第45話 ハリネズミを退治せよ


 使用人ならぬフォクスに連れられてやって来たのは、学院の中庭にある池を、さらに回り込んだ森の中だ。生い茂る木々の中を通り抜けて、ボロボロの小屋に入ってみると、サイがいた。



 フォクスの言葉から、彼の主は、サイであることは知っていたけれど、知ったときと、実際に見るでは気持ちが違う。唇を噛んだ。少年の前で、どんな顔をすればいいのかわからなかった。



「ラビィ様、ご無事で……!!」



 サイはすぐさまラビィに気づき、駆けつけた。ただ表情を硬くするラビィに、サイは眉を顰めフォクスを見る。「主様のご命令通り、怪我の一つもなく送り届けましたよ」 フォクスは両手をひらひらと振ってみせた。しかし、とサイが言いよどんだところで、「違います、すみません、ただ、私が」



 サイが好きだ。とても好きだ。

 湧き上がる気持ちを抑えることができなかったからだ。彼の正義に、ラビィは無邪気に喜びそうになる自分が許せなかった。幾度も息を飲み込んで、吐き出して、やっとのことで二人の前に顔を向けた。



「サイ様。そして、フォクス。……本当に、ありがとうございました」



 頭を下げた。

 彼らの善意が、とても有り難く、大切で、かけがえのないものだということを理解していた。



「いやあ」



 照れたように笑ったのはフォクスだ。サイはただ無言で首を振るばかりだ。



「いえ、そもそも、こんなおかしな命令が出される前に、お止めすることができなかった。本当に申し訳ありません」

「そうそう。こいつね、ネルラっていう聖女だっけ。そいつがそうなるかもってわかったときになんかおかしいって慌てて俺に泣きついてさあ。もうとにかく時間がないってんで急いでラビィ様を避難させろとか間に合わないとか、もうほんと、マジ無茶振りで、んでででででででッ!!!!!?」



 まさかの主従でアイアンクローを決められている。



「ラビィ様、申し訳ありません。こいつ、フォクスは幼い頃からナルスホル家に仕えているせいか、どうしても口と態度が軽くなるきらいがあります。おそらくそちらの屋敷でも不愉快な思いをさせてしまうことも多かったでしょう。主として、代わって謝罪致します」

「いやー、はあ、まあ……」



 彼に世話になったことは事実なので、曖昧な返答しかできない。

 というかあの軽すぎる態度は、てっきりこちらを試すためのものかと思いきや、ただのもともとの人柄だったのか。驚きである。



 やっとのことでサイの馬鹿力から開放されたフォクスは、涙目のまま体をふらつかせている。気の毒だと思えない自分が怖い。



「そして、フォクスからすでに伝えていることかとも思いますが、失礼にも俺はあなたを調査しておりました。大変……申し訳ありません」

「いえ、それはすでに以前聞いていたことですし」



 そのときは深くまでは考えなかったが、まさかサイ本人がラビィの周囲を聞き回るはずもなく、もしかすると、気づいてしかるべきことだったのかもしれないし、彼女からしてみれば、感謝の心しかない。「……フォクスはこんな男ではありますが、信頼のおける人間です。ただ本当に、こんな男ですので、できれば別の人選をすべきだったのでしょうが」 こんな男と二度言った。



「なんたって、主様のおしめすらも替えたことがありますからね。信頼の男フォクスでンッグウ!!!」



 激しく手刀で腹を殴られた。仲がいいな。




 サイの方が若く、背が高いが、フォクスはすでに二十歳を越えている。見かけも性格もあべこべだが、それこそ彼らは生まれたときからの付き合いで、そういった家系なのだろう。切羽詰まったこの状況で、不謹慎にも笑みがこぼれてしまった。笑いながら口元を押さえるラビィを見て、ふとサイは優しげに瞳を細めた。けれどもすぐさま、咳をついて現状を整理する。



「ラビィ様、ご存知かとは思いますが、ネルラは正式に聖女として認められました。聖女とはこの国の象徴です。初代以来、現れることさえなかった。王宮も彼女を下手に扱えない。だからこそ、好き勝手に動いている」



 本当は二代目と三代目の聖女がいたことは、彼らは知らない。その二人は王家の傀儡となったが、全てが消え失せた今、逆に聖女の立場が向上してしまうとは、あの子も想定外のことだろう。「そう……ですね」 ラビィはひどく端切れの悪い言葉を出した。彼らに何を、どう言えばいいのかわからなかったからだ。そもそも、伝えてもいいのか、それすらも。



