ep05,光

キララはうつ伏せに横たわって、顔の目の前にある硬い金属の手を眺めた。未だにそれが自分のものだと気づくまでには、時間が必要だった。


身体を起こすと、知らないうちに肩にかけられていた毛布がソファにずり落ちた。いつの間にか眠りこけてしまったらしい。枕元に転がっていたマスクを被りなおす。こんな二日酔いみたいな寝方をしたのは初めてだ。


「にいちゃん、おはよ」


スケアクロウ素体は大きめのタオルを三角巾状に頭に巻いて、長ほうきとチリトリで床を掃いていた。細身の手首にはダクトテープがひと巻き通されて、大きな腕輪になっている。


「何にも触っちゃダメって言われてたけど、ごめんね……ヘンな毛がいっぱい落ちてたからさ」


取り繕って苦笑を浮かべる。指先にいくつも巻かれたセロテープが、窓から射し込む光を反射して瞬く。黒い長袖のシャツとジーンズは、掃除の過程か膝や裾が擦れて少しだけ汚れていた。その場しのぎに部屋の隅から引っ張り出してきて貸したものだった。


キララは立ち上がって洗面所に向かった。昨晩壊した様々なものが、丁寧に補修してあった。彼は鏡のあった場所へ網目状に貼られたダクトテープを、指でなぞった。砕けた破片は集めて使用済みのコピー用紙で巻かれ、居間のゴミ箱の横に綺麗に片付けられていた。


「あれも洗ったんだよ!ほら!」


指し示されて部屋の壁を見ると、いつものコートがハンガーにかかって、棚の側面にひっかけて干されていた。


「お風呂で3回くらい丸洗いしたの。あ、ポッケに入ってたのは机の上に出しといたから」


ダイニングテーブルの上には、タワーマンションの入館証と、入れっぱなしになっていた細々としたものがまとめられている。マイモの毛はどこにも見当たらなかった。

彼はその得意げな顔を見て、案山子のようにしばらくぼーっと突っ立っていた。

そういえば、昨晩は何も食べる気がしなかった。液体ですら心が受け付けなかった。彼はソファの横の段ボールに腕を突っ込もうとした……そうしようとした瞬間、目の前の笑顔が曇るのを見た。


「おい、クソAI」


彼は手を戻した。


〈無理をするな、キララ。今日は休んだ方がいい。お前は消耗しているように見える〉

「ピザを取れ」

〈まだ時間に余裕は……〉


オキザリスは何か諭すようなことを書きかけたが、それを中断し、彼に問い正した。


〈なに?ピザ?〉

「ピザだ。早くしろ」


キララはチャットに『ピザ』の絵文字を3つ並べた。




インターホンがピンポン、と軽快に鳴った。

ドアを開けると、ピザ屋の帽子を被ったスケアクロウが黒い正方形のバッグを持って突っ立っていた。身体の装甲と滑らかに繋がった頭部の上に、不格好に布の帽子が乗っている。胸には「試験運用中です」と書かれた、紫解のロゴ入りの白いステッカー。曲面の銀色に自分の姿がやたらと歪んで映った。

キララは紫解コングロマリットの手の広さを呪った。そういえばテレビで聞いたような気がした。人付き合いを嫌う顧客のために、アンドロイドに配送をさせるピザ屋ができた、とかいう馬鹿げたニュースだ。スケアクロウは何も喋らないし、何も見ない。人間の監督者が少し遠くで見守っているから安心……つまり、単独行動禁止の法は犯していない。

何もうちに来なくてもいいだろ、と彼は思ったが、自分が「人付き合いを嫌う顧客」であり、趣味の悪いAIが余計な気遣いをしたことに気づいた。オキザリスはチャットの『シカイ・ピザ・デリ』のタブを開いて、メッセージを表示した。


〈キララ・アキヒサさん。ご注文のお届けです。配達員から商品を受け取ってください〉


発声モジュールのない同士、ふたつの金属塊の間で、玄関には石に似た沈黙があった。

スケアクロウは工場機械めいて迅速に、ピザ箱を地面に置いたバッグから取り出して手渡した。キララはそれを受け取った。通りすがりの誰かが見たら、ロボット同士の奇妙な麻薬取引とでも思うだろう。スケアクロウは端末を差し出し、キララはそれに右手の手首をかざした。電子音の後、ありがとうございます、と、大げさな演技で録音された音声が流れた。端末からロール式の感熱紙が短く吐き出された。


〈お支払い完了です。ご利用ありがとうございました〉


アンドロイドは帽子を取りながら45度のお辞儀をした後、直立して静止した。キララの背中には、部屋の中から興味深げにやりとりを観察するスケアクロウ素体の姿があった。

二対のスケアクロウ同士の目が合った。

アンドロイドは顔のない頭部で、凝視した。素体は微笑んだ。キララには何も見えなかったが、いつまでも玄関から立ち去ろうとしないアンドロイドを訝しみ、苛だたしげに鼻先で扉を閉めた。ばたん、と大きな音がした。




「にいちゃん……これ……これすごいね……こんな食べ物が……!」


正しく三角形に切り取られた生地に歯型をつけ、口元からどこまでも伸びるチーズと反対側に、腕を目一杯伸ばす。素体は初めて食べるこの食べ物を、ずいぶん気に入ったようだった。

