第1話

 俺、黒金環くろがねたまき深間ふかま高校に通う高校二年にして平和をこよなく愛する男だ。


 だが勘違いしないでほしい、俺が言う平和とは自分が生きる生活範囲内だけであって、世界規模などではない。


 無論、世界が平和を維持し続けられるラブアンドピースなアースになるのであればそれが一番だが、そんな夢物語はこの世に感情を持つ人が存在する限り不可能。


 だから俺は自分の周りが平けく安けくあればいい。さらに言えば自分の身の安全と心の安寧が保てられるのなら他はどうでもいいとさえ思っている。


 その思想を軸に生きる俺は人との関わりを極力避けている。ありふれる数多くの私情から身を守る為にだ。当然、身の振る舞いにも気を払っている……はずだったのだが。


 居眠りとは不覚……とんだ悪目立ちをしてしまった。


 今俺はどうしようもなく落ち込んでいた。


 その理由は五時限目の数学での居眠りだ。言い訳じゃないが人生初だ。今日に限って黒板に羅列された数式に催眠作用が含まれていたかのように激しい睡魔に襲われ、俺は抗えなかった。結果、数学担当の教師に起こされ注意を受ける恥を受けてしまった。


 特に疲れてたわけでもないのに俺としたことが。それに……。


 一人落胆する俺は記憶の欠如なく鮮明に覚えている妙な夢を思い出す。


 一体何だったんだ? 長すぎる廊下とかは夢そのものだったが、あの時の気持ちは妙に現実味があったというか……。


 と、そこで俺はクラスの妙な静けさに気が付く。

 周囲を見渡すと生徒の姿が一人も見当たらない。


 さっき見た不思議な夢のせいもあって変に意識してしまう。が、たまたま目に入った時間割表が焦った俺に今が現実であることを教えてくれた。


 六時限目は化学……そっか、移動教室か――って、時間やべーじゃんかッ!


 このままだと遅刻、失態に続く失態だけは避けなければと俺は机から教科書を引っ張り出し化学室に向かおうとする。

 


「――きゃっ!」

 


 それは突然の事だった。


 後ろ手の開きっぱなしになっている引き戸から出ようと走って向かった俺は、同じく廊下から走ってきたであろう誰かと出合い頭に衝突してしまったのだ。


 その衝撃で俺は反射的に目を閉じてしまい、視界が真っ暗になる。


 地に足が付いていない、倒れてる感覚がわかる。しかしぶつかった反動で倒れるにしてはさほど痛みを感じなかった。ベットにダイブした時のように、クッション材が衝撃を緩和したような感じだ。


 あれ? なんか、良い匂いがする。シトラスみたいな柑橘系の爽やかな香り、でもどうしてこんなちかくから……まさかッ!


 胸騒ぎがする。俺は視覚から情報を得る為、閉じられた瞼を力強く開く。そして驚愕した。


 目に飛び込んできたのは女性の顔、正確にいえば同じクラスの田宮笑美たみやえみの顔が、目と鼻の先にあったからだ。


 どうやら衝突した相手は田宮で、ぶつかった勢いで彼女は仰向けの状態で倒れてその上から俺が覆いかぶるようにして倒れてしまったらしい。


 ふと、目前にいる田宮と視線が交差する。が、俺の視線から逃げるように田宮は顔を横に向けた。その所作で彼女の少し明るめの髪がなびいて、赤く染まった耳や頬を覆い隠した。



「――わ、わるいッ!」



 明らかに嫌がっている田宮から離れようと俺は咄嗟に両手に力を入れ立ち上がろうとする。



「いやっ……やめて」



 けれど立ち上がれない。両手に冷たい床の感触はなく、手のひらに感じるのは軟式テニスボールような柔らかさだった。


 これは……。


 俺はもう一度、今度は確かめるように緩めに力を入れる。



「……やだ」



 まただ、手に力を……いや、手のひらを動かすと田宮が反応を……ちょっぴりなまめかしい声をだす。


 もしかして……。


 俺は顎を引く形で視線を手元に向けた。


 そしてこの短い間で二度目の驚愕、俺の両の手はがっしりと田宮のふくよかな胸を鷲掴みしていた。


 ――カシャッ。


 前触れや兆候はなかった。静かな教室内に今ではよく耳にするシャッター音が、十分に響き渡った。


 その無機質な音は、これまで築き上げてきた平穏に亀裂を生んだような気がした。


 ゆっくりと音の鳴った方へ顔を向ける。そこにはスマホを横に持って構え、俺と田宮を被写体にフォーカスを当てながら不敵な笑みを浮かべる第三者が立っていた。



「昼間から大胆ね」



 その一言は死刑宣告を言い渡された被告人の気持ちを存分に味合わせてくれた。

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