おやすみメリケンサック

雨七

おやすみメリケンサック

右の拳を振り抜く。鉄製のメリケンサックが鼻先に触れ、めり込む感触。

鼻骨からそのまま頭蓋骨まで衝撃を伝え、ぐしゃぐしゃにしながら更に振り抜く。


殴られ吹き飛んだ男ががしゃんと音を立て、正方形のリングを囲む金網に激突する。

横目で追う。耳を澄ませる。無音。小さく息を吐き、男に歩み寄る。


顔から金網に突っ込んだ男の髪を掴み、引き上げ、自分の耳元へ。

――微かに吐息を感じる。判定が正しいことが分かったところで、そのまま男を金網に叩きつけ直す。


二度、三度、四度。

十分に叩きつけ、中身を十分に砕いたところでもう一度殴りつける。

べしゃりと潰れ、赤と灰色の内容物が金網の向こうに吹き飛んだところで、ようやく間の抜けたファンファーレが鳴り出した。


四方を囲っていた金網がゆっくりと持ち上がり始める。

生まれた隙間を潜り、檻の外へ。こちらに向けて不躾な視線を送るカメラの一台を一瞥し、女は部屋を出た。



◇1


「お疲れ様、ダスター」


部屋を出て早々、白衣の女が声をかける。

赤黒く染まったメリケンサックを外しながら、その女――ダスターは無感情に応えた。


「疲れるほどのことはしていないさ。疲れるような仕事をしているのはむしろお前だろう、プープ」


プープと呼ばれた女はわざとらしく肩を竦めてみせる。


「実はその通り。やっぱり貴女が男の相手をしてる日はダメね……客がこっちに寄ってきちゃう」

「は。糞を撒き散らす女がそんなに見たいものかね」

「それで生計立ててる本人に真っ向から言うこと?」


そういうところよ、とプープは悪戯っぽくはにかむ。


有名女子大の医学部を卒業し、大学病院へストレートに勤務開始。

内科教授と肉体関係を持つも、『プレイに熱が入りすぎて』教授の口から胃までを糞でパンパンにし、

教授自身の内科に緊急搬送させたような女がプープだ。


大学病院には当然いられなくなり、ごろごろ転落した末にこんな掃き溜めに。

今では人前で糞をひり出し、金を得ている。


「悪かった。そう絡まないでくれ」

「分かればよろしい。人それぞれってこと」


うんうんとプープが頷く。

ダスターはその横を通り抜けようとするも、ぐいと腕を掴まれ引き寄せられた。


「そんなダスターに悪いニュースが二つ」

「なんだ」

「一つ目。今日の仕事が一件追加」


よくあることだ。

緊急で処分したい、と思われるようなカスは星の数ほどいる。


「二つ目。貴女の控え室で待ってるわ。スクローニィが」


ダスターは不愉快そうに眉間に皺を寄せた。


「言っておいて良かった。貴女、知らずに彼に会うとほんとに不機嫌になるんだから」

「あの男に好んで会いたがる人間がどこにいる」

「同感。それじゃ、アタシは掃除のお手伝いしてくるから。チャオ」



◇2


控え室の戸を開けた瞬間、ビール瓶が飛んできた。

ダスターは反射的に叩き落とし、瓶が足元で砕け散る。


室内には男が二人。

そのうちの一方、生肉の袋詰め特売といった様相でスーツをぱつぱつにした男は、パイプ椅子を軋ませながら「ち」と不細工な舌打ちを決めた。


「本当にウザったい女だな、お前は。エェ?」

「ウザったいというのは」

「当たれよ。顔から。本当に苛つく」

「……失礼」

「その口ぶりがもうウザいんだよ!」


男は傍のテーブルに並んだビール瓶を掴み、再度投げつける。

飛来する瓶をダスターは無感情に見つめ、今度は額で受けた。


「フン。それでいいんだ」


ぶふんぶふんと鼻を鳴らし、男は「オイ」と傍に控える黒服に呼びかけた。