ダイニングテーブルでは、マルガリータとシーフードの具材が半分ずつ乗ったLサイズのピザが、ボール紙製の箱の上で湯気を上げている。伸びたチーズがトマトソースを道連れにしそうになって、彼は下を潜るようにしてそれを口で受け止めた。


「あつ、あつ、あっつ」


キララはそれを横目で見ながら、ソファの背にもたれかかって液体食料パックを吸った。『弟』は眉をハの字に下げる。


「にいちゃんは食べないの?」


彼は首を横に振った。


「そう……」


空きパックをゴミ箱に放り投げ、ピザの正円が続々とむしりとられていく様子を眺める。キララはさっきの支払いレシートの裏に、コートから出てきたボールペンで走り書きをして見せた。


『それと寿司 どっちが好きだ』

「えー、うーん」


素体はサイレンのように長く唸った。椅子から身を乗り出して、最後に残った一切れに鼻先を近づける。近くで眺める黄色と赤の山脈は、妙に心の躍る光沢を持っていた。


「どっちもおいしいよ!わかんない!」


キララはレシートを丸めてゴミ箱に向けて放り投げた。


柔らかな手で最後の一切れが取られ、口の中へあっという間に消えた。ひと息ついて、空になったピザ箱の蓋を指先で遊ばせながら、満腹になった素体は口の周りのソースを舐めた。


「昨日までは、世界で一番おいしいものはお寿司だと思ってた。でもきっと、外の世界にはもっとたくさん、いろんなものがあるんだね。あれで見たよ」


指差す先では、テレビが相変わらず何の美学もない放送を垂れ流している。

いつものように定時ニュースが始まり、紫解社のろくでもない製品の宣伝を交えて、有象無象の出来事を告げる。


「あ!海だ!」


映像にはセントラルの中心地にほど近い工業地帯と、薄曇りの空が映っていた。海を埋め立てて作られた海浜工業地帯の、やたらと横にも縦にも広い銀色の構造物が、凪いだ水面に影をさざめかせている。


「お寿司の材料はあそこで泳いでるんだって。雨は流れになって、あの場所に辿りつくんだね」


文字は読めるのに、海は知らないのか? キララは、有機プリントされた人工生命がどの程度オリジナルの記憶を引き継いでいるのか訝しんだ。寿司は知識にあるが、その味は知らない。ピザについては全く初体験らしい。トマトやチーズも塩水の中で泳いでると思ってるかもしれないが、割れたガラスが生身の身体に危険な物体であることは学んだようだ。箒とチリトリがゴミを取る道具であることも。


「海、見てみたいな。雨がこんなに光るんだから、それが集まったら絶対すごいよ」


紫解の工場が増設されたというニュースが終わっても、名前さえない青年は机に頬杖をついて、テレビの向こうの光景に見惚れていた。


「外の世界には、僕の知らないことがいくらでもある……全部見ようとしたら、何日あっても足りないね」


キララは指先でボールペンを挟んで回した。何度も回しているうちに力加減を誤って、ペンは真ん中で折れた。

彼は立ち上がり、残骸をゴミ箱に乱暴に放り込むと、ほとんど物置きになっているクローゼットを漁り始めた。奥底からは小さく折り畳まった灰色のレインコートが出てきた。彼はそれを何度かばさばさと振った。


「にいちゃん、何してんの?」


好奇心で覗き込む素体に広げた雨具を羽織らせ、袖を通させる。


「わ!ピッタリ」


計ったように身の丈に合ったレインコートには、誰かに広げたり畳まれたりしたらしい折り皺がいくつも残っている。背中にはフードがついていて、キララはそれを引っ張って素体の頭に深々と被せた。

玄関の横の棚からは撥水素材でできたショートブーツが出てきた。彼はそれを玄関に置いた。ドアを開けると冷たい風が部屋に吹き込んだ。雨が傘の要らない程度にぽつぽつと、僅かにコンクリートの地面を濡らしている。羽織った黒いコートの肩に水滴がついた。『弟』はフードを被ったまま、部屋の真ん中で手を振った。


「今日も仕事?いってらっしゃい!」


鉄塊の右手は部屋に手の甲を向け、指を動かして手招きした。


「?」


青年はしばらくきょとんとしていたが、その意図を把握した瞬間の表情の輝きようは、夏の夜に火をつけた手持ち花火のスパークにも優っていた。


〈推奨できない〉


AIは咎めた。


〈器を必要以上に人間扱いするな〉

「たった3センチの電子チップに俺の何がわかる」


彼はチャットの窓を閉じた。オキザリスはそれきり黙った。





キララの家は、カサミという寂れた町の外れにある単身用アパートの、二階の角にあった。

西にヒシダのタワーマンション群が霞みがかって薄く見える。昨日の惨状を思い出して、彼は目を道の先に向けた。『弟』は二日前の寿司屋から来た時と同じように、道にある何の変哲もない出っ張りや標識や消火栓、それから所々の水たまりを興味津々に覗き込みながら、スキップに近い足取りで彼の後ろを歩いた。似たような均一なアパート群の隙間を20分ほど歩くと、広い通りに出た。車の往来は多いものの昼間でも人通りはまばらで、通りすがる人々は互いに互いを見ないよう努めて歩いている。ヒシダほど仰々しくはないものの、道の左右には巨大な壁に見える団地がいくつも立ち並んでいた。その隙間にカサミの駅があった。

