第四話 私のことを
「おぉ、急に悪いな」
「あ、うん。大丈夫。上がって」
急に来た征嗣さんを、私は笑顔で受け入れた。緋菜ちゃんの変化に驚かされた今日。それを思い返しながら、インスタントコーヒーを飲んでいたところである。急に来るから焦りはしたが、良く考えれば彼が来るのなんて、いつも急なことだった。いつでもそれに合わせられるように、大概は家にいるようになってしまった私も、結局は悪化の要因だろうが。
「あ、陽。これ。ほら」
「ん、何?」
征嗣さんが差し出した小さなハリのある白い紙袋。覗いてみて、わぁ、と思わず出た声が上擦っている。どうしたの?なんて怪しみながら聞いたけれど、嬉々とした顔を見せている気はしている。それ程それは、私を喜ばせた。
「いや、学生に言われたんだよ。今どきは、バレンタインって女の子があげる物って決まりはないんですよぉってさ」
「そう、だけど……それなら奥さんに買わないと」
分かり切ったことだ。彼にとって大切なのは、私じゃない。妻であり、家族である。それなのに、心を弾ませてしまった私は、あからさまにシュンと下向きの声を出していた。
「そんな顔するな。家族は買ったさ。ほら、クッキー。でも陽は、そういう菓子よりも、こういう方が好きだろう?チョコレートよりもさ」
「……うん。有難う」
「良かった」
征嗣さんは、何だかいつもより優しい。私の頭をくしゃくしゃに撫でて、ニィッと笑った。
そこに入れられた小さな花束。私はそれを取り出して、ギュッと抱き締めた。彼が私に選んでくれたものなど、ないに等しいから。別れようと決めたのに、どうしてこんな風に優しくするの。そんな苦しい思いもあるけれど、単純に嬉しかった。
「少し、ゆっくりして行ける?私も一応、買ってはあるの。チョコレートだけれど……持ち帰れないでしょ。一緒に食べようよ」
小さなチョコレート包みが買ってある。本当に数粒しかない、ここで食べ切れるような量のものだ。征嗣さんが来た時の為に。こうやって何年も、私はこの日をこうして過ごしている。家に持ち帰れない、いや持ち帰って欲しくないから、一緒に食べられる量だけを買い待っている。彼が、あのインターホンに映るのを。
「あぁ、そうか。うん、有難う。じゃあ、一緒にコーヒー淹れるか」
「本当?」
「あぁ。お湯沸かして」
うん、と頷いた私はもう、子供のように喜んでいた。いけない。ダメだ。そう咎める気持ちはあるのに、私は、私の心は奥底から本気で喜んでいる。あぁこの人が結婚をしなければ。私たちはこうして細やかな時間を大切にして来られたのに。いつものどうにもならない思いが、直ぐに顔を出す。だから手に取った薬缶に、勢いよく水を注ぎ入れた。そんな思いを掻き消したかったのだ。別れる決心が、真っ新に消えてしまいそうになるから。
「豆は何がある?」
「今飲んでるのはね、コーヒー屋さんのブレンドなの。ほら、ちょっと前にティラミス買ったじゃない。あそこの。今のはね、エチオピアの豆がメインだって言ってたよ」
「エチオピアか」
征嗣さんが手際よく、準備をする。湯が湧いたらカップを温めて、それから少し豆を蒸らす。彼がいつもやるやり方。私はこの味で過ごしてしまったからか、彼の淹れるコーヒーが一番好きだったりする。これもお別れしなければいけないこと。彼と別れるなら、このコーヒーは飲めなくなるだろう。もしかすると、私は缶コーヒーですら、飲めなくなってしまうかも知れない。それ程に、私の中でコーヒーという飲み物は、彼を容易に想像させた。
征嗣さんがコーヒーを淹れるのを、脇でそっと見ている。穏やかな顔でコーヒー豆を見つめる彼。この顔は、関係が始まった頃と何も変わらない。
「いい香りね」
「いいかい。焦って湯を流し込んだら良くないんだよ。豆の様子を見ながら、ゆっくり湯を注す。そうしたら、美味しくなるはずだから」
「うん。そうだね。分かった」
そんなこと、言われなくたって分かってる。今でもこうして、征嗣さんは私を諭すように話す。いつまでも先生と生徒の関係が壊れないのだ。溢れる程セックスしているというのに。そう考えると背徳感よりも、何だか本当に可笑しさが勝る。
征嗣さんが淹れてくれたコーヒーは、甘くて香ばしい。同じように私も淹れているはずなのに、何かちょっと違うんだ。同じ香りがするはずなのに。テーブルの前に座った征嗣さんに、私は小さなチョコレートの包みを差し出す。四粒ほど入れられた、小さな小さな箱である。大きければ良い訳でもないけれど。隠れていなければいけない私を表しているかのような、細やかな贈り物だった。
