残りの人生
母さんが死んだ。
「そのとき」は唐突にやってきた。
突然死というやつだった。
母さんは近所に住む叔母さんと毎朝電話で話していたらしい。
その日は叔母さんから電話した。
いつもと同じ時間だった。
もう日課になっているので何をしていても出るはずなのに、その日はいくら鳴らしても母さんは出なかったそうだ。
何分かおきに数回鳴らして異常に気付いた叔母さんは歩いて5分くらいのところを車で見に行った。
まず玄関でチャイムを鳴らす。
出ない。
二度鳴らして応答を待ちながら電話をかけたところ、家の中で電話の鳴っている音が聞こえた。
駐車場に母さんの車があったことから家にいるのはわかっていた。
出ない。
玄関には鍵がかかっていた。
庭に廻って部屋のドアを見て廻ったが全て鍵がかかっていた。
ここまでにも電話をかけ続けてみたが毎回電話の音が家の中から聞こえるだけで応答はなし。
母さんと叔母さんしか知らない、万が一のために開けてある唯一のドアから家の中に入って各部屋を覗くも母さんの姿はなく、最後に入った寝室に母さんは寝ていた。
「なんだ、姉ちゃん、まだ寝てるの?」
笑いながら近づく叔母さん。
起きない母さん。
「姉ちゃん、ねえ、姉ちゃん。どうしたの?」
爪先をトントンと叩く。
動かない。
「姉ちゃん?」
ここで叔母さんはいよいよ慌てた。
横たわる母さんの腰を揺すって、顔を覗き込む。
「寝ているみたいだった」と叔母さんは言っていた。
「本当に、ただ眠っているみたいだった」と。
頬を触ると冷たかったそうだ。
驚いたが不思議と冷静に救急車を呼び、近所に住む叔父さんたちにも電話した。
母さんの死に直面するのは二回目だと何となく感づいていたのかもしれない。
叔父さんたちは毎度のことながらすぐに飛んできた。
いつもどおり、何があってもすぐに集まるのがこの兄妹だ。
そして俺が呼び出されたのは、ここだ。
つまり最後だった。
自宅で亡くなったので警察も来て調べて、病院で死因が判明した。
心臓発作だった。
眠ったまま亡くなった。
苦しんだり痛みはなかっただろうと医者が言ってた。
俺は何をしてた?
母さんが嫌がるから「安心見守り」とか、動きが見えるポットとか、全部切ってたんだよ。
嫌がるからさ。
それに、安心し切ってた。
いや、油断してた。
「そのとき」が来る前に癌だと診断されて、そのあとには長い闘病生活が待ってると思ってたから。
母さんが死ぬのは癌だと信じ切ってた。
まさか、違う理由で死ぬなんて、誰が思うよ?
そこから葬儀があり納骨があり四十九日の法要まで終わった。
淡々とこなす俺を親戚は褒めてくれた。
金が余るほどあったけど、母さんは派手な葬儀を好まないだろうという親戚の意見に従って「静かで厳か」に見送った。
喪主の挨拶も「大したもんだ。お前のお母さんも喜んでいるぞ」なんて見たこともないおっさんに言われた。
墓も親戚の助言どおり。
俺は好みや意見なんてなかった。
急過ぎて涙ひとつ出なかった。
結局、俺は母さんの願いを叶えてやれなかった。
何ひとつ、まともじゃない。
見えない何かに嘲笑われているように感じた。
「ほら、見ろ。またお前はしくじった。欲をかいてやり直したいなんて言っておきながら何もできなかっただろう」
そう言われているように感じた。
俺は欲張ったのか?
