第36話 赤い糸
下手をしたら女優ですらも尻尾を巻いて逃げ出しかねないほどの超絶な美貌を持ち合わせた、見た目が20代前半のその看護婦は、サンタが(というよりかは
「
看護師は、有能で超絶的な美貌を備えていたが、マイペースで場の空気を読まないところが玉に瑕だった。
看護士の舐めまわすような憎たらしい視線に、
そしてふたりは、互いに頭から蒸気を沸かしそうなほど赤面しつつも、一向に互いに顔を逸らせて視線を合わせようとしない。
「あらあら、いいのよ、別に。私のことなんか気にしないで、どうぞ続けてちょうだいな」
そう言われて続けられるのは、せいぜい役者くらいだろう。
看護婦も、両手で目を覆っていたが、覆った両手は左右共に指が紅葉のようになっている。
「それにしても、……大きくなったわね、
しばらくして、看護師は一連のおどけた様子を取り払い、
「え? 俺のことを知っているんですか。もしかして、6年前にお世話になってたとか?」
「違う違う。たしかにその頃にはもうここで働いていたけど、私が言いたかったのは、
含みのある看護師の言葉から、
「あの頃はまだあどけなかったけど、今じゃいっぱしの男の子、って感じね。こんな可愛い彼女まで作っちゃって。このこの!」
看護婦は肘で小突いてくる。地味に、そして猛烈に痛かった。
「そんな、
「え、違うの? あんなふうに、熱烈に抱き合ってたのに? へぇー、ほぉー、ふぅーん……それじゃあ、えい」
血迷ったのか、看護婦は傷だらけの
さっきの小突きの何倍もの苦痛が全身を駆け巡るが、美人に抱き着かれたことに対する緊張と興奮がそれを圧倒的に凌駕していた。収まった顔の赤みが先ほど以上に強くなっている。
至近距離になると、色気のない看護服によって封印の如く包み隠されていたこの看護婦の脅威の魔性的魅力が、顕著になった。
艶やかな首筋に目が奪われる。気づけば、快楽的ないい匂いが鼻腔をくすぐっていた。頭の芯までとろけそうな……これが女性のフェロモンというやつだろうか──と、そんなふうに看護婦が異性であることを少しでも意識してしまったが最後、続けざま、自分の右腕に押し付けられているふたつの弾力の、その破壊力の凄まじさに意識が嫌でも向かった。
体の奥で何かが疼いている。男としての本能が、けしてこの場にそぐわない衝動を掻き立てようと、必死になって目を覚まそうとしているようだ。理性で丸め込もうとしても、この状況が続いている限り、やはりそれは無理というものだろう。
このままでは、さすがにまずい。
「ちょっと、離れて、ください、よ」
予想に反して、看護婦はさっと身を引いた。解放されたことで、
「……ちょっと
その声に
ゆっくりと
「アハハ、ごめんごめん。でもさ、
「だ、だから、
「またそんなこと言う。そんなんだと、もう
げ、と
「んもう、なによ。
「いや、嫌っていうわけじゃないんですけど……」
そこで、背中が黒い殺気を感じ取り、肝を冷やす。初対面で嫌です、やめてくださいと断言するわけにもいかないだろうことを、どうか理解していただきたいところである。
「でも、
少し照れ臭かったが、すでに
瞬間、意図せずして、感じ取っていた殺気が途絶えた。
「どうかしたんですか」
「いやね、
意図せず、小細工のない直球を喰らって、
なんとなく、
「……はい。大好きなんです。自分でもビックリするくらいに」
こんなふうに追い詰められないと言えないというのも情けないが、それでも、言えた。言えたのだ。やっと。そのせいか、暴れまわっている鼓動も、不思議と今は心地よくもある。
それを生の声で初めて耳にした想い人は、白い頬を幼児のように赤く染めて、満たされたように、笑顔になっていた。
「あらあらまあまあ、見せつけてくれるじゃないの。このラブラブバカップルめ」
それを見て、ふたりの仲を邪魔する小悪魔が、口を尖らせている。
「いや、別に見せつけているわけじゃ……」
「もう、冗談に決まってるじゃない。本気にしないでって。それにしても、昨日はあたしが何を話しかけてもずーっと仏像みたいに無表情無反応だったっていうのに、
「ち、違います、そういうわけじゃ……」
「いーのいーの、別に責めてるわけじゃないの。むしろあたしも嬉しいのよ。
看護婦は、自分で自分を抱きしめるようにして腰を左右に振るという、奇妙な踊りを頼んでもいないのに披露し始めた。どうやら自分の世界に陶酔しているようだ。
それを見て、本当この人はなんなんだろう、と
こんなに綺麗でよく喋る人がどうして看護師をしているのか、と不可解な気がしてならないが、自分の美貌に自惚れている様子も一切ないし、いい意味での軽薄さがある。看護師としての腕自体は不明だが、サンタが配置した人材なわけだし、おそらくは優秀なのだろう。
「それで、結局、何の用なんです?」