黒服が取り出したタブレットを受け取ると、男は太い指をすいすいと滑らせ操作する。

そして立ち上がってダスターに向け画面をずいと見せつけた。


「スクローニィ様がお前の出来の悪いオツムに教えてやる」


ダスターの親指ほどの太さがある人差し指で、スクローニィは一つの数字を指す。


「今のお前の仕事が生んだ金だ。準備費放送費清掃費そのほか雑費、全部もろもろ差っ引いて八十万」

「なるほど」

「なるほどじゃあねーんだよ。何で一ラウンドで終わらせてるんだ、お前は」


いいか、と分厚い手のひらでダスターの頬をぺちぺちと叩き、スクローニィは続ける。


「全部で三ラウンド。挑戦者が一ラウンド生き残る度に三十万の賞金。死ねば没収。生還すりゃ賞金に祝い金を十万プラス」


そしてお前を殺せば更にボーナス二百万。

ばん、と銃を模した手をダスターに向け、目の前の女がぴくりとも表情を動かさないのを知るとスクローニィはふんと鼻を鳴らした。


「金持ちのジジイの投げ銭が利益になってんだぞ。さっさと殺してどうすんだ、間抜け」

「……」

「ぎりぎり三ラウンドまで生かせよ。ぎりっぎりまで生かして投げ銭絞り尽くしたところで殺すのがお前の仕事だろうが」


それだけ言うとスクローニィはダスターの腹を殴りつける。

彼の意に反し、渾身のパンチは厚く割れた腹筋に阻まれ「ぺた」と情けない音を鳴らした。


「……ぶふん」


煩わしそうに、スクローニィはスーツの尻ポケットから札を取り出す。


「今の仕事のファイトマネーだ。二割で十六万」

「どうも」

「破格だぞ、二割は。こんなミミズの小便みたいな仕事でも十六万。お前みたいな女には勿体無い金だ」

「ですが、正当な報酬です」

「分かってるってんだよ。使うアテもないだろうによ」


札を握った手をおもむろにダスターの胸元に突っ込み、札だけ置いて手を抜き取る。

この動作にもダスターが表情一つ変えないことに舌打ちし、スクローニィはパイプ椅子に再度腰を下ろした。


「で、だ。お前の出来の悪い仕事を、俺様は上司としてフォローしてやらなければならん」


口角をにぃと上げ、黄色い歯を剥き出してスクローニィは下品に笑う。


「今度のは凄いぞ。金になること間違いない。なにせ相手は女で、しかも現役の大学生だ」


ぴくとダスターが眉を動かしたのを、スクローニィは見逃さなかった。


「お、気になるか? 珍しい。鉄面皮のお前が気になったか?」

「いえ……そのようなことは」

「ぶははは、誤魔化すな、誤魔化すな。気になるなら会いに行ってもいい」


あぁ、ただし。

スクローニィはそう付け加え、黒服に目配せした。

黒服は抱えていた鞄を開き、中から真っ黒な塊を取り出した。


「仮面、ですか」


頭を全面、三百六十度覆う鉄の塊。

目と鼻、耳のあたりと必要なところに最小限の穴を開けただけの簡易な鉄仮面。


「相手が女だからな。いつも通り、だ」


申し訳程度に顔の形状になっているそれは、後部を金具で数箇所とめただけの簡易なものだった。

金具を外すと、ちょうど顔の正中線にあたるところを中心にして左右対称に開く。

『相手が女ならそれだけで十分絵になるんだよ。そこにお前の女らしさは要らん』というのがスクローニィの理屈だった。


ダスターは仮面の金具を外し、持ち上げ、顔にあてがう。

そのまま仮面を閉じ、金具を止める。特注のそれは顔との間に不快にならない程度のスペースを設けており、見た目ほど着け心地は悪くない。


ダスターが仮面を付け終えるのを見、スクローニィは鼻で笑うと


