第42話 過去の記憶
「ラビィ様、一体何を読んでいらっしゃるのですか?」
サイの問いかけに、ラビィは無言のまま本を見せた。過去に一度読んだことがあるものだ。そうしてページを開く。一枚の紙が挟まれていた。その紙を、サイに渡した。
「サイ様、こちらに書いてあるものを、読むことができますか?」
「書いてあるもの……?」
サイは首を傾げた。やはりそうか。この紙は、魔紙でできている。ラビィが使う、教科書代わりの紙と同じだ。今でこそ魔力コストがかかるもののありふれているものだが、昔は高級品だったときく。劣化もせず、長時間保存できることから、書物として重宝されていたが、いかんせん文字を書き込める人間が少なく、過去の本は、未だにただの紙のものが大半で、少しずつ魔紙に書き写されている最中なのだ。
「ただの、白い紙にしか見えませんが……」
ラビィは、長く息を吐き出した。これでは本当に、ただの魔法だ。以前にバルドがこの本を読んでいたとき、何も言わなかった理由がこれだ。この手紙の文字は、聖女に操られているものしか見ることができない。もしくは過去を含め、操られていたもの、と言えばいいのか。
『あなたに贈ります』
そう冒頭に書かれているものだ。誰かに宛てた恋文であると、そう思い違いをしていた。これは過去からの手紙だ。三番目の聖女からの、伝言だった。
手紙に書いてある内容は、ラビィにとって、至極どうでもいいことが大半だった。自身が三番目の聖女であること。操られたものに対する謝罪と、隷従の魔法を解く方法は、互いのどちらかの死か、ラビィがネルラの魔力を上回ること。それだけだ。後者が難しければ、すぐさまに逃げるように、というアドバイスが綴られていて、頭が痛くなるばかりだった。
「そんなこと、とっくに知ってるわよ……」
自室でため息をついた。確かにこの情報は転生者であるラビィを除けば有意義なものかもしれないけれど、こちらはゲームの知識がある。今更なことこの上ない。その上“三番目”というところが理解できない。聖女と言えば、ネルラ以前に一人いただけのはず。この手紙通りなら、ネルラは四番目ということになるが、そんなことはきいたこともない。
魔法と言葉できくと、なんでもできてしまいそうだが、実際のところこの国で使われるものは自然の力を借りた物理的なものばかりだ。あとは魔力を注ぎ込んで機械がわりに道具を使うくらいで、対象者を選んで文字を見せるなんて本当に魔法じみたものなど、隷従の魔法しかり、ただただ聖女が特別仕様だとわかったくらいで、絶望が広がった。「あーー!!」 ラビィは頭をぐしゃぐしゃにかきむしった。
やっぱり、とにかくさっさと逃げたらいい。わかった、わかりました。それでいいです、とやけになってベッドに飛び込んだとき、「だめだめ、ただ逃げるだけじゃ」 小さな女の子が立っていた。
ネルラとよく似た、けれどもどこか違う、茶髪の少女。
「やっと見つけてくれた。はじめまして、私、三番目の聖女です」
あなたの名前は知らないけれど、こんにちは、よろしくね、と笑う子供を前にして、ラビィは叫んだ。「ひいいーーーー!!!」 どこから来た。どこから入ってきた。
けらけらと、少女は笑っていた。
***
「あら驚かせてしまったの? 大声ねえ。でも大丈夫、ここはもう夢の中だから!」
ぴしりと少女がブイサインを作って、真っ白なワンピースを閃かせている。夢の中、という言葉に、ラビィは慌てて周囲を見回した。気づけば真っ暗で、彼女が飛び込んだベッドすらもない。ただラビィは少女と向かい合って立っている。おかしな状況だった。どうにも足元がふわふわして気持ちが悪いのに、彼女の言葉はしっかりと芯に響いてくる。それに、ひどく聞き慣れた声にも感じた。ゲームのオープニングで何度も聞いたからという、それだけの理由でもないような気もした。
「私、あなたに何度も声をかけていたのよ。負けないでって。とは言っても、魔力を節約しなければいけなかったから、できても夢の中とか、ときおり囁く程度だったんだけど」
応援してたの! と小さな体で力拳を作る様を見て、ラビィは困惑した。確かに、そんな気もする。とは言え、胸のざわつきは変わらないが。
