第28イヴェ クラッピング・アンコール
緊急事態宣言が解除された、その直後の五月の末や六月の初めには早くも、例えば、ライヴ・アイドルやロックバンドにおいては既に、リアルな活動を再開していた界隈もあった。こうした界隈は、やはり、ライヴ・ハウスでのライヴそれ自体や、会場物販での売り上げ、そして、チェキ会などの〈接近〉イヴェントこそが主たる収入源であるため、たとえ、オンライン特典会を行ったとしても、配信で利益を上げる事には限界があり、一刻も早く、リアル・ライヴを再開する事は、運営継続の上での急務だったのかもしれない。
そのような事を、ミーティング・アプリを使ったオンラインお茶会にて、アイドル・ヲタクである高校時代の同級生が冬人に語っていた。
だがしかし、冬人ら佐藤兄弟が足を運ぶようなアニメ・ソング界隈では、まだ、リアル・ライヴの再開に関しては様子見段階なのか、たしかに、無観客の配信ライヴを行った演者は存在するものの、会場で行われた有観客ライヴは七月末の時点で、一つとして無かった。
それゆえに、八月最初に二人が向かっている渋谷のホールで行われる今回のライヴこそが、二人兄弟にとっての、緊急事態宣言解除後、最初の〈現場〉となったのである。
だから、どんな風に、入場時のセキュリティー・チェックをして、会場の座席はどのようになっているのか、そして、開演中はどのようなルールが適応されているのか、こういった事に関して、兄の秋人は、ライヴでの生歌に対する期待以上に、〈社会学〉的な点からも興味を抱いており、フィールド・ワークの一環として取材してみよう、と考えていたようである。
感染症流行以前の、いわば、〈ビフォー・感染症〉においては、紙のチケットを渡すと、係員によってチケットの半券をもぎられ、観客は次々と入場してゆくという流れであった。
緊急事態宣言解除後の、こう言ってよければ、〈アフター・緊急事態宣言〉における今回のライヴにおいては、観客は、いわゆる〈社会的距離〉を保つために、地面に貼られている〈場ミリ〉に立って、自分の順番を待ちながら、一人一人、入場の手続きをしてゆく。
まずは、検温、この場合、体温が三十七・五度以上あったら、入場が拒否されるらしい。
それから、あらかじめ、自分の氏名、住所、電話番号、健康状況を記載しておいた紙に、先ほどの体温を書き加えた〈問診表〉をスタッフに手渡す。
さらに、手指のアルコール消毒を行う。
その後、係員の目の前で、チケットの半券を自分でもぎって、透明の箱に手ずから入れ、ようやく入場が許可されるという流れなのだ。
手指のアルコール消毒をするのは、今や、いかなる施設に入るにも、必須の行為だから致し方ないのだが、問診票やチケットといった紙物を手に持ちながら消毒行為をしなければならないので、紙に消毒液がかかったり、紙を小脇に抱えながら消毒した結果、チケットを地面に落としてしまう人が割といて、その中には、まさに入場時に、もぎるべきチケットが手元に無いという人もいたようだ。
実を言うと、冬人がこれをやらかしてしまい、入場時に顔面蒼白となっていた冬人に、後方に並んでいた人がチケットを届けてくれた、という一幕もあった。
冬人が迂闊であったのは確かなのだが、このようにチケットを落とすという事態は、可能性として起こり得るし、そもそも、アルコール消毒は、入場の際に何処かで行えばよいわけで、必ずしも入場口の手前ではなくても構わないように思われる。それに、チケットが水分でふにゃけるのも嫌なのだ。
秋人は、自分が参加した紙チケットを、記念として保存し、コレクションにしている。だから、紙チケットに消毒液が掛かってしまう事が、なんとも気に入らなかった。
だが、スタッフに文句を言っても、きっと何も変わらないので、次回以降、自分自身で紙チケットを守るための対策を考案しようと秋人は決意したのであった。
これが入場するまでの会場外の状況だったのだが、その一方、会場内は、以下のような状況であった。
ぐるっと見回すと、二階と三階には客を入れていないようである。
そして、客が入っている一階に関しては、ステージに最も近い最前部の三列は空席で、客席は一席置きになっていた。
今回のライヴは、本来、六月に開催予定であった〈誕生日記念ライヴ〉の代替公演である。
この時のチケットを保有していた者は、チケットの再購入の必要はないのだが、その時の席番号はいったん白紙とされ、その上で、政府のガイドラインの五〇パーセントを遵守するための、一席置きの新座席は、〈ブロック〉ごとの再抽選となったらしい。
例えば、最速先行でチケットを購入した観客の中で最前ブロックの再抽選、一般でチケットを購入した者たちは、一階・中央ブロックを再抽選、直前に購入した者たちは、後方ブロックの座席の抽選、という具合である。
佐藤兄弟は、開催の数日前に、今回のライヴへの参加を決めたので、当然、後方ブロックの座席が当てが割れるのは当然なのだが、最速先行の時に最前列を持っていた客は、今回の再抽選、納得はいかないだろうな、と思った。
それほどまでに、〈最前〉とは別格な席なのだ。
ちなみに、二人兄弟は、PAエリアのすぐ傍の席であった。
今回は、こういった状況下で、チケットを持っていたのに来られなくなったファンを考慮して、動画配信サイトにて、無料配信をするらしく、数多の機械が並び置かれたエリアでは、スタッフが、忙しなく動き回っている様子が認められた。
佐藤兄弟は、一つ座席を挟んでの連番だったのだが、開演前のアナウンスでは、会場内での会話は控えるように、との指示が出ていたので、二人は、律儀にも、その指示を遵守し、二メートルという近距離の中、携帯端末で会話を交わし合っていた。
さらに、会話以外にも、会場内は常時マスクの着用、声出しに関しては全てが禁止になっていた。
こうした体内から息が出る事を抑制するのは理解できるのだが、開演中の起立さえも禁じられていた。
冬人は、せめて立ちたい、と思っていたのだが、しかし、黙ったまま座って、歌を聴き入るしかない、と自分を納得させるしかなかった。
ついに、開演のベルが鳴った。
立てないし、声も出せない。しかし、ヲタクたちには、声以外に演者を応援するための別の手があった。
それは、文字通り〈手〉である。
最前部のヲタクたちは、曲をかなり聞きこんでいるらしく、曲の同じポイントでクラップをし始めていた。だが、秋人の左側からも手拍子が聞こえてきた。
それは冬人であった。
会場に来ている観客の全員が全員、その演者のヲタクというわけでもない。中には、曲はアニタイの三曲しか知らない、という者もいるだろう。後方ブロックになるほど、最近、チケットを買った層なわけだから、そういったライトな層は、曲にはノれても、クラップの入れ所は、ワンテンポ以上遅れてしまうものなのだ。
だが、冬人は、そういった最後方部の中にあって、ぴったり手拍子を合わせていたのである。
こいつ、やりおるな。そうとう曲を聴き込んできたみたいだな、と秋人は感心した。
クラップに関して秀逸だったのは、アンコールだ。
演者がはけた後、最初は、単調なリズムでアンコールを促していたのだが、次第次第にクラップのリズムは、「パン・パン・パ~〜~ン、パン・パン・パ~~ン」と、「アン・コ~・ル~~~、アン・コ~・ル~~~」と、声を出して叫ぶのと同じリズムへと変わっていったのだ。
かくして、秋人も冬人も、演者が再登場するまでの間、クラッピング・アンコールを繰り返し続け、彼女が登場した時には、手はかなり赤くなってしまっていたのであった。
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