「話は以上だ。せいぜい働け」


と切り上げて控え室を出て行った。

では、と黒服が小さく会釈し、後に続く。


今から殺す相手に会う気などは一切無い。

男だろうと、女だろうと。なんの意味もない。


胸に突っ込まれた金を取り出し、テーブルの上の自分の財布へねじ込む。

新たなパイプ椅子を部屋の隅から持ってきて開いて腰掛け、次の仕事までの数十分を目を瞑ったままで過ごした。



◇3


「ダスター。時間よ」


ノックの音で目を開く。

開かれたドアの入口にプープが立っているのを見て、ダスターは腰を上げた。


「あの男、なんて?」

「早く殺しすぎ。もっと生かしてもっと稼げ」

「うわあ、言いそう。目先の金のことしか考えられないのかしら、あの豚」


げぇと舌を出し、プープは首を掻っ切る真似をして見せる。


「金のことしか考えられんからあんな豚になったのさ」


そう肩を竦めて、ダスターは控え室を出た。

その後ろをとことことプープが付いてきて、二人で埃っぽい廊下を歩く。


「ところで今回の。もう凄いことになってるわよ」

「凄いこと?」

「今の時点で投げ銭百万超え」

「それはそれは」


前の男が死にまでして生んだ額を超えている。

女が相手なら確かに投げ銭も伸びやすいが、ここまでの伸びは珍しい。


「可愛い子だしねぇ。私も食べちゃいたくなるくらい」

「お前は食べるより食わせる方だろ。糞を」

「相手が望まなきゃしないの、そういうことは!」


プープはぷりぷりと怒り、そんな話をしている間に会場が近づいてきた。


「それじゃ。あんまり酷いことしないであげてね」

「するさ。それが仕事だ」


それだけ言い、ダスターは重い鉄扉を開く。

会場入りするダスターの背中に、プープは声をかけた。


「相手の子。アカネちゃんにもよろしくね」


その名前を聞き咎め、問い返そうとしたところでぎぃと扉が閉まり、代わりにリングがライトアップされた。


仕方がなくリングに立ち、しばらく待っていたところで向かいの扉が開く。

麻袋を抱えた黒服が歩いてきて、無造作に袋を放り投げる。


黒服が場を離れた瞬間にがしゃん、と金網が下り、準備が整った。

わざとらしいドラムロールがスピーカーから鳴り始め、その間、麻袋がもぞもぞと蠢く。


やがて袋の口からぴょこんと顔が飛び出し、


「…!」


スポットライトが女の顔を、後ろで束ねた長い黒髪を、赤みがかった瞳を照らす。

金網に掛けられたディスプレイは「10,000」「50,000」といった投げられた金の額を次から次へと流す。

そしてダスターは、仮面の中で小さく呻いた。こみ上げる吐き気を少しでも逃がすために。



◇4


一ラウンド目が終わってゴングが鳴り、金網が上がったと同時にダスターは駆け出した。


「ダスター!?」


どうしちゃったの、と追いすがるプープに目もくれず、真っ直ぐに支配人室へ。

ドアを蹴破り、部屋にいたスクローニィと目が合う。

スクローニィは一瞬目を丸くしたが、すぐに


「お前、なんだ今のラウンドは!? それとなんだお前きゅう゛」


「急に」と続けようとした口を手で塞がれ、言葉が途切れた。

目を白黒させるスクローニィを仮面越しに睨みつけ、ダスターは低い声で訊いた。


「知っていたのか?」


涙目になりながら、ぶんぶんとスクローニィは首を振る。

その表情をじっとりと睨めつけ、困惑と恐怖以外の感情が無いことを知ると、ダスターはその手を離した。


「げっほ、ごぼっ、ごふぇっ……おまっ、お前ェ! 何を、お前はッ」

「ダスター、何やってるの!?」


