わがままな人魚姫

守宮 泉

わがままな人魚姫

 午前零時。恵美は家に入るや否や、ベッドに体を投げ出した。

「つっかれたあ……」

 放られたバッグは、床に広がる物たちの海に沈んだ。くしゃくしゃの服、読みかけの本、崩れそうな書類の山、買ったまま放置されたポリ袋。数えきれないほどの物が積み重なっていた。ベッドの上以外、足の踏み場もない部屋の惨状を、恵美は横目で見やる。

「いい加減、片づけなきゃな……」

 そのままごろりと寝転がって、天井を眺めた。恵美の脳内に、今日の出来事が蘇ってくる――。


「ちょっと! この書類、誰が作ったの!」

 恵美の働くオフィスに、突然怒鳴り声が響いた。社員たちは手を止め、肩をすくませる。声の主は、徹夜明けで気が立っている主任だった。掲げられた書類に視線が集まる。恵美は、それに見覚えがあった。

「……私です」

 おそるおそる手を挙げた恵美に、主任の鋭い目が向く。恵美以外の社員はすでに、それぞれの仕事に戻っている。自分への叱責ではないことに、内心ほっとしているに違いない。

 主任は立ち上がり、恵美の机に書類を叩きつけた。

「これ、去年の数値になってるんだけど、どういうこと?」

 恵美は急いで書類をめくった。自分の持っているデータと確認したが、見たところ間違いはない。

「青川さんにもらったデータの通りです。間違いありません」

「現に、これは去年の数値なのよ! 今すぐ直して」

 こうなれば、言われたとおりにするしかない。残業決定だ、とうんざりしながら、恵美は資料室に向かった。

「あー、それね。間違って去年のデータ渡してたわ。ごめん。今年のはこっち」

 事情を説明すれば、青川の不手際であったことが判明した。恵美はため息をつく。ごめんですむ話ではない。こっちは、別の仕事に取りかかっているのだ。その様子を見てとったのか、青川は手を合わせて申し訳なさそうに言う。

「ほんっとうにごめん! お詫びに手伝う……と言いたいところなんだけど、ほら、オレ結婚したばっかじゃん? 早く帰らないとあいつ、うるさいんだよ」

 白々しい。恵美は心の中で中指を立てた。青川が「愛妻家」を気取っていることは、社内に広まりつつあった。定時退社したその足がパチンコに向かっているというのは、恵美だけが知る事実だ。結婚しただけで直る習慣ならば、恵美は苦労しなかった。結局、それは無駄骨だったわけだが。

「恵美なら分かってくれるだろ?」

 青川の最後の一言が恵美に突き刺さる。殴りたい気持ちを押し殺して拳を握りしめた。何度、この言葉にだまされてきたことか。

 そんなことはおくびにも出さず、恵美は笑顔の皮を貼りつけた。

「いいよ、気にしてない。確認してなかった私も悪かったしね」

 自分の机に戻った恵美は、怒りをこめた手でパソコンのキーを打ち続けた。


 というわけで、仕事を終えたのが日付を越える少し前。こんな時間に家に帰りつく結果となった。

「風呂、入るか」

 できることならこのまま寝てしまいたかったが、明日も通常出勤だ。疲れをとらないまま朝を迎えることは避けたかった。

 恵美はよいせ、と起き上がり、風呂の蛇口を捻った。お湯が勢いよく流れ出す。そういえば。恵美はふと思い立って、洗面台の下の戸棚を開けた。ティッシュや試供品がなだれてくる中を、ごそごそと探る。

「あった!」

 恵美が手にしているのは、ピンポン玉サイズの青い球体。ギフトショップに並んでいるような入浴剤だが、よく見ると小さな人魚が入っている。青川からの、唯一のプレゼントだった。大学時代は自分探しのために、といろんな国を回っていた。そんな純朴な青年だった頃に、とある国のおみやげとしてもらったのだ。これがきっかけで、恵美と青川はつき合うことになった。思い出の品ではあったが、今となってはもう関係ない。

