第三話 僕らは保護者

 終業時刻を過ぎた金曜の夜。今日もあの店に行く気分になれずにいた。楽しそうに帰り支度をする同僚を見送るところに鳴った電話は、暫く僕を避けていた陽さんからだった。

 僕はちょっと冷たい声で出てしまったと思う。勝手に心配して、勝手に怒っただけなのに。けれど用件は僕への謝罪ではなかった。昌平くんが職場に来た、というイレギュラーな報告だったのだ。その流れに沿って、明日の予定を取り付けた。彼女は警戒しているだろうが、僕が何だか安心したのは確かだ。

 今彼女は昌平くんの話を聞いている。そうなったら、僕は緋菜ちゃんの話を聞いた方が良いだろう。そうして久しぶりにやって来た店で、緋菜ちゃんは一人、美味しそうにイカフライを食べていた。


「緋菜ちゃん。こんばんは」

「成瀬くん。あ、どうぞ」

「有難う」


 金曜の夜の酒は美味い。ハイボールを頼んで、一先ず向かいの席に座った。ちょっと合わないうちに化粧が変わったのか、今日がたまたまか。何だか目元が少し柔らかくなったような気がする。


「緋菜ちゃん今日印象違うね。お休みだった?」

「うん。あれ、昌平から聞いてない?猫カフェ行ったんだよ。猫の写真送られてるでしょう?」

「え、本当?」


 慌てて携帯を確認する、フリをする。さっき陽さんから連絡が着て、昌平くんからメッセージが着ていたことには気付いた。ただ、向こうの件があるから、とまだ返していない。当たり障りなく、『可愛い猫だね』と返信。それに紛れて、陽さんには『こっちはヒナちゃんと合流したよ』と送っておく。さぁ、僕はどうするか。


「そんなことより、成瀬くん大丈夫だった?」

「へ、僕?大丈夫って何?」


 届いたハイボールに口を付けようとした僕に、真剣な顔で緋菜ちゃんはそんなことを言う。何か困ったことはあったか。陽さんのことはあったけれど、緋菜ちゃんが知るわけがない。だとすると、何だ?


「この間会った時、何だか難しい顔してたから。それに直ぐ帰っちゃったし」

「あ、あぁ。あの時か。ごめん、そうだ。僕も緋菜ちゃんに謝らないとと思ってたんだった。ごめんね」

「いや、私は良いんだけど。大丈夫なの?」

「あれはね。仕事でさ、全くジャンル外の専門書を読んでおかないといけなくなって、余裕がなかったんだよ。難しい……いや、分かりにくい本でさ。回りくどいって言うか」


 素直に難しいで良かったのに。穏やかな顔をした教授と隣でポツンと佇んだ無表情の陽さん。その情景が浮かんだら、ちょっと嫌味を言いたくなった。

 彼女はあれから、僕を避けるようになった。仕事が忙しくて、と何度も断られていた。それがどういう答えを示しているのか、彼女が気付いているかは分からない。僕の中で、疑念が確信へと変わり始めていることだけは、確かだ。そんな中でも、陽さんは今日僕を頼ってくれた。そう言う意味では、昌平くんの突拍子もない行動に感謝しなければいけないな。


「何だぁ。良かった。もう心配したんだよ」


 緋菜ちゃんは膨れながらも、あからさまに安堵を見せる。そこまで心配かけていたとは思いもしなかった僕は、申し訳なくなってしまった。


「昌平にさ、聞いたの。知らない?って」

「僕のことを?」

「そう。昌平の方が仲良いでしょ。だから何回も聞いたんだけどさ」

「何回も聞いたの?流石に昌平くんは知らないよ。仕事のことだもん。僕も保育園のことなんて、何も知らないからね」

「だよねぇ。昌平に悪いことしちゃったかなぁ」


 緋菜ちゃんにしては珍しく、シュンと項垂れた。小さく息を吐く音が聞こえる。皿に残ったイカフライの欠片を、箸で弄りながら「謝った方が良いかな」と彼女は呟いた。彼が陽さんを訪ねたのは、きっとこれが原因だろう。昌平くんの気持ちになれば、僕だって面白くない。


「昌平くんは?」

「分かんない。用事思い出したって帰っちゃったんだ」

「じゃあ、連絡してみたら?間が空く方が、何だか嫌じゃない?僕も謝らないといけないかなぁ。そんなことでデートの邪魔しちゃったならさ」

「成瀬くん、デートじゃない。デートじゃ」


 呆れた目で彼女はレモンサワーを煽ってから、ちょっと口をへの字に曲げる。さっき項垂れてたことなんて、まるでなかったかのような素振りだ。


「よし、連絡するか。あ、陽さんにももう一回聞いてみよう。さっきね、仕事が終わらないって断られちゃったんだけど、成瀬くんもいるよって言えば来るかもしれないもんね」


 緋菜ちゃんは何だか嬉しそうだ。僕がいる、ということが、そこまでプレミアの付く話ではない気もしたが、ただニコニコと見守った。同じように僕は、陽さんへ連絡を入れる。『緋菜ちゃん、陽さんも昌平くんも、今呼びたいみたい。多分連絡行く』 と。向こうは大丈夫だろうか。


