第17話 馬蹄橋の七灯篭(後編)

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 俺の精神はこの時、凍える様な雪女の息吹に晒された。そして何かがぴきりと割れた。それはあの時、雲竜寺の別邸で兄の銀造を葬った時のように、何かがモゾりと動き出したのだ。

 それは俺とは違う。もう一つの俺。

 お前は誰だ?

 へらへら笑う、俺自身。

 おや、違う。

 俺は振り返る。 

 そこにはもう一人の俺が居る。

 そしてへらへら笑っている。

 そう、お前は

 竜二。


 雪女の子守歌が聞こえて来た。俺自身が破壊されて、もう一人の俺が生まれた。そう、それこそ。

 竜二。


 俺はその時、思った。


 ――母親を犯す奴は二人もいらない。母親は俺のものだ。


「竜二」

 俺は言った。どこかで蝉が鳴きだした。夜だと言うのに。

「…いいいか、火野龍平はもう、どうしようもない。あいつの夢も人生も俺が奪ってやった。あの綺麗な東珠子を邪魔する奴は居ない。だからだ…」

「…だから?」

 竜二の声が僅かに震えている。何かを察したのか、恐怖が僅かに混じっている。

「お前の人生を半分貰う」

「半分?」

 何を言われているのか分からない呆けた竜二の声。

「そうさ、恋だ」

 言うなり、俺は激しく竜二の股間を蹴り上げた。それで声も出なくて悶絶しそうになる竜二に俺は何も感じない。再び深く、股間を蹴り上げる。

「あ、兄貴!!一体何を!!」

 喚きだしそうになると写真を奪い竜二の襟首を俺は掴むと言った。

「いいか。お前の股間のブツはもう使えねぇようにする。心配するな。後は俺が何とかしてやる。中国には宦官という物を去勢された奴もいたんだ。死にやしねぇ」

 そして俺は竜二を放り出す様に投げ出すと、腰からピストルを出して狙いをすました。

「ブツが無くても恋愛は出来るさ。竜二、何も不自由は無い」

 言って俺はピストルを放つ。その音は馬蹄橋に集まる人々の喧噪でかき消された。

 後は血の匂いがした。

「竜二、早く医者に連れていってもらうんだな、出なきゃ、死ぬぞ」

 俺は暗闇で言った。

 しかし、気絶した竜二に聞こえたどうかは分からない。

 だが一つだけ言えることがある。

 聞いたことだが、人間の精神が強い障害を受けると股間のブツが生涯役に立たなくなるってな。

 つまり、あまりに恐ろしい恐怖がこいつの機能障害を起こしたに違いないと、俺はピストルを腰に押し込んで、再び竜二の股間を蹴り上げた。

 弾は太腿の内側の肉を削っただけだ。だがそいつを見る度、竜二は酷く今夜の事を思い出すだろう。こいつは肉体に傷つけた精神の傷跡だ。


(さて、俺が半分貰うと言ったその意味だがな。それはお前という仮面を頂くと言う意味さ、竜二)

 俺は天幕を潜ると顔を上げた。上げるとそこには落ちているコルク弾が転がっている。俺は写真をポケットに入れるとそれを屈んで広い集めた。そう、この仕事こそ、この俺、猪子部銀造の仕事だからだ。



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 それからの俺は馬蹄橋、明石、時には日本の各地を時に銀造として、時に竜二として、そして自分自身としてまるでカメレオンの様に代わる代わる生きた。

 誰も俺が竜一だとは分からなかった。これは竜一自身が喋れなかったという、いまでこそ仮面と言えるが、それが功を奏したのだ。明石では沈黙すればそれでいい。兄銀造は仕事柄旅に出て、実家には戻らない。非常にそれぞれを使いこなすにも演じやすかった。

 唯、不思議だったのは母親が初めて俺と関係した時から季節が幾つか過ぎると突如姿を消したことだ。

 父親に聞くと、時に良くあることだと言ったし、遠くにいる親戚筋に会いに行くことがあるそうだから、それで出て言ったのだろうと言った。

 元来、修験者の根来動眼の娘といて生まれた母親だから、もしかすれば山に籠っているのかもしれないと言う、どこか突き放す様な父親の言葉がやけに真に迫るのは、俺自身が既にそうした摩訶不思議を受けいれるだけの素地があったからだ。

 つまり自分自身の肉体内に棲む獣たちの人格を受け入れている自分自身こそが、この世界の摩訶不思議であろう。

 何も恐れない。

 それだけの鋼の精神が俺自身をより強固にしていった。

 竜二はどうしたか?