 おそらくサイはラビィの困惑した様子に気づいてはいたが、言葉を続けた。「ラビィ様、ネルラはあなたの斬首を求めているそうです。理由については聞くにも、考えるにも足りないものですので割愛しますが、正直、現状の回復は難しい、と俺は考えています」



 ここまで強硬な手段を取れる人間なのだ。これからさらにラビィを処刑場に上げることなど容易いだろう。口を挟むことはないが、サイの後ろではフォクスがひどく顔をしかめながら、腕を組んで壁にもたれていた。



「……この場所を、私は初めて知りました。サイ様も、以前からご存知だったのですか?」



 まさか逃げ出した公爵令嬢が普段通っている学院に潜伏しているなど、誰も考えないに違いない。隠れ家には最適だが、サイが知っていたというには、少し違和感のある場所だ。サイは硬い顔を僅かに緩め、苦笑した。「ここは、ラビィ様が普段よく行き来する場所の近くですから」



 つまり、何度も何度も中庭に移動するラビィの近辺を、念の為確認していたというわけだ。さすがに少し赤面した。彼にはひどく付き合わせたものだ。



「でも、ここもいつまでもというわけにもいかんでしょうね」



 フォクスは外の気配を探っているらしい。ときおり、壁に耳を当てるようなそぶりをしている。「……そうですね」 こんなところに引きこもっていても、いつかはバレてしまう。すでに、サイの中では結論づいていたことらしい。彼はラビィを見つめた。



「ラビィ様、無礼を承知でお伝えします。この国から逃げていただけませんか。不名誉な疑いを払拭することなく逃げろと、俺は酷い言葉をあなたにかけていることを、理解しています。けれども、あなたは死ぬべきではない」



 心の底から、彼はラビィを労っている。そのことが、ひどくよくわかった。そして幾度も考えたラビィの目的を、彼が話している。そのことが、なんだか不思議だった。



「……サイ様は、どうなさるおつもりなのですか?」



 彼もこの場に身を隠しているということは、彼自身もネルラの言葉に抵抗したのだろう。それならば無傷で日常に戻ることができるわけがない。サイは痛いところをつかれたというように、そっとラビィから視線を逃した。



「……俺は、あなたについて行くことができません。この国で、すべきことがある。けれども、俺の代わりにフォクスをつけます。こいつは案外器用なやつです。国境を通り抜け、船で隣国まで向かってください」



 任せてくれ、とでも言うように、フォクスがひらひらと片手を振っている。おそらく、サイは聖女の本来の力を知らないのだろう。聖女に悪意を持っている人間は、国境を通り抜けることができない。けれども、ラビィにはあの女の子からもらった力がある。国が変われば、文化も違う。そして言葉も異なるだろう。異国の暮らしは苦労をするに違いないが、生き残ることができる。ここで終わりの物語を作ることはない。それでも。



「逃げません」



 呟くような言葉が口から漏れた。だからラビィは、今度はしっかりと声をあげた。



「私は、逃げません!」



 サイとフォクスからすれば、愚かなことこの上ない発言なのだろう。ぽかりと口を開けてラビィの顔を見つめて、それから何を言っているかと呆れた。だから彼らの声を聞く前に、ラビィは必死で小さな拳を握って、自身の声を張り上げた。



「絶対に、嫌です! だいたいサイ様、あなたのすべきことってなんですか。私に加担してくださっている以上、あなたもネルラと敵対している。これから起こり得る、聖女の圧政と戦うおつもりですか。それとも、私の不名誉の払拭を、代わって一人で行うおつもりですか! ふざけないでください!」



 後者はもしかすると、というところだが、彼の性格からするとしかねないように感じたのだ。表情の変化を見たところ、どうやら図星だったらしい。



「私は他者の苦労を踏みにじってまで生きたくはありません。今まで、そうされて生きてきたからです! これは私とネルラの、二人の戦いです。あなた方は、どうぞすっこんでてくださいませ!」



