第11話 融解犯

 風害は、室内にあるほんのわずかな家具類にも影響を与えていた。

 テーブルやソファは無秩序に壁際にまで追いやられている。もちろん大きな白の包みもその例に漏れない。天井の電球が砕けたりしなかったのは不幸中の幸いといったところか。



 部屋に取り残された赤羽あかばねは、何かの拍子で作動するんじゃないか、という一縷の望みをかけて、こりずに何度も携帯電話をいじってみた。だがやはり、息を吹き返すことはなかった。



 仮にこれが無事であったならば、状況はだいぶ変わっただろう。日時の確認はもちろんのこと、現在地を特定することもできたかもしれないし、なんなら学園や常盤ときわへとそのまま連絡を入れることだってできたはずだ。やろうと思えばそのまま警察に連絡することもできた。それでどうにか話をつけて身の安全の保証がなされれば、この部屋に引きこもっている必要性はなくなる。

 

 

 しかし、どんなに空想したところで後の祭りだ。もう受け入れるしかない。

 せめて内蔵されたデータだけでも生きていてくれれば御の字だという消極的な意思から、とりあえず携帯電話をズボンの右尻部分にあるポケットにしまった。

 そして考える。この、どこともわからない謎の室内で、3日間も過ごすなんていうことを自分は受け入れるのか、と。



 少し考えて、やはりそれは無理だという結論にいきつく。

 この閉鎖的な空間に3日も閉じこもっているだなんて、できるわけがない。

 ここには生活できるくらいの設備はあるというようなことをあの少女は言っていたが、そういう問題ではなくて。

 


 一切の音沙汰がなければ、世間的に見てそれはれっきとした失踪事件だ。そうなれば捜索活動が行われるだろう。もしかしたら、こうしている今もすでにそうなっている可能性だってある。学園の教師陣だって、留年の話をしていたくらいだから、まがりなりにも気に留めてくれているに違いない。

 そうして警察沙汰になり、飛び火して顔写真なんかが新聞やテレビやネットで出回ったりしようものなら──自分でも目にしたくないこの醜い顔を世間に晒すなど、もはや生き地獄だ。



 命の危険が迫っていることとは別に、それが赤羽あかばねにとっての一番の懸案事項だった。

 やはりどう考えても、なんとかしてここから抜け出すほかない。



 先ほどの会話を思いだして、少女が去ったのとは別のドアを試しに開いてみた。脱出するにあたって、この隔離された空間内に何があるのか、何か使えるものがないかを把握するために。



 鍵はかかっておらず、普通に開いたドアの向こうは、まっすぐ縦に伸びた部屋となっていた。さっきまでの部屋と同様にコンクリートの壁がむきだしになっており、殺風景そのものであることに大差はない。



ただ、向かって左側には、手前から順にキッチン、小型の冷蔵庫とその上には電子レンジ、と壁伝いに並んでおり、右側と突き当りにはそういった電気製品やら家具類こそないものの、さらにそれぞれひとつずつドアがあった。



 それらを順に確認していくと、右側のドアの向こうは浴室で、奥はトイレになっていた。縦長の部屋と同じく、どちらも最低限のスペースしか用意されていない。



 全体的にいって簡素かつ無骨な仕様だ。隠れ家と言っていたし、長居することを基本的に想定されていないのだろうが、それでも話の通り、生活するだけの水準は整っている。



 立て続けに冷蔵庫の中身を確認してみる。

 少女は「食料は備蓄されている」みたいなことを言っていたが、一体何が用意されているのか。百歩譲って3日間ここにいるにしても、その中身の内容次第で、さらに明暗が分かれる。

 


 冷蔵庫はそれほど大きくもなく、扉は上下──上が小容量、下が大容量に分かれていた。

 きっと上が冷凍庫で下が冷蔵庫だな、と判断してまずは下の扉を開けてみる。



 中にあったのは、2リットルの水が横になって所せましと貯蔵されていただけだった。あとはもう、おまけ程度にブラックの缶コーヒーが数本と扉の裏に立ち並んでいるだけだ。見間違えだろうかとかがんでくまなく奥を覗いてみたが、これといって他には何もない。

 赤羽あかばねは絶句し、ただただ扉を思い切り閉めた。

 


 こうなると、あとはもう冷凍庫に期待するしかない。

 おそるおそる扉を開けてみると、冷凍食品の包装がいくつか詰まっていた。

 しかし、これで本当に足りるのだろうかと疑問に思うほどの量しかない。もしかしたら、またあの少女が何かの用で顔を見せ、そのときに差し入れのようなものがあるかもしれない。

 ようするに、基本的にはこれらを電子レンジで解凍して、うまくやりくりして飢えをしのげということだろうか。



 あるいは、不足した食料の供給のために、あのニコラスでないにしろ、誰かしらが何度か姿を見せるという可能性も考えられる。ここにいるのが最低で3日間というだけであって、期間は明確に定まっていない以上は、おおいにあり得ることだ。

 となると、とりあえず餓死の心配はなさそうだが──いや、待てよ。

 もしも急な体調不良とか見舞われたら、どうすればいい?



