第二話 私に出来ること(上)

 十二月六日、金曜日。年末のイベントに向けて浮かれながら、定時で上がった同僚を見送ると、私はデスクの上に置いてある携帯電話にそっと触れる。征嗣さんから連絡は着ていない。その代わり、緋菜ちゃんからメッセージが着ていた。チラッと見た限りでは、可愛らしい猫の写真。今日は昌平くんと二人で出掛けているはず。その時の物だろう。仕事を終えたら、連絡を入れよう。楽しくしてればいいけれど。


「すみません……」


 カウンターの向こうから、何だか小さな声が聞こえた。生憎カウンター寄りに座っている子たちが出払っていたので、「はい、ちょっと待ってくださいね」と一先ず声を掛けた。私も三十五歳。まだそこまでおばさんだと自負していないけれど、立ち上がるのに「よいしょ」と言ってしまうのは致し方ない。誰にも気付かれないように伸びをしてから、カウンターに立った。


「すみません、お待たせしました」


 えぇと、と眼鏡を持ち上げて顔を見上げる。身長一六〇センチ。きっとそこまで低くはないだろうが、やはり男の子は大きい。


「え……えぇと」


 明らかに私の前に居る男は、学生ではない。彼は今日、猫カフェに行っていたはずの男――深見昌平。その彼が、何故ここに居るのか。私は目を見開いて彼を見たが、申し訳なさそうにシュンとしているだけだった。


「どう、されました……か?」

「仕事中にすみません。あの……」


 何かを言い始めた彼に、シッと人差し指を立てた。キョロキョロと辺りを見渡したが、幸にしてウチの部署には人がいない。課長がチラリとこちらを見たが、何か言ってくる様子もない。そもそも、大学、という特性だろうか。部外者が居ても、好奇の目で見られにくい。私はそれを逆手に、そのまま堂々とカウンター業務として彼に向かい合うことにした。


「あぁこれですね。今週末の」

「あ……えっと、はい」

「これはね、えぇと」


 適当なチラシを手に取って、私は昌平くんに説明を始める。それからお気に入りのボールペンをジャケットから取り、近くの喫茶店の名前を書いた。


「この用紙を持って行って大丈夫なので、遅刻しないようにね」

「有難うございます」


 昌平くんも察したのだろう。セミナー、と書かれた紙をじっと見ながら、大きく頷いた。


「出来るだけ早く行くから、ごめんね。ちょっと待ってて」


 私の囁きに、彼は「分かりました」と答える。それから、その紙をポケットにしまって、頭を下げて去って行った。その背を見送りながら、ふぅ、と大きく息を吐く。彼はギリギリ学生に見えたろうか。課長は自分の仕事をしているようだし、とりあえず一安心だ。

 それにしても、昌平くんが来るなんて。緋菜ちゃんと何かあったのだろうか。


「小川さん、お友達だった?」

「え、いや学生ですよ。週末のセミナー、申し込みしたけれど、時間忘れたとかで。良くありますよね」

「そうだねぇ。就職の時期なら、メモ書きもしておいた方が良いと思うんだけどねぇ。若い子は写真で記録取るだけだったりするじゃない?」

「確かに。大事なことは二重三重にしておいても良いと思いますよね」


 課長は、何かを察したか、と緊張が走った。どう胸に留めたか分からないが、一先ずこの場は収まった感じだ。笑ってやり過ごして、胸をホッと撫で下ろす。変な様子を見せて、噂になって、征嗣さんに知れてしまったらいけない。まぁ、あの人はこっちの方の様子まで、気にも掛けないだろうが。

 急いで仕事を終わらせるために、速度を上げてタイピングし始めた。それにしても、昌平くんが私を頼って来るなんて。キーボードの脇に置いた携帯をちゃんと確認する。猫の写真しか見えていなかったけれど、緋菜ちゃんなら絶対何か言って来るだろうから。


『陽さん、今晩暇ですか?』

『暇だったら、ご飯食べませんか。何か昌平が帰っちゃって』


 ほら、着てた。昌平くんが帰ったからと、私を代打で呼ぶ。こういう所が、彼女の何だかなぁ、と思う所である。仮にそうだとしても、言い方というものがあるだろうと思うのだが、それは若い子には通じないのだろうか。私はこれからどうするかと策を練りながら、必死にパソコンを打った。急いでやるほどの物はないが、来週の自分が困らないように。


