第3話 天使な悪魔

 ラビィが彼女に操られていたと証明するのは簡単だ。胸元にある隷従の印を周囲に見せつければいい。その瞬間、奴隷と化していたという事実にラビィの貴族としての尊厳は消え失せるが、そんなものどうだっていい。ただし証拠の印は、今はもう消えてしまっているし、操られているときにはそれを見せることなどできはしない。許されない。


 つまりは悪魔の証明だ。


 公爵である父に全てを告げてはどうかと考えたが、これも無理な話だろう。ラビィはネルラにより、我儘放題の頭のおかしい女になるよう命じられた。家族や使用人たち、屋敷にいるもの全てに暴言を吐き、令嬢としてあるまじき振る舞いを強制されていた。ネルラは彼女付きのメイドだったから、特にひどくいじめた。周囲の人間たちは、ネルラに逃げるようにとアドバイスをしていたことを知っている。けれども彼女は健気に首を振って、お嬢様のためにと尽くした。もちろん、表向きの話だが。




 そんなラビィの戯言を、今更誰も信じない。下手をするとすぐさまネルラの耳に届き、首切りエンドだ。前世で死んだ記憶はおぼろげだけど、今更二度目の死の覚悟をするのは勘弁だ。


 しとしとと、窓の外では雨が降り続けている。現状を確認し、ため息をついた。そうして、軽やかなノックの音が聞こえた。彼女の部屋に訪ねてくる人間など、一人きりしかいない。



「失礼致します、お嬢様」



 彼女の可愛らしくて、くりくりと丸い瞳を見ると、心臓が飛び跳ねるかと思った。ネルラ・ハリィ。今までは、ただのネルラとして生きてきたこの少女だが、つい最近、ハリィと言う家名をもらったばかりだ。原作はすでに進みだしている。



 ネルラと二人きりになり、あまりの緊張に生唾を飲み込んだ。元の自身を取り戻したことを、彼女に知られるわけにはいかない。



「フン、お嬢様だなんて。あなたに言われるとぞっとする。さっさと本性を出したらどうなの」



 両手を組みながら、じろりとネルラを睨む。大丈夫だ。ラビィはネルラと二人きりになるとき、恐怖を隠すために、あるときから自身を大きく見せるような言葉を使うようになっていた。心の底は得体のしれない少女を前にして、いつも震えていた。だからいつもと変わらない。バレるわけがない。



 それに今のラビィは、過去の“私”を思い出したから、いつもよりもずっと図太い。見知らぬ会社に飛び込み、見込みのない電話をかけ続ける、鉄のメンタルを持っていた営業職をなめるなよ、と小娘に言ってやりたいけど、なんのことかわからないだろうから口をつぐむ。



 ネルラはそんなラビィの全てを見通したようにくすくすと口元に手をあてて笑った。「いやだ、あなただってお嬢様じゃない。すっかり骨と皮だけだけど」 この姿はネルラがそうさせた。食事を家族と取ることを禁じられ、すべて室内で取るようにと命じられたのだ。そうして食べ物の大半はラビィの口に入らず、ネルラに渡った。おかげで髪も爪もぱさぱさだ。公爵家の食事はさぞ美味しかっただろう、このやろう。



「そうよ。いい出汁がとれそうでしょ」

「……ダシ?」



 しまった。日本の頃の記憶が混じっていた。ツン、と無視をして誤魔化していると、まあいいわ、とネルラは綺麗に整った長い髪をかきあげた。



「知っていると思うけど、私、ハリィ家に行くことになったの。でも忘れないでね、あなたは“厚顔無恥で礼儀知らずな、ヒースフェンのお嬢様”なんだからね」

「……分かってるわよ」



 つまりは念を押しに来た、ということだろう。「でもネルラ。いつかこの呪いを、解いてくれるのよね。そうなのよね?」「ええ、もちろん」 天使みたいな汚れのない笑いだ。でもそれが嘘であることは、もうしっかりと理解している。



