第33話 七月二十七日 その13
茜の部屋を出て、トイレで無駄な抵抗に近い時間を潰し、居間に入ると昼に座ったのと同じ場所に座布団とお茶が用意されていた。しかし、昼間は一応、招かれた客であったが、今回は飛んで火に入る夏の虫である。何も言わずに「そこに座れ」と命令されているようであった。
「凪沙さん、お腹空いてる?」
「あ、いえ。大丈夫です」
生まれて初めてに近い苦笑いで返事をした。
バタバタしていたので夕飯は食べていなかった。だが、緊張で喉の奥にセメントでも流し込まれたみたいに胃に物が通る気がしなかった。
「これいただいた物なんだけど、良かったらどうぞ」
しかし、凪沙の返事を聞いていたのかお構い無しに、愛美は置かれていた凪沙の紅茶の横に、形は見たことあるけど名前は分からない洋菓子を置いて来た。
嫌がらせに近い愛美の先制攻撃に、凪沙は目の前に出された見たことはあるが名前がわからない洋菓子を、形勢不利の将棋を指しているような表情で凝視した。
「凪沙さん?」
「あ、すいません!」
凪沙はビクッと体を起こし、何故か謝ってしまった。
愛美はキョトンとした顔で凪沙の顔をジーッと見ていた。凪沙の過去の記憶にも例のない、判別不能な表情であった。
分からない。
「お腹は空いていない」と言ったのに、どういう神経でこんな砂糖の塊みたいな味の濃い食べ物を出して来たのか。
「どうしたの? マフィン、嫌い?」
「あ、いえ……いただかせて、いただきます」
全くお腹は空いていないのに、凪沙は半強制的に出されたマフィンを口の中に突っ込んだ。甘いものは嫌いではないが、生きた心地のしない中で味わう甘さとパサパサ感が、なんか甘い砂を食べているような気分だった。
「それで、凪沙さんとあの人はどういう関係なの?」
単刀直入に愛美の口から飛んで来たボディブローに、全く飲み込めずに口の中で大渋滞していたマフィンをそのままテーブルに吹き出しそうになった。
「凪沙さん、大丈夫?」
「ぶびばぜん(すみません)」
凪沙は紅茶を手に取り、「さっきから謝ってばかりだな」と思いながら、口の中の甘い砂を胃に流し込んだ。
さて、どう説明する?
何が喋れて、何が喋れないのか?
愛美さんの地雷はどこなのか?
口の中のマフィンは無くなったが、時間稼ぎに紅茶をまた飲む。
番茶派である為、紅茶なんて美味しいと思った事は一度もないが、この瞬間だけは「お願い、行かないでぇぇ」と胃に流れていく紅茶の足に縋る思いで、この何が美味いか分からない薄い液体を口にふくむ。
そして、意を決して、紅茶をテーブルに置いた。
「や、山城さんには……わ、私の研究を少し、手伝って貰ってるんです」
「研究って、大学の?」
「そうです」
愛美は少し考える為に沈黙に入った。しかしその間、一度も凪沙から目を離さなかった。怖い。
「それと、昼間の用事と、何か関係があるの?」
「へ?」
また紅茶を口の中に含み、時間稼ぎに入る凪沙。すでに紅茶は底を尽きかけ、カップの角度は九十度に近付きつつある。
「ひ、昼間の用事っていうのは?」
何も良い返事が浮かばず、仕方がなく、ここは質問を質問で返す事にした。
「八月一日に清和デパートに行ってはダメって、私に言ったわよね、アナタ?」
「あ、ああ……それはその」
聞かなければ良かったと凪沙は後悔した。聞いたせいで言い訳の選択肢を大きく減らす羽目になった。
逃げ場なく、コーナーに追い詰められた凪沙。
そもそも、協力を持ちかけて来たのは山城の方なのに、どうして自分がこんな尋問される羽目になるのか。次第に少し山城に腹が立ってきた。
「それが、とても、研究に必要な事だとは思えないんだけど。アナタ、確か理工学部って言ってたわよね?」
「へ……研究には守秘義務がありますので、詳しく説明するのは憚られるんです」
「そう」
愛美は意外にもここはあっさりと引き下がった。
「なんとか凌いだ」と凪沙は心の中で「やれやれ」と額の汗を拭った。
「じゃあ、何で主人はアナタの研究に付き合っているの? あの人にも研究の内容は言えないんでしょ? 警察の捜査を疎かにしてまで、研究内容は知らされない赤の他人を手伝うなんて、おかしいわよね?」
「そ、それは……」
凪沙も内心で「おかしいですね」と思った。
いなせばいなす程、より強力な攻撃が凪沙に襲いかかってくる。「この人、思っていた以上に強敵すぎる」と凪沙は恐怖を通り越して、愛美の取調べ能力に感動を覚えた。
「あの人は今、焼死体事件の捜査をしているのよ。犯人も捕まってないし、手がかりもほとんどない。なのに捜査を疎かにして、アナタの研究の手伝いをするって、ちょっと理解できないし、アナタの研究ってそんなに凄い研究なの?」