 あいつは狂人じみた人生を歩み始めた。最初の頃こそ、まだまともな精神状態だったし、いくつか俺と入れ替わるようにしていたので周囲の連中も気づかなかったが、だが、やはり異常をきたし始めた精神の歯車が脱輪すれば、後は谷底へ落ちるだけだ。

 竜二は体中を駆け巡る性的衝動(リビドー)にのたうち回った様だ。だがいかんせん、それを司る世界の肉先端が機能しないことにはどうしようも無い。性的衝動と正常な精神の天秤はもはやどうしようもない所に来て、遂に日中どこかに人家に押し入った、だが女を前にしても動かない自分を見た時、最後の精神のガラスは弾け飛んだ。

 竜二はそのまま病院へ送られた。

 それで跡取りの亡くなった田中家はやがてこの温泉地から湯煙のように消えた。田中甚右衛門から続いたこの馬蹄橋の盟主一家は此処に消えたのだった。

 だが、消えたのは田中家だけじゃない。

 火野龍平もやがて傷が回復すると、人知れずこの地を離れた。人づてに聞いたところに寄れば、その後、龍平も気づかない内に独り言が多くなり、何かを振り払うかのように沈んでゆく日々が増えた。それが何かを暗示していたのか、龍平は突如精神が打ちのめされて馬蹄橋から失踪した。

 恋人である(で、あった方が正しいだろう)東珠子は、失踪直前の龍平に会ったが、既にその時、龍平自身は何事を言ったのかもわからないくらい失語状態だった。はっきりと聞こえたのは、はは、ははという言葉だったらしい。

 そして火野家もまた跡取りを失い、やがて店をたたむと馬蹄橋を去った。その後、どうなったかは知らないが、噂では四国の奥深い山地にひっそりと暮らしていると言う所在無き噂だけが聞こえた。

 やがて馬蹄橋に関係する人物は東夜楼蘭の娘東珠子と俺だけが残った。


 …だが、やはりこの世とは真に恐ろしい。予想もしれぬ足音は常に我が背後にあるのだ。正にその足音は夜叉とも般若ともいえる母と共にやって来た。

 或る物を抱えて。

 それこそ、まさに呪術。化学反応(ケミストリー)何ぞというものじゃないだろう。いや、まさに呪いといえるのではないか?


 違うか?

 どうだ、名探偵?


 いや

 四天王寺ロダンよ!!。



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 僕はスマホを取り出す。時刻を確認したのだ。バスが来るまであと、十分そこそこだった。

 僕は言う。

「 ててさま

  りゅうへい、たまこはおなじはらのこにて、

 なんびとにもさとられぬよう、よろしゅうに」

 言って僕は田中竜一を見た。

「あなたは兄を射殺後、竜二の恋敵の火野龍平はピストルで狙撃し、身体に深手でも追わせれば良いと思ったに違いない。身体さえ不自由になればオリンピックなんぞ夢の又夢だ。そしてピストルの狙撃は銀造の所為にする。もし警察に調べられれば、自分は田中竜一に戻ればいい。そして当人は見つからない。それは永遠に人様の土地の下で白骨として眠る。まるで子供が夢想する分限以上の犯罪」

 僕は続ける。

「そしてこれは恐らく偶然だったんです。あなたは馬蹄橋に来て竜二から誰かによって書かれた手紙を見て、それを咄嗟に竜二に指示し、龍平の練習着が入っているバッグに入れるようにしむけた。あとは自ずから珠子と龍平は緊急に話をするだろうと目論んで。そしてその目論見を竜二に調べさせ灯篭前で会うことを知るや、ピストルで狙撃すると決めた。そう、ピストルで狙う…火野龍平の事件はそれだけの筈だった。しかしながら、運命の悪戯かそこに自分の運命を再び転がす様な写真があることを知らなかったあなたはそれを見て狼狽した。そして…」