「あの、あなたは……」
「そうね、ちゃんと言わなくっちゃ。私、ただの手紙よ。本当の私がなすべきことをなす前に、念のために手紙を残しておいたの。魔力の節約で、子供の姿をしているけれど、本当はもっと年頃よ」
小さい子供とは思わないでちょうだいね、とちっちと人差し指を振っている。
「今がいったい、いつの時代なのかわからないけれど、いつか隷従の魔法にかけられる人が出てきてしまったら困らないようにと、魔紙の中にたくさんの魔力を注ぎ込んでおいたの。だから、私はあなたと会話をしているように見えるかもしれないけれど、実際は私が想定した内容の返事をしているだけだから、そこのところは勘弁してちょうだいね」
つまりは、とても立体的でリアルなビデオレターを見ているということだろうか。とにかく頷いた。そうしたラビィの反応を見て、彼女は満足げに笑った。「私の名前はなんでもいいわ。だってあなたの名前も知らないし、知ることができないからね。ねえあなた、おかしいと思ったことはない?」
なにが、と返答をする前に、ラビィは自分自身の意識が、少しずつ薄くなっていることに気がついた。まるで夢の中で聖女と混ざり合うようで、彼女と近づいて、遠くなって、やっぱり近づく。彼女の声が自分で、自分の声が彼女のようだ。ふわふわとした意識が怖いような、ただ不思議なだけなような、わけもわからない感覚だった。なにが、不思議なの、と尋ねる声はラビィで、答える声もラビィだった。彼女の知識が、ゆっくりと体に注ぎ込まれて消えていく。
――――なぜ誰も気づいてくれないのだろう。ただネルラに操られているだけなのに。どうして、賢い大人ばかりなのに、そんなこともわからないのだろう。
まるで大人の誰もが、ラビィをいないものとして扱っているかのようだった。きっと調べればすぐに分かることなのに、子供の自分でさえも、たどり着いたことなのに。
すべてを消してやろう。
そう考えたのは、ラビィではない。体に宿る、三番目の聖女の気持ちだ。この国は狂っている。ただの平民のくせに魔力を持っていた彼女は、いつしかそう考えるようになった。魔法学院に入学して、聖女達と同じ魔力を持っているとわかった彼女は、二番目の聖女の弟子となった。
彼は聖女とは名ばかりで、男で、口調も荒くて、彼女を孫のように扱ったけれど、冷たい鉄の輪を、いつも足にはめ込んで、宝珠を握りしめていた。あのじゃらじゃらと重たい鎖は、いつか自身につけられることになる。怖くて、恐ろしくてたまらなかった。いつしか彼女は王家に囚われ、出口もない悪夢に囚われた。
「でも、仕方のないことだとも思ってはいたの。だって私、もとはただの平民だもの」
名が与えられないものには、魔力はない。それが当たり前のはずなのに、彼女は違った。彼女の師匠もそうだった。だから貴族にものとして扱われることは仕方のないことで、どこか諦めた気持ちもあった。でも違った。
「聖女はね、平民から現れるのよ。一人目も、二人目も、私もそうだったから、王家の人間も気づいてしまったのね。聖女なんていかにもな名前をつけられているけど、本当は違う。ただの呪われた力よ。名という守りからこぼれた雫が、おどろおどろしい塊となって、ふとした拍子に現れる。それが私達なの」
一番目の聖女は、ただの化け物だった。その力を使い、国に様々な恩恵を与え、守りの力すらも与えた。
「でも、私も師匠も、ただ呪いの力がちょっとあるだけで、一番目の聖女の足元にも及ばなかった。だから王家に使われるしかなかったわ。だってこんな便利な力、彼らが使わないわけないでしょう」
天敵を活かすも殺すも、自由に扱うことができる。そうして、敵に回せば厄介な存在となる。
「私ね、平民なんだけれど、実は皇子様達と幼馴染なの。驚きでしょ。あの人はちょっとやんちゃなところがあったから、お城を抜け出していたのね。あの人と、弟と、三人でよく遊んだわ。金髪の、可愛らしい男の子だった。でもそのときはまさか皇子様だなんて知らなくって、学院で再会したとき、びっくりしたの」
オープニングで手をつないでいたバルドと良く似た少年だろうか。もしかすると、彼はバルドの祖先なのかもしれない。
「とっても大好きだった。本当に、とても」
