第42話 幼稚園への誘い
中学時代はあまり話をしたことはなかったけれど、選挙をきっかけに親しくなったクラスメートもいた。
香山雪恵さんである。
選挙後、彼女とよく電話で話すようになった。市長との会話やノブちゃんとの計画などを伝えたり、活動が進まないことや今の星野川市の現状に愚痴をもらしたりもした。
そんなとき、「飲みに行くか」と応じる彼女の男っぽい誘い方が心強くもあり、また受話器の向こうにある美しく整った顔立ちに、少年のような凛々しさを感じたりもした。
その後、一緒に酒を飲みに出かけたことはなかったが、幼稚園に彼女を訪ねたことが一度だけあった。
「土曜の休みに幼稚園を園児に開放していて、職員がひとり当番に就くことになっているねん。よかったら、私の担当の日に遊びに来ない? 何でも話を聞くよ」
選挙から三ヶ月が経っていた。落選で悔しい思いをさせた香山さんに、その後もきちんと活動を続けていることについて、詳しく報告したいと考えていた。
そして、あの日、素直に「美しい」と感じた女性に、もう一度会ってみたかった。
何度目かの電話でそう誘われたとき、一瞬、躊躇した。
「うん、そうやなぁ」と答えてから、数秒が過ぎた。
彼女の言葉を嬉しく感じているのに、僕自身の気持ちの中に、選挙以外の何か個人的な感情が沸き立つようだった。
この胸のざわつきの正体を探りながら、不自然な沈黙がおかしく思われないように、何秒かのあいだに次の言葉を考えた。
「やっぱり、やめとくわ」
自分でも意外な答えだった。
「幼稚園に入ると、何かさみしい感じがしそう。遠い昔の思い出の場所やから。過去の時間に戻ったみたいな、記憶の中に自分だけ置き去りにされたような…、そんな気持ちになるような気がする」
選挙に出た人間とは思えないファンタジックな言い訳に、受話器の向こうの香山さんは笑っていた。
電話を切ってから、少し後悔した。彼女の善意を無にしたような気がして、行くべきか行かざるべきか、何度も考えてみた。
二日後、もう一度、電話をかけた。
「やっぱり聞いてもらいたい話があるし、幼稚園へ行くよ」
「いいよ。私の当番は来週やけど、大丈夫?」
冷静な返事を聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。
「友達と二人なら、タイムスリップしても怖くないかもしれないし」
彼女には分かるはずもない心の奥のざわつきを、つまらない冗談でごまかした。
「ふふっ。じゃあ、来週ね」
手帳に約束の時間をメモしながら、陣太鼓のように打ち鳴らされる胸の鼓動を聞いていた。
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