 僕はポケットから取り出す。

「見て下さい。竜二さん、こいつを」

 僕は四角一枚の紙片を見せた。いや田中竜一にはそれが最初紙だと思ったに違いない。そうなぜならそれは此処に存在するはずが無いと思っているものだからだ。

 そう、それは。

 風にひらりと揺れてそれが表替える。僕の指で。

 それは写真。そしてそこに映るのは

 …双子を抱えてほほ笑む戸川瀧子。


 田中竜二の皺の無い貌の額から何かが割れた音がした。それは自分の左右の顔の均衡を破り始めて僕の前に姿を現した時の様に、奇妙にちぐはぐな表情を浮かばせた。

 まるで幼児と老人の肉体的均衡が為に、片方は宇宙に釣られているかような醜悪な面構えだった。

 そして叫んだ。


「ぅおぉおおおおおぅぉおおおお」

 あまりの狼狽と恐怖。この世界に初めて生まれて感じた感情。それこそが悪魔の叫びとなり、そして醜悪な面構えとなっと僕の前に現れたのだ。

「…不思議でしょう?竜一さん。こいつらがある筈が無いとあなたは思っていた。しかしながら事実としてここ、僕の手に或る。何故だかわかりますか?何故だか?僕は言いました。この世を去るべき時、人は…悪魔をこの世界に残したまま死ねるかって!!つまり、あるべきところにこれはあったんですよ」

 悪魔の貌がちぐはぐに動く。いや蠢くといった方が良いのかもしれない。長年押さえて来た精神的人格が暴れ出そうとしているのだ。

「そしてあなたは…母親が抱えて来たものを見て遂に全てを知った。母親にとって自分達という存在がどういう存在だったのか…」

 僕は続ける。

「あなたは、母親が本当に望んだことするための供物だったんだ。東珠子と火野龍平が双子だったならば、自分も腹違いの兄弟である。それならば全ては一つにはできない。しかしながら、此処にもう一つの悪魔の王子が生まれれば、それはどうなるか」

 その音葉でこちらを向く田中竜二。

 僕にはその時、悪魔が泣いているように見えた。

 悪魔が言う。

 泣きながら、しかしその声は先程迄の朗々さと清々しさは無い、むしろ、不遜さを牛なった老人の様だ。

「そ…それをどこで??」

 それは銀造の声だった。

「い…一体何故?」

 それは竜二の声で。

 そして最後に

「き…君は何故そこまで知っているんだ」

 僕は悪魔を憐れむ様に言った。

「そう、この山上の東夜楼蘭での観劇の計画は元々オリンピックに合わせて進めれていたんです。しかしながら幸か不幸か世界的なパンデミックの為、一度延期された。つまり僕は既に一年以上前からこの件について動いていたんです。そしてこの灯篭は古く劣化も激しいため新しものに変えられる予定だったんですよ、勿論、出資元はアズマエンタープライズ。つまりこの灯篭は全て一度掘り起こされた。この付近はアスファルトじゃない。わかりますか、この意味が。つまり簡単にスコップで掘れたんです。そしたらそこに…」

「止めろ!!」

 悪魔が叫ぶ。

「止めませんよ」

 僕は言う。

「出て来たんですよ。ばらばらになった人骨が」

「止めるんだ!!君は悪魔か!!」

 僕は左右の指を立てた。

 それは二本。

「…つまり、成人女性と乳飲み子の骨がね、ばらばらにそれぞれの灯篭の七つの下から、頭、右腕、左腕、腹、右足、左足そして切り取られた性器の痕跡らしいものが合わせて七つ。それこそがこの馬蹄橋が掘り起こされる始まりだったんです。昭和の大きな二つの事件は、馬蹄橋で見つかったバラバラの白骨遺体に連なってまるで土中深くに根を張る山芋みたいに出て来たのです。まぁ…僕の執拗的性格の所為で…申し訳ないです…」

 僕は言ってから悪魔を見た。悪魔は何かを言いたげに口をパクパクさせていたが、僕は静かに言った。

「親殺しと子殺し。如何に世を憚る様な因果とはいえ、無常かつ、無慈悲です。結局、あなたは呪いを一身に受け、苛まれる人生だったんですからね」

 そして歩き出す。

 何故ならばもうすぐこの馬蹄橋のバス停に、仲間たちを乗せたバスがやって来るからだ。

 そこで、僕はあっと思い出した。思い出すと老人へと走り出した。

「ご老人、そうそう。今日のM新聞社の朝刊で昭和の東京オリンピックン関する何か面白いエピソード募集という記事が在りました。もしよければ、そこにこのお話を載せてみてはいかがです?なぁにあなたのお名前は伏せられたらいい。そして誰からの話かと言えば、この僕。四天王寺ロダンという役者から聞いた話だといえばいいですよ」

