親友という名の崇拝

砂原 翠

親友という名の崇拝

 親友に彼氏を盗られた。

 安っぽくて喧しい居酒屋の仕切りのない座敷の向かいで、奏と私の元彼は腕を組んだ。

「だって、潔ちゃんの気が引きたかったんだもーん」

「だって、巨乳で可愛い彼女が欲しかったんだもーん」

 二人は揃って頭の悪そうな語尾の伸ばし方をし、アルコールが回り紅潮した頬を緩めた。

 私はテーブルに上半身を乗り出し、「ガキか!」と奏の小さな耳を力一杯抓り、「死ね!」と元彼のワックスで逆立てた頭髪に拳骨を落とした。

 奏はもてる。貞操観念もゆるい。男を盗られたことも一度や二度じゃない。

「でもさ、潔ちゃんって冷たいよね」

 奏は白くて細い両手で左耳を押さえながら、大きな両目を上目遣いにして言う。

「彼氏なんて、本当はどうでも良いんじゃない?」

 長い睫が揺れ、茶色の瞳が、潤んだ唇が、挑発的に私を捉える。元彼がテーブルについた手で顎を支え、ジョッキの水滴を深爪になった指で弄んだ。

「だよな、俺もっと泣いて悲しがるかと思ってたから、ショック」

 安っぽいラブソングが大音量で流れる店内で、私は大きく溜息を吐いた。

「大切にしてやっただろうが、死ね」

 振り回した拳はひょいと交わされ、私は自棄になって梅ロックを呷る。奏が艶めかしい両腕を伸ばし、アッシュカラーのボブヘアーの毛先を傾けた。

「あー、潔ちゃんに執着されたいよー」

 私は彼女の細い鼻筋を摘まみ上げた。

「いいか、人に好かれたかったら優しくするもんだろ」

 形の良い眉を顰め、奏は間の抜けた声で言う。

「優しくするだけじゃ駄目だったから、こんなことしてるんじゃーん」

 へらりと笑う親友は、贔屓目を抜きにして美しかった。

 心、痛まないわけではない。仕方ない子、と許せてしまうほど、私が彼女に甘いだけだった。

 私はきっと、いつか奏に心揺るがない恋人を見つけ、嫌がらせでしか気を引けない幼い友人より愛してしまう。奏を裏切ってしまう、その日までは。

 この無秩序で混沌とした愛すべき友人を大切に守ってやろうと思うのだ。


「うわー、親友の彼氏寝取るとか、先輩最低っすねー」

 眉上で切り揃えた前髪に、赤縁眼鏡を掛けた生意気な後輩に、私は踵で蹴りを入れた。

「うるさい、過去問やらんぞ」

 ベッドの上から低い声で言えば、彼女は光速で態度を翻し、「わー、すいません、奏先輩ちょー美人、最高」と擦り寄ってくる。私は手を伸ばして鞄の中から過去問の入ったクリアファイルを取り出し、彼女の頭を数回はたいた。後輩はそれを受け取り、カーペットの上で胡坐をかいて言う。

「てか、その友達も頭おかしいですよね。ふつう、そんなのされたら絶交でしょー」

 私は枕の上に頭を落下させ、天井を仰いだ。眩しいLEDライトの白光に目を細めながら、口元のにやつきを押さえられなかった。

「潔ちゃん、頭のネジぶっとんでるからー」

 後輩が理解できないというように呆れた声を出す。

「もー、恋人がいれば良くないっすか。キスもセックスもピロートークもできるっしょ」

「性欲と友情を並べんな!」

 思わず叱りつければ、彼女は弾けるように笑った。

「友情を性欲で踏み躙ってるのは、奏先輩でしょー」

 男は、落とそうと思って落とせなかったことはない。顔、悪くないし、相手のこと好きって勘違いさせたら、勝手に向こうから転がり落ちてきた。

 手に入らないのは、潔ちゃんだけ。

 中学一年生の時の帰り道だった。まだ部活動も始まっていなくて、クラスメイトの顔も朧気で、酷い土砂降りの中を憂鬱な気持ちで歩いていると、用水路の脇に潔ちゃんがずぶ濡れで立っていた。紺のセーラー服がぐっしょりと黒く染まって、髪なんか海藻みたいに額や首筋にへばりついて、唇なんか真っ白になってて、だけど真っ黒の両眼だけが爛々と輝いていた。

