのお家騒動などもあり美濃はとってもヒャッハーな状態になってしまうので、もしかしたら『奉公衆明智家』は滅んでしまったのかもしれない。
ここまでがもう一つの「明智家」であるのだが、うん困ったな。
『明智光秀』が本気で
しょうがないので解説を続けざるを得ないのだが許して欲しい。
(明智光秀の解説のはずなのに、まったく明智光秀が出てこないのー助けてー)
というわけで(どんなわけだ?)、私もそうだが、いろいろな人がかなり昔から、この明智光秀と全く関係の無さそうな、両方の明智家になんとか明智光秀を結び付けようと無理やり頑張るハメになるのである。
ようするに比較的
『明智光秀』なる者がいかに
◆
だが、これでは『明智光秀』の解説にはならないので、明智光秀が記載されている、かなり胡散臭い系図類に手を出さざるを得ない。
とりあえず明智光秀記載の系図としては以下のようなものがある(一部抜粋)。
『明智氏一族宮城家相伝系図書』
明智頼弘┳明智光継┳明智光綱━明智光秀
┣明智頼定┣明智光安┳三宅光俊(明智光春・明智秀満)
┣石森頼敏┣明智光久┗三宅光景
┗明智光鎮┣明智光広
┗明智光廉
『続群書類従・土岐系図』
明智頼弘━明智頼定━明智頼尚┳明智頼典━明智光圀━明智光秀
┗明智頼明━明智定明━土岐定政
『続群書類従・明智系図』
明智頼尚━明智頼典━明智光隆┳明智光秀
┣信教(筒井順慶)
┗康秀(三宅弥平次)
『系図纂要』
頼兼の7世・明智光継┳明智光綱━明智光秀
┣明智光安━明智光春
┗明智光久━明智光忠━明智光近
はい、全部胡散臭い! もう無理! これ全部
明智光秀なんて、土岐明智一族なんかじゃありません、以上! 終り!
と言ってしまいたいほど、めちゃくちゃにしか思えんのだわ……
でも
まず『明智氏一族
『明智頼典』は義絶の上、廃嫡されているので繋げやすかったのかもしれないが、頼典と光継を同一人物にするのはどうかと思う。
つぎの『
その次の『続群書類従・明智系図』は語るのもアホらしい出来なのだが、『明智頼典』の子に『明智光隆』という光秀の父を置いている。
問題なのは光秀の弟たちであり、
一応
最後の『
一般的に知られる明智光秀の一族だし、なんとなく好感が持てます。(苦笑)
結局のところ系図類から明智光秀を土岐明智家の者とするのは、かなり無理があると思います。
明智光秀の父として、明智光綱、明智
正直いって明智光圀、明智光隆の名は忘れて良いと思います。
あと、『明智頼典』に無理やり『明智光秀』系を繋げるのはいいかげん
たしかに『明智頼典』は実在しているのだが、廃嫡されたことをいいことに、そこに繋げるのは
……もうダメだぁ、ここまでやっても『明智光秀』と『土岐明智家』が繋がる気がしねえ!