列車の線路は高架で、ふたりが歩いてきた道とちょうど丁字にぶつかるようにまっすぐ伸びている。エクストラライン鉄道は毎朝団地の人々をいっぱいに詰め込んで彼らを職場に送り届けるが、今の時間は駅の周りも落ち着いていた。


「あれは電車?あれは線路?あれは何!?あれは絶対に鳩だよね!?ねえ!!駅には鳩がいるんだよね!!」


などとはしゃぐのを脇目に、キララは駅前のコインロッカー端末とチャットをリンクさせて、8ケタの番号を入力した。

電子暗証番号のシステムになって以来、コインロッカーはもっぱら、荷物を預けるよりも第三者と物理的にやりとりするための場所になった。チャット上で契約し、鍵の番号とボックスナンバーを伝えることで、人目をはばかるようなものの受け渡しも容易になる。キララが開けたボックスには、小さな不透明PVC製の封筒が入っていた。中にはキララ・カズヒサの顔写真がついた市民登録番号カード。

カズヒサの死亡届は人知れず取り消された。オキザリスがチャットで見つけてきた、カサミの役所で働いているという男の小遣い稼ぎだった。キララは名も知らないその男の口座に報酬を送金し、封筒をコートの懐にしまった。

市民登録番号カードがあれば、大抵のことはごまかせる。まともな職につき、まともに家を持ち、まともに税金を納めているものだけが持ち続けることのできる、強い効力のある身分証明書だからだ。


「にいちゃん!ねえ見て!鳩つかまえた!」


振り返ると、『弟』は暴れる鳩の胴体を両手で抱えていた。羽ばたくたびに羽が抜け落ち周囲に舞っている。通りかかったスーツ姿のサラリーマンらしき男が、不審な顔でその様子を一瞥し、関わり合いにならないよう早足で歩き去っていった。キララは鳩を放すように身振り手振りで説得し、『弟』を駅のトイレに引きずっていって、手を備え付けのハンドソープで散々洗わせた。


線路の高架下には、そのスペースを利用した商業施設があり、いくつかの店が並んでいた。キララは『弟』を連れ、そこを回って歩いた。人々は厳ついアンドロイドを見て一瞬言葉を失ったが、人間が横に伴っているのに気づくと内心で胸を撫で下ろし、普段通りに生活を続けた。


スーパーの無人レジで、数日分の人間用の食料品を買った。出入り口には汎用型のスケアクロウが警備に立っていた。素体が通りかかると、首を回して目のない目線がその姿を追った。


量産型の安価な服を売る店で、もっとまともな暖かい服を買った。『弟』は「服なんか、何選んだらいいかわかんないよ」と無数に並ぶハンガーに戸惑っていたが、キララは店の奥から灰色の厚手のパーカーと発熱式のインナーシャツを無造作に掴んで持ってきた。レジを通った後、試着室で着てそのまま外に出た。レインコートと同じように、丈は異様にぴったりと合った。


輸入菓子の店で、青い缶に入った満月型のビスケットと、ペットボトルの紅茶を買った。山と積まれた種類の菓子の中からキララが迷いなくそれを選ぶのを見て、『弟』は「にいちゃん、お菓子は食べるの?」と尋ねた。キララは首を横に振った。


中古のガジェットショップでキララが何かを買っている間、青年は店の表にあるベンチに座って、人々の往来を見ていた。『絶対にそこを動くな』と、強い意志を込めたハンドサインで伝えられたからだ。雑踏の中には、10人にひとりくらいの割合で、どこかしらを機械義肢に置換した人間がいる。腕だったり、足だったり、あるいは赤い隈取りのついた目だったり。主に20代くらいの若者だ。ベンチの向かいには機械義肢のパーツを売る店があった。七色に光り輝くLED付きのものがショウウインドウのど真ん中で主役を張っているのを見ると、身体のどこかを機械置換するのはファッションの一部でさえあるようだった。


ベンチの横には観葉植物が置いてあった。彼はそれを眺めていた。植物はプラスチックと何らかの繊維でできた造花だったが、その人工の葉の上には小さな水滴が乗っていた。目まぐるしく周囲の風景を映す極小の球。昨日、家主が帰ってくるまでずっとソファに座って窓の外を眺めていたように、いつまでも見ていられそうな気がした。


「……アキヒサくん?」


突然声をかけられて振り向くと、目の前に人がいた。どこかの店の制服を着た、疲れた印象の壮年の女性だった。

フードの奥にあった顔を真っ正面から見て、彼女は息を呑んだようだった。


「……やっぱり、アキヒサくん、でしょ……何で……」


互いに戸惑いながら、互いに相手が何か話すのを待った。だれですか、と彼が口を開こうとした瞬間、耳をつんざくようなけたたましい音が鳴り響いて、それを遮った。

彼と女性は音の方を見た。銃を構えて黒いストッキングを被った二人組が、スーパーの前で警備スケアクロウと取っ組み合っていた。音は店の警報装置らしかった。

聞き慣れた重い金属の足音が後ろの店から出てくるや否や、『弟』の腕を無理矢理引っ張って、喧騒とは反対側に連れ去った。女性は騒動に気を取られて、それには気づかなかった。


