第一話 私たちの初めてのデート(上)

「変じゃないよな……」


 銀の鈴の真横を陣取り、ガラスに映る自分を何度もチラチラと見た。ベンチの方だとか、そう言った細かいことを言わなかったので、ここに居れば間違いないだろう。今は十時四十五分。待ち合わせまで、あと十五分。私の予想では、彼もそろそろ来るだろう。あの子はきっと、遅刻はしない。少しだけ口元の緩む感じに慌てて、ギュッと強く目を閉じた。これからのことで、こんなに私の胸はドキドキしているのに。そうして直ぐに思い浮かんだのは、結局、征嗣さんだった。


 あの夜彼は、拍子抜けするほどに優しかった。成瀬くんとのことで苛立っているのかと思っていたが、その気配すら見受けられなかったのである。私を抱いて、直ぐに帰ったというのは、いつもと同じ。だけれど、上手く言葉に出来ない不鮮明な感情が、今も私の心に残っている。

 彼は確かに、あの夜も傷跡を舐めるように噛んだ。それでも私は、幸せだったのだ。昔を思わせるような、甘い時間。一瞬、このままで良い、と思ってしまったくらい。お金がなくても幸せだった二人のあの頃に、戻れるのではないか。そう幻覚を覚えていた。温かな家へ帰って行く彼の背を見るまで、私はぼんやりと夢見たのだ。ハッと我に返ったのは、独りになってから。徐々に徐々に夢から覚め、これは罠なのか、と血の気が引いた。そして同時に、自分に失望したのである。あんなに決意を固めたはずなのに、彼の優しい態度で簡単に揺らいでしまう。征嗣さんと居た時間が当たり前のようにあって、抜け出すことは容易ではない。こうした日々をまだ、これからも過ごさねばならないのだろう。少しずつ、少しずつ。彼が私の中から、小さくなっていく日まで。


「お待たせ……しました?」


 さっきまで緩んでいたはずの顔は、薄暗い物に変わっていた。ガラスに映った自分を見て、何とか表情を持ち上げる。不思議そうに私を見る成瀬くんに、こんにちは、と微笑み掛けた。


「あ……えっと。お忙しいところ、お時間いただいてすみません」

「あぁ、いえいえ。私の方こそ、お返事するのに遅くなってしまって、本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、そんなことは」


 どぎまぎした二人が、適度な距離を保って、堅苦しい挨拶を交わす。照れ笑いを浮かべた二人が、定番の待ち合わせ場所でそうしているのだ。誰が見ても、恋が始まったばかりだと感じるような光景である。初々し過ぎて、私にはむず痒い。ただ、どのように対応をしたら良いのか、二人共手探りなだけなのに。


「あ。成瀬さん、何だか今日は可愛らしいですね」

「可愛らしい、ですか。それは、どうだろう。喜んでいいのかな」

「どうぞ」

「有難うございます」

「あ……有難うございます」


 視線を落とした私の目に飛び込んできた物は、彼の足元でチラッと見える靴下。あれは、私がクリスマスにあげた物だ。それを見せる為のコーディネートとでも言わんばかりに、濃紺で纏められた服の中で、その派手な色が映える。お家で履く用、と考えていたそれは、可愛らしいボーダーのソックス。それをきちっと着こなすのだから、やっぱり若いな、と感じざるを得ない。

 それに比べて、私は結局いつもと同じだ。あまり派手過ぎず、カジュアル過ぎない。そんなことを考えていたら、部屋に沢山のコーディネートが並んでいた。その中から着て来たのは、ベージュのローゲージニットとブルーのチェックスカート。行くお店も分からないから、スニーカーは止めてブーティを履いた。隣に並んでも、大丈夫かしら。それ程ない年の差なのに、何だか急にそれを感じてしまう。


「可愛らしい靴下ですね」

「そうなんですよ、頂き物なんですけどね。折角なので、ちょっと見えるようにしてみました。センスの良い方なんですよね。くださった方が」

「へぇぇ」


 どぎまぎしながら歩き始めた私たちは、薄っすらと気が付き始めている。余所余所しくそう言い合ったのは、互いに今日の距離感が定まった証。こうなればただ、今日という日を他人行儀に楽しめばいいのだ、と。


「どうしてもこれを履きたくて、ありったけの服を広げたんですよね。今、大変なことになってます。僕の部屋」

「あ……」

「えっ?」

「あぁ、いや。それが、私も……」


 恥ずかしさを隠しながら、へへ、と頭を掻いた。僕たち似てるのかな、なんて彼が言うから、胸がドキッと音を立てた。


「ひ、小川さん。お昼は、イタリアンにしてみました。ちょっと無難に置きに行ってますけど……すみません」

「いえ、お気になさらず。色々探していただいて、有難いです」


 いつものように名前を読んでしまいそうになると、成瀬くんはぎこちない笑顔で誤魔化す。私の方が、その不自然な表情に噴き出してしまう所だった。お仕事はお忙しいですか、なんてわざとらしく問うて、何とかそれを紛らわせる。探るようなぎこちない会話。少し不自然に泳ぐ目。そんな私と成瀬くんのは、こうして始まりを迎えた。

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