プープがその場に駆けつけ、合わせて異常を察した黒服たちが部屋に雪崩れこむ。

即座に黒服から銃を向けられ、ダスターは大人しく両手を上げた。


「なんなんだお前……一体何の暴挙だ、これは」


スクローニィは恐怖半分、憎しみ半分の視線をダスターに向ける。

しばらくの沈黙の後、ダスターは口を開いた。


「すみません」

「答えになっていない!」

「ダスター。相手に何か問題があったの?」


プープが尋ね、はっとしたようにスクローニィが畳み掛けた。


「そうだ、さっきのラウンドだ。お前、なんだあれは。試合を長引かせろとは言ったが『攻撃するな』とは一言も言っていないぞ」

「友達……とか?」

「友達ィ? この鉄面皮に? 友達ィ?」


ぶふははは、居るわけないだろ。スクローニィは下品に笑ってみせた。


「いいか、仮に友達だったとしてだ。お前の仕事は目の前の人間を殴り殺すことで、それが最も優先されることだ。例外はない」

「……あの女、いくらの借金を背負ってここに転げ落ちたんです」

「知らん。俺の仕事は転がり込んだ人間をこのショーに引き上げて金を作るまで。それ以前のことなんぞ興味もない」


くだらないと吐き捨て、スクローニィは冷たい視線を向けた。


「そういうことは本人に聞いたらどうだ。控え室への出入りは自由と言ったぞ、俺は」


ダスターはほんの束の間だけ逡巡し、すぐに部屋を飛び出した。

プープがその背中を追い、数人の黒服が更にその後を追った。



◇5


「マスクの女にナース女、それに黒ずくめの男。なに、仮装大賞か何か?」


その女、アカネは一切物怖じすることなく言い放った。


「ええ、とね……。…ごめん、ダスター。アタシ、外で待ってるね」


おずおずと、プープは入ったばかりの部屋を出る。

一方の黒服は直立したままで、やがて戸が居心地悪そうにぱたんと閉められた。


「……で、なに。あんたたちは。ていうかあんた、鉄仮面」


び、とアカネはダスターを指差す。


「あんたが殺しにかかってくる、そう聞いてたからビビり倒してたんだけど」

「……」

「訳がわからないのよ。さっきはずっと棒立ちだし。あんたたち、本当にどうしたいわけ?」


ただ黙って、ダスターはアカネの振る舞いを見ていた。


今すぐにでもこの仮面を外したい。

が、黒服たちが全員銃を忍ばせていることを考えれば無理筋でしかない。

ダスターは「冷酷で無感情な始末屋」としての振る舞いを努めて意識した。


「……いいか」


小さな声で。元の声が分からないよう、小さな声でダスターは話す。


「これはショーだ。お前がいたぶられ、殴り殺され、金を産む」

「その割にはさっきは全然だったけど」

「金の卵を産む鶏を寿命前にくびり殺す馬鹿がいるか?」

「……あ、そ。ここからじわじわやっていくわけね」


あーあ、と緊張感なくアカネは伸びをする。


「ね、ね。どうやって殺すの」

「……」

「あんまり痛いのはヤなんだよね」


あまりにもあっけらかんとした様子に、ダスターは眉をひそめる。


「……恐れはないのか?」

「めちゃ怖いよ。でももうどうしようもないとこまで来ちゃったな、ってのがあって」

「どうしようも、ない」

「うん。大学って怖いね。ちょっといろんな人と付き合ってるうちに、悪いことどんどん重ねるようになっちゃって」


見て見て、とアカネは袖をまくって見せた。

ぼこぼこと浮かんだ複数の注射痕が二の腕を舞台に踊り狂っていた。


「やめられないんだなぁ、これが。いや失敗失敗」

「……借金は。いくらなんだ」

「五百万くらい? よくわからないけど」


