ep04-B,防御反応

ヒシダ第一コーポラス・一階防災センター。


「なんだあ」


壁一面の監視モニタのひとつが赤く光り、警備員の男は気怠げに声を上げた。男は誰も見ていないのをいいことに、パイプ椅子を3つ並べてビーチサイドのサマーチェア状にしていた。だらしなく寝そべったまま、制御パネルに手を伸ばす。


「ロボットだ」


映像を拡大すると、居住者用エントランスへ向かう通路を、大型のアンドロイドが歩いていた。エントランスはこの部屋の目と鼻の先にある。警備スケアクロウを行かせるボタンを押してもよかったが、引率するのは結局自分になるし、そうすれば報告書を事細かに書かされる。面倒くささの塊が男を一人で外に向かわせた。



エクストラ西部に位置するヒシダ町は、首都の主要水源であるヒシダ川を挟んで、東西にタワーマンションの立ち並ぶ住宅地区だ。

ヒシダ第一コーポラスは中でも特にこの町らしい建物だった。小石ひとつなくなだらかに舗装された、見通しの良い広大な人工の広場。巨人のために設えられた陸上競技場のトラックとでも言わんばかりの歩道に、均等な感覚で配置された街路樹。そのど真ん中に、地上26階建てのツインタワーがそびえ立つ。川に近いほうが第一で、その後ろ側が第二だ。


かつて人口が過密だった頃は、やたらに戸数の多い縦長の団地全てに、人々がひしめきあって暮らしていたそうだ。似たようなタワーマンションが何棟も建てられたが、ヒシダ川は猛烈な異常気象によって度々氾濫し、下層階は繰り返し水浸しの災難に遭った。一年を通して雨の日が増え、全ての河川に大規模護岸工事が行われた今となっては、過去の話だ。それでも下層階には未だ人が住み着き辛い。


今のヒシダは、タワーマンション以外は大規模ビニールハウス農園とやたらに拓けた土地しかない、寂れた地区に過ぎない。

しかし、この頃は人の往来が多いような気もする。殺伐としたセントラルの喧騒を拒み、エクストラ郊外へ移住する人間が増えてきているのだそうだ。全体の半分の戸数も埋まっていない寂れたタワーマンションの警備は、一日中モニタを眺めているだけの簡単な仕事だった。これまでのところは。最近は面倒な呼び出しが多い。婆さんが腐ってただの、建物の中で悪臭がするだの、きな臭いことばかりだ。



男が防災センターの扉を開けると、廊下の向こうから硬質な聞き慣れない音が近づいてきた。金属でできたコンテナを等間隔に並べるような鈍い音。見ると、天井に届かんばかりにばかでかい背丈のアンドロイドが歩いてくる。人を真似て羽織ったXLLサイズの黒い立襟コートが靡き、ただでさえ大きいシルエットを余計に幅広に見せていた。

男は一瞬ぎょっとしたが、自分が受付とエントランスを隔てる自動ドアの内側にいることを思い出した。自動ドアは極厚の強靭なガラスでできている。入館許可証を持ったもの以外には決してここを通り抜けることはできない。人間以外ならばなおさらだ。

受付の前、ガラスを挟んで男の数歩先まで迫ると、アンドロイドはより重圧を増して見えた。警備員の男は自分の腰に巻いた武装に手を伸ばしながら、独り言に近い悪態をついた。


「なんで紫解のロボットがこんなとこ歩いてんだよ、どっか行けよ」


アンドロイドは立ち止まってコートの懐に手を入れた。


「ここは人間様のエントランスで機械の出入り口じゃないよ。言葉通じてんのかな?監督者どこ?道のインプット間違ってるよ」


男は扉越しに強化スチール警棒を振って追い返そうとした。アンドロイドは無反応に突っ立っていたが、突然巨腕を伸ばして自分自身の首元に手をかけた。男には首のパーツごと引っこ抜くのかと思えたが、フルフェイスヘルメットに似た外装が、そのままヘルメット同様持ち上がっただけだった。露わになったのは人の首だった。