「ねえ、ネルラ。なんでネルラは、私にこんなことをさせるの?」



 ずっとわからなかったことだ。何度も問いかけ、その度に彼女は口の端をついと持ち上げ、秘密とばかりに人差し指をちょんとのせた。彼女はラビィの幼馴染でもあるのだ。あんなに可愛らしい彼女がなぜ、といつもわからなかった。でもゲームの知識を思い出した今となっては、思い当たることがある。



「……もしかして、バルド様? やっぱり、そうなのね?」



 彼はこのゲームでのメインキャラであり、第一皇子であり、ラビィの婚約者だ。彼の名を出した瞬間、ネルラはいつもの完璧な笑みを、わずかに崩した。ああ、やっぱりそうなのか。ネルラは、ラビィが彼の婚約者であることを恨んでいる。ラビィをぐちゃぐちゃにして、その立場に成り代わろうとしている。



(たった、それだけのことで……)



 なんということ。


 目の前の少女を、理解することなどできなかった。ラビィとて、あの甘いはちみつ色のような髪と黒曜石のような綺麗な婚約者の瞳を見て、淡い恋のような、どぎまぎした気持ちがあったことは否定しない。傍若無人に振る舞うラビィを、呆れつつも優しく、対等に扱ってくれていると感じていた。記憶が蘇った今となっては特になんてこともないが、ネルラを不憫に思い、優しく彼女を慰めるバルドの姿を目にしたときには胸が張り裂けそうだった。



 ネルラは、やっぱり何も言わなかった。ただおかしげに笑っていた。この鶏ガラのような体を見て、ケタケタと笑った。その笑みが、あんまりにも可愛らしかったから、ラビィはぞっとして、口をつぐんだ。



 ――――何が、最高のバッドエンドだ。




 数日後、窓の外からネルラが旅立つ馬車を見下ろした。誰からも愛される少女は様々な人間に別れを惜しまれ、ラビィの両親でさえも彼女の両手を離さなかった。ラビィの弟は、ネルラを優しく抱きしめ何事かをささやき、ネルラは頬を赤らめるようなそぶりをしていた。



 悪女に虐げられていたヒロインの輝かしい旅立ちにふさわしく、暖かな光が降り注がれ、鳥たちが優しく歌を歌っている。ラビィは静かにカーテンをしめた。暗い部屋の中で一人きり、この先のことを考えた。近々、ネルラは魔法学院に入学する。これにはたしか数ヶ月の時間があったはずだ。そうなると、物語がどんどん進んでいく。ラビィは彼女をいじめ、様々なお相手たちに“懲らしめられ”なければいけない。



 行き着く先は斬首一択。そんなのまっぴらごめんだ。


 となれば、どうすればいいのか。今更、ラビィには何の信用もなく、屋敷の中で、家族達からはいないものとして扱われている。それなら、逃げるしかない。ラビィが逃亡することで、ネルラはまたどこかで新たな奴隷を手に入れるかもしれないが、そんなこと知ったこっちゃない。自分の身が一番可愛いのだ。となると、とラビィは細く、今すぐに折れてしまいそうな自身の腕をちらりと見つめた。



 あんまりにも情けないから、なるべく服は肌を隠すものを選んでいる。歩くことだってままならないから、学院に行くだけでも一苦労だし、一日の大半は椅子に座って過ごしている。



「まずは、逃げるには体力をつけなくちゃ……」



 邪魔者はいなくなった、と喜ぶべきだ。ネルラの監視が、やっと外れてくれたのだ。ならばまずは、ご飯よ、とラビィは勢いよく立ち上がり、ふらついた。こんなのだから駄目なんだ。(せめて、ご飯をまともに食べれば、体力もつくはず……!) 少なくとも間違いはない、と思い、すぐさまメイドを呼び寄せたものの、呼ばれた彼女もビクついていて、何年経っても慣れない気持ちの悪さを飲み込み、傲慢に指示した。


 とにかく食事だ。



 目の前のきらきらとした、望んでいても食べることができなかったそれらにゆっくりと手を伸ばした。ぱくり、と一口。二口。ぱくぱく。ぱくぱく。




「オエッ」



 胃がついていかない。おろおろ吐き出した。

 貴族、こってりしたもの食べすぎである。

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