五百万。三ラウンド生き残って私を殺しても、得られる額は三百万で不足している。

考えていた対応方法の一つに、ダスターは脳内でバツを付けた。


「バイト代とか、仕送り代とか、ぜーんぶこれに消えちゃってさ」

「馬鹿な女だな」

「そうそう、本当に馬鹿な女。そんな哀れな女、できれば痛くせず殺してほしいな」


媚びたようにアカネが見つめる。

昔のアカネが寄越すことはなかった媚びた視線を振り払うように、ダスターは自身の即頭部を鉄仮面越しに打った。

鉄製のメリケンサックとぶつかり、鈍い金属音が鳴る。


「頭を一発。私が殺る時は毎回これだ」

「痛い?」

「五分五分だな。上手く脳まで打ち抜ければ、その時点で意識は飛ぶ。即死だ」

「そうじゃなかったら?」

「そこから更に死ぬまで殴り続ける。頭の中身がミンチになるまで」


うげぇ、と嘔吐する真似を見せるアカネに、ダスターは「ただし」と続ける。


「ただし、そこに至るまでには十分にお前を殴り、蹴らせてもらう。いま挙げたのはあくまで三ラウンド目の話」

「結局どうあれ痛いのは変わらないわけね」

「分からんぞ。お前が私を殺せば良い」

「それギャグ? 無理でしょ、あんたみたいな筋肉ダルマ。ヤク中の細腕じゃ」


アカネは乾いた笑いをこぼす。誰も笑い返す者はいない。

切れかけた蛍光灯がちかちかと軽く明滅した。


「時間です。そろそろ」


黒服の一人が無感情に口を開く。


「ありゃ、もうそんな時間」

「……話をありがとう」

「どういたしまして。こんな馬鹿な女の話でも楽しめたなら何より」


じゃあね、とアカネが手をひらひらと振るのを背に、ダスターは部屋を後にした。

部屋の外ではプープが腕を組んで待ち構えており、ダスターをじとりと睨む。


「で、結局なんなの。あの子」

「妹」

「妹!? ダスター、貴女家族なんていたの!?」

「あぁ。クスリに消えてるなぞ露知らず、毎月学費を仕送っていた馬鹿な女の唯一の家族さ」


ナースキャップを指でかりかりと掻いてから、プープは尋ねた。


「で。そんなヤク中の妹……どうするの?」

「変わらんさ。普段通り、殴って殺す。救おうにも、ああまで落ちちゃどうしようもない」

「……そう」


努めて、冷静に、冷酷に。

ごきり、ごきりと肩を鳴らし、ダスターはリングへ向かった。



◇6


二ラウンド目の投げ銭は盛況だった。


ラウンド開始前から開き直ったアカネはそこかしこのカメラに向かってへらへらと笑い、ピースを寄越す。

客の反応を中継するモニターは罵声で埋まり、「腕を折れば十万」「吐かせれば二十万」とリクエストまで飛び交う始末。

そしてダスターはそれらのリクエストの殆どに応えてみせた。


暴力を振るう父親のもとを離れ、二人暮らしを始めようと引いた腕を殴り折り。

「姉ちゃんの料理は美味しいねぇ」と見せた白い歯を折り抜き。

薄い布団で二人並んで眠る際、とんとんと手を置いて寝かしつけた腹に膝を叩き込み、嘔吐させる。

そして痛みで失神するたびに顔を張り、目を覚まさせてから続きを行う。


初めのうちの「ぎいやぁぁ」とか「いたいいたいいたい」とか「やめてぇ」といった月並みな悲鳴は、途中から「呪ってやる」「殺してやる」といった怨嗟に変わり、そんな反応がまた投げ銭のペースをあげる。


血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの汚物まみれになった顔で「ねえちゃん」と呻くだけになったのがおよそ三十分後で、二ラウンド目が終わったのがそのタイミングだった。