 そして僕はポンと肩を叩いた。

「…すべからず、全てを告白すれば幾分か心安らぐのではないのですか?」

 僕はその言葉を残して、バス停へと向かった。


 銀造老人がその後どうしたか、僕は知らない。何故なら僕はその後、役者としての仕事があり、それに意識を集中する必要があったので、もう構っていられる時間が無かったからだ。

 そして戸川瀧子の呪いとは何だったか、それは自分では調査済みで分かったが、もうそれは語るべきよりも秘匿にした方が良いと思い伏せようと思う。大事な点は全て此処に書き記したので。

 ただ、このことに関することについて、依頼主からは大変感謝されたというのは最後に書き残したい。

 願わくば、

 事実はフィクションを越えた奇である故、それは現実世界で生きる何者かによって解明されることを僕は望む。

 そして僕の知る『馬蹄橋の七灯篭』については以上である。



(57)


 東珠子は『東夜楼蘭』の階上に居た。アズマエンタープライズ主演のこの観劇は一時的とは言え、このさびれた山村を昔の様に艶やかに照らした。

 その照らした明かりの届かぬ階上でひとり東珠子はある人物を待っている。その人物は通称マッチ棒と西条未希が言う若者だった。

(マッチ棒ね…)

 珠子はやや頬に皺を寄せて笑う。

 そして笑いながらその身体的特徴の他に彼について自分が知っていることを思い出した。それは彼の遠縁にはなんでも明治末期、大正、昭和と活躍した探偵の助手を務めていたらしい、ということだ。

(それがいかほどの事かと思ったけど…)

 珠子は頬を撫でた。

 自分はそれほど期待をしていなかった、というのが本音だった。

 それは何についてか?

 そう、東珠子は馬蹄橋の建て替えの際に出て来た遺骨の身元調査を依頼したのだった。

 ただそれだけの事なのに過去を掘り起こし、その過去に居た自分ですら気付かなかった見知らぬ闇を照らして、そこに隠れていた真実を暴いたのだ。

(未希は、彼のどこにそうした事を期待しのか)

 つまり未希は彼のその探偵助手をしていたというだけの遠縁との血統的才能というのを見込んでか、それとも幼いころから知ると言う彼についての何か期待するところがあってなのか、未希はこの一連の件を彼に一任した。

 勿論、自分は秘密を守ることを条件に許可した。それは自分やこれから売り出す女優に身辺や過去についてその道のプロが嗅ぎまわれば少なくとも、何事か洩れる恐れもあるし、しかしながら何よりも良いのは、あくまでその彼個人が仮に失敗しても、言葉が悪いが、蜥蜴の尻尾の様に切ればいいだけの事なのだ。

 その為に最低限の情報は未希を通じて与えた。(その中で特にある人物が自分に見せた古いふみ文一枚だけだが…、しかしそれは思った以上の効果を出した様だった)しかしながら、その若者は結果として、彼はそれ以上の事を成し遂げたのだ。

 その成し遂げたこととして自分が知る以上に自分と西条未希には不思議な縁があったという事だった。

 自分は長じると大阪に出で、学校で西条未希の祖母聡子と知り合った。同じ演劇が趣味という事で仲良くなった二人だが、西条未希の祖母は自分と同じような道には進まず、学校を卒業すると百貨店に勤めて、早々に結婚した。

 それがあのピストルを強奪された警察官林武夫だった。その後、夫の林武夫は事件を苦に自殺し、祖母である聡子は幼子の未希の母を伴い生活に困った。そこで自分は二人の窮状を知ると、泉南の自分土地の一軒家に二人を住まわせ、成長を見守った。

 聡子の娘は成長して、普通の家庭を築いたが、東珠子への感謝は忘れず、そして娘の居ない珠子の心情を思ってか、娘の未希を珠子の元に預けた。それは未希の芸能的素質もあったことでもあるが、それよりも、娘の居ない珠子の心情を思った事かもしれない。