だから、許せなかったのだ。
彼女の初めての魔法は、彼に使わなければならなかった。お城とは、表ばかりが綺麗で、本当は全て嘘っぱちなのだと知った。誰もが敵ばかりで、味方なんてどこにもいない。血が出るほどに唇を噛み締めた。好きな男を、この手で苦しめた。老いた師匠の手を握りながらも、運命を恨んだ。だから全てを消し去ろうとした。
「師匠は、私よりもずっと長く王家に繋がれていたから、宝珠の力を少しずつ変質させていくことができた。自分よりも、お前が使えと言い残して死んでしまったわ。初代の聖女が残した信じられないほど大きな力よ。その力を使って、聖女という存在そのものを、この国から消し去ってしまおうと思ったの」
――――聖女に関する記載は、あまりにも不自然なんだ。まるで意図的に消し去って、僕たちはその残りかすを眺めているだけなような、そんな感覚さえする
あのときのバルドの言葉は、案外的を射ているものだった。
「そんなこと、どうやって?」
「聖女に関するものに対して人々の意識を操るの。見えるものを見えなくしてしまう。あとは物理的なものは、私ができるだけ処分したつもりよ。これからも平民から聖女は生まれる。でも、力の使い方を知らなければ一生ただの平民として生きていける。でももしかすると、消し残しがあるかもしれない。だから念の為、あなた以外には誰にも見つからないように言葉を隠した」
見えるものを見えなくする。つまりは、隷従の魔法という存在を知っていても、思考がそれを阻害する。もちろん限度はあるだろう。けれどもラビィは少しずつ狂っていった。だから家族も、誰もがただ悪魔が憑いたのだと思いこんで、こういった性根の少女なのだと諦めた。
魔力の総量を知られないようにするのは、聖女に操られないため。けれどもその事実は消えてしまったから、目的もなくただの慣習のようになってしまって、行動に齟齬が出る。あまりにも大きすぎる影響は消し切ることができない。だから一人目の聖女のみを残して、二番目と三番目は消え失せた。
「ねえ、この世界が乙女ゲームにそっくりなことは、何かの影響があるの?」
「乙女ゲーム? 何を言っているかわからないわ」
「異世界にあるゲームのこと。思い浮かぶことはない?」
「何を言っているかわからないわ」
まるで壊れたテープを繰り返すかのように、そっくり同じ口調で、彼女は言葉を繰り返した。先程、ビデオテープのようなものだと思ったばかりだ。彼女の想定にない言葉は返答することができないのだろう。つまり、と言葉を選んだ。
「今の私とそっくりな物語が存在するの。心当たりはある?」
「そうね、きっと私は世界を呪いながら消えていったでしょうから、あまりにも強い想いが、何らかの影響を及ぼすことはあるかもしれないわ。王家という存在と、好きな男を操った私という聖女の存在が憎くてたまらなかったから」
――――最高の、バッドエンドをあなたに。
物語のキャッチフレーズだ。つまりあれは、王家の終焉までの物語だったということになる。誰もがバッドエンドで終わるはずが、バルドのみがネルラと結ばれ、幸せに終わる。てっきりラビィは、隷従という力を隠し持つネルラと結婚することこそが、製作者側が意図するバッドエンドだと思っていたが、もしかすると、一歩その先があるのかもしれない。
「王家の、終焉……」
様々な引っ掛かりが頭の中でぐるぐると回っている。(影の日は、家族しかしらない……) 自身が生まれたときに決められる日。バルドの影の日を、ラビィは知らない。兄弟が知ることは争いの種火となる可能性があるからだ。けれども万一の可能性を考えて両親は知る権利がある。あとは、生涯の伴侶。婚姻の儀を行い、互いに光と影の日を教え合うのだ。
(つまり、ネルラは)
ずっと、彼女はバルドを愛しているものだと思っていた。そのために、ラビィを蹴落としたのだと。けれども違う。バルドの影の日を知るためだった。そうすれば、彼女は新たな傀儡を得ることができる。ラビィの首を切り落として、次に操るものはこの国そのものだ。
この作品そのものが、バッドエンドでしかない。
あまりにも、壮大すぎる目的だ。
(ネルラは、自分がもともと、聖女だと知っていた……?)
