ガラスの靴
吾妻栄子
ガラスの靴
「それでは、
声は押さえたつもりだが、どうしても失望を隠せない。
「はい」
一見して姉妹と知れる垢抜けない目鼻立ちにずんぐりした体つきの娘二人の内、姉らしい方が頷く。
「正しくは母の再婚相手で義理の父でございますが」
言い掛けたところで、並んだ二人の娘の瞳が同時に潤んだ。
「私たちにとって実の父も同然の人でした」
しゃくり上げるのを堪える風に姉妹はドレスの肩を震わせ、手袋を嵌めた手を固く握り締める。
周囲の客たちの目にも痛ましい色が浮かんだ。
「そうか」
どんな不器量な娘でも真に愛する者を悼む瞬間は美しい表情を浮かべるのだとこの姉妹を見ていると良く分かる。
同時に、あのエル侯爵はもう世にないという現実をまざまざと思い知らされて胸の奥にうそ寒い風が吹き抜けていく。
*****
「お二人とも踊りがお上手だな」
エル侯爵の継子である二人姉妹と続けて踊ったが、姉も妹もなかなかの名手である。
「父が私たちに教えてくれましたから」
相手は誇らかに微笑む。
恐らく実父ではなく義父の侯爵の方だ。
一際長い手足でしなやかにこの広間を踊っていた姿が脳裏を過る。
彼本人はもういないのに。
「エルはそなたたちの善き父だったのだな」
父王の呟く声に振り向くと、姉娘の手を取ってターンをするところだった。
「
敵わないのは踊りだけではなかった気がするが、王子というか息子としては口に出さないのが優しさだろう。
曲が終わった。
「それでは、また」
「どうもありがとうございました」
娘はずんぐりした不恰好な姿に似合わず優美な仕草で一礼する。
これもエル侯爵の教育の賜物だろう。
彼本人には遠く及ばないが、教えを受けた義理の娘たちの所作には輝かしい欠片がほのみえる。
*****
ボーン、ボーン……。
壁の大時計が鳴り始めた。
十二回目を聴くまでもなく広間の人々は踊りの足を止める。
「今日は皆、良く集まってくれた」
父王はまだ汗ばんだ笑顔で告げた。
「もう遅いので、女性たちは特に気を付けて帰るように」
普段は若々しいが疲れた時の笑いの皺の深さにやはり老いが浮かび上がる。
十七歳の自分に対し、父王はもう五十に手の届く年配である。
同世代の貴族たちも一昨年エル侯爵が身罷ったのを皮切りに訃報や病の床に就いた噂が増え始めた。
今日の舞踏会にしても跡取りの自分に早い内に身を固めさせる為の相手選びを期した催しだ。
「随分沢山の方と踊ったわね」
ふわりと香ったレモンの匂いに振り向くと、母妃が立っていた。
「はい」
かつてはこの国で最も美しい女性と讃えられ、今もその面影を残す母ではあるが、年若い令嬢たちを目にした後ではやはり風雪を経た姿に映った。
「どなたか気の合う方は居たかしら」
「皆さん、美しい方ばかりですよ」
それぞれ贅を凝らした衣装で着飾った令嬢たちには世間一般では「美人」と形容される者も何人もいたが、この人と思える相手には今夜は巡り会えなかった。
ふと、帰っていく客の中にエル侯爵の二人の継娘のずんぐりした後ろ姿が認められた。
別の侯爵家の、美男子ではないがいかにも人の好さそうな息子たちと連れ立って歩いていく。
彼女らは釣り合う相手を見付けたようだ。そう思うと、安堵すると同時に自分だけ置き去りにされたような寂しさも覚えた。
*****
「隣国の姫ですか」
母妃が示した肖像画の中の娘は豪奢なドレスも特徴に乏しい顔立ちも表情のない顔つきもまるで人形のようだ。
「あなたの肖像画を先に送ったら、是非ともと向こうからも寄越したのよ」
先方に送られた自分の肖像画もこんな風に立派な衣装を着せた人形のように描かれているのだろうか。
「そうですか」
会ったことのない隣国の姫にとっての自分もきっと「是非とも一緒になりたい相手」ではなく「周囲が是非ともと勧めてきた候補」でしかないだろう。
胸の奥をまたうそ寒い風が吹き抜ける。
何か言いたげな母妃を振り切るように立ち上がった。
「私としてはもう少し考えてみます」
*****
窓を開けると、まだ春には遠い夜の風が音もなく流れ込んでレースのカーテンを揺らす。
もう皆が眠りに就き出す頃だ。
遠くに見える街の灯りもぽつぽつ減り始めている。
代わりに空の星が冷厳な輝きを増す。
半分に割れた月はもう道のりを半ば以上過ぎていた。
「これでいいのか」
真っ直ぐ半分に割れた月を見上げて呟く。
多分、今日肖像画を見せられた隣国の姫でなくても、私はその内、周囲から「これが釣り合う相手だ」と推された女性と華燭の儀を挙げることになるのだろう。
いや、客観的に見れば、あの隣国の姫だって決して悪い相手ではない。
肖像画特有の修正や多少の美化を差し引いても不器量とは思えないし、素行や性質に大きく問題があるとかいう噂も聞かない。
何より身分や育った環境の面で自分と釣り合う相手でもある。
王妃として伴侶として長くやっていく上ではそうした女性の方が良いのだとは十七歳の自分にも分かる。
だが、このままお互いに「いつかは結婚しなくてはいけないし、余儀のないことだから」と思うような相手と結ばれる、そんな道しか用意されていないと思うとどうにもやりきれないのだ。
半分だけの月は、夜の半ばに沈もうとしている。
コン、コン。
背後からドアを叩く音がした。
「儂だ」
父王の声である。
「今、開けます」
