第二話 俺の呼ばれた意味
「おぉ、お疲れ。いやぁゴメンね、急に」
「いえ……お疲れ様です。あ、ビール一つお願いします」
俺が店に着くと、瑠衣先生はカウンターに座って、既に酒を飲み始めていた。疑りながらも、俺はその脇に座る。今のところ、何用で呼ばれたのかは分からない。仕事中も、彼女に変わった様子はなかったと思う。先に園を出て行く時も、いつもと同じだった。何か用事があったから呼び出されたのだろうが、仕事の愚痴、ではないだろうと思っている。
「とりあえず、乾杯ってことで」
「うっす、乾杯」
俺のジョッキが届くなり、彼女はそう言って自分の物を持ち上げた。カチンと小さく音を立てて合わせると、迷わずにそれを口元へ運ぶ。だいぶ減っている彼女のジョッキを横目で見て、俺もグッとそれを傾ける。バレンタインだから。なんて理由が気になっているのは、俺だけのようだ。彼女は特に変わりなく、どちらかと言えばやさぐれた顔をして、今度は枝豆を放り込む。それを何となく目で追いながら、目の前に出ていた出汁巻に手を伸ばした。
「今日ね、先生疲れてるねぇって言われちゃった」
「あぁ、女の子に?」
「そ。見てるわよねぇ、女の子は特に。敏感と言うか」
ね?と笑い掛ける表情は、どこか乾いている。何かがあった、と言うことだけは確かなようだ。もう少し飲んでから聞き出すか。いや、話がしたいから、俺が呼ばれたのか。考えを張り巡らせる。でもここは、何も気付かぬ顔をしているのが賢明だろう。俺はそう判断した。
「今日は、どうしたんですか」
「え、あぁ。そうよね。呼び出したくせに、何だって話よね」
「いや、まぁ。どうしたのかなって」
何なんだよ、とまでは思っていない。どうしたんだろうか、と思っている程度だ。目を合わせないまま、話を掘り下げもしない。ただ、彼女が話せるタイミングが来るのを待つつもりである。
「実は、別れちゃって」
「ん、あの例の彼と?」
暫くジョッキを揺らしてから、小さく溜息と共に話し始めた彼女。泣きそうな様子はない。そ、と、呆れたようなもの悲し気な顔を見せた。
例の彼とは、この間の件でギクシャクしたままだとは聞いていたが、まさか、別れる話にまで発展しているとは。大人の価値観の違い。それは、長い時間を共有するような相手だと、幾つもの綻びを発生させる。それぞれが違う価値観を持って、今まで生きて来たのだ。どちらかに合わせようとすれば、一方は窮屈になる。大人になればなるだけ、それは難しいことなのだ。
「やっぱり無理だったんだ。彼にも仕事の顔がある様に、私にだってあるじゃない?それをいつになっても認めてもらえなかった、と言うか。君はこういう人だ、って勝手に決め付けられててね。私はその範囲の中でしか生きられなかった」
今度は大きく溜息を吐いて、残った酒を流し込む。それからそれを差し出して、ビールおかわり、と叫んだ。
「何すか、それ」
「ホント段々に腹が立ってきて。だから、お前の母ちゃんになるつもりはねぇ、って啖呵切って別れた。私、今年で三十よ?時間が勿体ないじゃない」
今度はプリプリと怒る。忙しい人だ。でも彼女の言うことは尤もで、合わないと思う相手と我慢して一緒に居る必要はないのだ。
「男なんていっぱいいますから」
「でしょう?胸倉掴んで、言ってやったわよ」
「おぉ……それは、結構な迫力だったんでしょうねぇ……」
何となくその勢いが想像付いた。彼女なら、本当にやっている。そう言う、素直な人だ。勢いに負け始めた俺は、苦笑いを浮かべる。この愚痴を言いたかっただけか。たまたま今日がバレンタインだったからって、変な期待を持ったことが恥ずかしい。
「別れて良かったわよね?」
「そうですね。多分一緒に居たとしても、色々ストレスは溜まりそうな感じでしたもんね」
「うん。あぁ良かった。誰かに、それで良かったよ、って言った貰いたかったのよね。三十直前で何してんだ、なんて言われたら立ち直れないもの」
瑠衣先生は、ホッと息を吐いて、新しく届けられたジョッキに手を伸ばした。
「昌平先生はどうなの?彼女と」
「あぁ。何て言うか。避けられてるんですよね。連絡も付かなくて」
「そう、なんだ」
「はい。友人から連絡を入れて貰っても、ダメなんです。だから、どうしようかなって思ってるところですね」
緋菜のことは、今日現在、お手上げ状態のまま。俺からも、成瀬くんからも連絡しているが、反応はない。そろそろ、陽さんに相談をしようと思っているところである。ひと月も経てば、彼女の気持ちも落ち着いただろうから。
「そんなに、好きなんだね」
「うぅん、どうなんだろう。好きだとかそう言うことよりも、ちゃんと会って話がしたい。そっちの方が、今の気持ちは大きいかも知れないですね」
