幕間6
まだ二十歳前の若い男が、
白く衛生的な天井をぼんやりと眺め、鼻と口を覆った人工呼吸器のマスクが呼吸の度に白く曇る。
首を巡らすと、右腕には点滴と輸血の他に様々なチューブが繋がれていた。
だが、反対側――左腕は肩口からごっそりと失っており、その上を抗生物質を含んだ医療用のパッチと包帯が幾重に巻かれていた。
麻酔が効いているのか痛みは感じないが、あって当たり前だったものがなくなった喪失感が心を重く沈ませた。
(どうして、こうなった……)
痛々しい姿に変わり果てた原因を思い出す。
「ッ!?」
脳裏に〈一つ目の怪物〉の顔が迫る記憶がフラッシュバックし、動悸と呼吸が急激に乱れたことを感知したセンサーがアラームを鳴り響かせる。すかさず医療用AIが鎮静剤を右腕と繋がったチューブを介して投与したお陰で少し落ち着いた。同時に意識も再びぼんやりとなる。
いつの間にか耳障りなアラーム音が止んでおり、傍に緑色の手術服を身に纏った女性が佇んでいたことに気付く。
「……目が覚めた?」
手術服と同色の帽子にマスクを付けているため顔は解らないが、その声に聞き覚えがあった。
「……ジュリエットか」
『J』の
緊急対応の医者として、彼女もまた同じ作戦に同行していた。
「数時間前まではね。今回限りの呼び名だから普通に名前で良いわ、海堂真奈よ」
ベッド横にあった心電図などの医療機器をチェックしながら、バインダーのカルテに数値を記録する真奈。
「……すまない。任務が完了しても、俺には名乗る名前がない」
「気にしなくていいわ、そちらの事情はそこそこ把握してるから」
気さくで取っつきやすい優しい女性だと思いつつ、気になっていたことを訊ねる。
「……莉緒お嬢様は? 無事なのか?」
非合法組織の手中から救出した護衛対象――獅子堂莉緒の安否。
「……お陰様で大した怪我もしてないわ、だけど良くはないわね」
「何だと?」
「保護した直後に容体が急変したの。今は隣のICUで眠っているわ。貴方の治療が割かし雑な状態で放置されているのは、お嬢様の方にスタッフの大半が動員されたから……ごめんなさいね」
「いや、俺のことは良い。お嬢様は助かるのか?」
彼女の護衛に就いてまだそれほど長くはないが、生まれながらにして重い心臓病を抱えていることは知っていた。そして、長く生きられないことも。
「……助ける、としか言えないわ。ただ、ドナーの心臓がない限りは何とも――」
「なら俺のを使え」
「………………は?」
聞き間違いかと思い、真奈は動きを止めた。
「今なんて?」
「俺の心臓を移植しろ」
「……本気で言っているの?」
「本気だ。この体たらくでは前線復帰は難しい上に、どうせ落ちぶれた命だ。他に使い道があるとしたら、このタイミングだろう」
説得しようにも、その目が本気であると悟る真奈。治療の優先度でいえば彼よりも獅子堂莉緒であり、時間がないのもまた事実だ。それでも医者としての意見は伝えなければならない。
「……臓器移植には組織適合性というものがあるの。適合性が低ければ拒絶反応を抑える薬の量が多くなるし、返って身体に負荷を掛けてしまうから大した延命措置にならない可能性もあるわよ」
移植術とは手術自体より拒絶反応との闘いである。かつてアメリカの統計では心臓移植者の十年後の生存率は五〇%ほどと云われ、そのほとんどが免疫抑制剤の副作用による障害や感染症によるものだった。現在は医学の進歩によりそのリスクを最小限に抑えることは可能になっているが、それでも完全には程遠い。
「だから、結果的に貴方は無駄死になるかもしれない」
「構わない、僅かでも時間を稼げれば充分だ。その間に新しい治療法が見付かる可能性だってある。お嬢様はまだ十四歳なんだぞ」
一切の迷いのない眼差しと言葉に、逆に真奈が説得されてしまう。
「……チーフとご当主に、相談してくるわ」
「頼んだ」
数日後、男の心臓が獅子堂莉緒に移植された。
そこで彼の物語は終わる筈だった。
――次に目を覚ますと、そこは一般の病室だった。広い病室に一人だけ、個室のようだ。
「……どうして?」
何故自分が生きているのか?
身を起こすと、失った筈の左腕に違和感を覚えた。
見ると、痩せた身体に簡素な造りをした機械仕掛けの義手が備わっていた。
欠損したとしても四肢の感覚は脳に記憶されていると聞いたことがある。違和感の正体は、脳と義手の間で生じる感覚のズレによるものだ。
コンコンとノックに続いて扉が開き、ブラウスの上に白衣を着た真奈と目が合った。
「おっと。そろそろ起きる頃合いかなと思って来たけど、さすが私。良いタイミングね」
人懐っこいフランクな笑みを浮かべながら脇にどけると、電動車椅子に乗った少女――獅子堂莉緒が現れた。
「お嬢様? お体は、もう大丈夫なのですか?」
莉緒は無言のまま車椅子を操作してベッドのすぐ傍まで近付くと、いきなり殴り掛かってきた。
思わず右手で掴み止める。
「何で止めるのよッ!?」涙目で抗議する莉緒に対し、
「申し訳ありません。その素人同然の殴り方では、逆にお嬢様の拳を痛めてしまいかねないと判断しました」
下手したら指の関節の一つや二つが骨折する危険性があった。
「う~~」不機嫌そうに唸りながら拳を下ろす莉緒。
「それよりもお体の具合は? 確か、俺の心臓を……」
「……うん、貰った。クロの心臓を私に移植してある」
俯いて莉緒はそう言った。ちなみに『クロ』とは莉緒が付けた彼のあだ名だ。普段から黒い服装をしていることが由来らしい。
「それなら何故、俺は生きているのです?」
「……デルタゼロと共同で開発していた疑似心臓を移植したの。本当は私に移植する予定だったんだけど、完成まで間に合わなかったからクロの心臓を貰った」
莉緒が回復した後、開発中だった疑似心臓を完成させ、仮死状態で保護していた彼に移植し、蘇生させたという。
ちなみに、この間わずか一ヶ月の出来事だと知る。
「あれからまだ一ヶ月しか経っていないのですか……何というか、スゴイですね」
本物の心臓と遜色ない機能とサイズを再現した生命維持装置だ。その秘められた技術と価値が計り知れないのは元より、僅か一ヶ月で完成させるなど、一体どれほど過酷な突貫作業だったのか想像も出来ない。
「一ヶ月も掛かった、お礼を言うのに一ヶ月も待って貰った」
感極まって涙を流した莉緒は、車椅子から身を乗り出して彼の胸に飛び込む。
「ありがとう、クロ。私に貴方の命をくれて、心から感謝しています」
困った様子で「どうすればいい?」と真奈に視線を送ると、「とりあえず、抱きしめろ」とのジェスチャーに従って、そっと右腕だけで抱きしめる。
守ると誓った少女から、心臓の鼓動を感じる。彼女は生きている。
背中をさすって泣き出す莉緒を宥めながら、心から思ったことが一つ。
――本当に、生きてて良かった。
それは自身と莉緒、二人の命を指したものだった。
それから一年後、獅子堂莉緒は十五歳の若さでこの世を去った。
そして彼女から『クロ』と呼び親しまれた男もまた獅子堂家から去り、名前と身分を変えて探偵業を始め、今に至る。
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