 勢い余って叫んだセリフが、あまりにも失礼で、さっと嫌な汗が出た。彼らは危険を犯してまで、ラビィを助けてくれたというのに。鋭く視線を変えたサイに、ラビィは慌てた。「ごめんなさい、お二人には、感謝してもしきれません。ですから、私はあなた方を、もう巻き込みたくないんです」 動揺するあまりに、ひどく口早に話してしまったかもしれない。サイはさらに訝しげな顔をした。ですから、と言葉を続ける前に、「違う」 サイは彼女の声を遮った。



「なんで、あなたとネルラ、二人の戦いなんだ?」



 巻き込みたくはない。そう続けたラビィにも、不思議だった。一体彼女たちに何があるのか。ネルラが、もとはヒースフェン家のメイドだと言うことは知っている。けれども以前の彼女の噂は、今の彼女とは似ても似つかないものだ。彼からすれば、理解ができない。



「それ、は……」



 ラビィは言いよどんだ。



 言うべきではない、という気持ちと、言いたくはない、という気持ちの二つが入り混じっていた。ラビィにとって、暗い過去であるそれを、サイに知られたくはなかった。惨めな女だと思われたくもなかった。ただ、勇気が出なかったのだ。



 自身の指先を強く握りしめ、それきり声がでなくなってしまったラビィの前に、ゆっくりとサイは膝をついた。深い灰色の瞳が綺麗で、そんな彼の瞳をじっと見つめていると、ふと、静かな気持ちになっていく。柔らかなサイの声が聞こえた。



「ラビィ様。俺は以前に、もし俺に何かできることがあるのなら力になりたいと伝えた。あの気持ちに偽りはありません」



 すべてを、お伝えいただけませんか。そう告げる騎士の言葉はひどく穏やかで、安心した。





 ひそひそと、耳元で声がきこえる。



 ――――大丈夫、私が魔法を残してあげる。逃げるためではなく、生きるために、あなたに一つの魔法を伝える



 小さな、小さな言葉で、彼女はラビィの耳に囁いた。どうかこれが、あなたのほんの少しの勇気となりますように。白いワンピースが、可愛らしい彼女だ。






 手の中に、温かな光があった。




 一回分の魔法だと、そういった彼女のそれを、こっそりと指の先でひっかいた。少しずつ魔力がもれてしぼんでいく。陽だまりのような暖かさがあった。「私は」 きっとひどく情けない声が出るんだろう。そう思ったのに、案外落ち着いていて、自分でも驚いた。



「私は、ネルラに、隷従の魔法で操られていました。幼い頃から、ずっと」



 ぱちりと、サイとフォクス、二人の胸の内で、何かが弾けた。「なっんだ、これ、きもちわるっ!」 思わずフォクスが声をあげた。サイですらも立ち上がり、自身の胸を掴んで、ひどい違和感に震えた。まるで、自身の内側を書き換えられるようだ。



「ラビィ様、これは、一体」

「認識を阻害する魔法を、解除する魔法です」



 本来なら、国境を越えるために聖女から身を隠すための魔力で作られたものだ。逃げることも、進むこともできずに泣きじゃくるラビィに、あの少女が選択肢の一つとして与えてくれたものだった。ただでさえ少ない魔力が、少しずつ消えていく。これで本当に、逃げるための魔法としては役に立たずになってしまった。彼女は立ち向かうしかない。



「隷従の、魔法……」



 サイは静かに、ラビィの言葉を繰り返した。「なんで、今まで気づかなかったんだ」 言葉としては理解していたはずだった。なのに、まるでその選択肢は初めからなかったかのように、彼の中で消え失せていた。



「ずっと以前の聖女が、この国から消してしまったものです。ネルラは、幼い頃から私を操りました。そうして偶然、彼女の影の日と、私の光の日が重なるそのとき、やっとのことであの魔法から逃げることができたんです。サイ様と出会ったのは、その後のことです」



 呆然と、サイがラビィを見つめた。「一体、いつから」 あまりにも強い圧迫感に、ラビィは少しだけ後ずさった。「じゅ、十年ほど、前からです」 フォクスと二人、息を飲む音が聞こえた。「腐ってんな」 フォクスの声だ。「腐りきってる女だな!」 怒りをぶつけるように、彼は右足を地面に叩きつけた。



