第四話 私はズルい(上)
成瀬くんは、おやすみなさい、と言って去って行った。何とも爽やかな青年だな、と感心してしまう。今日も送って貰って、申し訳なかったな。いつも仕事帰りなんてこんなものなのに、気を遣わせてしまった。
「はぁ。あ、急がなきゃ」
今日はもう何もないはずだったのに。さっき鳴ったメッセージを思い出すと、これからどうしたらいいのか、と脳がフル稼働を始める。もう夜も遅いし、出来れば誰にも会いたくない。動物園も歩き疲れたし。何ならお酒も入ってる。言い訳を頭の中に沢山並べた。だけれど、どれ一つとして、私はあの人に伝えることが出来ないだろう。だってその言い訳の脇で、あの人に会う為の準備を計算しているのだから。
「電話、しておこうかな」
こういい始めた私は、もう既に機嫌が良くなっている。口角が上がるのを感じるのだ。内心では、嫌悪感を抱えながら。
立ち止まって、携帯を手にする。電話を入れる前に、ちょっとだけ深呼吸。これは『今日も上手くいきますように』って、お祈りみたいなものだと思う。
「ん、ん?えぇっ」
呼吸を整え、立ち上げた画面。その私の目に飛び込んできたのは、緋菜ちゃんからのメッセージ。しかも、予定の確認などではなく、単なる連絡事項。だけれども、完全に私は混乱していた。
『言い忘れちゃったけどね、今度、昌平と猫カフェに行くことにしたの。黙っておくのも変だから、お知らせでした』
そう書かれている。
これは一体、何があったのだ。わぁそうなんだ、とでも返せば良いのか。いや、もう少し突っ込んでみた方が良いのか。あぁ、もう。ここまで首を突っ込むつもりはなかったのに。
「ううう……もう」
私は、踵を返した。成瀬くん、まだ遠くに行ってないかしら。慌てて彼の連絡先を表示し、発信をタップする。
ここまで絡んでしまったら、もう昌平くんの恋の行方が決まるまでは見届けるべきだろうか。悩んでいる。緋菜ちゃんと二人で会うことに抵抗はないのだけれど。四人で仲良しこよし、というのは、色んな意味で苦しいのだ。
「あ、ごめんなさい。まだ近くに居ますか?」
「ええと、そうですね。どうしたんですか」
彼は、直ぐに出た。歩いていたら気付かないかも、と思ったけれど。
「ちょっと緊急事態で。今そっちに向かってるので、そのまま待ってもらっても良いですか」
「え、はい。何か一大事そうですね。大丈夫ですよ。別れたところまで戻りましょうか」
「いえ大丈夫です。もう向かっているので、待ってていただけると」
「分かりました。でも、慌てないでね」
何だかちょっと優しさを上乗せしたような言い方で、彼は電話を切る。少しだけキュンとするような、可愛らしい優しさ。久しぶりにそんなものを感じたな。そのホッコリした胸のままに、私はあの人へ連絡を入れる。こういうことは、勢いが大事だ。考え始めてしまったら、きっと私の足は直ぐに止まってしまう。
『ごめんなさい』
『今日は友人とまだ一緒で、遅くなりそうなの』
強ち嘘ではない。大丈夫。そう呪文を唱えながら、私はサッと送信をして、携帯をしまった。返事を見てしまったら、気が変わってしまうから。何も気にしないように、成瀬くんの元へ急いだ。
そんなに遠くまで行っていないだろうと思っていたが、なかなか彼は見当たらない。一本道だ。間違えるはずもない。通りを道なりに少しだけ走って、五分ほど。少し開けた広場で、彼はポツンと木の周りのベンチに腰掛けていた。
「陽さん、走らなくても大丈夫ですよ」
「あぁ、ごめんなさい。思ってた辺りに居なくて、探しちゃった」
「それは、ごめんなさい。何もない所に突っ立てたら、ほら、不審者になっちゃうから。僕もそろそろおじさんなので」
恥ずかしそうに頭を掻く成瀬くん。彼のような爽やかな子でも、そう判断されてしまうのか。そうか。それは気が付かなかった。
「それで、どうしたんですか」
「あっ、そうだ。いや、これ……」
携帯を慌てて取り出す。新着のメッセージを横目で確認しながら、緋菜ちゃんのそれを表示させる。彼がそれに驚いている間に、私は一度呼吸を整えた。走ったからじゃない。今、あの人を無視したからだ。
「いや……流石に急展開で驚きですね。昌平くんが誘ったのかなぁ」