「これはナッツかな」
「うん。だと思う」
コーヒーを一口啜ってから、征嗣さんは直ぐにチョコレートに手を伸ばす。四粒しかない。これがなくなったら、彼は直ぐ帰ってしまうのだろうか。それとも。
「美味しいよ。有難う」
「うん。良かった」
何だか素直にそう言われると、かえって私は不安になる。カップに口を付けて、上目遣いに彼をじっと見た。顔色一つ変えず、チョコレートを頬張る彼を。
「なぁ陽。この間、伊豆のこと調べてただろ?また行きたいのか」
「あぁ、それはね。そろそろお花のシーズンだし。でも、あそこは母の思い出が大きいから、まだ……行けない、かな」
「そうか……」
「あぁ……うん?」
征嗣さんはそんなことを聞いて、また少し考え込む。そして私も同じように、カップで顔を誤魔化しながら、チラチラと彼を見た。征嗣さんは、何を発する訳でもない。ただコーヒーを口に含んで、少し上を見上げる。何を考えているんだろうなぁと思うが、邪魔をしたらいけないような、そんな雰囲気を纏っていた。
「このブレンド、美味いな」
「うん、そうでしょう?偶然に出会ったけれど、気に入っちゃって。最近時々寄ってるの。学校からちょっと歩いたところだよ」
「へぇ、ど……いや、良い所見つけたな」
「ん?うん」
何かを言い掛けて、彼はそれを止めた。そういう所を一つずつ追ってしまったらキリがない。それなのに、気になって仕方ないのだ。別れないといけないのに。私は全くと言って良い程に、彼のことを嫌いになんてなれなかった。
征嗣さんは今、私のことをどう思っているのだろう。なぁなぁの関係のまま、私たちは長い時間共に歩んでしまった。愛されているだなんて思っていないけれど、でも全く何も感じていないなんて思いたくはなかった。憎しみでもいい。私に対して、何か感情を持っていて欲しい。馬鹿みたいな願いが、今も私の中に在った。
「成瀬くんとは会っているのかい」
「え?ううん、全然。先月、ほら。お食事に行ったじゃない?それきりよ」
「何だ、そうなのか。俺にこっそり会ってるのかと思ったよ。でもその顔は、嘘吐いてなさそうだ」
ホッとしているような、寂しそうな、そんな微妙な表情を作って見せた。征嗣さんが、成瀬くんを気に掛けている。彼の作戦が成功しているということか。あぁでも何だろう。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ寂しいのは。
成瀬くんと恋が出来たら、と私は確かに思っていた。彼とお日様の下で堂々と生きていけたら、幸せだろう、と。でもこうして征嗣さんに会うと、その気持ちは簡単にブレる。成瀬くんに感じる淡い甘い感情が、簡単に負けるのだ。私はきっと、今でも征嗣さんに愛されたいと思っている。愛されていると信じていた時、彼は結婚をした。それでもずっと、それが欲しかったのだ。手に入らない幸福。その寂しさを埋めるように、成瀬くんへの感情を塗りつけているだけなのかも知れない。今は。
「……征嗣さん」
「ん?」
私は静かに彼の口を塞いだ。軽いキスなど直ぐに、甘いチョコレートの味がし始める。別れなくちゃいけない。愛されたい。どうして結婚したの。別れなくちゃ……別れなくちゃ。絡み合う感情を掻き消すように、私は彼を欲した。征嗣さんと視線を絡めて、今だけは存在するはずの愛を見つけようとするのだ。頭の中では理解している、この不道徳さ。けれど、それを受け入れられない心。私は今にも、壊れてしまいそうだった。
征嗣さんの手が、服の中にスッと入り込む。そしてどこか、安堵するのだ。今、この瞬間は愛されている、と。成瀬くん、ごめん。私は緋菜ちゃんのように、固い意志が持てそうにない。強く決めた別れが、彼の表情一つで直ぐに緩む。そして自分自身も、彼と離れるのが怖くなってしまうのだ。別れないといけないのに。あの可愛らしいリュックを思い出して、ギュッと目を閉じる。薄っすらと溜まる涙に彼が気付かないように、私は征嗣さんに強く抱き付いた。ねぇ、征嗣さん。私のことを今は……
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