「そうだ、みんなお前のせいだ。そのせいでお前の母親は二度も命の火が消えた。墓場で泣いてるぞ」
そんな。
でも何も言い返せなかった。
その夜、夢を見た。
赤ん坊の声がする。
威勢のいい元気な泣き声だ。
その中に母さんの声がした。
「ありがとう。お前のことだから、しょぼくれてるんだと思って見に来たんだよ。やっぱり元気ないね」
母さんだ。
「ごめん、母さん。俺、何にもできなかった」
「嬉しかったよ。延長して、お前たちと一緒にいられたしね」
「延長って?」
「ほら、一回目のあと。もう一度やり直しただろ?」
「え、わかってたのかよ。生き返った自覚あったの?」
「そんなもんないよ。全て終わってから気付いたの。お前の頑張ってるのも、それで知ったんだよ」
俺の声が聞こえないのか、母さんは一人で喋ってる。
「よく頑張ったね。お母さん、楽しかったよ。一回目は苦しかったけど二回目は何ともなかったし。
お前が落ち込むことじゃない。それを言いに来たの。お前は全部背負い込むから自分のせいとか思ってるだろうってね。
お前は何様だい。ただの、ちっぽけな人間だろ。何かを左右するような力なんて持ってないだろ。
お母さんの寿命が尽きたの。それだけのこと。くよくよするんじゃないよ。受け入れなさい」
目が覚めた。
それから「受け入れる」って言葉を呪文のように唱えている。
実家はそのままにしてある。
「形見分けして欲しい」と連絡が来れば、実家に行って、俺の前で選んで持って行ってもらった。
ほかは、そのまま残してある。
今まで通りに仕事して、帰って、自分の家庭を大事にして、休日は家族で過ごして。
今まで通りの毎日だ。
これでいいんだろう。
そう思っていた。
そしたらさ、どこからか赤ん坊の声がしたんだ。
泣いている声。
でっかい声でさ。
その瞬間、あの夢を思い出したんだ。
母さんが出てきた夢。
そういえば、あれ以来、母さんの夢を見ないなって思って、それで、頭の中でカチリと音がした。
母さんは赤ん坊になったんだ。
神様とか宗教とか信じてないけど、ああ母さんは生まれ変わったんだ、って確信した。
そうしたらさ、涙が一気に出てきてさ。
息ができなくて溺れ死ぬかと思うくらい涙が止まらなくて。
自分の不甲斐なさと、一回目の別れの悲しみと、二回目の理不尽さと、俺の家族への愛と、訳の分からない悔しさとか二回目を貰えたことの感謝とか、もうぐしゃぐしゃだ。
どのくらい泣いてたんだろう。
そのあと新しい一歩を踏み出せた。
俺には俺だけの命があって、それは確かに今も動いている。
俺の中に生まれたての俺がいつもいて、元気に泣いてるんだよ。
「生きろ」「動け」ってな。
そりゃ張り切るしかないだろ。
ご要望にお答えして、がむしゃらに生きてやるぜってな。
もう振り向かない。
やり直しも無しだ。
残りの人生、前にだけ踏み出して行くぜ。
これが「受け入れる」ってことなのかもしれない。
形は人それぞれだろう。
ただ、あのあと思うことが一つあってさ。
俺は母さんに思い残すことなく生きて欲しかった。
一度も袖を通してない服とか、飲みたくても飲めない薬とか、そういうのが嫌だったんだ。
でも、そんなの俺が介入することじゃないんだよな。
それは母さんの都合であって、俺がとやかく言うことじゃない。
遺されたものを見て、母さんが幸せじゃなかった、なんて誰が言える?
逆に、母さんが俺に幸せになって欲しいから何かを強要してくるとか嫌だし違うよな。
同じように、俺が自分の子どもに幸せになって欲しいから何かを強要するのも違うんだよ。
間違ってる。
母さんの人生は母さんのもの。
子どもの人生は子どものもの。
俺の人生は俺のもの。
踏み入っちゃいけないんだ。
俺は隣を歩くことしかできなかったんだよ。
母さんが最後に教えてくれたこと。
それが受け入れるということと、他人の人生に口出すなってこと。
それを受け取ってから肩の力が抜けてな。
がむしゃらに働くことも、機械のように家族サービスすることも、やめた。
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