「うぶぇ」


掴まれていた手を離され、アカネは空気の抜けたダッチワイフのようにべしゃりとその場にへたり込む。

駆け寄った黒服たちが二人がかりでアカネを運ぶのを見送り、ダスターもその場を後にした。


自身の控え室に戻り、散らばったままのビール瓶の破片を踏みしめる。

椅子に座り、一息吐こうとし、喉奥から別のものがこみ上げそうになり慌てて堪えた。


履きつぶしているダメージジーンズの腿のあたりにアカネの吐瀉物がまだ残っている。

手でごしごしと拭き取ろうとしたが、却って汚れを拡げるだけだったのでそれも止めた。


……自然と、脚をゆすってしまう。

今すべきことは何もない。普段通り。普段通りのルーティーン。

平静を意識する。ただのヤク中だ。ろくでなしだ。

無様なヤク中の姿で妹の姿を塗りつぶす。こみ上げる思い出を塗りつぶす。


あの頃のアカネの笑顔を塗りつぶす。


「ダスターさん」


はっとしてダスターは目線を上げる。

黒服がじとりと睨めつけていた。


「まだ時間はあるはずだが」

「いえ、別件で」

「なんだ、またスクローニィか?」

「そちらでもなく。プープさんが」

「プープが?」


普段、話したいことがあるなら自分で足を運ぶ女だ。

それが呼び出しというのは違和感があった。


「すぐに来るようにと。相手の、アカネの控え室へ」


腸をまとめて鷲掴みにされたような気分だった。



◇7


アカネの控え室に入る。

パイプ椅子を並べて作った簡易なベッドにアカネは寝ており、プープはその傍に寄り添って何事かを囁いていた。


プープは部屋に入ったダスターを一瞥する。

アカネは闖入者に気づかない様子で何かを話し続けている。

プープはダスターに何も言わず、「それで」と向き直って話し始めた。


「それで、ゴメンなさい。もう一度聞きたいのだけれど……家族はお姉さん一人なんだっけ?」

「そうそう」


歯がほとんど抜かれたためか、実際には「ふぉうふぉう」といった音。

そのままアカネはぼんやりとした表情のまま話し続ける。


「だいすきな姉ちゃんだよ。いつもわたしを守ってくれて、矢面に立ってくれて」


焦点の合わない目で天井を見上げながら、話し続ける。


「ガキの頃、おかあさんがいない、おかあさんがいない、って泣いてた私をさ。そっと抱き寄せて、寝付くまで見ていてくれた」


思い出しそうになる。

腕の中で寝息を立てるアカネの身体の暖かさ。


「授業参観、毎回欠かさず来てくれたんだよ。自分のガッコは休んで……そんなだから自分の成績はめちゃ低くてさ」


当たり前だと、当時のダスターはそう思っていた。

妹が寂しがっているのだから。母親の役目も、自分がすべきなのだと。

妹に欠けているものは全て自分が埋めるのだと。


「でも、やっぱり。相当負担をかけてたんだと思う」

「負担?」

「わたしが高校に入った頃、家を出ちゃったんだ。姉さん」


姉さんの枷になっていたんだと思う。遠い目で、アカネはそう続ける。

若い女手一つで高校生の学費と生活費を賄うことに限界を感じ、ダスターが今の業界に身を投じたのがちょうどその頃だった。

自由なアカネの高校生活に、暗い影を落とさないために家を出たのだ。当時のダスターは、そのつもりだった。


「毎月お金だけは入ってくる。生活に困らないくらいのお金。でも」


つつ、と腫れたまぶたから涙がこぼれた。


「姉さんに、傍にいてほしかった。ずっと私を見守っていてほしかった」

「そうね。一緒にいてほしかったわよね」

「何をしたら姉さんが戻ってきてくれるかな、なんて。そんなことばかり考えていて」


げほ、ごほとアカネがむせた。

プープは胸ポケットからハンカチを取り出し、口元を拭った。