「どうせなら捨てるより、使った方がいいもんね」

 恵美はそれを、ぽちゃん、と浴槽に投げ入れた。


 ピー、ピー、という高い音で恵美は目を覚ます。つい、うとうとしていたようだ。呼び続ける音に、急いで起き上がる。

「はいはい、今行きますよ」

 恵美は風呂場に足を踏み入れた。もうもうとした湯気で、視界が悪い。お湯を止めて、引き返す。はずだった。

「え、」

 開いた扉から、湯気が少しずつ出ていく。浴槽の中に、十に満たない少女の姿があった。ただの少女ではない。その子の後ろに、尾びれが、見えた。恵美は目をこする。バシャ、とお湯を跳ね散らすそれは、やっぱり本物だ。

「だ、誰! というか、何?」

「ちょうどよい。そこの下僕、もっと広い浴場はないのか? ここはちと狭いぞ」

 うろたえる恵美に構わず、縁に頬づえをついた少女が要求する。かわいらしい声に似合わない古風なしゃべり方が特徴的だった。これは夢だ、と思った恵美は頬をつねる。痛い。目の前の光景は、どうやら現実のようだ。未だ、呆然としている恵美に少女はたたみかける。

「そこの、聞いておるのか?」

 恵美は、はっと我に返った。そして、風呂場から出ると、扉をピシャリと閉めた。

「何よ、これ……」

 扉に寄りかかり、恵美は頭を抱える。戸惑いが残る脳でも、原因はなんとなく分かった。あの、入浴剤だ。思えば、どこの国で買ったのかすら知らない。危ない薬が入っていたのだろう。そう、例えば幻覚作用のある麻薬とか。

「……どうしよう。法律違反で捕まるかな、私」

 恵美が唸っていると、中からビタンッという魚の跳ねるような音がした。恵美は、扉を少し開けてそっと覗く。イライラした少女が、尾びれを壁に叩きつけた音だった。

「そもそも、ここはどこじゃ。あの狭い中から出られたのはよいが、水が少なすぎる。そこにいるのであろう! 出てきて説明せい!」

 どうやら、戸惑っているのは向こうも同じようだ。幻覚ならば、自分に都合のいいものしか見ないはず。正直、恵美は現実か幻かなんてどうでもよかった。ひとまず、風呂に入って疲れをとりたい。それを理由にして、とりあえず少女がいることを受け入れることにした。

「あの……私も入って構わないでしょうか?」

「おお、戻ってきたか。この非常事態じゃ。下僕も入ってよいぞ」

 少女の言い方が癇に障ったが、ここは合わせておく。またうるさくされると困るからだ。恵美は裸になって、シャワーからお湯を出す。その行動のひとつひとつを、少女の目がついて回る。顔を洗い終えたところで、恵美は耐え切れなくなって顔をあげた。

「ちょっと……」

「ここは、見慣れぬ物ばかりで飽きぬなあ」

 恵美は思わず言葉を止める。少女の表情が、あまりにも純粋だったからだ。まるで初めて外に出た赤子のように、好奇心に満ち溢れていた。恵美と少女の目が合う。途端に、少女の唇が弧を描いた。その笑みにはもう、赤子の面影はない。

「どうした。早く続けんか」

(黙っていれば年相応でかわいいのに)

 そう思いながら、恵美は体を洗い始めた。

 少女は、いわゆる「人魚」であった。その証拠に、足があるべき場所には尾びれがついている。水面から飛び出してピョコピョコ動くそれを、恵美は眺めていた。

「人魚を見るのは初めてか? 人間よ」

「はあ」

 その視線に気づいた少女が、振り向く。珍しいからというよりは、常に動いているからつい目が追ってしまうのだ。恵美の反応が薄いとみて、少女がわざとらしく咳ばらいをした。

「あーごほん。どうやら、ちと眠りすぎたようじゃ。わらわの知る人間の住まいとは、随分違っておる」

「そうですか」

 恵美は、少女に興味がないわけではなかった。ただ、あまりの心地よさで一気に眠気が押し寄せてきたのだ。今は意識を保てているが、そろそろ限界だった。

「こら、寝るでない! わらわの話を聞け、下僕よ!」

 少女に揺さぶられながら、恵美は薄れゆく意識の中で思った。

(私はいつからこの子の下僕になったんだろう……)