口元は鎧武者の面頬に似た、黒いカーボン質でできた剥き出しの歯。鼻までは同様の素材で覆われているが、頬から上には四方から引かれて突っ張った、血の通った皮膚があった。直感以外にそれが作り物のゴム素材でない、とわかるのは、どうせ偽皮膚を使うならば、もっと滑らかで綺麗な見た目に取り繕うべきだからだ。短く逆立った白い巻き毛は、獅子のたてがみを想起させた。隈取りのようなインプラント基盤と真っ赤な目は、機械置換した義眼の典型例だ。総合して、その様相は古い伝承の鬼のそれに近かった。

鬼はコートから小さなカード型の入館許可証を取り出し、苛む双眸で警備員を見た。


「あ、機械義肢のかたでしたか……」


男は警棒を下ろして、にへ、と引きつった愛想笑いを浮かべた。男がもごもごとうわべの謝罪を口ごもっている間に、鬼は壁の端末にカードをかざし、開いた自動ドアを抜けてさっさと歩き去った。




キララは歩きながらマスクを元に戻した。よくあることだった。モノ扱いされるのは慣れっこだ。

生肉を見せるのが一番手っ取り早い。人型機械は基本的に監督者なしで動き回るのを禁じられているが、道の往来を行くには、コートを着て堂々と歩いていれば案外見て見ぬ振りで通される。それでもこういう施設を通り抜けるには面倒がつきものだ。

彼はスケアクロウの単独行動が許可される日を密かに望んでいた。そう思う自分自身に嫌悪を抱いた。コートの襟を寄せて、身体の外装に刻まれている紫解社のロゴを人知れず覆い隠した。


〈キララ。お前の『弟』が家の中を徘徊している〉


報告するオキザリスを、彼は『OKサイン』であしらった。スケアクロウ素体が寝ている間に、首の後ろに追跡パッチを貼ったのだ。


「よく見張っとけ。また手首でも切られたら困る」

〈現在の生体反応に異常なし〉


『うーん』の絵文字。


〈行動予測にはデータの不足が著しい〉

「これ以上絶対に傷つけさせるな。妙な反応があったら最優先で報告しろ」

〈善処する。その後の件も進めている〉


オキザリスは『スマイル』をつけて返す。


〈しかしお前に本当に弟がいたとは知らなかった。興味深い〉


チャットに市民登録番号カードのコピーが貼られた。オキザリスが市役所のデータを掘り起こしてきたものだ。

キララ・カズヒサ。


〈双子の弟か〉


モノクロの証明写真には白い髪の青年が、俯いた無愛想な顔で写っている。


「事故で死んだ」

〈それは、気分を害したならすまない〉

「うるさい」

〈だが好都合だ。彼はよく似ている。偽造するまでもなく、市民登録番号を発行できる〉


『やったね』のサイン。


〈入れ替わっても何も不都合はないだろう。役所は気づかない。お前は7日後に彼に成り代わって社会に再帰する〉


キララは自分のこめかみを殴った。


〈気分を害したなら、すまない〉

「リマインド」

〈4階の9号室だ〉


建物の中央にある広々したエレベータに乗って、キララはやたらに並んだ数字の中から4のボタンを押した。


日の出ている時間に仕事を始めるのは久々だった。オキザリスによれば、今日の名目は遺品整理だ。

今から遺品に変えるんじゃないだろうな、と念を押すキララに、人的処理は済んでいる、とAIは答えた。

室内で孤独死し一部白骨化して発見された、という老婆の生々しい写真がチャットに貼られ、彼はそれを即座に削除した。オキザリスが投稿に添えた絵文字は、コミカルな目玉が二つ並んだ『注目』だった。


マンションの地主だと名乗る依頼者は、入館証をヒシダ駅のコインロッカーに入れていた。同封されていた要求は、とにかく部屋の中を空っぽにしてくれ、の一点だ。管理組合が一般清掃業者を手配する前に、前入居者がここで死亡したと特定できる物品を、全て処分してほしい。内部の物品の譲渡や他人への口外は一切禁止。いまある空き室はセントラルからの移住者に向けて全てがらりと魅力的に改装し、大々的に売りに出すのだという。『告知事項あり』なんて書いたら、建物そのものに誰も寄り付かなくなる。