会いたい。緋菜と馬鹿話をして、笑いたい。それから、このひと月何をしていたのか聞いてみたい。俺の気持ちは、その後で良い。ただ、緋菜がどんな思いでいるのか。それが気になって、心配なんだ。
好きだという気持ちは、変わらない。だけれど、ここまでアイツが俺たちを拒否しているとなると、心配の方が勝るのだ。緋菜は、決して強くはない。それに素直じゃないから、こうやって誰かに愚痴を零すことすら出来ていないだろう。だから、心配なのだ。会って、アイツの笑顔を見るまでは、きっと。自分の気持ちよりも、緋菜の今が心配で、俺は連絡をし続けるのだろう。
「会いに、行っちゃえば?家、知らない?」
「うぅん、いや、知ってるんですけど」
「じゃあ、行ってみたらいいのに。彼女も強引にされた方が、会いやすいかも知れないし」
突拍子もないことを、と呆気に取られている。そんなことをしてしまったら、緋菜は完全に臍を曲げるだろう。瑠衣先生は、アイツを知らないから。緋菜は、そんなことで喜ぶような女じゃない。どちらかと言えば、最低、と捨て台詞を吐く方である。
「あんな綺麗な子、色んな人が言い寄って来るんじゃない?いいの?」
「いや、そうかも知れないけど……」
「例えば職場で元気のない彼女に、どうしたの?って若い男が声を掛けたり。あ、上司もありね。それとか……飲み屋で悲しい顔をしている彼女の隣にスッと座って、どうしたの?とか」
瑠衣先生が嗾けて来るけれど、俺はそうは思わなかった。だってそもそも、緋菜は落ち込んではいないだろう。笑いもせず、苛ついた顔のまま、店頭に立っている。それくらいは想像出来るのだ。緋菜は、どれだけ時間が経っても、俺たちに腹を立てているだろう。陽さんが事実を伝えても、認めていないのかも知れない。アイツは、そういう奴だ。
「そんなこともあるかも知れないよ?いいの?」
「いいって言うか……ただ、アイツの気持ちに反するようなことは、したくないって言うか」
「ほぉ。良いなぁ。愛されてるねぇ、あの子」
「いや、そういう訳でもないです」
悪戯な顔をして、彼女は俺を見る。良いわねぇ、と言いながら。
「ホント、羨ましい」
「いや、だからそんなんじゃないですって」
「……でも、好きなんでしょう?」
「まぁ……そう、だったんですけどね。今はちょっと、自信がないかも知れない」
言葉にして、あぁそうだったんだ、と気付く。俺は緋菜のことが好きだけれど、ここまで拒否されてしまうと、流石に色々考えるところはある。諦め、というものが見えてきているのも、薄々は自覚しているのだ。ただそれを認めたくないだけで。
「じゃあ、会いに行ってごらん。顔を見たら、その気持ちははっきりするでしょ。好きだったら、波風立てずに待つこともありだし」
「うぅん……」
「はっきりさせなさいよ。じゃないとさ……私も困る」
「んん、いやぁ……え、え?」
真っ直ぐに前を向いたまま、酒を流し込む瑠衣先生。どういう意味?と覗き込む俺と、目を合わせない。何だか遠い目をして、残った酒を飲み切った。半分ほどあったビールは、もうほとんどない。
「あのさ……これ。ほら、今日バレンタインだったから」
「あ、えっと。有難うございます」
グッと押し付けられた包み。恐らくチョコレートであろうサイズのものである。可愛らしい赤とピンクのリボンが掛けられているそれは、自分でラッピングしたように見えた。
「じゃあ、私帰るわ」
「え?あ、もう?」
「昌平先生はゆっくり飲んだら良いよ。お代置いておくから、足りない分はごめん。出してね」
そう言うと、彼女は早々と席を立った。何だか少し顔が赤く見える。勢いよく飲んだからか。じゃ、と手を上げて帰って行く彼女の足取りは、しっかりしているようだ。ホッと胸を撫で下ろしたが、包みを抱えたまま俺は呆然としている。
「何だ、あれ……」
いつもと何かが違うような瑠衣先生の背中を見送って、俺はまたジョッキに手を伸ばした。一体、何がしたかったのか。思った程、別れた彼の愚痴も言わなかった。あれでスッキリしたのだろうか。
ふと、包みに目をやった。掛けられたリボンの隙間に、小さなカードが刺さっている。バッグの中に包みを押し込みながら、それを引き抜いた。家に帰ってから見ればいいのだが、自宅で仕事のことを考えたくない。休みになれば直ぐに、緋菜のことで頭が一杯になるから。
「はぁ……何すかねぇ」
親父臭く零しながら、それを開いた。シンプルな真っ白いカードを。
そして俺は、ここに呼ばれた意味をようやく知った。周りに見られないように、雑にバッグに突っ込むと、俺は残ったビールを流し込む。ヤバい。心臓の音が煩い。落ち着け、と自分に言い聞かせる。カードに書かれていた言葉は、彼女の本気だろうか。『好きです』とだけ書かれていた、それは。
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