第9話 マリというメイド
ラビィは壊れたティーカップの取っ手を拾った。細い、赤い縁が可愛らしく、お気に入りのカップだった。もったいない、とひっそりと息をついた。
このカップ一つが、一体いくらの金額になるのか。逃亡資金は多いに越したことはない。他にもラビィ専用の、同じカップはいくつも用意されているが、セットであればあるほど高くなる。この一つの欠落が、一体どれほどの損失だったのか。ギリッと歯を噛み締めたが、そんなことをしている場合ではない。
今この瞬間、ラビィは悪女になるべきだった。長いぼさぼさの髪をかきあげ、メイドをじろりと、いや、ぎょろりと睨む。不審げに、少女は体を強張らせた。彼女が、ネルラと繋がっている。ラビィが魔女であると噂を流したのも彼女だろう。仕事が終わってからも、わざわざラビィの挙動を観察していたに違いない。
「お嬢様、わたくし、何か失礼を致しましたでしょうか?」
「ええ、とってもね」
ラビィの魔力は、ティーカップ一杯程度。そしてこの国は大海に面しているからか、水にまつわる魔力を持つものが多い。ラビィも例にもれずそうだった。つまりはこの紅茶程度なら、わずかに口にふくめば、何が入っているか理解できる。この味は知っている。ネルラがよく用意した紅茶だ。人の思考を、曖昧にさせる薬が入っている。
初めて飲んだときはぼんやりとして、どこか気分がよくなって、うっとりとした。そうして繰り返しているうちに、気がついた。ラビィはネルラに操られてはいたが、それはあくまでも表面上だ。心の中では、どうにかして彼女から逃れるための突破口がないものかと捜し続けていた。結局、そんなものはなく、いつか自由になる日を待ち望んでいたのだが、ネルラからすれば万一、ということもある。より彼女の傀儡らしくなれるように、様々な手を打っていたのだろう。
ラビィとて、ただ枕を濡らし続けていたわけではない。ラビィは“人前でネルラをいじめること”なら許可されていた。可能な限り、出された紅茶は目の前でびしゃびしゃにして、ときには彼女の頭にかけてやった。そんなラビィの様子を、父や母、そしてフェルは信じられないものを見るように口元を抑え、彼女を叱責した。
『あんまりにもマヌケな面が目の前にあったんですもの。紅茶をぶっかけてあげたくなったの』
からからと笑う鶏ガラのようなこの身を見て、彼らが次第に距離を置き、ラビィをいないものとして扱うようになったのはすぐのことだ。言葉が通じない狂人と判断される程度には、ラビィはうまくやってきた。
だから、ネルラも知らないはず。ラビィが、彼女の“薬”から、必死に逃げ続けて、抵抗してきたことを。
「これは、ネルラが準備したものね。あまりにも臭くて飲めたものではないわ」
そう鼻で笑うと、マリの瞳の奥が、小さな火種がくすぶるようにちかりと光った。苛立っている。そんな様子を、マリは隠そうともしない。苦笑して、その姿を見て理解した。
マリは、これが“毒”だとは知らない。
「私の滋養のためと、馬鹿の一つ覚えで飲まされたわ。屋敷を去ってまで、面倒なことを置いていくのね」
そんなことを今まで言われた記憶もないが、さてどうかしら、と窺った。案の定、マリは拳を握りながら口元を噛み締め、「ネルラは!」 己の立場を忘れて叫んだ。「ネルラは、いつもあなたのことを考えていたわ!」 いっそ、ここまで騙されているのならば清々しい。
ラビィはマリのことを知っている。直接関わったことはないが、時折この部屋から見下ろすと、使用人たちの子供を集めて、楽しげに笑っていた。面倒見の良い、正義感の溢れる少女であることは理解していた。だからこそ、ネルラからの指示を頑なに守っているのだろう。
(ネルラは、“天使”なのだから、毒を飲ませてとお願いするわけがないわ)
あくまでも、“ラビィのため”とうそぶいたのだろう。想像に難くない。
「ありがた迷惑、という言葉はご存知? 本当に、あの女には辟易したわ。いなくなってくれてホッとする」
嘘ではない。ただ、マリの心情をわざとえぐろうとする自身のこの言葉は好きではない。そして、そんなマリを利用するネルラがさらに許せなかった。「あなたは本が好きだったものね。仲良く手紙でも書いているのかしら。その中にしっかり書いていてくださらない? あんたのくさいお茶はお断りだってね」 そんな気持ちをごまかすように、ラビィは吐き捨てた。
マリはカッと顔を赤くさせた。そうしてスカートを翻し、扉に向かった。「待ちなさい。あなたのミスで汚らしいことになっているのよ。さっさと掃除の一つでもしたらどう? 壊れたカップは、きちんと自分の給料から弁償しておきなさい」 我ながらよく口が回るものだ。今度こそ、マリは部屋を飛び出した。
「まあ、ここまで言っておけば大丈夫かしら」
マリには申し訳がないが、気を抜いた途端にあの薬をもられてしまってはたまらない。もちろん、カップの弁償をマリが行うこともないだろう。万一マリがそうメイド長やラビィの両親に伝えたところで、状況を考えれば彼女は被害者だ。そもそもメイドが仕事中に万一の破損をしてしまった場合も、通常は責任を問われはしない。
マリは、ネルラに手紙を書くのだろう。あれだけきちんと煽ってやったのだ。心優しいネルラを悲しませないようにと、必死に言葉をごまかすだろう。万一、事実を書いたとしても問題がないように振る舞ったつもりだ。
「疲れる……」
