第32イヴェ リアル空間での初対面
ソロ・シンガー〈CI〉の全国ツアーに参加し、充実の夏を過ごしていた冬人とは違って、秋人は行くべき〈現場〉無き八月を過ごし、そのような状況のまま、九月に入ったある日の事である。
二〇一九年の全国ツアーの際に知り合ったヲタクの何人かが、ある配信ライヴに関するリツイートを、定期的にSNSのTLに上げてくるようになっていた。
最初のうちこそは誰なのかな? という程度の関心しか示さなかった秋人であったのだが、あまりの頻度に、さすがに気になって、表示されているリンクをクリックして、試しに、配信ライヴを覗いてみることにしたのであった。
配信を視聴した後に、ネットで色々と調べてみたところ、彼女が佐藤兄弟と本籍地が同じ事、去年までアイドル活動をしていたのだが、今ではアイドルを辞めて、アーティスト活動をしており、きたる十月初旬に、アーティストとしてCDを初リリースする事、そのCDの中で、秋人が〈激おし〉しているアニソンシンガー、翼葵の曲をカヴァーする事など、幾つもの情報を知ることができた。
なるほど、カヴァーをするって事は分かったけれど、どうして皆、こんなにもその子の配信を視聴しに行っているのであろう? と思いながら、秋人は、翌日の夜も、その子の配信ライヴを覗いてみる事にしたのであった。
その際、書き込みと会話の流れの中で、その子が、翼葵の激烈なファンで、二〇一九年の全国ツアーもけっこう回っていた、という事実を知った。
なるほど、イヴェンターであるって事が、皆がこの子を気にしている理由なのかもしれない。
彼女の配信は、原則、一日二回行っているそうなのだが、その翌日の昼も夜も、秋人は配信を訪れてしまった。やがて、参加数日目にして、秋人は書き込みさえするようになっていた。
配信参加者の常連の中には、実は、グっさんも杉山さんもいた。
結構な知り合い率の高さである。
ちなみに、杉山さんは、この配信では「うちゅうの杉山さん」と呼ばれているらしい。
そして、杉山さんは、配信主からは、固有名詞の方を取り除かれて「うちゅうのさん」と呼ばれており、しかも、杉山さんが配信の書き込みに出現すると、配信主の彼女は「みんな、うちゅうのさんが来たよ」と興奮しながら、「うっちゅうのっ! うっちゅうのっ!」とオリジナル・ソングを歌いだす始末であった。
「杉山さん、ハンパないな」
秋人にとって、昼夜のライヴ配信の視聴が完全に習慣化してしまった、そんなある日のことである。
CDリリースを記念したライヴの開催が発表されたのだ。
だが、開催される都内のライヴ・ハウスの収容人数は、スタンディングで一五〇名、座席を入れて約半分の八〇名、〈五〇パーセント〉の指針に基づくと、四〇名まで収容できるのだが、当日、同時に配信も行うため、機材スペース確保の関係上、〈三十名〉分のみチケットを販売するとの事であった。
秋人は、九月に入ってから配信ライヴを見始めたばかりの、〈新規の中の新規〉だったのだが、十月のライヴに、どうしても参加したい気持ちを抑え切れなくなってしまっていた。
チケットは、運否天賦の〈抽選〉ではなく、実力勝負の〈先着〉であった。そこで、発売開始時刻になった瞬間にポチった秋人は、チケットの確保に成功した。後で聞いた話によると、先着の三〇枚は、発売一分で売り切れたらしい。
十月初旬――
CDの発売日は水曜日、ライヴ開催日は数日後の土曜日であった。
秋人は、フラゲ日である火曜日には既に、CDを手に入れており、CD入手からライヴ開催までの四日間の間に、収録の四曲を、時間の許す限り聴きまくって、ライヴの予習に勤しんだ。
そして遂に、ライヴ開催日がやってきた。
ライヴ・ハウスに到着すると、去年の全国ツアーの際に知り合った顔を幾つも認めることができた。しかも、その中には〈うちゅうのさん〉もいたのだ!