「どうだろう。何て返したらいいのか慌てちゃって、つい成瀬くんに連絡してしまいました」
そうなんだ、とでも返せば良かった。良いなぁ、とか、一緒に行きたい、とか。昌平くんが楽しみにしているであろう時間を壊さなければ、返事なんて何でも良かったんだ。そう、分かっている。私は、緋菜ちゃんのことが相談したかったんじゃない。ただ、あの人から逃げたかったのだ。
「相談して貰えて、僕は嬉しいですよ。作戦会議が早まっただけです。だから、そんな顔しないで」
「え、あぁ。いや……」
どんな顔をしていた?泣きそうだった?自分の都合だけを押し付けて、他人を利用する。私はズルい女だ。
「さて、どうしましょうね。まずは、聞いてみません?緋菜ちゃんが誘ったのか、昌平くんから誘われたのかって」
「そう、そうよね。結構、そこ大事よね」
「陽さん、そんなに慌てなくたっていいのに」
彼は私を見て、ニッコリ笑う。これはきっと、私を落ち着かせるための笑顔だ。微笑み返す余裕はない。だから「そうね」と同調して、画面を見つめて誤魔化す。私は、ズルい。
『猫カフェかぁ。楽しそう。でも急にどうしたの?』
そう打って、成瀬くんに見せる。彼も『今は恋愛はいい』と言っていたけれど、私よりは現役だろう。自分の恋愛でなくて、他人の恋愛。それを応援することが、こんなにも難しいとは思いもしなかった。
「人の恋の背中を押すって難しいですね。私、恋愛なんて久々に触れてるから、凄い下手で。もう少し上手くやらないとバレますよね」
「それはお互い様ですよ。僕だって、同じような物です。二人で相談しながらやったら、何とかなりますって」
「知恵袋の出し合いみたいな感じね」
言い方が完全に、長老の話である。彼を一緒くたにしてしまって、申し訳ない。
「急に老けた感じしますね、その言い方」
「だよね。言ってから、私も思った」
何となく私たちは並んで座って、目を合わせた。すると、どちらからともなく笑い声が漏れ、腹を抱える。あぁ、何だか。こうして笑い合うなんて、久しぶり。ケラケラと声を上げて、自然と頬が上がった。
「お、返って来た。ちょっと待って」
「うんうん。どっちだろうなぁ。昌平くんが誘ったんだろうなぁ」
答えを想像し始めた成瀬くんは、既に答えを出している。昌平くん。クッキーも作って、デートに誘って。今日は随分頑張ったろうな。なんて考えていると、緋菜ちゃんから続けてメッセージが届く。
『何でだったけな』
『何か飼ってる?って話になって、昌平が実家で猫飼ってるって言って』
『あぁ、それでだ。猫と戯れたくなって。猫カフェ行こうって誘ったの』
『やっぱり陽さんも行きたかった?』
緋菜ちゃんからのメッセージは、私たちの想像とは違った。つまりは彼女が誘ったと言うこと。それが事実のようだ。
「なんですって?」
「緋菜ちゃんが誘ったみたい。ほら」
携帯を差し出して、うぅん、と唸る。と言うことは、純粋に二人で楽しめればいい話だ。私たちがしゃしゃり出ることでもない。楽しんでね、の一択。それを確認し合うと、私は携帯にそう打ち込む。
『惹かれるところはあるけど、予定合わせるのとか考えたら、ね』
『写真撮ったら、後で見せて。楽しんで来てね』
やっぱり四人で行こう、と思わせてしまったら、昌平くんに申し訳が立たない。ふわりと返信をしたつもりである。
「猫カフェって、成瀬くん行ったことある?」
「ないですね。今って色んな動物のカフェってありますよね」
「そうなの?猫とフクロウくらいしか知らない」
「ウサギとかフェレットとかもあったと思う。僕も行ったことはないんですけどね。行ったら、飼いたくなっちゃいそうで」
「あぁ……それは困るね」
二人で苦笑いした。互いに婚礼期を過ぎた独身である。ここにペットを飼ってしまったら、もう引き籠ってしまいそうだ。
もしかしたら、それでもいいのかも知れない。私はズルい女。幸せになどなれないのだから、ペットを飼って、一人愛でるのもいい。暗い方向にこっそり浸り始めると、また携帯が鳴った。
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