「海ぃ?!」

 深夜であることを思い出して、あわてて口を抑える。なんとか風呂から上がった恵美は、休む間もなく少女の要求を聞かされた。

「そうじゃ。わらわは海に帰らねばならん。長い間国を留守にしてしまったからな」

「そうはいっても、ここから海までどんだけ距離があると思ってんの」

 恵美が住む街は、海がない。それどころか、県境を越えなければ海にはたどり着けない。事を荒立てないようにと使っていた敬語も崩れるほど、遠かった。行くとなれば、半日は潰れてしまうだろう。

「まあ、百歩譲って行くとしましょう。だけど、その格好でどうやって外に出るつもり? 私は車は持ってないんですけど」

 恵美は冷めた湯に浸かっている少女をじっと見た。尾びれ付きでは、水からも出られそうにない。少女はふふん、と鼻を鳴らした。

「心配するでない。策はちゃんとある。下僕、塩水の用意じゃ」

「は?」

「この浴槽一杯分ぐらいでよかろう。さっさと動け」

 少女は簡単に言うが、むちゃくちゃな要求だった、しかし、恵美は指示に従わざるを得なかった。少女の声には、どこか逆らえないものがある。祖父に叱られてわけもなく怖かった、子どもの頃のような。長年生きてきたものに特有の説得力が、そこにはあった。

「これでいい?」

 恵美は段ボールを二箱、少女の前に積み上げてペットボトルを取り出す。その中身は、もれなく塩水だ。

「ふむ……量は申し分ない」

 少女は恵美に蓋を開けさせ、グビグビと飲み始めた。恵美はそれを呆然と見つめる。少女の勢いは止まらず、あっという間にすべてのペットボトルを空にした。

「これで準備は整った」

 口元を拭った少女は、満足げに笑んだ。一体、何をするつもりなんだろう。恵美が期待を込めた目で見守る中、少女は指をパチンッと鳴らす。すると、たちまち視界が白い光に包まれた。恵美は思わず目を瞑る。