勝手にため息が出た。ところで、この床に広がりきった紅茶を片付けるのは、私の役目なんだろうか。運動になりそうだから別にいいけど。
***
マリはあまりの悔しさにスカートを握りしめた。マリが初めてラビィと出会ったのは数年前のことだ。
行儀見習いとしてヒースフェン家のメイドとなるとき、あまりの不安に震えた指先が止まらなかった。だから母が、そっと一冊、本を与えてくれた。本当は、こういったものを持っていってはいけないのだろうけど、と言葉を添えて。本を好む女は嫁入り先には好かれない。女は文字を書けない、わからないぐらいで丁度いいのだ、と父はよくマリにそう語っていた。
それでも、母が預けたその本は、マリに勇気をくれた。ヒースフェンのお屋敷には、恐ろしい少女がいた。銀髪で、ぎらぎらとした赤い瞳はいつも剣呑に細められていて、ときには叫びすぎて喉がガラガラだった。初めて目にしたとき、ラビィは茶色い髪の毛が可愛らしい少女に罵声を浴びせ、様々なものに八つ当たりのように暴れていた。
これが、公爵令嬢なのかと、ゾッとした。そう感じたのはマリだけではないようで、使用人たちも、誰も彼女に関わろうとはしなかった。そんな中、唯一、ネルラはラビィに寄り添った。だというのに、ラビィはいつも彼女を貶し、美しさのかけらもないその姿で、可愛らしい彼女を嗤った。マリは年月と共に、幼い自分を隠す術を覚えて、ラビィに対して、心を殺す術を学んだ。なのに、ネルラは違った。ずっとお嬢様に優しかった。
ネルラは、屋敷を出る際に、「どうか、お嬢様をお願いね」とそっと彼女の手を握った。その手のひらが、長くメイドをしている割にはとても綺麗で美しいことには疑問を抱いたが、こんなにも可愛らしい彼女なのだ。自分とは違い、指先までもきっと完璧なのだろう、と思い込んだ。
ラビィのお付きとなることは、マリ自身が望んだことだ。他の誰かが罵られる姿を見るより、ずっといいと思った。ただ拍子抜けなことにも、ラビィの世話は簡単で、服は一人で着替えるし、おとなしいし、やることもない。それでも時折部屋から抜け出しているようだったから、ひっそりと様子を窺っていたところ、一人の使用人をいびっていた。
案の定だ。
マリは慌てて、周囲に警告を促した。それがいつの間にか、魔女という言葉に変わっていたのは彼女の望むところではないが、そう見られても仕方がないところはあったし、とあえて否定の言葉まではあげなかった。
あの、真っ赤な美しい紅茶は、ネルラから譲り受けたものだ。お嬢様は体が弱く、滋養にいいものを食べることができないから、週に一度、この薬を流し込み、彼女に飲ませてやってほしいと。自分が渡したと言えばきっと反発されるだろうから、どうか彼女に秘密にして、匂いの強い紅茶と混ぜてほしい、と言っていた。
ラビィを想ってのことなのに。なのに、あの態度だ。
「ああもう!」
腹立たしい、と床を蹴り飛ばした。マリは知らない。全てが騙されていることに。彼女はネルラに、毒を持たされた。そんなことも知らず、自身の正義感との板挟みで、できることは苛立たしく歩を進めるだけだった。ラビィが言うとおりに、ネルラはマリに手紙を望んでいた。定期的に、お嬢様の様子を教えてほしいと、そう言っていた。文字を書けるメイドは、自分くらいだったから。けれども、どう書けというのだろう。渡したお茶をひっくり返され、せっかく彼女が用意した薬すらも飲んでくれない。そんなこと、書けるわけがない。
きっと自分は、彼女が悲しまぬようにと適当に誤魔化した言葉を書くんだろう。情けなかった。そんな中、ふとした違和感に襲われた。
『あなたは本が好きだったものね。仲良く手紙でも書いているのかしら』
(……なぜ、お嬢様は私が本を好きだと知っているの?)
一度、ひっそりと庭の影に隠れて本を読んでいるとき、うっかりラビィと目が合ってしまったことがある。きらきらとした日差しの中で、久しぶりに本を読みたいと、その欲望に抗えなかったのだ。その日は珍しく、ラビィは散歩をしていた。本当に、珍しいことだった。ネルラが、ラビィの婚約者であるバルドとひっそりと、お忍びで街に出掛けたことを知り、情けなく泣き場所を求めていたのだ。
暗い部屋の中で涙をこぼすよりも、明るい中にいるほうが、少しくらい救われるような気がした。
けれどもマリがそんなことを知るわけもなく、唐突に、ぬっと飛び出した令嬢の影に悲鳴を上げた。まだ、今ほど心を殺して生きることができなかった。
ぎょろりと、大きな瞳がこちらを見下ろした。持っていた本を睨まれたことに気づき、遅いと気づきながらも抱きしめるようにして必死で隠した。
殴られるか、暴れられるか、それとも取り上げられるのか――――
様々な可能性に気づいて、怖くて逃げることもできなかった。なのに、ラビィは小さな声で、ぽそりと呟くだけだった。
「面白そうね」
ただそれだけだ。それからまたゆらりと消えた。おばけみたいだ、と幼い気持ちで感じた。それから月日が経って、そんなことはすっかり忘れていた。まさかあんな小さな出来事を、ラビィが覚えていたのだろうか。そんなわけない。違うに決まってる。
そう思うのに。
(私はお嬢様付きのメイドよ)
たとえ彼女の性格が、いかに悪かろうと、恐ろしかろうと。フンッと鼻から息を吐き出した。それから、来た道を、くるりと反転した。
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