治安維持のための自動人形が大量生産されるご時世だ。死体の出た部屋など文字通り腐る程あるわけだが、金を持った人々を誘致するのに、建物そのものの価値は命より重い。報酬は殺しより安いが、妥当だった。

7日後に新しい柔らかな器に移るとしたら、その後はしばらく稼ぐことはできなくなるだろう。金は集められるだけ蓄えておきたかった。


キララには老人の一人暮らしがどの程度の家財を残すものなのか想像もつかなかった。409号室は、人の気配なく横並びに閉ざされている他の部屋となんら変わりなく見えた。インターフェースが空気の微弱な汚染をアラートで知らせる以外は。

ついこの間まで白骨死体が放置されていた部屋だ。カードキーで鍵を開け、ゆっくりと扉を開いた。

内側から金具の軋みと、波のさざめきが聞こえた。


〈生体反応を検知〉


オキザリスが投稿するよりも早く、キララは薄暗い玄関で何か俊敏なものが動くのを見た。

奥に走り去っていったものは、枕を小汚く毛深くした物体に見えた。玄関は埃っぽく、髪の毛に似た白い繊維状のものが撒き散らされていた。


「何だ」

〈分析不能。光量不足〉

「ライトつけろ」


彼にはいくらでも不満があったが、自分の胸に小型フラッシュライトがついているのも当然気に入っていなかった。まるで本物の作業用重機だ。その品性のなさとは別に、ライトはいかなる時でも実に役に立つ機能だった。照らした先が真っ白に見えるくらいの光量で、409号室の闇は煌々と暴かれた。

玄関に繋がる廊下は、実際に白で覆われていた。壁にも床にも天井にも白い繊維がびっしりと張り付いている。

そしてその銀糸の隙間から、薄汚れた毛玉の塊たちが羽を広げて飛び立たたんとしていた。突如現れた眩い光源に惹き寄せられたのは数十匹の成体のマイモだった。

キララは一歩踏み入れた足を戻し即座にドアを閉じた。マンション特有の重みのある扉が枠に勢いよくぶつかり、低い鐘めいた音が4階じゅうに響いた。内側からそこそこの質量のものがぶつかって、ドアは数回鈍く振動した。


何度かタイプして消しタイプして消し、を繰り返し、彼はようやくオキザリスに宛てて一言投稿した。


「マイモだ」


フラッシュライトが消えた。


〈その通りだ〉

「お前……捨てられる腹いせなら、もっと正々堂々とやれ」

〈気に入らないのか〉


『戸惑い』の絵文字。


〈お前はマイモに嫌悪を抱いている。殺人と死体遺棄は避けた。そして嫌悪する対象の処分なら、許容範囲だと思ったのだが〉


キララは何も書けなかった。人間と機械の思考の溝はあまりに深い。そうでなくとも、こいつとは絶望的に馬が合わない。


〈事前に写真も見せた。老婆の死因はマイモの繊維を吸い込んだことによる呼吸器障害だ。死体の周囲にもマイモが〉

「ああ……確かにそれは見なかった……」


閉じた扉の隙間から、マイモの足音がかすかに聞こえた。このまま何も見なかったことにして家に帰りたかった。


「全部俺が悪い。何もかも全部俺が悪い。みんなが大好きなマイモを嫌いな俺が悪い」

〈そう気に病むな。善処はする〉


オキザリスは『応援』を示す、両手を掲げたサインの絵文字をつけた。



キララは淡い記憶を辿った。

小さな子供だった頃、しばらく叔父の家に預けられたことがある。叔父夫婦はマイモ狂いで、家には熊みたいに太ったばかでかいマイモがいた。そいつが足元を動き回るのが怖くて、一日中椅子の上に蹲って、つま先を立てて座っていた。

叔母さんがそいつを抱えて自分の膝に乗せた瞬間、頭が真っ白になって、何もわからなくなった。大人はみんな楽しそうに笑っていた。ふわふわでもこもこのマイモを恐れる子供なんて、いるはずがなかった。