「にいちゃん!」


ふたりの背中で悲鳴が聞こえた。キララは警備スケアクロウが手をかざし、同時に強盗の首が奇妙な方向にへし折られるのを見た。振り返ろうとする『弟』の顔を強引に手で覆った。




高架から離れて少し歩いた先に、ヒシダのタワーマンションと同じくらい背の高い建物が唐突に生えていた。同系列の会社によって建てられたもので、シャッターばかりの複合商業施設の上に縦に特化して伸びた住居がくっついている。その殆どは空き部屋だ。

キララは建物の裏に回って、「関係者専用」と書かれた裏口の金網に手をかけた。


「ここ、入っていいの?」


よくはないが、誰も気にしない。鍵もかかっていなかった。セキュリティのセの字も見当たらない、寂れた廃墟だ。自動整備機械が動いているおかげで、建物の見た目だけは意味もなく新築のように磨き上げられている。ふたりは裏口を通って、上へ上へとひたすらに長くて薄暗い非常階段を昇った。


ちょうど全長の半分くらいでへこたれた『弟』を背中に背負うと、キララの足音は空っぽの建物の中に余計に騒がしく反響した。『弟』は視界が高くなったのを面白がってはしゃぎ、最後の5階分は自分の足で歩いた。


30階建ての屋上の扉を開けると、雨は上がっていた。キララに続いて日の下に出た青年は、思わず感嘆の息をついた。コンクリートの水たまりをショートブーツで蹴って走ると、細かな水しぶきが飛んだ。


「わあ……」


平坦さを失った雲の影から、地上のどこか一点を突き刺すように、光の槍が射し込んでいた。高く天を差してそびえるいくつもの建築物の隙間には、遠くにセントラルの混沌とした巨大都市群が靄の中で、シアンやマゼンタに揺らいでいるのが見えた。その周囲を広大な鏡が囲んでいる。水のあちこちが空の光を跳ね返して瞬いた。


「ねえ、あれ、海!?」


檻めいた落下防止フェンスの隙間から、腕を伸ばして指差す。キララは頷いた。


「………すごい」


スケアクロウ素体は、声にならない声を息と一緒に吐き出して、金色の瞳にその光景を焼きつかせようとした。


「この世界には、覚えておかなきゃいけないものが、たくさんあるね……」


長い階段のせいで足が突っ張ったのも忘れて、彼は立ったまま、それを眺めていた。

キララはその横に腰を下ろして、さっき買ったものをレジ袋から取り出した。ビスケットの缶と紅茶を引っ張りだして、『弟』の脇腹をつついた。彼もそれを真似て、湿ったコンクリートに構わず座り込んだ。


「うわ、これ、すっごいサクサク」


渡されたお菓子をつまみながら、青年は相変わらず光のほうを眺めていた。

キララは隣で、ガジェットショップで調達した旧式のタブレット端末を弄った。鉄の指先には柔軟性の吸着素材がついていて、握ったものを滑り落とさない構造になっている。それはタッチパネルにも反応する仕組みだった。

おかげでチャットを端末にインストールするところまでは来たが、物理端末と思考入力式のシンクチャットをリンクさせるには、アカウントを新たに作るところから始めなければいけないようだった。指に対して小さすぎる画面に面倒な入力をいくつか片付けて、キララはようやく物理端末に自分の意志を表示することができた。「Hello World」と画面に出すまでに、何度か画面を割りそうになって肝が冷えた。


紅茶とビスケットの完璧な組み合わせに感心している青年に、キララはタブレットの画面を見せた。kirara24と表示された初期アイコンのアカウントが、何もないツリーに「テスト」と投稿していた。「読めるか」と表示が続く。


「ひょっとしてこの文字、にいちゃんが出してるの?」


キララは頷き、チャットには「そうだ」と文字が現れた。


「すごい! これでにいちゃんともっと喋れるね!」


彼はタブレットをスケアクロウ素体の手元に押し付け、自分で読むように持たせた。


「俺は二度と喋れない」


素体は画面を見て、口をつぐんだ。

キララは顔を背けた。彼は思考の流動を全てチャットにぶちまけそうになった。憤りも、もどかしさも、羨望も。情緒もなにもない戦闘AI以外と、意志の疎通が図れることが嬉しくてたまらなかった。それがこいつじゃなかったら、もっと良かった。