 しかしながら未希にとっては芸能的才能を開花させることにいい環境だっただろう、やがて演劇的才能を育て、今やこうして観劇にでても人を集めれる程の女優となった。しかしながらこの親子三代には長く、あのピストル事件の事が大きく見えない影を落としていたことは事実だった。そして、それが自分と繋がりを持ち得ていたことなんぞ、今から会う若者が成し得なければきっと生涯わからないことだったに違いない。昭和の頃に起きたピストル事件と警察官の自殺。それらは彼の活躍により今、互いは太い糸結ばれた。そして少なからず自分もだ。


 ――人生とはかくも浅いような深い糸に結ばれているのだろうか。


 その若者はそんな人生を行き交う人々の雑踏の影で見えなくなって複雑に横たわる、奇妙な運命の紡糸を手繰り寄せてくれたのかもしれない。

 だが、もしかするとそれは自分が七灯篭を新しく奉納しようとしたことが、全てだったかもしれない。そこで発見された人骨らしき骨…そのことを未希に漏らした時、時計の針が過去へと進んだのだろう。あの四天王寺ロダンという若者と共に。


「すいません、東珠子さん…です?」

 自分を呼ぶ声に珠子は振り返った。見れば、そこに長身の若者が居る。足元から順に視線を上げると急に頭頂部で大きく頭が膨らんだ。

 それを見て珠子は、相手の返事に頷いて、しかし思った。


 ――確かにマッチ棒だわ。


 そのマッチ棒は先程迄劇に出ていた股旅者の姿で自分の前に立っていたが、自分が頷くのを見ると、へこっと腰を軽く折り、顔を上げや、とても人懐っこい顔をして微笑した。


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「あなたがロダン君?」

 珠子は言いながら綺麗に分けた白髪に手を遣った。僅かばかりの照れが心にある。何というか少女のような恥じらいというのか、それとも目の前に立つ若者自身が発する魅力ともいうべきものに自分の中の何かが触れて風を巻き起こしたのだ。それは旋風というか薫風というのか、夏の夜には似つかわない、どこか涼やかな風。

 珠子の問いかけに、若者はもう一度頭を下げた。そして顔を上げる。

 僅かに明かりが照らす彼の相貌に珠子は不思議な懐かしさと親しみと、それと深くて思慮深く慎みのある知性を感じた。

「はい、そうです。初めまして東珠子さん」

 言うと彼は頭を掻いて首をぴしゃりと叩いた。叩くと顔を上げた。

「やはり、似てらっしゃる」

 彼が言った一言。それは不意に出た言葉であろうかもしれないが、珠子を不安にさせた。いやそれだけじゃない。その時は珠子にはその意味は分からなかった。その意味を初めて知るのはこの日から数日か過ぎたことである。