 そんな中、ただ静かにサイは自身を恥じた。呆れていた。そうして、自分でも驚くほどの怒りの感情に気づいた。なぜ気づかなかったと唇を噛み締めた。





 彼のそうした心情には気づかず、ラビィは彼らに説明した。



「魔法から逃げることができたと言っても、次にネルラから隷従の魔法をかけられてしまえば、また私は彼女に逆らうことができなくなります。この“聖女の存在を思い出す”魔法は、一度きりのもので、私の近くにいる人間しか対象になりません。本来なら、大勢を集めて発動させ、あとあとネルラを追い詰めるつもりでしたが、時間がありません。この魔法の魔力が消え去る前に動かなければ」



 隠れて、こそこそと動くことができない。ラビィは正面を切って、ネルラと戦わなければいけない。そう言ってサイを見つめると、彼はただ拳を強く握りしめ、震わせていた。「……サイ様?」 ラビィの声すらも届いていない。



「あの」

「はいはい。こりゃ最初の計画はなしだわ、方向修正。やるしかねえな」



 フォクスが、まさかの自身の主の頭を引っ叩いたものだから、ラビィは小さな悲鳴を上げた。さすがに無礼極まりすぎる、とサイとフォクス、二人を見比べた。頭を押さえてぎょっとフォクスを見るサイに彼は呆れた。「そんな化け物、自由にしとくわけにゃいかんでしょう。主様よ、目ぇ覚ませ」 その言葉で全ては不問になったらしい。彼らなりの関係なのだろう。



 サイは冷静さを取り戻し、ラビィと計画の詳細を確認した。



 聖女を思い出すこの魔法は、なるべく大勢の前で使わなければいけない。そうすれば少なくとも、その場にいるすべての人間の意識を元に戻すことができる。大勢の人間の思考が変われば、それはいつしか周囲の人々に伝播する。堤を崩す、蟻の穴ともなり得るのだ。



「……人を集める方法。せっかくだわ、逃げた私が学園にいると噂を広めましょう」



 つまりラビィが囮となって人々を呼び出すのだ。「しかし、それは」 危険すぎる、とサイは声をあげた。「いいんです。丁度都合もいいことだし。場所は中庭に決まりね」 気分は勝手知ったる我が家のようである。毎日毎日飽きもせずに訪れた場所だ。



「ヒースフェン家は、そろそろ大騒ぎになっているはず。サイ様、フェルを通して、お父様とお母様にこの場に来るように伝えてください。あとはもちろんバルド様にも。そうなるとネルラもやってくるわ。そこで全てを明らかにします」

「……わかりました」



 ゆっくりとサイは頷いた。



「とは言え、それじゃあギャラリーが少ないな。城の兵士も来るだろうけど、心もとない」



 首を傾げたフォクスの声に、そうね、とラビィは返答する。「それなら、レオンの出番かも。あの人なら、きっとすでに交友関係を広げているはず。逃げた令嬢の大立ち回りとなれば、面白がって大勢を引き連れてくるわ」「なんだか嫌だけど、そこは俺が担当しますよ」 ハミリオン商店の坊っちゃんだね、とすぐさま話の通じるフォクスが頼りになる。



「あとはマシューもどうかしら。学園の騒動となると、教師達も関わってくるはず。情報を流してみんなにも来てもらいましょう」

「なんだかしっちゃかめっちゃかになりそうだなあ」



 サイは無言のままだが、フォクスの言葉には同意らしい。





 こんなことになるだなんて、思わなかった。ネルラと戦うと決めたときも、一人きりで、まるで闇の中に立っているようだった。



 ラビィには、まともな体も、立場もなくて、苦労を重ねて、やっとこさ人並みになったくらいだ。賢い頭を持っているわけでも、強い魔力があるわけでもない。そんな自分がネルラに立ち向かう。その状況が嘘のようで、自分でも驚いていた。



 ――――私にも、限界があるんです。


 これはいつの日か、マシューに叫んだことだ。



(一人きりじゃ、きっとなんにもできなかった)



 この場にいるサイやフォクスだけではない。様々な人の力を借りて、ラビィは今、この場に立っている。そう考えると胸が熱くなって、今日はひどく涙腺がもろくなってしまう日のようで、二人にはばれないように、ぐっと我慢をして飲み込んだ。



「さあ、狐退治のお時間ね!」



 そうして拳を持ち上げ宣言したところ、「えっ、俺のこと?」 空気の読めない男が一人いた。現在では自身の主に口元を押さえられ、もがもが言葉を繰り返しているので言い直しである。




「ネルラ、女狐……いいやトゲトゲの、ハリネズミ退治です。必ず、勝ってみせますよ!」

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