関西在住の杉山さんは、演者を驚かせるために、SNSにおいても敢えて今回の参加の事は全く呟かずにいて、彼女だけではなく、仲間内のヲタクさえも驚かせる事に成功したのであった。
体温の測定、問診票の提出、手指の消毒など、これまでのライヴ・ハウスへの入場時には存在しなかった幾つもの関門を越えて、秋人はライヴ・ハウスに入場した。これまでは、オール・スタンディングが基本であったライヴ・ハウスの客席には椅子が置かれ、椅子と椅子の間にはスペースが取られ、これによって〈社会的距離〉を保つようになっていた。さらに、起立と声出しは禁則事項に入っており、これまでのライヴでは認められなかった様々な制約が掛かっていた。
これが、現時点においてライヴを実施するという事なのであろう。
それにしても、立てないのは仕方がないとしても、声も出せない状況で、どのようにすれば、昂ったこの気持ちを演者に伝え、盛り上がるライヴ空間を成立させることができるのであろうか?
そんなことは、全くの杞憂であった。
たしかに、声は出せない。
しかし、曲のメロディーやリズムに合わせた手振り、照明を落とした暗闇の中、手だけでは演者には見えないので、ヲタクたちは、サイリウムやペンライトを使って、腕の動きが分かるようにしていた。
色は青だ。
これは、演者のイメージカラーであると同時に、彼女が尊敬し、秋人たちが〈おし〉ている翼葵のイメージカラーでもある。
曲の前奏や間奏で、リズムに合わせてクラップを入れていると、ノってきた演者の方も歌唱中にクラップを要求してきたりもした。
観客側から声を出すことができなくても、手振りと手拍子で観客が伝えようとした〈熱〉に感応して、演者のパフォーマンスも熱気を帯びてゆき、そこに一つのライヴ空間が創出されてゆく。
たしかに、配信を通しての無観客ライヴでも、リモートで歌唱や演奏を視聴者に伝えることはできる。しかし時として、演者に熱が籠っておらず、滑っているようにさえ感じられてしまうのは、もしかしたら、観客が伝える熱狂がそこに存在していない為に、相乗効果が起こり得ないからではなかろうか。
また、カメラの彼方に居る視聴者も、歌唱や演奏を聴く事はできる。しかし、端末を通して伝わってくるのは歌や演奏だけで、体内で響き渡るような生の音の反響や、時として、ステージから自分に対して注がれる演者の生の視線は、部屋の視聴空間には存在せず、これらは、〈現場〉でしか知覚できないものなのだ。
秋人は、在宅期間中に数多くの配信ライヴを観てきて、以前よりも圧倒的に数が多くなった配信も、それなりに楽しんではいた。
だが、〈現場〉でしか味わえない生のライヴ感覚や、観客と演者と裏方が三位一体になって生み出される生のライヴの〈熱狂〉というものが確かに存在しており、こればかりは、実際にライヴ・ハウスに足を運ばなければ味わうことはできないのだ。
それに、である。
歌唱終了後の特典会だ。
たしかに、インターネット特典会では、演者が自分の名前を呼びながらサインを書いてくれる。でも、演者からは自分たちが見えない。ネット特典会の中には、ミーティング・アプリを利用してのトーク会なんてのもある。その場合は、自分からも演者からもお互いを視認し合えるし、会話もできる。
だが、しかしだ。
たしかに、アクリルのシールド越しという飛沫飛散防止対策が為され、以前のような超接近はできないとはいえども、現実空間では、自分が〈おし〉ている演者に直接逢え、サインしてもらえたり、チェキも撮れる。
配信とは完全に別腹、やっぱり、〈現場〉だよ。
リアルでは初めて対面することになった演者と、「はじめまして」を交わし合いながら、さらに、〈現場〉主義を強めた秋人であった。
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