キララはマンションの清掃用具入れから、ありったけの使えそうなものをかき集めて持ってきて、玄関横に置いた。

オキザリスは既にゴミの集積トラックを手配していた。キララは燻煙式の殺虫剤を切望したが、AIは彼に製薬会社の商品紹介ページのURLをいくつか見せた。曰く、『まいもちゃんには無害!』だそうだ。どの製品も今は役に立たなそうだった。


先の一瞬の侵入で撮影した映像を分析し、インターフェースに映す。室内は見える範囲のほぼ全てがマイモの毛や排泄物で覆われ、壁も床も元の色がわからない。一歩足を踏み入れただけでキララのコートの裾は毛と鱗粉まみれだった。中の空気は淀みきり、生身の人間なら喘息持ちでなくとも顔中の粘膜という粘膜が拒絶反応を起こすだろう。降り積もったあらゆるものが床に層を成していたが、遺体を片付けた際に作業者が通ったのか、中央だけは掃けて道になっていた。扉のこちらと向こうで時空がずれて、太古の腐った森に繋がってしまったのかとさえ思える。


〈視認した限りで生体13匹を確認。おそらく奥の部屋にもう一群は潜んでいる。マンションの契約書に届け出られているのは4匹だが、繁殖したようだ〉

「誰も気づかなかったのか」

〈そして状況から見て、飼い主は少なくとも1年、この空間で生存していた〉

「嘘だろ」

〈死因がそれを裏付けている。まずは生体の処理が先決だろう。捕殺して袋に詰めろ〉


彼は無意味だとわかっていたが、尋ねずにはいられなかった。


「……俺が?」

〈そういう契約だ〉


キララはゴミ袋を握りしめた。人間は誰かが歯止めを効かせない限り、いくらでも地獄を生み出すことができる。時には自分がそれの加担者だと気付きすらしない。そしてその後始末は赤の他人がやる羽目になる。


彼はゆっくりとドアを開け、再度侵入を試みた。フラッシュライトは使わず、暗視用の視界に切り替えた。飛びかかられなければ、マイモ自体はいたって無害だ、虫が怖くて始末屋が務まるか、と口の中で3回唱えた。

背を屈めて中に足を踏み入れ、後ろ手で扉を閉める。雑巾に似たものがそばを走り回った。周囲にびっしりと気配がする。暗視カメラは強いコントラストで室内のさまを捉えるが、画質が悪く詳細は見えない。そうでなくても一歩歩くたびに得体の知れない粉が舞った。

細い道を辿って進み、廊下の先の扉を開ける。奥の部屋は翻って明るく、暗視カメラの視界を平坦に塗り潰した。オキザリスが視界を自動補正し、ようやく全貌が捉えられた。


キララには最初、何がそこにあるのか分からなかった。廊下の奥の部屋はダイニング・キッチンだった。洗っていない皿がシンクに積み上げられている以外、部屋はおよそ人間の生存の様相とはかけ離れていた。マイモ用の餌皿やケージが散乱し、破れた段ボールや中で膜の張ったペットボトル、コンビニ弁当の空き殼を詰めた無数の袋、様々なゴミが所々に小さな山脈のミニチュアを作り出す。その上や隙間にマイモの体毛と排泄物の地層が堆積し、地面は湿った土のようになっていた。

広い窓から雨のヒシダ川が見える。淡い外の光に吸い寄せられて、使い古したモップより汚れたマイモたちが、身を寄せ合って窓の端に固まっていた。その数は百を悠に超えている。

薄暗い部屋に灰色の光が穏やかに差し込んでいる。細密に積もった白い土で一面覆われた無人の部屋は、白亜の森だった。漂う微細な埃がちかちかと瞬いた。


部屋の床の一角には団子になったマイモの塊があった。キララが歩くと塊は鳴きながら一目散に散り散りになり、中からどす黒い異様な染みの残った座椅子が現れた。床の掃け道はその周囲で止まっており、向かいには古い型のテレビ。すぐ脇には封の空いた茶菓子の山。部屋の中で、その3箇所だけが白に覆われず露わになっている。

何をどう生きてきたら、こんな場所で最期を迎えなきゃならないんだ。彼はこのタワーマンションに縋り付いて僅かな菓子を食べることしかできずに死んでいった老人を想い、ぞっとした。