 その考えに至ったとき、そのまま一歩先に思考が飛躍する。

 もしかして、俺は監視されているのではないか、と。



 たとえば自分が犯罪者で、ここが牢獄だと仮定する。

 その場合、普通なら監視役のようなものを傍に置いておいたり、あるいは監視カメラがあったりして、とにかく脱獄を防ごうとするだろう。あるいは、犯罪者に異変があった場合に対処できるような体制を整えておくはずだ。

 となると、自分以外にここに誰もいない以上は、この空間のどこかにやはり監視カメラがあるのではないだろうか。



 今のところ、真相はわからない。

 ただ、カメラがあるのかもしれないというその可能性を頭に刻みつけて、気を引き締めて赤羽あかばねは再始動した。



 それからしばらく動き回ってみたが、今まで以上の真新しい発見もなく、とりあえず元いた部屋に戻ることにした。

 改めて部屋中を詮索してみたが、やはり何もない。隠し扉の類などを期待したが、そんなものはどこにもなかった。

 そのまま天井を見上げてカメラの有無を確認してみたが、やはりいくらかの照明と通風孔しかない。それ以外には怪しいものはこれといってなく、このうちのどれかが監視カメラなのかもしれないと訝しんでいたが、本物すら見たこともない赤羽あかばねに判別できるはずもなかった。



 それとは別に、空調がなかったのは残念だった。

 今の室温は、寒いとまではいわないものの、けして快適とも言い難い。

 現在の時間帯がどのくらいなのかわからないが、仮に真昼でこれなら、夜は凍えることになる。

 というか、寝具が見当たらない。

 ということは──ソファで寝るしかないようだ。ついさっきまでそうしていたように。

 


 最後に、少女が去ったドアに近づき、物の試しにドアノブを握ってみた。

 やはり、どうしてもドアノブが回らない。こういう場合だと内側に鍵がありそうなものだが、外側から施錠されているらしい。



 ものは試しとドアを軽くノックしてみる。

 コンコンという音こそするものの、小突いた関節部分が痛むだけで、たいした反響もない。ドアが頑丈で分厚い証拠だ。

 そのまま何本かの指の腹でドアに触れてみると、氷のように冷たかった。きっと何かしらの金属でできているのだろう。



 非力な赤羽あかばねに金属製のドアを破壊するなんてことが無理なのは言うまでもない。仮にテーブルを持ち上げて叩きつけてみたところで、徒労に終わる気がしてならない。そもそも、そんなことをしてもこのドアは壊れない気がした。

 


 期待薄で地面に転がったままの白い包の中身を見てみたが、わずかに液体を残した状態の500ミリリットルのペットボトルが数本入っているだけだった。予想通り、有益なものではない。

 おそらくは、ヘリコプターを撃ち落としたときに使っていたとされるものの余りだろう。封がしてあるはずだが、いささか灯油やガソリンのような刺激臭がする。

 


 そこで一瞬、あのときのリーの話が蘇った。

 たしか、このペットボトルの中身は、何かしらの燃料だったはずだ。

 待てよ? それをドアにぶちまけて、キッチンから火種を調達すれば、あるいは……。

 いや、無理だ。危険すぎる。

 燃料のさじ加減もわからないし、それでうまくいく見込みだってない。第一、通風孔はあるけど酸欠になる可能性だってある。ドジな自分のことだから、誤って自分にかけてしまい、そのまま引火することすらも十分に考えられる。そうなったら笑い話にもならない。

 熟考するまでもない。愚策だ。



「でも……さっきのあの子だったら、もしかしたらこれで、どうにかできたかもしれないんだよな」



 燃料の入ったペットボトルを見つめながら、回想する。

 もしも自分にあの少女のような──ニット帽サンタのようなことができたのであれば、あの夜、衆人環視のなかで、何機ものヘリコプターにやってのけたそれと同じように、このペットボトルをミサイルのように打ちだして、ドアをぶち抜くことだってできたかもしれない。あるいは、このペットボトルに頼らずとも、もっと別の方法もあったのかもしれない。