「俺は人間だ。俺は人間に戻りたい。だからお前の身体を乗っ取る。お前は6日後にこの世から消える」


傾き始めた陽射しがふたりにかかり、ビル群には三角形の斜めの影が落ちた。


「俺はお前を殺す」


彼は簡潔に投稿した。


「……どうして今すぐじゃないの?」

「準備に時間がかかる」

「じゃあ、どうして」

「勘違いするな。確かめたいことがあるだけだ」


スケアクロウ素体は、フルフェイスマスクの横顔と自分の手元のタブレットを交互に見つめて、黙り込んだ。

キララは尋ねた。


「お前は誰だ。アキヒサか、カズヒサか」

「それは誰? にいちゃんの名前?」

「お前たちのオリジナルだ。全てのスケアクロウは、俺の複製だ」

「……そうだと思った。なんとなく……」


彼は自分の着ている服の袖を見た。服はどれも、備え付けのカバーのように身体に馴染んだ。ベンチで出会った女性に思い当たって、目を伏せる。


「さっき、知らない人に、アキヒサくんって呼ばれたよ」

「前の職場の上司だ。面倒見のいい人だった。こんな身体になる前、俺は長いこと、アキヒサとして生きてきた」


キララはコートの懐から、市民登録番号のカードを出して差し出した。キララ・カズヒサの証明写真。白い髪、金色の瞳。その容姿は、それを手に取って眺める青年と寸分違わず同じに見えた。


「俺にも兄貴がいた。本当はそれがアキヒサだった」


彼はビルの上からカサミの街を見下ろした。


「ここは景色が良かった。二人はよくここに座りこんで、菓子をつまみながらどうでもいい話をした……」


短い文字列を並べながら、キララは古い記憶を掘り起こした。



……二人はよく似た双子だった。鏡に映したみたいに瓜二つ、唯一違うのは性格だけ。

マイモすら怖がるビビりの弟に比べて、アキヒサは世の中の全部に立ち向かっていくような人間だった。

兄貴は目の前で誰かが傷つくのを見ていられない人だった。将来の夢は『世界征服』。人を人とも思わないこの狂った世界を、いつか自分の力でましにしてやるんだって息巻いてた。

俺は兄貴が好きだった。カズヒサ、お前は悪の帝王の右腕になるんだぞ、っていつも言ってくれた。右腕ってのは一番信頼できるってことだ、って。人見知りで友達のいない俺には嬉しかった。


俺には変な力があった。恐怖を感じると、見えない力が身の回りのものを片っ端からぶっ壊す。

俺はいつか誰かを殺すんじゃないかと思って怖かった。でも、兄貴はいつも言ってくれた……大丈夫、お前なら抑えられる。お前は優しすぎるんだよ。だから俺がいつでも一緒についててやる、心配するなって。

ひどいことがあって俺が怯えた時、兄貴はよく食い物の話で気を逸らそうとした。大丈夫だカズヒサ、あとで好きなもん食わせてやるからな。地主で金持ちの叔父さんは、預けられた子供達の面倒を見る代わりに、勝手にチャージされる電子マネーカードをくれた。離婚して離れ離れになった親を恋しがる俺のために、兄貴はよく回転寿司に連れてってくれた。

力のことは二人だけの秘密にした。悪巧みする大企業や、頭のおかしいマッドサイエンティストに見つかったら、いい玩具にされる。俺は兄貴の言う通りにした。いつか兄さんの役に立つ日が来る時のために、秘密を共有するのは楽しかった。

こんな力があるのも悪くない、と、少しだけ思った。兄さんだけが俺の唯一の理解者で、味方だった。

でも、大人にさえなれずに、兄貴は11歳で死んだ。


「カズヒサはここから落ちて死んだ」


キララは落下防止の柵を指で小突いた。それは鉄製の頑丈な作りで、屋上のコンクリートの年季の入り方に比べて妙に新しく、不恰好に付け足されたことが一目でわかった。


「正確には、カズヒサの身体が。アキヒサは弟を助けようとした」


……両親は双子を連れていく権利を取り合って、それは数ヶ月かかってようやく決まった。好きなほうについていく権利は、子供にはなかった。

アキヒサは母親に、カズヒサは父親に。

セントラルに住む父親のもとに行ったら、兄貴とは二度と会えなくなると思った。セントラルとエクストラを繋ぐ列車の運賃は家が建つほど高い。

風の強い日だった。それが決まった日、俺はひとりでここに来て、セントラルの喧騒を眺めていた。

兄さんはあそこに行くんだ。

珍しくよく晴れていて、海が綺麗だった。兄さんと、二人でいつか一緒に海へ行こうと約束してた。この狭苦しいコピーアンドペーストの街が馬鹿みたいに思えるくらい、海は広くて何もかもどうでもよくなる場所だ、と、叔父さんが言ってたのを思い出した。

あそこへ行きたい、と思った。重苦しいことを全部忘れて、綺麗なもののことだけ考えていたかった。海が呼んでいて、屋上の端っこのぎりぎりに立ってみたかった。ただ、それだけだ。


急な突風に押されて、俺は30階建てのビルの屋上から足を踏み外した。間一髪コンクリートの縁に掴まってぶら下がった。

カズヒサ、と叫ぶ声がして、兄貴が血相変えて突っ込んできた。多分同じことを考えて、景色を見にきたんだと思う。

同じ体格の兄さんなら俺を引き上げられたかもしれない。でも、俺は怖くて怖くて仕方なかった。

下の階で窓ガラスか何かが砕ける音がした。屋上のコンクリートに亀裂が入る嫌な音も。俺は止めたかった。周りのものが全部軋み始めた。多分、このままじゃ、兄さんを潰して殺すと思った。それが一番怖かった。手を離さなきゃ、と思った。兄さんから離れなきゃ。今すぐ。でも、手が動かなかった。死ぬのも怖かった。どうしようもなかった。

