忘却していたもの
なにやら焦げ臭い匂いが鼻についた。辺りはまだ暗く、光もない。だけど、たぶん外から異臭がするのだ。何かが焼け焦げるような、ああこれは。
「人間が焼けるにおいだ」
ぽつりとこぼした言葉は誰に聞かれることもなく、部屋に溶ける。
そうだ、なんで忘れていたんだろうか。これは間違いなく人が焼けるにおいで、私はずっと前にこのにおいを知っていたはずだった。長年ここに閉じ込められていたせいで忘れていたのかもしれない。声だって、久方ぶりに出した。
立ち上がって、鉄格子に手を伸ばす。届くはずはない、届くならこんなところに好き好んでいるわけもないのだ。食べ物もなく、水もなく、光が入らなければ暗くジメジメしたこんなところに。
「そんなわけないだろう」
口からは考えと反する言葉が出てきていた。だって、出られるというのなら。これが作られた密室ですらないというのなら。私はどうしてここに?
「罰だ、罪だ」
自分で喋っているはずなのに要領を得ない言葉しか吐けない。
「と思っているだけ。 魔女なのに人間のフリをしている」
魔女?
「普通の人間は水がなければ生きられない。 食事もせず、水も飲まず、排泄もせずにここまで衛生的にきれいなままでいる方がおかしい、よく自分を、周りを見てみろ」
周りをぐるりと見てみる。あれだけ暗かった室内も、外からの赤い光でよくよく見えるようになっていた。確かに汚れていないし、今まで寝ること以外をしたことはなかったように思える。自分自身も、何年もここに閉じ込められているというのに、薄汚くもなくきれいだ。これを人間と呼べるのだろうか。人間と呼ぶには異質すぎる。
「……私は魔女」
言葉が、意味が、すんなりと自分の中に落ちてきたようだった。もう口から自分の意図しない言葉が出てくることもない。私は人間ではなく、魔女だったのだから。
なら、話は簡単だ。ここは密室なんかじゃない。あの鉄格子だって手が届かないはずがないし、余裕でこんなところから出られるはずだ。
部屋の温度が上がっていく。きっと、火が近づいている。人間を舐め回し飽きた火がやってきていた。ああ、早くしないと火あぶりだ。
「出なきゃ」
手を伸ばすと、鉄格子に手が届いた。瞬間、クッキーでも砕くかのように、鉄格子はバラバラと形を無くしていく。ギリギリ私が通れるぐらいの隙間を通って、外に出る。
「……ああ」
赤い炎が何もかもを喰らい尽くしている。ここに来る前の姿はもうどこにもない。いや、だいぶ昔のことすぎてどんな形だったかも忘れているだけかも。どれくらい経ったのかも正直正確には覚えていないし。考えることだって放棄して、過ごしてきたのだ。まだ抜け落ちた記憶は多い。自分が何者かということしか思い出せていないのだ。
思い出したからと言って、何をしよう。何をすればいいんだろう。またあそこに戻るという選択肢は選ばないけれど。
ごうごうと燃え盛る炎は何もかもを喰らい尽くそうとしているというのに、私はそこから動けないでぼんやりと眺めていた。
「……、魔女」
「えっ」
唐突に降ってきた言葉に驚いて、咄嗟に後ろを振り向くと―――。大きな石を振りかざす少女が見えた。さすがにこれはまずいぞ、と思う前に、目の前が真っ暗になって、意識も遠のいていく。
ゴッと鈍い音がして、私は地面に倒れこんだ。
「魔女は閉じ込めなきゃ」
少女の不穏な言葉を最後に、今度こそ私の意識は飛んだ。
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