 でも、赤羽あかばねにはそれができない。

 赤羽あかばねに限らず、普通の人間にはそれができない。

 それが普通だ。そして、あの少女が──サンタが異常なのだ。



「……ん? 待てよ」



 自問自答のさなか、ペットボトルを包に戻していた赤羽あかばねはふと思いあたり、それから両の手のひらを見つめた。

 大事なことを思い出したのだ。サンタのそれとは雲泥の差があるまでも、それでも自分にも奇異な力が──超冷却クール・ブラッドと命名している謎の力が、一応はあることを。



 とはいえ、たかだか缶ジュースをそこそこ冷やす程度でしかない非常に拙い力であるそれが、この状況下でいったい何の役に立つというのか。

 威力もサンタの異能とは悪い意味で一線を画してるし、そもそも今、物を冷やすことを求めてもいない。



「せめて、超加熱ウォーム・ブラッドがもうちょっとだけでもマシだったらな」



 雨垂れ石をも穿つという言葉があるように、一点に集中して断続的に超加熱ウォーム・ブラッドを発動させていれば、もしかしたらドアを極地的に融解させ、穴を開けるということも、あるいはできたのかもしれない。

 とはいえ、赤羽あかばねのそれは、市販されているものよりも数段劣っている。これで溶かすことのできるドアなど、せいぜいチョコレートか飴で作られたものくらいだろう。

 


 異能はあるのに、それでも無能。

 もはやどうすることもできない。嘆息が漏れる。



 そこで腹が盛大に鳴った。続けて、思い出したように空腹感が襲ってきた。手が勝手に腹に向かう。

 記憶にある限り、最後に口にしたのは、あのほろ苦い缶コーヒーだったはずだ。

 あれからいったいどれくらい時間が経っているのか。意識しだすと、だんだんと喉の渇きも気になりだした。

 


 水の入ったペットボトルを一本取りだそうとして冷蔵庫まで来たが、直前で、ふと目に飛び込んできたブラックの缶コーヒーを手に取った。もしかしたらあの少女の私物かもしれないと思ったが、知ったことではない。



 迷惑なことに、うんと冷えていた。手からたちまち痺れるような感覚が襲ってくる。

 これでは余計に冷えてしまう。となると、やはり、の出番だ。



 そうして赤羽あかばねは冷蔵庫を閉じて、何を思うでもなく缶コーヒーを持った右手に劣悪な超加熱ウォーム・ブラッドを発動させながら元の部屋に戻ろうとした。拙い異能である以上、冷えた缶を温めるのにもかなりの時間を有するからだ。

 だが、そこでまさしく、予期せぬ異変が起こる。



 発動とほぼ同時に、右の手のひらに奇妙な気配を感じたのだ。それは、超加熱ウォーム・ブラッドを使用してきた赤羽あかばねだからこそわかる微妙で奇妙な感覚だった。



 すでに歩み出していたので、特に立ち止まることもなくそのまま手元に目をやる──が、視線が間に合うよりも先に、あろうことか缶が音を立てて破裂した。

 あまりにも突然のことに、赤羽あかばねは声をあげてその場で尻餅をついてしまう。



 あたりにコーヒーの独特の香りが広がると同時に、何かが焦げたような異臭も合わさって室内に充満していった。

 遅れて、シュウシュウという音を鼓膜が聞きとる。気づけば、コーヒーを被った右手から蒸気が、凶悪な熱波とともに音を立てて沸きあがっているところだった。床に飛び散ったそこかしこからも湯気がゆらゆらと立ち上っている。

そして肝心の、破裂したはずの缶がどこにも見当たらなかった。

 


「あ……え? な──あちちっ!」



 理解が追い付かないで固まっていた赤羽あかばねを叱咤するように、今度は上半身のあちこちから、それこそ火傷をしたときのような感覚が遅れて襲ってきた。

 見れば、缶が破裂したときにコーヒーの飛沫を浴びせかけられた服の、シミとなっている要所から勢いよく湯気が立っている。それらを凝視すると、数あるシミの一部に穴が、そしてその穴の周りにコーヒーとは別の黒ずんだ痕とがちらほら見受けられた。まるで熱したハンダゴテで衣類に穴を開けてしまったときと同じような。