でも諦めない人も居たりする。
マンガ「信長を殺した男」や「光秀からの遺言」、「本能寺の変431年目の真実」などで最近有名な「明智
むろん私も読んだし、一部は多いに参考にもしている。
「明智憲三郎」氏は『奉公衆明智家』説を採っている。
結局のところ『寛永諸家系図伝・土岐』系図と『尊卑分脈』の系図とを繋げることをやっているのだが、いまのところ多少無理を感じる。
ただ、『奉公衆明智家』の特に明智玄宣の研究には力を入れており、「明智憲三郎」氏の説には期待もしている。
一応『奉公衆明智家』にしは、『明智光秀』が居たかもしれないという可能性を感じるので、私も『奉公衆明智家』を追いかけてはいる。
「明智憲三郎」氏の系図とは違うのだが、一応可能性として自分が考えている系図を下記に掲載するので、与太話の一つとして見てくれれば嬉しい。
あくまで趣味で作っている系図ですので鵜呑みにはしないで下さい。
それと相変わらず見にくくてすいません。画像を選択してリンク先に飛び、画像を大きくすれば見れると思います。(手間をかけさせてすいません)
<i470754|31788>
あと今さらなんですが、3つ目の「明智家」などもあったりします。
いわゆる『明智城』といわれる城は岐阜県可児市瀬田長山の『明智長山城』と岐阜県
岐阜県恵那市明智町の『明知城』もなぜか大々的に、明智光秀生誕の地とか謳っているので、あまりおおきな声では言えないのだが、それ無理! 無理がありすぎる。
『明知遠山氏』は遠山氏だから。
一応、明智光秀の叔父の明智光安(宗寂)と明知城主
ちなみに『明知遠山氏』は甲斐武田家に滅ぼされたり、
◆
さていい加減系図のお話は終りにして別の角度から『明智光秀』を解説しよう。
明智光秀の動静が確実に分かるのは、
この戦いでは明智光秀は近江・若狭の国衆らと本国寺を防戦し、援軍もあり本国寺の防衛に成功している。
明智光秀は幕府の足軽衆として参加し功をあげ、戦後に奉公衆へと取り立てられたと思われる。
本国寺以前の動静としては、『大武鑑・巻之1』に修められている『永禄六年諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下集覚』の後半部分に足軽衆として『明智』の記載がある。(光源院殿=足利義輝)
ちなみに同じく足軽衆に記載されている『柳澤』は柳沢元政であり、奈良御供衆のところには
『永禄六年諸役人附光源院殿御代当参衆並足軽以下集覚』は番帳、ようするに幕臣の名簿であり、前半部分が永禄六年に足利義輝が生存している時に作られ、後半部分は越前に居た頃の足利義昭が付け足したものといわれている。
足利義昭の時代に明智光秀は足軽をやっていたのである。(幕府の足軽なので、一般的な足軽よりは上)
また光秀の史料として、ここ最近の新しい史料なのだが、『
これは
ようするに1566年10月20日より前に明智光秀が高嶋田中城に篭城しており、沼田勘解由左衛門尉と親しいことが分かる。
この沼田勘解由左衛門尉とは『
バリバリの細川藤孝関係者と言ってよい。
このころの沼田家は1560年に父の『沼田光兼』が没しており、長兄の『沼田
弟の『沼田清延』は細川藤孝と行動を共にしていたのではないだろうか?
そこで、問題になって来るのが、明智光秀が細川藤孝の家臣や
『
『
『
ルイス・フロイスの『日本史』では、「明智光秀はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には公方様の一貴人、
同時代でコレだけの証言があるのだから、幕府に足軽として属する前に明智光秀が細川藤孝に
では細川藤孝に中間として仕える前の明智光秀はどこで何をやっていたのだろうか?
その鍵は『
◆
『
『
この記載で今まで採用されてきたのが、『越前
明智光秀は朝倉義景を頼り仕えていたのだということにされてきた。
だが明智光秀が朝倉義景に仕えていたことは近年否定されている。
そして一番大事なものが『長崎称念寺門前に十ケ年居住故念珠』の一節である。
明智光秀は越前の
この称念寺は
時宗では