「結局、何をしても戻ってきてくれなかったなぁ」

「……だけど、きっと貴女のことを気にしているわよ。今でも毎月お金は入れられてるんでしょう?」

「そうだけど」

「きっと、今でもどこかで貴女のことを気にしてる。どうしてるかな、元気してるかなって」

「……だとしたら、今のわたしの姿はぜったい見せられないな」

「ふふ、そうね。卒倒しちゃうと思うわ」


穏やかにしばらく笑い合い、それからアカネはすうと寝息を立て始めた。

アカネが落ち着いたのを見、プープは音もなく立ち上がる。


「次のラウンドまでの時間。もう少し延長することはできない?」

「できません。五分後には彼女をリングに上げます。ダスターさんはそろそろリングへ」

「そう。糞喰らえだわ」


小さな声で悪態をつくと、プープはダスターに目配せして部屋を出た。

ダスターも倣って部屋を出る。


「直接言えば良かったのに。貴女も、あの子も。本当に馬鹿な姉妹」

「……ああ、本当に馬鹿だ」

「最悪だとか、人でなしだとか、そういう罵倒はしないわ。貴女自身の中で反芻し飽きてるでしょうし」

「そうだな。吐きそうなほどに、たっぷりと」

「感謝してよね。コミュ障の貴女じゃ絶対引き出せない言葉だったんだから」


控え室から黒服が二人出てきて、並んでダスターに近づく。

銃を向けられ、リングへ行くよう促されたダスターは肩を揺らして自嘲した。


「ありがとう、プープ。糞さえひり出さなけりゃ良い女だよ、お前は」

「一言余計なのよ、筋肉馬鹿」



◇8


リングに上がり、待つ。

数分後には黒服に連れられて、アカネが姿を現した。

立っているのもやっとという様子のアカネは清掃車に投げ込まれるゴミめいてリングに投棄され、すぐにがしゃんと金網が降りた。


ゴングが鳴る。

震える足で立っているだけのアカネを、ダスターは柔らかに抱え、リングに寝転ばせた。


「おや」「何やってるんだ」と困惑のコメントが流れる中、ダスター自身も横になり、二人で並んで二の字を作る。

アカネの顔を自身の方に向け、腕を伸ばして抱き寄せる。


「え……」


アカネのぼんやりとした顔に、僅かに困惑の色が指す。

アカネの瞳が、鉄仮面を見つめる。

赤みがかった瞳が、鉄仮面の奥の、同じく赤みがかった瞳を見つめる。


「……あ、え。うそ」


それだけで十分だった。

ダスターはゆっくりと腕をアカネの首に回し、優しく気道を押しつぶす。

痛みもない。苦しみも与えない。ただゆっくり、徐々に空気を通らなくする。


「おねえ、ちゃ」

「おやすみなさい。ごめんね。大好きだよ」


一切繋がりの無い三つの言葉。

けれど、それがダスターが言いたかった全てだった。


「……り……が」


アカネは目を細め、何かを口にする。

言葉はやがて摩擦音になり、空気が通るだけの音に。


「……」


ダスターの腕の中で、アカネは呼吸を弱めていく。

口を小さくぱくぱくと動かすのもやがて止まり、静かに長く「すぅ」と息を吐き終えると、そのままアカネは動かなくなった。


沈黙。ほんの数秒か、あるいはたっぷり数分か。

電子音のファンファーレが静寂を破り、金網がゆっくりと上がり始めた。


開いたままのアカネのまぶたを下ろしてやり、まじまじとその顔を見つめる。

口元がほんのわずかに緩んだ表情は、幼い頃のアカネの間の抜けた笑い方そっくりに見えた。


網膜に、たっぷりと、このアカネの笑顔を焼き付ける。

そしてダスターはすっくと立ち上がり、リングを降り、歩き出した。


鉄扉を開け、仄暗い廊下を進む。

他の人間とは出くわさない。いまの試合がメーンマッチであり、これが終われば全ての仕事は終了だ。

特に黒服と出くわすことはまず無い。


では、あの豚男スクローニィは?