 とにかく、このままだと熱くてたまらない。がむしゃらに上着を脱ぎにかかろうとする。しかしその最中に、また別の異変に気付いた。それは、急いで上着の裾を両手で掴もうとした、ちょうどそのときのことだった。



 まず、裾を掴もうとしたそのときに、左手に妙な重量感を覚えたのだ。右手ではなく、左手に。

 見ると、いつの間にか左手の周りに、左手の手首から先の全体を覆うようにして、いくつもの歪な棘を持った氷の塊が、その周囲に冷気を漂わせながら、手袋のように纏わりついていたのだ。



 氷の発現という観点から、どうしても超冷却クール・ブラッドに思いがいたる。だが発動などさせていない。そんな覚えはない。

 そもそもこんな、ここまでの現象を引き起こすようなものでもなかったはずだ。

 おかしくなっているのは、どうやら超冷却クール・ブラッドもらしい。



 たとえ服の余熱で肌をいじめられようとも、もはやそれどころではなかった。突如として現れたふたつの問題の板挟みにあって、このときの赤羽あかばねは完全に思考が凝固してしまっていた。



 放心しているあいだに、服の熱が徐々に収まっていったようだ。

 上半身の所々に火傷を負う結果になったが、あくまでコーヒーが飛び散った部分のうちのいくつかであったため、規模も小さければ数も少なくて済んだ。もしもこれが、頭から丸被りしていようものならまた話は変わっていたであろうが。



 両極端な変化を見せている左右の手のひらを顔の前にまで持ってきて、そしてじっと眺めてみる。

 右手からは熱波が襲いかかってきて、すぐに目は乾き、顔もヒリヒリとしてくる。そのままじっと眺めているのも辛いくらいに獰猛極まりない。

 対する左手は、依然として冷気を纏っているわけだが、別に目も乾かないし、ただそれだけだった。

 しかしよくよく見れば、こうしているその最中でも、左手を包み込む氷塊が、空気中の水分を養分としているかのように徐々に大きく成長していた。じっと眺めていたことで、その緩慢な変化に気づけた。

 もちろん、こうしている今も超冷却クール・ブラッドを発動させている自覚は一切ない。



 自分のなかで、何かがおかしいことになっている。

 とにかく、このままではまずい。そう考えた赤羽あかばねは、まずは意図的に発動させたほうの超加熱ウォーム・ブラッドを止めにかかろうとする。



 いつものような手順でこれが本当に収まるのかという懸念を抱きながら、これまでしてきたように発動が止まるよう念じてみた。するとあっけなく、右手の異常は律儀に、忠実に収まってくれた。

 立て続けに、左手にも念じた。それが叶ったのか、それ以上に氷が成長することはなかった。しばらく眺めていたが変化はなかった。どうやら首尾よくいったらしい。



 夢だと思った。いや、夢だと思いたかった。だが、なおも執拗に鼻腔へと訴えかけてくる周辺に漂い残った異常な焦げ臭さと、今も左手に残ったままの氷塊のせいで、これが現実であると嫌でも痛感させられる。


 

 でも、これが現実なら、そもそもどうしてこんなことが起こったのか。

 記憶にある限りでは、どちらについても、こんな現象が起こったことは今の今まで一度たりともない。ただの一度たりともだ。

 


 いったいぜんたい、何がきっかけでこうなったのか。

 最後に異能を使ったのは、あの日の朝のことだ。超加熱ウォーム・ブラッドを使って途中まで缶コーヒーを温めたが、あのときはまだこんなことにはなっていなかった。

 ということは、異変と呼ぶべき何かが起きたのは、あれから今この瞬間までのあいだということになる。

 


 そのあいだに何があったかを、今一度振り返ってみる。 

 金銀蓮花ががぶたの両親が所有するというビルでサンタを見物し、途中で金鵄きんしを見かけたので追いかけ、そのまま廃墟に足を踏み入れたら修羅場に出くわし、そして追われるハメになって、危ないところであの可愛げのない生意気なニコラスに助けられて、そして──気づいたらここにいた。



 いざ振り返ってみると、こうも非日常が累積するものかと我ながら驚愕したが、どれも赤羽あかばねの異能が異常をきたしたことへの理由には結びつきそうにない。

 となると──何かされたのかもしれない。

 何か、変な薬でも打たれたのかもしれない。気絶しているあいだに。 

 


 ……もしかしたら。

それが本当の狙いだったんじゃないか? 

 あの少女の真の狙いは、もしかして俺だったりして?