また称念寺は北陸で栄えた時宗の一大寺院であり、時宗といえば
明智光秀は連歌や茶の湯に通じた教養人であったというが、その教養は称念寺における10年で身につけたものであろう。
『
この時代の医学書は漢籍(漢文)なので、漢籍が読めれば薬調合などはある程度分かる。
この時代では医学薬学は公家や武家の一般教養であり、公卿の
かなりの医学の知識はあったが彼らは公家であり武家が本分であるのだ。
本職で専業の医者は
明智光秀の医学の知識などは連歌や茶の湯と同じく称念寺で身につけた教養の一つでしかないであろう。
そして時宗にはもう一つ大事なものがある。
それは『
『遊行』とは、時宗の僧が諸国を
あまりにも胡散臭い『明智軍記』に記載される、光秀の武者修行や全国の大名に会ったという話などは、『遊行』の脚色なのかもしれない。
個人的に光秀は『遊行』をしており、その遊行中に細川藤孝に出会い、そして
さてさらに時代を下って、長崎称念寺門前にて10年暮らしていた前の明智光秀が何をしていたかを探ってみよう。(いい加減長くてすいません)
また『遊行三十一祖 京畿御修行記』に戻るのだが、『濃州土岐一家牢人たりしか』の一節がある。
やはり美濃に居たのではないかというになりそうだ……
ここまで『明智軍記』や『美濃国
正直いって、明智光秀が美濃に居たのか、美濃で何をやっていたのか全然分からないのである。
まともな記録などないのだから終わりにしても良いのだが、もうちょっとだけ続けてみよう。
◆
『美濃国諸旧記』による系図
明智光継┳明智光綱━明智光秀
┣山岸光信
┣明智光安┳明智左馬助
┃ ┗三宅第十郎
┣明智光久━明智光忠
┣原 光頼━原 久頼
┣斎藤道三室
┗明智光廉━明智光近
明智光秀は美濃に居て、土岐明智家の一族だったと仮定して話をしてみると、
上記の系図のような明智家の家族がいたのかもしれない。
そしてこいつらは明智長山城に居て、明智荘を支配していた可能性が
とりあえず物語では、
明智光秀は叔父の光安に明智の家名と子供らを託され、明智城を脱出し、身重の妻を背負っての
もしかしたら叔父とかいう
その後、朝倉家で500貫で
1552年に土岐明智宗家は滅んでいるようなので、その後から1556年10月に明智城が斎藤義龍に攻められるまでは、明智長山城に明智光安や明智光秀が居た可能性があるかもしれない。(どちらも史料では確認できないが)
では1552年までの明智光秀の一族はどこにいたのだろうか?
可能性の一つとして『奉公衆明智家』の末裔と考えるならば、1495年以降に明智玄宣の子の明智光兼が美濃に下向しているので、その末裔が美濃に居た可能性はある。
所領を押領され土豪以下レベルに成り下がったか、土岐明智宗家に仕えたかで生き残っていたかもしれない。
そして斎藤道三の登場により、明智光秀の一族は浮上する機会を得る。
斎藤道三の室となったいわゆる『
『小見の方』の名前は別として織田信長に嫁いだ女性を産んだ斎藤道三の夫人が居たのは間違いがない。
物語では『濃姫』は明智光秀の従姉妹で『小見の方』は叔母とされることが多いが、まったく史料では確認が取れない。
だが、小見の方が明智光秀の一族であれば、小見の方を側室にした斎藤道三により、小見の方の一族が取り立てられた可能性はある。
個人的には『小見の方』は正室ではないと思っている。
物語では名族(笑)『土岐明智家』の娘だから正室だとされることが多いが、恐らくは逆であろう。
明智光秀の一族は『小見の方』が道三に嫁いだため、道三派として取り立てられ、もしかしたら明智荘を与えられ明智長山城主ともなったかもしれないのだ。
明智光秀が土岐明智一族であったかもしれない可能性を上げる話を一つしよう。
それは明智光秀の妻とされる、いわゆる「
妻木煕子の父は妻木
妻木家も系譜はかなり不明なのだが一応土岐明智家の一門であろうとは言われている。(土岐明智家が妻木郷の地頭だった)
明智光秀が一応土岐明智の者だから、同じ土岐明智一門の妻木家から嫁を貰ったとも考えられるのだ。
最後に明智光秀の生まれに関しても考察する。