「もう開けてよいぞ」

 少女の声で、恵美はそっと目を開けた。

「どうじゃ。久々にしてはなかなかよかろう?」

 そこには、一人の少女が浴槽の縁に座っていた。水色のワンピースの下には、二本の足が突き出ている。どこからどう見ても、人間だった。

「すごい。これなら行けるかも」

「よし、ではゆくぞ」

 恵美の言葉を了承と捉えたのか、少女は風呂場を出ていこうとした。恵美は少女の腕を掴んで止める。

「ちょっと待った! 今から行くつもりなの?」

「この姿は一日しかもたん。今日中につかねば間に合わぬ」

 焦りを見せる少女に、恵美はため息をついた。こうなったら、最後まで付き合うしかないようだ。

「……分かった。海に行こう。ただし、朝になってからね」


「海、好きなの?」

 ビーチボールの輪から外れて浜辺に座る恵美に、一人の青年が話しかけてきた。

「いや、別に……」

 疲れたから休んでいただけで、海に思い入れは全くない。恵美の返事に肩を落とした青年は、隣に腰を下ろす。

「海が好きなのはそっちでしょ」

 恵美は横目で青年を見た。引き締まった体を惜しげもなく晒している。小麦色の上半身は、頻繁に海に来ていることを示していた。青年は目を輝かせて、こちらを見た。

「分かる?」

「そんな体してたら嫌でも。見ない顔だけど、もしかして今年から?」

 バレーボールサークルに所属して二年ほど経つが、青年の姿を見たのは初めてだ。恵美の問いに青年は首を振る。

「いや、入学してからずっといる。名前だけ貸してたんだ。バレーボールなんて興味ないけど、貸した甲斐があったよ」

 にこっと微笑んだ青年は、よく見ればかなり整った顔をしている。恵美は青年のことがもっと知りたくなった。

「海のどこが好きなの?」

「どこが、か……」

 青年はあごに手を当てて唸った。そして、まっすぐ海を見据える。

「どこまでも続いてるから、かな」

 青年は手を大きく広げて、話を続けた。

「泳いでも、泳いでも、終わりがない。俺さ、いつかどこまで行けるか試してみたいんだ。たぶん、行きついた先が、俺の生きるべきところなんだ」

 恵美は、そう言い切る青年の横顔に強い意志を感じた。根拠なんてない。でも、いつか、何かをやってのける力を持っている。そう、信じていた。


 あれから事情を説明し、恵美が眠りについたのは明け方近くになってからだった。仮眠レベルの短い睡眠だったが、すっきりした気持ちで目が覚めた。少女を連れ、電車に揺られること約二時間。二人は、ようやく海にたどり着いたのだ。

「ようやく、帰ってこれたのじゃな……」

 早朝だからか、浜辺には誰一人いない。穏やかな波が、引いては打ち寄せる。隣の少女は目を細め、海の青を見つめていた。

 海なんて、いつぶりだろう。青川とのデートは大抵海だったが、大学を卒業してお互い忙しくなってからはめっきり訪れることはなくなった。恵美は潮風に吹かれながら、日に焼けた顔に光る白い歯を思い出す。

 感傷に浸っていると、携帯が鳴り、メールが来たことを知らせる。青川からだ。件名は『残業のお知らせ』。開いてみれば、昨日の失態の埋め合わせとして大量に仕事を任されたから手伝ってほしい、という内容であった。昨日の今日でよく言えたものだ。恵美の希望を打ち砕くには十分すぎた。あの意志も、海への愛も、今の青川にはない。人は変わるのだ。恵美もまた、変わろうとしていた。

 恵美は携帯を閉じる。ふと、少女が顔を見上げていることに気づいた。いよいよ海に返るのだ。

「人間よ。世話になったな。礼として、そちを世話係に引き立ててやろう」

「部下であることには変わりないんだね……」

 恵美は苦笑いを浮かべて呟く。過ぎ去った青春の思い出は、始まりの場所に置いていこう。そして、新しい人生を始めるのだ。恵美は、海に向かって叫んだ。

「私! 森田恵美は! 青川浩太郎のことを忘れて! 幸せに! なってやるんだから!!」

 恵美の声は、海の向こうに消えていった。恵美は、ふう、とひと息つくと目を丸くしている少女に言う。その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。

「気持ちは嬉しいけど、やめとく。私、まだまだこっちでやりたいことがあるから」

 会社には、風邪をひいたと連絡した。恵美が公休以外で休むのは、就職してから初めてだ。電話に出た主任には、嘘だとすぐばれてしまった。だが、どうせなら有給使ってとことん休みなさい、なんてことを言われて、恵美はびっくりしてしまった。 そんな優しい言葉を聞けるとは、思ってもいなかったのだ。心配されるほどひどい顔をしていたらしい。ふっきれたと、思いこんでいただけのようだ。

 恵美は、今までで最高の気分だった。やっと、忘れることができそうだ。少女は恵美の顔を見て、ふっと口元を緩めた。

「そうか、ならば致し方あるまい。別れる前に一つ、受け取ってくれるかの」

 少女が、ポケットからを取り出したものを恵美の手のひらに置いた。平べったくて小さなそれはすべすべしていて、日の光を反射する水面のように青くきらめいていた。

「これは?」

「わらわの鱗じゃ。これも何かの縁。再びまみえる時まで、とっておけ」

 少女は、ではな、と言い残し、海の中に飛び込んだ。恵美が瞬く間もなく、その姿は波の向こうに消えてしまった。

「行っちゃった」

 あまりにもあっけない別れ。恵美はふふっと笑いをもらした。手に残された鱗を、おもむろに空にかざしてみる。恵美の瞳に、青く染まった太陽が映し出された。



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わがままな人魚姫 守宮 泉 @Yamori-sen

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