 私はなんか変なやつ、って思って、でも同クラの子だったと思うし優しくしとくか、って差してたビニール傘を半分彼女に傾けた。

「入る?」

 声を掛けると、潔ちゃんは私のことなんか見向きもしないまま、暗いのに異様な光を湛えてる瞳をして言った。

「いらない。濡れるのが好きだから」

 はー、こいつ、頭おかしいやつじゃん。私は悟って、彼女を放置したまま逃げ出したくなったけど、気持ち悪いのになぜか目を離せなくて、血色の悪い唇が再び動くのを待った。

 潔ちゃんは傘の結界からふらふらと歩み出て、空の匂いを嗅いでふっと瞼を閉じた。

「こうしてると、頭からつま先まで雨の一部になったみたいでしょ?」

 私は、こういうのって中二病って言うんじゃなかったっけ、って思って、全然分かんないって口走って、だけどビニール傘を手から取り落とした。

 つむじから、頭皮から、襟元から、靴下から、きっと工場の煙やら排気ガスやらで汚染された雨水が侵食していく。それでもよかった。

 彼女に近付きたかった。愛よりも恋よりも、もっと。

 飲み会のあと終電がなくなって、潔ちゃんの家に泊めてもらった日、予報よりも速く台風が接近して警報が発令されたことがあった。賃貸の窓を銃撃戦みたいに大粒の雨が叩いて、街路樹の枝がビニール紐みたいに大暴れしていた。私は嵐の不穏な気配に怖いなって思っていたけれど、潔ちゃんはなんだか興奮しちゃったみたいで、窓際にぴったりと張り付いて、猫のような目で葉っぱやらスーパー袋やらが舞う外の景色を見つめていた。彼女は魅入られたように、うっとりと言った。

「甘いもの食べたい。アイス買いに行こうかな」

「はあ?」

 私は珍しく常識人みたいに声を張り上げた。

「潔ちゃん、死にたいの?」

 忠告を無視して、潔ちゃんは玄関へと向かって行く。私は呆気に取られて、でも心のどこかがぞくぞくと痺れて、快感のようなものが頭を駆け巡るのが分かった。慌てて彼女を追いかけて、傘も持たず、鍵も閉めずに、台風の中に躍り出た。

 予想通り、横殴りの風は酷くて、大雨に一瞬で濡れ鼠になって、だけど中学生に戻ったみたいで嬉しくなった。ずぶ濡れになった潔ちゃんが、全力で笑う。

「台風、好きなんだよね。全身がざわざわして、怖いのに楽しい」

 走ろうよ、と手を差し出され、一瞬の迷いもなく取る。潔ちゃん。あなたの狂気の相手に、私を選んでくれて、ありがとう。泣いちゃいそうに気持ちよかった。

息を切らして走った。潔ちゃんが欲しい。そう思った。彼女を手に入れたかった。心も、体も。狂おしいほど、全部。

 コンビニの前まで着くと、潔ちゃんは肩で息をしながら「財布忘れた」と笑った。私も「馬鹿じゃん」と笑って、額を合わせて、前髪を絡めた。ぼやけた視点でも、潔ちゃんの濡れた睫が店内の明かりできらきらと輝いているのが見えて、恋人ならこういうときキスするんだろうなって思った。

 だけど私たちは親友なので、大きく頭をぶつけ合って笑った。

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親友という名の崇拝 砂原 翠 @gmidoriiro

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