痺れを切らした
「そーだったそーだった。ついうっかりしちゃってたわ。これから
「そうなんですか。……じゃあ俺は、一旦自分の部屋に戻ってるよ」
看護師の話を聞いて、
「あ、ちょっと待って、
「ん、どうしたんだ」
「その……この
別に今やるべき早急さは感じなかったが、断る理由もなかった
「ついでに悪いんだけどさ、私の左腕を、机の上に乗せて。そしたら少し離れて」
「? うん……」
何かをしようとしている素振りだが、あてはない。とりあえず言われたとおりにしてみる。
看護士と同じ位置にまで下がると、
すると指の先端から、鉛筆の芯ほどの太さはある、一筋の糸が紡ぎ出されてきた。
それなのに、こんなことをして大丈夫なのか、という不安が一気に募る。
たまらず看護士を見ると、さっきの砕けた雰囲気が嘘のように神妙な面持ちをしていた。だが、目の前の行為に口出しをしないでいるあたり、危険の域に達しているわけでもなさそうだ。もしかしたら、単に
不安が解消されないあいだも、
糸は
「その色、どうしたんだよ」
「ん? ああ、そっか。
「血が混じってる、って……じゃあ、まずいんじゃないか。そんなことしたら」
「多分ね。でも、もうちょっとで終わるから。ここまで黙っててくれたんだし、いいですよね、
声を掛けられた看護師は、神妙な顔を霧散させて、微笑んで頷いた。
そうこうしているうちに、紡ぎ出された糸は15センチほどの長さにまでなっていた。そして「ん」という声でそれが指先から切り離される。
「これは……」
「その……ね。指輪のひもに、この糸を使ってくれないかな」
唐突な言葉がどうにも理解できず、
「……やっぱり、私の血が混じってるとか、気持ち悪い?」
「いや、そういうことじゃないんだ。なんで急にそんなことを言うんだろう、って思っただけで。それに、これ、随分と短いじゃん。ひもを取り替えるにしたって、これじゃあ首にかける前に、まず頭も通らないと思うけど」
「大丈夫。それはその長さでいいの」
「これで?」
「うん。それでね、指輪を通したら、今度からはそれを左手首につけて欲しいんだ」
「左手首に?」
「そう。『セグラ』っていうんだけどね、左手首に赤い糸を巻くと、邪視除けになるっておまじないがあるんだよ」
「邪視除け? それって……」
「だから……あの
「……へ?」
「だって、あの子は
「ちょ、何言ってるんだよ。
粘着質のある視線を向けられて、
「ごめんごめん。そう言ったらなんて言ってくれるのかなー、と思って、ついからかいたくなっちゃって」
「あのなあ」
「ごめんてば」
もとより強く怒ることなんてできない
「それで? 本当はどういうつもりなんでしょうか、
「あれ、まだわかんない?」
勘の悪い
「だから、……邪視よけのおまじないをつけておけば、これでもう
「……ああ、そういうことか」
「もちろんこの糸にそんな効力なんてないけど、でも、こうしていつでも目に入れておけば、ずっと傍にいてほしいっていう私の願いごと、それこそ忘れることなんてないでしょ? だからこれは、
照れるように無邪気に笑う想い人に、
「そっか。ありが──」
「ちょっとちょっとちょっと! 何よ何よ何よ! 今のは!」
せっかく心が満たされていたところに、割って入ってきた無神経な看護婦の声が穴を開けてしまう。あんたこそ何だよ、どうしたんだよ急に、と
「そんな顔もできるんじゃない! やば。
看護婦は、今にも頬ずりをしそうな勢いだった。
「んもう、ニコラス学園ではさぞやモテモテだったんだしょーね」
「でもね、
「……
「あ、ごめーん。全部聞こえてた?」
たまらず、3人とも吹き出す。本当に食えない人だ、と
その後も看護婦は冗談を交えながら、左手の使えない
「これでよし、っと。どう? きつくない?」
「ええ、ちょうどいいぐらいです」
「そっか。それじゃあ
「そうでしたね。わかりました」
そうして
扉に触れて、開き、通ろうとして──最後にもう一度、
ここを訪れたときとは違って、今度は視線が繋がる。
再び結び合った絆がそうさせたように、ふたりとも同時に微笑んだ。
特に何を言うでもなく、
来たときとは違って、帰りは
廊下にでてからしばらくして
再び動き出そうとして、ふと、今手に入れた赤い糸が目に入った。改めて見てみると、艶やかで、とても綺麗な鮮血色をしている。
たとえ罪が赦されたのだとしても、
だが、その血を受け継いだ娘の血を染み込ませた糸が、こうして今、奇妙な偶然を経て、左手に巻かれている。
もしも運命の赤い糸というものが本当にあるのだとしたら、これこそが自分にとってのそれなのかもしれない、と。
END
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