 高峰たかみねのぞむだの、黒服の連中だの、いろいろと語っていたが、そんなものは真相を隠すための嘘、ただのカモフラージュだったのかもしれない。

 そう考えると、ある意味、すべてが腑に落ちる。



 でも、どうしてだ? どうして俺なんだ?

 まさか、俺に超冷却クール・ブラッドって不思議な力があることがバレていたとか。

 いや、そんなはずはない。だって、冬になってからというもの、ただの1回も使っていないんだから。だからバレようがないんだ。それでもあいつにバレたってことなのか。

 だとすると、あいつは──初めから知っていたことになる。俺にも異能があることを。 



 そうして左手をまじまじと見ていたところで、ふと思い至る。

 そういえばこの氷、いつになったら溶けるんだろう、と。



 試しに左腕を振り回してみるも、しっかりと根付いた樹木のように手に絡みついていて、すっぽりと抜け落ちるような気配もない。これ以上振り続けたところで腕が痛むだけだろう。



 どうするんだよこれ、と不安がっているところでひらめく。現在おかしなことになっている超加熱ウォーム・ブラッドをまた右手に宿して、それを宛がえば、この氷も融けるのではないか、と。



 もう一度、少し緊張を覚えながらも超加熱ウォーム・ブラッドを発動させてみた。すると滞りなく、またしても凶悪な熱波が沸きあがった。引き続き、いたって正常に異常のままだ。

 そのままそっと、両手を胸の前で合掌させてみる。予想通り、氷は即座に融解を始めた。白濁した蒸気や音とともに、生じた水分が腕伝いに肘にまできて床へとしたたっている。



 やがて、氷が左手の表面くらいにまで小さくなったところで右手を離した。超加熱ウォーム・ブラッドを止め、それから力任せに左手を握りしめると、さっきまであれほど頑丈だった氷も勢いに負け、いくつかの破片となって砕け散った。

 かくして、左右の異変は落ち着き、少し前までと同じ平穏になったわけだが、一方で、精神的には壊滅状態だった。



 もはや、何が何だかわからない。どうしてこんなことになっているのか。

 まさに化け物じみた威力じゃないか。これじゃあまるで──それこそ化け物じゃないか。

 これは俺の力なのか? それとも、やっぱり誰かに何かされたのか?

 こんなものが俺の力であるはずがない。だって、これまでこんなことはなかったんだから。 

 そうだよ。誰かに何かされたんだ。そうに違いない。

 誰かって? そんなの決まっているじゃないか。

 サンタだよ。そうとしか考えられない。  

 だとしたら、3日間もこんなところにいるだなんて、それはヤバいんじゃないか?

 あの冷蔵庫の食糧だって、何が入っているかわかったものじゃないし。

 だったら、とにかく急いでここを脱出したほうが身のためだ。

 そう……幸か不幸か、今の俺には、きっとそれができるに違いない。

 この、暴走した超加熱ウォーム・ブラッドであれば、きっとできるに違いない。



 生唾を飲みこんでから静かに立ち上がり、少女が消えたドアの前にまで来る。そして優しくドアノブを握り締めてから、覚悟を決めて超加熱ウォーム・ブラッドを発動させた。

 するとドアノブは瞬く間に銀色から赤褐色へと変化をみせ、そしてさらに強く輝く赤橙色に変わったのを堺に、その形態を固体から液体へと移行し、やがてドアをつたって地面へと流れ落ちていった。その抜け落ちたような部分に今、いびつな空洞ができあがっている。

 それは、赤羽あかばねがドアノブを握ってから時間にしてわずか数秒たらずに起きた出来事のすべてだった。



 超加熱ウォーム・ブラッドを止めて、ドアを見入る。

 自分の思惑通りに事が進んだはずなのに、果てしない恐怖を覚える。

 常識ではありえないことができればできるほど、自分が非常識な存在なのではという疑問が払拭できない。自分が化け物なんじゃないかという不安が押し寄せる。

 


 だが、ここでああだこうだと考えていても答えは出ないだろうし、なによりこうしてドアを破壊してしまった手前、あの少女が嗅ぎつけてここに現れるとも限らない。賽は投げられたのだから、すぐにでもここから逃げ出したほうがいい。

 


 そんなふうに自分を鼓舞し、赤羽あかばねは自ら壊したドアを開け放つことにした。

 


 そして左手でドアを押しだそうとしたとき、気付いた。

 どうしてかまた、左手に氷の塊ができていることに。

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