そうでなければ、もとはただの平民である彼女がバルドと一緒になることなんてできない。けれどもわからない。あくまでも、ゲームはゲームだけの話だ、と笑い飛ばすには難しかった。この世界と、物語そのものは確かに干渉しあっていた。
気づけば、ラビィは小さな少女と向き合っていた。にこにこと、ただお菓子をつついているような顔を彼女がしているのは、すでに消えてしまった人間だからだ。ここにいるのは彼女の魔力で、本当はラビィも何も、見えてはいない。
けれども、一つだけ気になることがあった。
「ねぇ、私が、誰にも気づいてもらえなかったのは、あなたのせいなの?」
ただ静かに、ラビィは問いかけた。
三番目の聖女は、その言葉をきいて、ぱちりと瞬いた。「ええそうよ」 そうして、ひどくあっけらかんと頷いた。
「私が中途半端に聖女という存在を消してしまったせいでしょうね。恨んでくれて構わないわ」
そんな淡々とした声を聞いて、今度はラビィが笑う番だった。想定できていないものは答えることができない。そう彼女は言っていた。つまり、彼女はこの答えを想定していた。「……いいわよ。今更あなたを恨んだところでなにもならないし。ネルラにされたことはあっても、あなたにされたことはないわ」 そんなラビィの言葉は彼女には聞こえていないのだろう。彼女にとっては、いつか来るかもしれないラビィという存在が、どう返答するのか、思いつくこともできなかったのかもしれない。
「私から言えることは、一つだけ。逃げなさい、ということ。でもただ逃げてはだめ。聖女の守りの力は、この国を物理的に包み込んでいるの。悪意を持って外部の人間が侵入することはできないし、その反対もそう。聖女という存在に敵対するものが、この国から逃げ出すことはできない。つまり、あなたは国境を越えることができない」
その情報は初耳だ。聖女が残した宝珠が国を守っているからこそ、他国からの侵入を防いでいる、ということは理解していたが、出ることもできないとなると、いくらお金を持っていたところで八方塞がりとなってしまう。
「それは……」
「ああ、でも安心して。私があなたに魔法をあげる。聖女の目を惑わす魔法よ。これさえあれば、いつでも逃げ切ることができる。そしてすぐさますべてを捨てて他国に向かうの。それしか方法はないわ」
少女は両手をゆっくりと合わせた。そうして、ふわふわと明るい光が彼女の手元からこぼれ落ちた。「一回分程度の魔力を詰め込んでいる。使う日がないことを祈っていたけれど」 本来ならば、聖女という存在は葬り去られるはずだった。だから全ては彼女の想定外なのだろう。けれども、念入りにも手紙を残してくれていたことを感謝すべきなのだろうか。
これで、ラビィの戦いは終わる。
ゆっくりと、息をついた。当分は困らない程度のお金を集めることができたし、体力もついた。きっとこれからは大変だろうけど、それでも今よりもずっとまともで、尊厳のある日々を送ることができる。そう考えると、ひどく明るい気持ちになった。「これを受け取って」 少女が、ゆっくりと両手を差し出した。それにラビィも倣った。そうすべきだった。なのに、体がぴくりとも動かなかった。
本当に、逃げてしまってもいいのか。
姉上、とこちらを呼ぶ声が聞こえる。公爵家の責任を、一人で背負って戦い続けていた少年だ。互いを気にして、それでも目を逸らし続けていた。けれども、ラビィがラビィであることに、フェルはひどく喜んでくれた。
両親とは、もうずっと正面を向いて話したことがない。怖かった。いらない子供で、ラビィが生まれたことに後悔をしているのではないかと、考えれば考えるほど怖くて、背を向けた。けれども、もしかしたらという期待を捨てることができなかった。でも本当は、謝りたかった。たくさんの心配と、不安と、迷惑をかけたことを、いつかきちんと謝って彼らと会話をしたかった。
バルドは、正直なところいい感情を持っているわけではない。けれども、悪い感情を持っているわけでもないのだ。彼は彼なりに、平和であろうとしたし、おかしな女と噂されるラビィにも、見かけばかりは平等に接した。善ではないが、悪でもない。そんな少年だった。
メイドのマリは最初こそは面倒で、実は今でも面倒だと思っている。いくらこちらが嫌がっても頑なに仕事を遂行しようとするし、そんなときには礼儀さえも抜けている。それでも、彼女がただ真面目な人間だということは理解していた。使用人のことはどうでもいいけれど、なんだかんだと言いながらも世話になったとも思っている。
そうして、サイ。