「課長、今日はお先に失礼しますね」

「おぉ、珍しいな」

「そうです?金曜ですから、私にも予定がありますよ」

「そっか。そうだな。お疲れ」

「お疲れ様でした」


 珍しいな、と言われたことは引っ掛かった。私だって皆のように、早く帰ることだってあるのだ。いつも帰るのが最後なわけじゃない。一人でプリプリしながら、足を速める。あぁその前に、緋菜ちゃんに連絡を入れておかねば。


『ごめんなさい。今日はまだ仕事が終わらないの。また今度でいいかな』


 そう嘘を返した。正直に言えるわけがないからだ。昌平くんの話が、どれくらいかかるか分からない。今はこう返すしかないのだ。多分緋菜ちゃんは、昌平くんが帰ってしまったことの愚痴が言いたいはず。それは夜、電話でもいいから聞いてあげよう。


「成瀬くん……」


 彼らのこととなれば、成瀬くんにも話をしておくべきだろう。信号を待ちながら、彼の最後に見た顔を思い出していた。

 征嗣さんの隣に並んで、学内に来ていた彼を見送った時のことだ。何だか微妙な顔つきで、私たちを見ていた。そうして『今夜会えますか』とメッセージが着たのだが、私はそれを適当にやり過ごしている。何となく、そう言われる理由が見えているからだ。それから何度か連絡はあったものの、仕事が忙しい、とか理由を付けて、一度も会っていない。

 でも今日は仕方ない。直接頼られるとは思っていなかった人が、私の元に来た。つまり、緊急事態なのだ。どうしよう、と思う心を共有出来るのは、成瀬くんしかいない。意を決して、私は発信ボタンをタップした。


「はい。成瀬です」


 数コールで成瀬くんが出る。いつもの優しい声だったけれど、ちょっと事務的な仕事の声だ。


「すみません、小川です。お仕事中ですか」

「そうですね。もう少ししたら終わるかと思うんですが……どうしました?」


 職場にいるうちは、彼は余計なことを言わないはずだ。そこに安堵した私は、事情を手短に話した。彼らが今日出掛けていたこと。急に昌平くんが来たこと。緋菜ちゃんからも連絡が着ていること。彼は席を立ったのだろう。途中から後ろの声が静かになった。


「それは緊急事態ですね。昌平くんは?」

「今、近くの喫茶店で待ってもらってるの」

「急に来たのかぁ。余程のことがあったのかな。でもよく職場分かったね。僕は言ってないから、緋菜ちゃんかな」

「確かに。そうかも知れないですね」


 彼は急かしたりしない。一つ一つ一緒に考えてくれようとした。


「きっと緋菜ちゃんのことだよね」

「多分……でも、私一人でどうしようって思っちゃって。すみません、まだお仕事中なのに」

「いや、僕は良いんだ。どうしようね。とりあえずは聞くしかないんじゃない?」


 ですよね、と返しながら、それしか答えがないことにようやく気が付く。成瀬くんに相談をしたところで、現状は何も変わらない。


「陽さん、大丈夫?不安だよね。行ってあげたいけど、僕が行くと昌平くんが嫌かも知れないから」


 優しい声が私に寄り添う。彼のような人は、幸せな家庭を築くのだろう。フッとそんなことを思った。


「大丈夫。ごめんなさい。成瀬くんに話したら、ちょっと安心した」

「なら良かった。でも今日の話、後で作戦会議しないとね。明日はお休み?」

「うん。お休み」

「じゃあ、明日この間の広場のところでどう?昼前に」

「あぁ、うん。分かっ……た」


 しまった。流れに乗って、そう返答してしまってから、ガクリと項垂れた。彼らと仲良くしている以上、成瀬くんに二度と会わないわけにはいかない。それに、昌平くんの話を聞けば、私一人でどうこう出来なくなるのは目に見えている。仕方がないんだ、と自分に言い聞かせた。


「よし、じゃあ頑張れ。本当に困ったらヘルプしてね」

「うん。有難う。では、行ってきます」

「あ、陽さん」

「はい?」

「有難うね、連絡くれて」

「ううん、私こそ頼っちゃって、ごめんなさい。じゃあ明日」


 彼との会話は何だか、少し砕けた感じになって来ていた。別に友人なのだから、それで良いのだけれど。

 店の前に立って、大きく深呼吸をする。それから重たい扉を開けると、薄暗い店内の一番奥の赤いソファに昌平くんが座っていた。


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