凪沙はしばらく無言になった。どこかにある時計の針の音だけが居間に響いていた。
この人に小細工は通用しないと、これまでのやり取りで、初手「お腹いっぱいなのにマフィン」の時点で凪沙は悟った。
正々堂々、真っ向から戦うしか、道はない。
凪沙は咳払いをし、崩れていた姿勢を正し、愛美の方に体を向けた。
「詳しくは言えませんが、私が研究している事と山城さんが調べている事件に少しだけ関与している部分があるかもしれないんです。それで昨日、山城さんの方が私に捜査協力を依頼して来たんです」
愛美はとても信用できず、ぶっきら棒に「そう」と言おうとした。
「あと、」
しかし、息を吸う間も与えない速さで、凪沙が言葉を継ぎ足して来た。今まで防戦一方でたじろいでいた彼女の意外な攻勢に愛美は意表を突かれた。
「私の研究が凄いかどうかですが……私の研究は、凄いです」
「え?」
今まで視線が泳いでいた凪沙が真っ直ぐに愛美を見ながらそう言い切った。
凪沙の意表をついた強い言葉に、愛美は用意していた言葉を出せず、黙り込んでしまった。
「私の研究も詳しくは言えません。でも、この研究は私が先生から受け継いだモノです。私じゃ太刀打ちできないかもしれないくらいに凄い研究です。価値があるのかどうかで言われたら、私は価値があると思うから、山城さんの協力に乗りました」
急に歯切れよく答えられ、愛美は逆に尋ねる気力を削がれ、聴く側へ回っていた。
「クマさ……あ、山城さんと協力し合っているのは、私とあの人の利害が一致しているからです」
「利害って……あの人の利益は焼死体の捜査でしょ?」
「あの事件は公表されているものより、もっと複雑なものかも知れないんです」
「何で、そんな事がアナタに分かるの? いくら協力しているからって、主人が捜査内容をアナタみたいな素人に言うはずないでしょ?」
愛美は無意識に山城のことを「主人」と呼ぶのが当たり前になってきた。凪沙はそれに「昼間の自分のこの人への印象は間違っていない」と確信した。愛美さんが昼間に向けていた優しい目は山城へのものだったのだ。
「私とあの人が協力する事になったのは本当に偶然なんです。あと、山城さんの信念は何も変わっていません。あの人は事件を解決しようとしているだけです。それだけは信じて下さい」
凪沙の口から出た強気の発言に愛美は質問で返せなくなってしまった。『八月一日の件』は突っつき過ぎると、逆に愛美側が不利になる事を発してしまう恐れがある。
「まぁ、良いですけど。もし、アナタが主人を誑かして、利用しているなら、その時は容赦しませんよ」
「誑かす? 私が山城さんをどう利用するんですか?」
「それは……で、ですから、その研究の為とかにですよ」
その時、凪沙は愛美がまたチラッと箪笥の上の引き出しを見たのを見逃さなかった。
昼間もあった、偶然じゃなく、やはりあの引き出しを愛美は見ている。
しかも急に話し方が話し方がしどろもどろになった。
「何か、心当たりがあるんですか? 誰かが山城さんを狙っているとか」
「それは……そ、そんなのはありませんけど。た、例えばの話です」
やっぱり、谷口愛美は何かを隠してる。山城にも言えないような、重大な事を。
「私をその犯人だって思ってるんですか?」
「それは……」
愛美は突然、バツが悪そうに俯いてしまった。
凪沙は「ここでつっつけば、何か分かるかもしれない」と前のめりに質問をしようとした。
ピンポーン。
しかし、その時、ボクシングのラウンド終了のゴングが鳴るように、インターホンがシーンとなった居間に響いた。攻撃を仕掛けようとした凪沙の気持ちは、この音のせいで削がれてしまった。
だが、この場から逃げる絶好のタイミングにも関わらず、愛美はインターホンが鳴っても立ち上がりもせず、俯いて動かなくなってしまった。
ピンポーン。
もう一度、インターホンが部屋に響いた。
「愛美さん? 出ないん、ですか?」
そう言った時、凪沙は愛美の体が震えているのに気付いた。
「愛美さん? どうしたんですか?」
次の瞬間、玄関のドアの鍵がガチャと開錠する音が聞こえ、直後にドアが開く音と誰かが入って来る足音がした。
「誰か帰って来ましたよ。山城さん、かな?」
凪沙が立ち上がって見に行こうとすると、愛美が彼女の腕を強く握りしめて止めた。
「行っちゃダメ!」
「え?」
「逃げて!」
そう言った愛美の顔は蒼白していた。
「愛美さん。どうしたんですか?」
その時、カチャっという音がし、凪沙は玄関の方を見た。
右手に拳銃を構えた、ボサボサの頭の男がキッチンに入って来た。
「類野」
男が構えた銃口は一直線に凪沙の方を向いていた。
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