――――あなたのその努力を見ないふりをすることもできない
彼は、初めてラビィを見てくれた人だ。
彼のことを考えると、いつもしくしくと胸が傷んだ。いつも少しばかりの距離を開けて、そっとラビィのあとをついてくるから、その距離が悲しくて、本当は、隣にいて欲しかった。
彼がラビィの傍にいるのは、バルドからの命令だと理解しているし、彼からすれば、ただラビィを哀れんでいるだけだともわかっている。それでも、ラビィの胸の奥には小さな蕾のような気持ちが、少しずつ、少しずつ大きくなった。これは、ラビィからの一方的な想いだ。きっと迷惑極まりない。皇子の騎士である彼に、向けるべきではない感情だった。なのに、どうしても、どうしても、サイを置いて一人きりで無事に逃げるだなんて、そんなこと、できなかった。元気がでました、ありがとうございます、と笑う彼とずっと一緒にいたかった。
苦しかったことも、辛かったこともたくさんある。けれども、街にこっそりと繰り出して、レオンの店に行って、彼や、その従業員たちと談笑する日々は温かかったし、始めこそおかしな嫌がらせはあったが、今ではラビィの成績を誰よりも心配して、お節介にも課題を増やしてくる白黒頭の教師も嫌いではない。マシューは教師と生徒として、ラビィと対等な関係を新たに作ろうとしてくれている。
たくさんの思い出や、苦しみや、小さな喜びがつまっていた。こぼれていく涙が、一体どんな意味であるのか、ラビィにはわからない。選ぶことなんてできなかった。死にたくなんてない。けれども、見捨てたくもない。子供のようにうずくまって、息を枯らした。
「……あなたにも、大事なものがあるのね」
気づけば少女は、ラビィをそっと抱きしめていた。「でも、怖いのよね。きっと隷従の魔法は、あなたの尊厳すべてを奪って生きてきた。だから、とても、とても、私なんかじゃ想像できないくらい、怖いのよね」 負けてはいけない。そんな言葉は簡単だ。ラビィはずっと、“負け”続けていた。呪いが消えてしまった今も変わらない。だから、きっと何をしても失敗してしまうに決まっている。そんなわけない、今度こそ。そう思うのに、いつまで経っても心に刻まれた本質は変わらない。
「本当は、逃げたくなんてなかったのにね。“あの人”もそうだった。私は逃げてと必死で伝えたのに。ねえ、名前も知らないあなた」
小さな手のひらが、優しくラビィの頬をなでた。その手のひらが温かく感じたのは、気の所為なのかもしれない。
「何も捨てることができないなら、戦わなきゃだめよ。戦って、戦って、勝利を掴むの。大丈夫、私が魔法を残してあげる。逃げるためではなく、生きるために、あなたに一つの魔法を伝える」
そう言って、そっとラビィの耳もとに言葉を囁いた。その言葉をきいて、ラビィは僅かに瞳を見開いた。こぼれていた涙も、止まってしまった。
「人は、一人では生きられないものね。限界があるもの。本当は、危険なことなんてしないで欲しい。それでも、一人きりで逃げるなんて、そっちの方が怖いと感じてしまうこともあるわよね」
私だって師匠がいなければ、とっくに壊れてしまっていたかも、と小さな声で呟く彼女に、ふとラビィは問いかけた。「ねえ、あなたは、どうなってしまったの?」 宝珠を使って、人々の記憶を改変する、と言っていた。そんな大掛かりなことをして、彼女自身はどうなってしまったのだろうか。「さあ?」と聖女は首を傾げた。
「私もこれからしにいくところだから、結果はわからない。でもまあ、きっと死んじゃったんじゃないかしら」
それでも、あの人さえ生きていてくれたらいいの、と笑う彼女のその人とは、金髪の少年のことだろう。「ねえ、あなたの答えを本当の私は聞くことはできないけれど、ホワイティ家に、金髪の、黒目の子はいるのかしら。それって、あの人の子孫なのかしら。王家は消えてしまえばいいと思うのに、それでも彼には生きて、この国が平和に続いていってくれればいいと、そうも考えるの」
人間って難しいわ、と彼女は可愛らしく八重歯を見せて笑った。
そんな彼女に、どう答えればいいかもわからなかった。とっくに死んでしまった、言葉だけの彼女に。
目が覚めると柔らかい光がカーテンの隙間からこぼれていた。抱きしめて寝たはずの手紙は、すっかり真っ白に変わっていた。彼女はただ一つ、ラビィに魔法を授けて消えてしまった。
負けてはいけないと、ラビィに声を掛け続けてくれていた、あの少女は。
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