「筆ペン?」


 来るかなぁ、と言う彼女。その手元に居酒屋には似合わない、筆ペンが置かれている。さっきまでは皿の陰で見えなかったのだろう。


「あぁ。さっきここに来る前に買って来たの。新商品らしくて。試してみようかなって」

「へぇ。ヒナちゃん、こういうの好きなの?」

「好きって言うか、仕事で使うから。掛紙書いたりするのに、自分で書きやすいやつの方がいいじゃん?」


 それからまた、彼女はイカフライに手を伸ばした。

 サラリと彼女が言った言葉が、僕の中で踊る。カケガミ?掛紙?贈り物の上に掛ける紙ってこと?祝いだとか仏事だとか、色々な掛紙が僕の頭に並んだ。


「えっと、ヒナちゃんは何の仕事してるの?」

「あれ?成瀬くんも知らなかったんだっけ?仏具屋の店員です」

「えぇ、知らなかったぁ。そっか。なるほどね。やっぱり筆ペンも色々違うの?」

「違うよ。払いやすいのもあるし、インクの伸びが悪いのもあってね」


 そう言いながら、彼女は紙袋にサラッと『御霊前』と書いた。え?と、つい出てしまったくらい、それはとても綺麗な文字だった。


「ヒナちゃん、凄い字が上手なんだね。ちょっと驚いた」

「そう?気にしたことなかったけど。へへ。何か嬉しい」

「そうなるとボールペンなんかもこだわる方?」

「あぁそれはないな。書ければいい。筆ペンだけはね、お客様が贈り物として差し出すわけだから、ちゃんとしたのを書きたいって思うけれど。ボールペンは自分のメモでしか使わないから」


 文房具が好きなのでは、と一瞬嬉しくなったが、ちょっと違うようだ。僕の会社では、筆ペンは作っていない。


「そう言えば私、成瀬くんの下の名前知らないんだけど。何て言うの?」

「アヤトだよ。文章の文に、人。それでアヤト」

「へぇ。文人くんか。……でも成瀬くんの方が良い易いね」


 ヒナちゃんは笑いながら、僕の名前を丁寧に書いて見せた。きちんとした楷書と言うか、整った文字である。それから、昌平、陽、と続けて書いて、『緋菜』と書いた。


「ヒナちゃんって、それで緋菜って言うの?緋色の緋」

「そう。緋色の緋。緋色知ってるんだ。いつもね、緋色が伝わらなくて。糸へんに非常の非って書く緋と、菜の花の菜って説明しちゃう」

「確かに、分かりにくいかもね。でも、何か情熱的な感じ。緋色って聞くと」

「そうかなぁ。ヒイロって響きが冷たそうじゃない?」

「冷たそう?どうだろう。僕は綺麗な茜色だなって思うけど。緋菜ちゃんにぴったりだよ」

「あ、有難う……」


 緋色、か。彼女が緋色なら、陽さんは藍白。最も淡く薄い藍色。昌平くんは、萌葱かな。彼は緑系がよく似合うイメージだ。僕は何色だろう。

 仕事柄、インク色を研究したことがあって、特に気に入ったのが日本の伝統色だった。ビビットな色とは違い、生活の何処にでも馴染めるような色。一時、そればかりインテリアに揃えようとして、嫌がられたこともあったな。そんなことを思い出せば、苦笑いしか浮かばない。


「あ、陽さん今から来るって。お仕事終わったみたい」

「良かったね」

「うん」


 何だか子供のように、彼女は大きく頷いた。僕の元へも、彼女からメッセージが届く。『上手くまとまったから、今から行くね』と。


「ねぇねぇ。大学って良く分かんないけど、大変なのかなぁ」

「陽さんの仕事ってこと?まぁ学生の頃はさ、何か楽そうだな、なんて思ってたけど。社会人になって見てみるとさ。結構大変なのかもって思うよ。学生も多いしね」

「成瀬くんはさ、陽さんの仕事知ってたの?」

「ん、そうだね。初めて会った時に、社会人的なご挨拶をしたから」

「あぁ、そうだったんだ」


 ちょっとだけ嘘を吐いた。あの時僕は、彼女の職場を聞いてはいない。学校の先生だと思っていたくらいだ。本当に知ったのは、小山田教授のところへ行った時。でもそのことまで、緋菜ちゃんに話す必要はないだろう。

 昌平くんからの連絡は未だだが、陽さんが来ることになって緋菜ちゃんは嬉しそうだった。この様子なら、昌平くんからも連絡が入れば、また喜ぶだろう。これは、そんなに手こずらずに、上手くいくのではないか。僕らは最早、保護者みたいなものだ。彼らが逸れて行かないように、そっと軌道修正をする位が僕と陽さんの役目。

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