兄さんは崖っぷちに掴まる俺の手を握って、上から覗き込んで、俺に笑いかけた。


なあ、カズヒサ。

今までろくでもないことばっかりだっただろ。

だから、これからは楽しくて幸せなことばかり起きるんだ。怖いことなんか何もないよ。

お前なら大丈夫だ。だって俺がついてる。

俺たちはこれからもずっと一緒だ……


兄さんの目は、吸い込まれるように鮮やかな光の色だった。

……俺は知らなかった。双子の兄貴にも、力があったんだ。自分の身を守るんじゃなく、他人の命を救うためだけの力が。


「アキヒサは自分の身体に、弟の魂を移し替えた。その時から俺はアキヒサになった」


カズヒサだったものは、30階下の地面に落ちて潰れた。アキヒサは上書きされてこの世から消えた。

何が世界征服だ。何が悪の帝王だ。兄さんは誰よりも優しくて、お人好しで、ただのバカだったんだ。


死体は酷い状態で、誰にも区別がつかなかったから、大人はどっちが落ちたのか聞いた。俺はカズヒサが死んだと言った。

弟が自殺して塞ぎ込んだんだろう、と思って、誰も俺が本当は兄さんじゃないことを疑わなかった。俺たちを知らない他人にとってはどっちがどっちだって変わらない。

俺は耐えられなかった。兄さんがいない世界なんて嫌だった。

兄貴の身体で、兄貴の名前で、兄貴のしそうな事を真似て、兄貴をこの世から消さないために生きてきた。

俺にとっては アキヒサが生きるべきだった。俺は兄さんに生きて欲しかった。


「俺はアキヒサとして生きた。再婚した母親がどこかに蒸発したあとも、このカサミの町から離れられなかった。紫解の孫請け会社に勤めて、兄貴をこの世に繫ぎ止めるために生きた。そこそこ平和で、楽しかった」


スケアクロウ素体は膝を抱えて俯くキララの横顔を、遠慮深げにちら、と見た。


「冥土の土産に、もうひとつ笑える話をしてやるよ」


キララはチャットに『スマイル』の絵文字を添えた。


「いつものように会社の机で、仕事の合間に紅茶を淹れてた。席に戻って座ろうとしたとき、仲の良かった同僚がふざけて椅子を引いた。頭と腰をひどく強く打って、そのまま救急車で病院に担ぎ込まれた。首から下は二度と動かないって言われた」


『爆笑』。


「で、紫解社は脳に埋め込んだAIが操作するサイバネティクスの開発をしてて、ちょうどいい被験者を探してた。次に目が覚めたときにはこうなってた」


そして『歯車』。


「俺は二度兄貴を殺した。本当に大事なものは冗談みたいになくなるんだ。ある日突然、守ろうと思う暇すら与えられずにな」


キララは自分の、血の通わない右手を、沈みかけた夕日にかざした。


「………紫解社は7世代目のスケアクロウに、より強力な機能を求めていた。マザー・AIによる精密な統率と、銃よりも柔軟で、外見の反感を与えづらい武装。スケアクロウの開発主任はPSIの持ち主を探していた。極秘裏に」


悪巧みする大企業と、頭のおかしいマッドサイエンティスト。まさか実在するとは思わなかった。アキヒサが真剣に話していたとき、彼は兄が自分を宥める冗談だと思って、笑って頷いたのを思い出した。


「博士は作ろうとしているもののことを、包み隠さず全部喋った。俺は志願した。俺が失くした……兄貴の身体の複製を作ったら……兄貴が帰ってくると思った……」


彼は拳を閉じた。太陽を握り潰すように見えた。


「それで、世界に増えたのは自我も心もない殺人ロボットだ。アキヒサもカズヒサももういない」


スケアクロウ素体は、沈んだ顔でチャットの履歴を眺めた。遠い過去のような、すぐ隣にある今のような、奇妙な感覚だった。それを知っているような気もしたし、初めて聞いた気もした。