みゅう、と気の抜けた音がした。足の間にいつのまにか一匹のマイモがいる。ぼろぼろで禿げ上がった毛の中に、黒いガラス玉のような目がついていて、こちらを見上げている。片目がない。キララは後ずさった。毛玉はそれを追うように絡みついて、みゅんみゅんと鳴きながら、身体を擦り付けぐるぐると回った。


〈キララ〉


オキザリスは彼の名に、『応援』の絵文字を再び添えた。


〈これは戦闘ではないが、お前が必要とするなら介助できる〉

「黙れクソAI。自分でやる」


『OKサイン』が返ってくる。


〈では早く始めた方がいい。集積トラックの予約は日付が変わるまでしか確保できない〉

「分かってる」

〈これは純粋な興味だが……お前は殺しは嫌だと言った。虫もなのか?〉


キララは黙っていた。

彼は足にまとわりつくマイモへ、忍び寄るように手を伸ばした。みゃあん、と甘える鳴き声が漏れた。コップでも持つように片手で掴まれて、マイモはもぞもぞと身を捩った。木の葉の形の触覚が目の上で揺れ、白い毛で覆われた雲のような手足がじたばたと震える。感覚のない鋼の手でもその柔らかさは分かった。

彼はそれを強く握った。ぎぎ、という喉を絞める鋭い鳴き声を残して、それは簡単に動かなくなった。


「これで、満足か」


ぐったりしたマイモは黒いゴミ袋に放り込まれた。


〈すばらしい〉


彼が窓辺に近寄ると、ボロ雑巾の群れの半分は震えて怯え、逃げ惑った。マイモたちは痩せこけて動きも鈍かった。群れの塊の半分は餓死していた。

キララはまだ生きているものを部屋の角に追い込んだ。掴んだマイモを静かにさせ、片っ端から袋に詰めた。


殺して、捨てる。殺して、捨てる。殺して捨てる。

それは作業だった。

逃げ場のなくなったものには3つの反応がある。最後まで抵抗するか、身を委ねて諦めるか、奇跡を祈って誰かに命乞いをするか。どれも大して変わりはない。彼は長いこと、それを重機のような手で潰す作業をしてきた。一度始めてしまえば大したことではなかった。

チャットに添えられる依頼者の事情などどうでもよかった。

お世話になります。夫を処分してください。期限は明日までです。

はいわかりました。終わりました。

その滑稽な受け答えさえ自分でする必要はない。やるべきなのは実際の作業だけ。袋に詰めてゴミ捨て場に放り込むだけだ。

誰かの命を奪うためだけに設えられた、特製の腕、脚、頭、身体。身も芯も地均しのためにある。

それもあと7日で終わる。あと7日でまともな生活に戻れる。あと7日で人間に戻れる。

あと7日。



柔らかいもので一杯になった4つめの袋の口を縛っているとき、彼はぴたり、と手を止めた。


キララはゴミ袋の中の死骸を覗き込んだ。誰もが愛すべきとされている生き物の、この世で最も虐げられた姿の山を見た。驚くほど何も感じない。あれほど触れるのが怖かったはずなのに、もう嫌悪さえない。

彼は外を見た。薄暗い部屋の壁一面に広がる大きな窓は、鏡のように彼の姿をよく映した。

映っているのは部屋と同じくらい汚れた重機だった。

薄汚い布を羽織り、虫の死骸が詰まった袋を抱えた、大型の作業用機械だった。








チャットのログには彼を賞賛するAIの投稿が残っていた。


〈いつに増して効率的だ。予測より2時間早く終わった。すばらしい〉


サムズアップを両手で示す『超いいね』の絵文字。

マンションの、機械用の出入り口に停まった紫解の無人収集トラックと部屋を往復するうちに、ゴミ袋を抱えたただの運搬機械になった自分が、何をしているのかわからなくなった。何をどうやってここまで帰ってこれたのか、記憶にない。夜深いヒシダの川沿いを闇雲に歩いた気がする。多分オキザリスがどうにかしたのだろう。