急いで窓を閉め、寝室の閉じられたドアに向かう。
途中の暖炉の前を通り過ぎる瞬間、ふわりと生温い空気に包まれて肌が粟立つ。
随分、冷え切った窓際に居たようだ。
少し暖かい所に移ったからこそ肌に寒さの感覚が蘇る。
*****
「近頃は冷えるな」
暖炉に近い方のソファに腰掛けた父は苦笑いする。
「儂くらいの年配になるとすぐ体の節々に来てしまう」
ランプに照らし出された面は涙袋や頬の弛みが昼間の陽の下で見るより際立って老人そのものに映った。
父王の髪はまだ豊かで白髪も少ない方だが、風貌全体としては七年前に七十歳で亡くなった祖父の先王そっくりで年配も大差なく見える。
もともと父と祖父の親子で面差しは似ていたのだが、年を取ると若い頃は似ていなかった部分も老化で磨り減って余計に似通って来たように思う。
自分は母に似ていると言われることも多いが、三十年もすればやはり今の父そっくりになるのだろうか。
そう思うと、また気が少し沈む。
「だが、若い時のように無茶はしなくなるから大きな怪我や不意の病はだいぶ避けられるのさ」
父はカラカラと笑った。
「時に、エルの上の娘とロブの跡取り息子が婚約したそうだ」
エル、ロブとまるで息子の自分より幼い少年のように呼ぶが、父王と同世代の貴族たちである。
「この前の舞踏会が両家の縁結びになったようだな」
ランプの灯りを眺めながら父王はどこか苦く微笑んだ。
「それは良かったですね」
正直、どちらが姉でどちらが妹かもはっきりは思い出せないが、あのエル侯爵の継娘たちが良縁に恵まれたのなら良かったと素直に思う。
女性としては惹かれなくても人としては好感の持てる娘たちだったから。
「あの継娘たちも感じの良い娘たちではあったな」
父王も偽りのない声で告げると、寂しく付け加えた。
「エルも再婚してきっと幸せだったのだろう」
エル侯爵は七年前、病気がちだった最初の妻を亡くし、その後は子持ちの未亡人と再婚したという噂を最後に田舎に引きこもって社交界には姿を見せなくなっていた。
自分が覚えている最後の彼は、祖父の先王の葬儀に参列している喪装の姿だ。
侯爵は妻と目をかけてくれた君主を同じ年の内に相次いで亡くしたのだ。
蒼ざめた面持ちで佇立する喪服の彼を遠景に見て(エル侯爵は頭抜けた長身に一際長い手足をしていたので遠目にもすぐその人と分かった)、
「美しい人は悲しんでいる時でも、というより悲しんでいる時だからこそ、底光りするように美しいのだ」
と子供心に感じたことを覚えている。
「妻も先王も亡くなって、すっかり落胆して、あの金髪も灰を被ったような白髪に変わってしまったから社交界に顔を出さなくなったという噂もあったが」
ソファの父王はどこか苦く笑う。
社交界の花形だったエル侯爵本人について自分はただ夢のように美しい人だった記憶しかないが、同世代の父王や男性貴族たちが彼について話す時にいつも微妙に揶揄や貶めの紛らした言い方をしていたのは覚えている。
実際、社交界で他に美男だとか才人だとか評されるような人でも彼の隣に立てばいかにも浮薄に見えたり粗忽に思われたりしたのだから、同時期に社交界に出入りする同性からすれば全く有り難くない存在だったには違いない。
「そなたがまだ母の胎内にあった時、エルの妻もまた身籠っていた」
自らの手に目を落とした父王がぽつりと呟く。
パチパチと後ろの暖炉の火の燃える音が一瞬、浮き上がって響いた。
「もし互いの生まれた子が男女ならば将来は結婚させようかと冗談で語り合ったものだ」
父は潤んだ目で息子を見詰めると哀しく笑う。
「儂たちにはそなたが無事生まれてくれたが、エルたちの子は産まれてすぐ亡くなった。女の子だったそうだ」
胸の奥に杭を刺された気がした。
とうの昔に始まる前に終わったような話なのに、何故か心の中で見えない血が流れていく。
「今でも、エルのその娘が生きて大きくなっていたら、どんなにか美しく、心ばえの優しい娘だっただろうと思う」
ゴーッと暖炉の火が燃え盛る音が耳の中を通り過ぎた。
半分に割れた月はもう夜の地平に沈んでしまっただろうか。
*****
「この度は皇太子殿下に新たな作品をお目にかけたく伺いました」
父王とさして年の変わらぬ画家は拝礼すると、作品に掛けた覆いを取った。
「『ガラスの靴』でございます」
宮殿の階段の途中で透き通ったガラスの靴の片方を手にして立ち尽くす、豪華な夜会服の姿の男。
触れれば壊れそうな小さな靴の片割れを掴んだまま、虚ろな眼差しを遠くに向けている。
きらびやかな夜会服を纏い、壮麗な宮殿を背に立っているのに、彼の本当に求めるものは手をすり抜けていってしまったのだ。
「哀れな男だな」
絵の中の端正な面差しの男は在りし日のエル侯爵に似ているようでもあり、どこか自分に似ている気もした。
「いや、この殿御は想う相手を一途に探しているのです」
画家は穏やかに微笑んでいる。
「そうか」
昼前の宮殿の広間に春の綻び始めた花の匂いがどこからか流れ込んで来た。
胸の奥が痛みを抱えたまま、微かに熱を帯びる。
私は知らず知らず自分の口が呟くのを聞いた。
「きっと、探して見つけてみせる」
(了)
ガラスの靴 吾妻栄子 @gaoqiao412
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