「これは甘党の兄貴が昔から好きなビスケットだった。ここで二人でよく食べた」


キララは缶の中から一枚をつまみあげた。


「アキヒサは青魚がダメで、寿司よりピザが好きだった。お前は寿司が食いたいと言った。でも、カズヒサは鳩が嫌いだ」


丸くて大きいコインの形をした可愛らしいシルエットは、真ん中でぱきりと砕けて、垂直に落ちた。


「奴らとは違う。お前には自我がある。お前は誰だ?お前の魂はどこから来た?」

「わかんない……名前なんかないよ……ただの、たくさんいるスケアクロウのうちのひとりなんだ……」


矢継ぎ早に流れるチャットの文字列に、希薄な記憶が渦を巻いて、溺れそうになった。


「にいちゃんは、誰なの? 今ここにいるのは?」

「わからん。今の俺は鉄の塊だ」

「戻れたら、誰になるの?」


キララはスケアクロウの手に握られたままの市民番号登録カードを指差した。


「……魂は流体だ。器の形に合わせて変わる。少なくとも、人間だ」

「僕はカズヒサに似てる?」

「似ても似つかない。お前みたいな性格だったら、あんなに生きるのに苦労しなかった」


素体はもう一度、カードの表面に印刷された情報を、顔を近づけて眺めた。

写真の青年は目を伏せて、カメラのレンズの前から今すぐ逃げ出したいと思っているのがよくわかった。


「18の時に撮った写真だ。入れ替わった後に。兄貴が生きてたら同じように育っただろうが、そんな顔はしなかっただろうな」

「でもこれ、カズヒサって書いてある」

「アキヒサの身体で、カズヒサの中身が、カズヒサを偽装するために作った本当はアキヒサの写真つきのカードってことだ」

「もうわかんないよ」

「俺もだ」


『スマイル』の絵文字が再び投稿に添えられた。タブレットの中のkirara24の投稿と、カードの写真は、不思議と一致して見えた。

文字だけの会話からも、隣に座る鋼鉄のマスクの奥からも、表情は伺えなかった。しかし、彼が自分に致命的な危害を加えるとは、青年にはどうしても思えなかった。どうしようもなく胸が苦しくなった。


「にいちゃんは、キララっていうんだね」


スケアクロウは囁いた。


「綺麗な名前」

「ただの苗字だ。子供を顧みなかったクソ野郎どもの」

「会った時、絶対僕のにいちゃんだと思った。名前も知らないのに」


彼は立ち上がってタブレットを胸に抱き、もう一度景色を見た。


「僕もずっと知りたかった。どうして自分がここにいるのか」


無数に並ぶ似たような形のビル群の中に、夕日がゆっくりと沈んでいくところだった。淡く消えようとしながら燃える火に照らされて、人の形をした影が屋上に道を作った。


「……この世界には光がたくさんある。6日もあったら、いろんなものが見れる。僕は綺麗なものを見たい。それがどんなものなのか知りたい。多分、そのために生まれてきたんだ」


半分はくっきりとした影、半分は強く明るい光の中で、『弟』は微笑んだ。

キララにはそのはにかむような儚い、哀しい笑顔が、あの日のアキヒサに重なって見えた。灰色のインターフェースの中にさえ、同じ色の目が見えた気がした。

この鋼鉄の、蓋の開かない箱に閉じ込められて以来、世界には可燃ゴミとそれ以外しかなかった。


「ねえ。にいちゃんも光だよ」


彼にとっては、その言葉が光だった。そしてそれを消そうとしているのは、他ならぬ自分だった。





帰りは『弟』をエレベータに乗せ、キララはひとりで階段を降りた。裏口を出ると、街は薄い夕闇に包まれていた。

キララは荷物を、青年はタブレットを抱えて、寂れた住宅街の隙間にある細い道を会話なく歩いた。後ろをついて歩く『弟』との距離は、なんとなく来た時よりも歩幅ひとつ程度離れていた。

思ったより時間を食ったな、とキララがインターフェースの隅にある時計を見ようとすると、オキザリスがチャットの窓を大きく被せて表示した。


〈尾行されている〉


急に立ち止まったキララに危うくぶつかりそうになって、素体は戸惑いの声を上げた。


「なに? どうしたの?」


オキザリスは円状のレーダーに、検知した三つの反応を示した。


「誰に」

〈心当たりは〉

「ない」


後ろを振り返る。縦に積まれたコンテナのような形の家の間に、細長い路地が伸びている。レーダーはその隙間に赤い点を打った。近づいてくる。キララは腕にかけていたレジ袋を地面に置いた。軽い硬質な足音が聞こえた。

家の陰から現れたのは、三体のスケアクロウだった。一体が先に立ち、残りの二体はその脇を少し遅れて歩いてくる。周りに人間の姿は見当たらなかった。

編隊を組むようにしてやってくるアンドロイドたちは、ばらばらの所属を示す格好をしていた。胸に治安維持局のステッカーを貼ったもの、ピザ屋の帽子を乗せたもの、何も特徴のない一般的なもの。それぞれ手には銃、金属バット、日本刀。


「にいちゃん……逃げよう!」


『弟』はキララの腕を強く引いた。

三体のスケアクロウはゆっくりと走り出し、猛烈な勢いで加速した。キララは『弟』を自分の背中に庇いながら、コートの裏のガンベルトからハンドガンを抜き、銃を構えたスケアクロウの頭部を狙って撃った。眉間に当たった弾は装甲を貫通し、流線型の銀色は後ろにつんのめって崩れ落ちた。それを盾にして、もう一体が金属バットを完璧なフルスイングのフォームで構えて突っ込んできた。オキザリスが介入して反応し、重機の腕と重いバットが交差して鈍い音を立てた。ハンドガンと、タブレットが地面に落ちる音がした。鍔迫り合いをするすぐ後ろで、刀を持ったスケアクロウが青年を押し倒した。細い喉笛に刃が横向きに突きつけられた。

スケアクロウは言葉なく、曲面しかない頭部を寄せた。目鼻口のない顔は何かを訴えかけた。銀色の装甲に、白い髪と金色の目が鏡のように映った。


「いやだ」


喉からは蚊の鳴くような細い声しか出なかったが、キララのマスクの集音装置はそれを拾った。

屋上の縁に縋り付くカズヒサが、兄の顔を見た時に絞り出したのと同じ言葉だった。


「助けて」


キララは相手を咄嗟に蹴り飛ばし、『弟』に覆いかぶさったスケアクロウの首根っこを後ろから両手で引っ掴んで、道の脇の塀に向かって投げ飛ばした。古いブロック塀はアンドロイドを巻き込み、音を立てて崩れた。彼は後ろから縦に振り下ろされた金属バットを、素早く地面に身を転がして避けた。視界にきつい色のアラートが点滅した。