普段なら金勘定で支配人室に篭っている時間帯。だが今日であれば訳が違う。

ついさっき部下の女にカチ込まれ、その命を脅かされたとあらば。


ダスターは自身の控え室の前に立ち止まり、耳を澄ませる。

壁の向こう。入口の左右にぴったりと付いた人間が二人。

後の一人、部屋の中央に陣取った荒い呼吸はスクローニィだろう。


想像通りの動きに苦笑いしながら、ダスターはメリケンサックを手にはめる。

そのまま彼女はドアではなく、壁を殴り抜いた。


轟音。突貫工事で作られた施設であり、その壁は薄い。

壁をぶち破った勢いでダスターは突入し、目の前の黒服の頭を殴り飛ばす。

片耳から頭頂部までがメリケンサックで抉られ、割れた頭蓋骨の欠片と共に吹き飛び天井に張り付いた。


「な」とスクローニィの声が聞こえたのと、もう一方の黒服が銃を向け引き金を引いたのと、ダスターが身を屈め地を這うようなスライディングを仕掛けたのが同時。

銃弾は空を切り壁にめり込み、ダスターのスライディングが黒服の足を絡め押し倒す。

慌てて身を起こそうとした黒服の胸に尻を乗せ、ダスターはその顔に向かって拳を振り下ろした。


人の頭が潰れて弾ける。特大のニキビを潰したような音がした。


「ぎゃ、ひゃ、ひ、ひぃぃっ」


スクローニィは椅子から転げ落ち、震えながらダスターに怯えた視線を向ける。

ダスターはゆっくりと立ち上がり、スクローニィに向き合った。


「ま、待て。待て。なんだ、何が気に食わなかったのかは知らんが。まずは落ち着こう」


震える男に近づきながら、ダスターは鉄仮面に手をかける。


「あの女か。やはりあの女か。俺は悪くない。あの女を送ってきたのは上の人間だ。俺は無関係だ」


ぱちり、ぱちりと一つずつ留め具を外す。


「そうだ、俺だって被害者だ。法外な上納金を払わされてるんだ。それをお前と二人で協力し合って……」


すべての留め具を外す。ゆっくりと仮面を開き、外す。


「どうしてそんなに冷酷になれるんだ。そ、そうだ。狂ってる。狂ってるぞ、お前。感情の無い化物。怪物め」


仮面の中に、液体が溜まっていたことに気づく。汗。反吐。涙の混合物。

冷徹? 感情が無い? 的外れな評価を鼻で笑うと、ダスターは鉄仮面を振り上げ、


「そうあれたらどれだけラクだったろうよ」


スクローニィの頭めがけ、思いっきり振り下ろした。



◇?


え、それから?


そうねぇ。どういう終わり方が好みかしら。


例えば、こういうのはどう?


ダスターとプープはそのまま組織を抜け、追われる身に。


だけど逃げ隠れている間に、いつの間にか組織自体が崩壊してしまったの。


そのまま二人はあてもなく暮らし始め、今では街の小さな飲み屋さんのママとバウンサー。


なんて。どう?


…え? 「それじゃママがうんこたれのプープになるじゃないか」?


「それに話の都合が良すぎる」?


もう、ダメ出しばっかり。いいじゃない、どんな終わり方だって。


大切なのはその人たちが自分の思うように笑って生きられることでしょ。違う?


…はいはい、じゃあこれなら良いの? 組織を脱出しようとしたダスターに向けてプープが銃を向けて……


……

……


馴染みの客とけらけらと笑う店主の姿をちらりと見、バウンサーの女の表情が緩む。

最後のグラスをきゅきゅと鳴らして拭き終えると慣れた手つきで棚に戻し、彼女は笑って客たちの会話に加わった。


「なんだ、ママが公開脱糞とかって聞こえたぞ?」

「言ってませんー! というか飲食店で脱糞とか言わないで!」

「初めにそんなキャラを出したのはママだろ」

「脱糞とか直接的な言い方はどうかと思うんだけれど!」


グラスがしまわれた棚、そのさらに奥には埃を被ったナースキャップとメリケンサックが控えていたが、それらが光を浴びることは今後二度となかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おやすみメリケンサック 雨七 @nanmokanmos

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