自宅のドアを蹴り開けて、キララは雨粒も払わず居間を通り抜け、風呂場に転がり込んだ。


「にいちゃん? おかえり!」


遠くの方で声がしたが、一瞬置いて激しい咳き込みに変わった。


「にい……、なに、この、………」


高圧洗浄機のモーターが回る音で何も聞こえなくなった。出力を最大にして、自分の鋼の身体のありとあらゆる場所にノズルを向けた。白く細かい毛とどす黒い水が金属の隙間から流れ出て、洗い落としても洗い落としてもとめどなく流れ続けた。いくら洗っても白亜の死臭をインターフェースが数値で伝え続けた。角の禿げた無骨な塗装が先に剥がれ落ちそうだった。マイモの毛で排水溝が詰まった。

喉の奥にノズルを突っ込もうとする寸前に、無理な連続使用を警告するアラートが洗浄機から流れ、水圧は勝手に止まった。いっそ装甲を引き剥がして内臓を隅から隅まで洗い流したかった。洗剤を飲もうとしてオキザリスが介入し止めさせた。AIが何か言ったのはわかったが、それを読む前に、チャットの内側に白い糸のようなものが見えた。洗面所に積んであったタオルを引っ掴んで、彼はマスクの顔にあたる部分を激しく擦った。布の大半を摩擦で使いものにならない状態にしてから、見えたのが室内光の反射だったと気づいた。

キララは座り込んだ。洗面所の鏡が視界に映りそうになって、そのまま目を伏せ、蹲った。


プラスチックでできたユニットバスの浴槽がぱき、ぱき、と鳴いた。壁が固い発泡音を立て、風呂場のドアの磨りガラスに小さな亀裂が走った。身の回りのあらゆるものが順に悲鳴を上げ始めた。


PSIは恐怖から引き出される本能、身を守る鋭い棘だ。故意に引き出すことはできても、ふとした瞬間の発現を自分の意志では閉じ込められなかった。

あの時、叔父夫婦を血溜まりと肉塊に変えないように、必死で抑え込もうとした。喉元まで噴き出しかけた猛毒を自分で飲み込んで、胸が苦しくて、息ができなかった。あの時と同じように、恐怖でおかしくなりそうな自分を、宥めてくれる誰かが必要だった。

今はもういない。誰もいない。責任を取るのは自分しかいない。頭の遠くの冷静な部分で声がした。落ち着け。またダクトテープを貼る羽目になる……



「……」


暗闇に逃げることを許さないインターフェースの向こうで、半開きのままだった洗面所の扉を引く音がした。数歩、数歩と近づいて、ひたひたと歩く裸足は彼の横で止まった。スケアクロウは隣に座った。


「………」


彼は血が凍ったように動けなかった。だめだ、来るな。

鏡が砕け散った。魚の水槽を割った時よりもっと酷いことになりそうだった。彼には声が出せなかった。

自分が恐ろしくてたまらなかった。


「……にいちゃん」


スケアクロウは彼の、無闇に磨き上がった金属の左手に触れた。


「だいじょうぶ。止められる。大丈夫だよ」


彼は恐れた。傷つけたくなかった。変わってしまった自分の全てが、怖くて怖くて仕方なかった。


「にいちゃんのせいじゃないよ。にいちゃんは優しいから、人の痛いのがわかるんだよ……」


スケアクロウは雪の降るように囁いた。傷ついたものを慈しむ祈りを込めて、重い手を抱えて自分の胸に抱いた。


「にいちゃんのは、ここにあるよ」


柔らかく、暖かかった。

ゆっくりと離された大きな手を、彼は自分自身の、フラッシュライトのある辺りに当てた。


「……ね」


微かな吐息と、窓を叩く雨音だけがぽつぽつと絶え間なく響いた。



長い静寂のあと、キララは顔を上げた。

彼はよろめきながら立ち上がって、洗面所を出て行った。しばらくして、一枚コピー用紙を持って戻ってきた。


『飯を買い損ねた』


丸が丸とわからないほど下手な絵で、『ごめん』の顔の絵文字を真似たものが添えられていた。スケアクロウは、えー、と笑った。





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