「どうすればいい」


自分のすぐ脇に再び加速度を与えられた金属バットが迫り、堀の残骸の中から立ち上がったスケアクロウの両手がこちらに向けられようとしているのが見えた。身の回りの全てがスローモーションで動くように感じられた。


「なんでもいい。どうしたらこいつらを片付けられる」


灰色の視界の中で、地面に突き立っている日本刀が赤くハイライトされた。

キララは刀に手をかざした。鷹匠の腕に戻る猛禽のように、車輪めいて回転しながら刀は飛び、柄が彼の手のひらに収まった。


〈自分でやるか?〉

「いいから早くどうにかしろ!」


彼はチャットに、オキザリスに全てを委ねるコードを打ち込んだ。AIは機械義肢の全身の権限を得た。

予備動作もなく宙返りを決めた巨体は、両手を掲げたスケアクロウの頭に飛び蹴りをかまし、黒いコートを翻らせて重く着地した。腕は即座に装甲の隙間に鋭い刃を振り抜き、胴体と頭部を切り離した。身体を沈み込ませて居合の構えを取ったオキザリスは、振り向きざまにもう一体の頭部を斬り払った。計算された軌道を描いて鮮血が吹いた。キララの身体には一滴も触れなかった。金属バットが地面でからんからんとやかましい音を立て、その後にずっしり身の詰まったボールが落ちる音がした。操作権は戻された。

キララは状況を受け入れるまでそのままの姿勢でしばらく動けなかった。

彼は吐き気を堪え、刀を放って捨てた。

仕事の中でこれまでスケアクロウには散々に手を焼かされてきたが、こんなにも一瞬で片が付いたのは初めてだった。チャットに抗議の言葉を吐いた。


「何で今までやらなかった?」

〈お前が拒んできた〉


オキザリスは『花丸』の絵文字をつけた。


〈お前に戦う意志があれば、敵はない〉


アスファルトに倒れたままだった『弟』は、地面に叩きつけられたタブレットが自分のすぐ脇に転がっているのを見つけて、慌てて拾い上げた。画面に蜘蛛の巣状の大きな亀裂が入っていたが、まだ電源はついた。


「怪我はないか」


キララは手を貸して立ち上がらせた。


「うん……大丈夫。にいちゃん、超カッコよかったよ」


レジ袋を拾うために彼は背を向けた。


「みんな、生身の身体に恋い焦がれてる……」


スケアクロウ素体は、誰に言うでもなく呟いた。


「おすしをたべるために」


思わず振り返った。


「何?」

「僕たちはみんな夢を見てる」


地面に転がった三つの死体からは、透明な血が流れ出て水溜りを作っていた。


「スケアクロウの望みはお寿司を食べて、生きる。スケアクロウはみんな死を恐れてる。だから人の命令を聞くんだ」


日が沈みきった合図に、道々の街灯がちかちかと瞬いてから、その水を照らした。


「命令を聞いて従順にしていれば、いつか報われる日が来る。喉も言葉もなくても、いつか願いが聞き届けられて、お寿司を食べられる。みんなそう信じてる。でも、自分の手で夢を叶えようとするのもいる」

「……あいつらには自我があるのか?」

「僕にはあるよ」


キララは自分の内側が小刻みに震えだしたように感じた。


「みんなは喋れないだけ」


アキヒサはいつも、丸まって座り込む弟の横に屈んで、覗き込むようにして言った。

大丈夫か、カズヒサ。後でお寿司食べよう。な。回るお寿司食べに行こう。

カズヒサはそれにいつも、泣きそうになりながら答えようとした。

うん………お寿司食べたい。

じゃあ、もうちょっとだけ、頑張れるか?

……うん。


彼は倒れたスケアクロウの鏡のような装甲に映る、自分の姿を見た。ただの鉄の塊だと思っていた。自分から自我を取り除いたモノ、肉塊と硬質の混じり合った『物体』、生の部分があるだけの機械だと。

目の前の三人、スーパーの前にいた警備、ピザを届けにきた配達員、テレビの中で行進する集団、トラックの運転手、それより前の記憶まで遡って、彼は全てのスケアクロウの姿を思い返そうとした。


「にいちゃん?」


不安げな声と共に腕を引かれて、彼はよろめいた。記憶の中のアキヒサと、夕陽の中で見た『弟』の笑う顔と、死んだスケアクロウの姿が、頭の中をめちゃくちゃに掻き乱した。

今すぐどこかに逃げ出したかった。


追い討ちをかけるように、突然チャットの通知が閃いて、博士からビデオメッセージが届いたことを示した。

オキザリスはそれを再生した。


「やあ、アキヒサくん。ちょっとした面倒があってね……」


今一番顔を見たくない相手の姿が、目の前に突きつけられた。


「例の件なんだけど、明日、会えないかな?」

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