明智光秀が生まれた年もまったく確定はされていない。
『明智軍記』では天正10年(1582)に討死した時に55歳であったとされるので、逆算して1528年生まれとなる。
『続群書類従・明智系図』にも同じ1528年生まれの記述がある。
肥後熊本藩主細川家の家史である『
『綿考輯録』は『明智軍記』をおおいに参考にして書かれているのだが、生年が違うところは少し疑問に思うところである。
熊本細川家が明智光秀の親族であり、光秀の
明智光秀の父親に関しては、光綱、光隆、光国などとする系図があり確定できるものではないのだが、明智光綱が一般的にはよく使われている。
母親に関しては、『続群書類従・明智系図』では
武田義統は若狭守護武田家の第8代当主であり家格の面からも、生年からもありえないのだ。
武田義統は1526生まれであり、明智光秀とほぼ同年代の人物であり、その妹が明智光秀の母親ということにはなりえない。
系図なので話を盛ってしまったのであろう。
だが、明智光秀が若狭国と関係するような話はほかにもあったりする。
明智光秀の父親の説として若狭の
また光秀の母親が光秀の父の死後、姑(光綱母)と仲が悪くなり幼き光秀を連れ明智家を出て、侍女の伝手を頼って若狭小浜の
若狭小浜の西福庵は越前の称念寺の
あと余談ではあるが、丹波攻略の際に光秀が老母を敵方の
光秀が生まれた場所としては、『続群書類従・明智系図』には美濃の
ほかに有力とされるのは明知城(岐阜県
恵那市明智町は『遠山明知氏』の城であり、今のところは無難に岐阜県可児市の明智荘でよいのではないかと思っている。
長らく解説してきたが、明智光秀の前半生なんて偉い先生でも分からないのに、俺に分かるか馬鹿野郎! 以上おわり!
最後に「ボクが考えた明智光秀の一生〜♪」を載せて逃亡しまーす。
◆
奉公衆明智家の末裔が明智荘周辺のどこかに住み着く
↓
明智光綱とお牧の方の子として明智荘で明智光秀が生まれた気がする
↓
父っぽい明智光綱が早世(斎藤道三との戦いで死んだともいわれる)
↓
母っぽいお牧の方が姑に嫌われ、子供な光秀を連れて明智家を家出する
↓
侍女の伝手で、若狭国に行き、長崎称念寺の末寺である西福庵を頼る
↓
お牧の方が鍛冶師の藤原冬広と再婚し、光秀は藤原冬広の養子になったかも
↓
お牧の方と藤原冬広が離婚、姑が亡くなっていたのか明智家に出戻りする
↓
明智光秀、叔父っぽい明智光安のもとで平和に暮らし、妻木煕子と結婚する
↓
土岐頼芸が斎藤道三により美濃を追放され、ついでに土岐明智宗家が滅ぶ
↓
叔母の小見の方と斎藤道三のおかげで明智家が、明智長山城主となったかも
↓
長良川の戦いで斎藤道三(もっくん)討死
↓
斎藤義龍に明智長山城が攻められ、明智家滅亡、光秀は越前に逃れる
↓
西福庵の伝手で長崎
↓
↓
↓
細川藤孝にくっついて若狭に行ったり、越前に戻ったりする
↓
細川家中では、米田求政にイジメられた
↓
足利義昭に兵力がなく、細川藤孝から幕府の足軽になれと命じられたかも
↓
従姉妹かもしれない濃姫の縁で信長の所へ使者としていったかもしれない
↓
足利義昭の上洛に足軽として従軍、将軍護衛で何もしていないはず
↓
何かの間違いで本国寺の戦いで活躍して、奉公衆に出世する
↓
足利家も細川家も捨てて、従姉妹らしい濃姫のコネで織田信長に鞍替えする
↓
信長の家臣として、
↓
波多野氏に母親は殺されていないはず
↓
チャンスがあったので、織田信長も捨てて本能寺する、黒幕? 何それ
↓
細川藤孝に捨てられ、山崎の戦いに負けて落ち武者狩りで死ぬ
↓
↓
明智光秀のいろんな説がいっぱい出る <今ココ
一応作中の明智光秀は、奉公衆明智家の末裔で、幼少は若狭で育ち、小見の方や濃姫は親族で、光秀の一族は斎藤道三によって引き上げられたとしています。
明智光安などは出すかどうかは気分次第です。
問題は明智光秀の教養の多くは、長崎称念寺の10年間で得たものと考えているので、うちの光秀くんには
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