 その時こそ、珠子は初めてこの若者の何という底知れぬ深さと洞察さに感心したのである。

「…あ、いえ、失礼しました。それでお呼びになられたのは?」

 若者――、いや四天王寺ロダンは叩いた手をゆっくりと戻すと股旅姿に戻った。珠子はその動作を所在無げに見ていたが、我に返るように軽く咳をすると言った。

「いえ、未希から聞いたのですよ。勿論、未希の事は知っていますね?そう、西条未希から、まぁ今まで一緒に演じていたわけだから」

 珠子が微笑する。

「ええ、未希ちゃんなら勿論。昔からの馴染みなので」

「みたいね。そう、私が彼女に話した馬蹄橋の七灯篭で見つかった遺骨の身元の事。良く調べてくれたと感謝したくて」

 ロダンは頭を掻く。

「いやぁ…少しばかり、凝りすぎたようで。土中深く潜り込んだ山芋をほり出すような執念でやってしまい…おかげで皆さんが知らなくていいことまで…」

 そこまで言ったところで珠子はぴしゃりと言葉尻を抑える。

「いいのよ。それで。そしてお話はそこまで」

 強い語調に彼は一瞬ビクリとしたが、しかし肩を落として首を撫でまわす。

「はぁ…まぁそうですね。しかしやっちまいすぎました」

「小説は読んだわ」

 珠子が再び微笑む。それに嬉々としてロダンが反応する。

「ほんまですか?いやぁ、それは…」

 そこでもまた珠子が言葉尻を抑える。

「まぁ報告書としては大事な点を関係者の心根を感じてからか優しい指で押さえてあって一応読めるけど…残念だけど小説としては散文ね。全然まるでなっちゃいない」

 真摯で強い口調に彼は、一気意気消沈したように見えた。見えただけじゃなく、肩をすぼめたのか、身体が少し小さくなったように珠子には見えた。

 それを見ると珠子は思った。


 ――この若者は心根が優しく、物事に純で誠実な性格なのだろう。


 だが、芸術的評価はそうした忖度は無しである。残念ながら厳しい評価を下すしかない。事実として。そうでなければ、若者の未来を台無しにする。オトナとはそうした事を示すものである。アズマエンタープライズを率いる自分としては才能の有無ある若者を沢山見てきた。それも星の数ほど。その中で涙を流して落ちた星にもなれなかったものが何人いただろうか。涙を流した人々の先に一番星(エトワール)が輝いている。

 では、この若者はどうか?

 天王寺界隈の小さな劇団に居て今なお役者として活躍するために日々稽古を積んでいると未希からは聞いている。彼の演技は先程ここで見た。見た率直な感想としては評価がつけられない。つまり良くも悪くも無いという事だ。これは残念ながら、役者としての個性の欠如ともいえる。しかしそこから自分だけの個性を探してくるものも居る。つまり個性探しの旅の途中ともいえるが、しかしながら、と珠子は思う。才ある役者とは一瞬でも舞台にあがれば、それが素通りの人を演じても輝くものがあるものだ。

 珠子は目の前に立つ股旅姿の若者を見た。

 夢を潰すとまでは言わないが首を振るのは、彼のこれからの人生の為のこの件に対する私からのせめてもの最大の感謝として受け取ってくれるだろうか。そして彼が何故それほどまでに執拗にこの件について、調べてくれたその理由もわからぬことではない。

 それについても首を振るという事も。


 ――若者の夢と恋を奪うのは辛い仕事だ。

 

 珠子は最大限の微笑を浮かべて、股旅姿の若者を見た。

(一番星(エトワール)を見上げながら生きている人は、この世界には数多(あまた)いる)

 それに…、と彼女は思う。

 彼には類まれなる才能がある。それは私や彼の未希(エトワール)ですら及ばぬものなのだ。一番星(エトワール)を見上げながら生きている人の悲しみや喜びに寄り沿う才能、それこそが今彼が成し得たものではないか?

 若者は自己否定するかもしれないが、『好き』である以上に社会が認める才能に生きることも、すべらかなる歩みで進む男児の爽やかな生き方ではないだろうか。

 一番星(エトワール)は手に入れられないからこそ、輝き続けるのだ。

 何故だろう、珠子は微笑しながら不意に涙が浮かんできた。それは自分の過去に照らされたあの夏の別れに見た人の顔だろうか。

 この山間の馬蹄橋という狭い土地で生まれた自分の初恋。それは一体、どうしてこれほどまでの悲劇的性格を持っていたのだろうか。それを分からせてくれ若者に自分は仕返しをするのか?

 込みあげて来る思いの中に声が聞こえた。それは祖父動眼と龍平が一枚の写真を見て話した時の互いの声。


 ――それは、正しい。


 絶望が背筋を走るのを私は、感じながら何と言ったか?そして別れの最後に彼は、恋人火野龍平は自分に何と言ったか。


 ――珠子ちゃん、ありがとう。僕はね。母を、母を…


 珠子は首を強く横に振る。それはほんの指先程の其処迄居た自分を振り切る。

「ロダン君。さてこれで終わりです。全て、全てです」

 若者は珠子の声に顔を上げた。その瞼の下で自分を見つめる目は、その言葉の意味を汲み取った悲しみが溢れていた。

 年老いた者ならば瞬時にそれを悟り、この場を去るだろう。しかしながらやはり彼は若いのかもしれない。彼は――全てを分かっていても彼女に問わなければ自分に押し寄せてくる結果を受け入れられない、若さが在った。

「全て…?ですか、珠子さん」

 珠子は言うべきかどうか言葉を探した。しかしながら向き合う若さに珠子の心は厳しさを増しやがて白髪の髪に手を遣り、彼の側へと歩み寄ると、彼の肩に触れ、意を決して言った。

「…そう、此処で終り。あなたの夢も…恋も。この『東夜楼蘭』で全て…」

 珠子は首を横に振った。それから最大限の感謝を込めてロダンに言った。

「終わりになさい」

 


(59)


 ――眠れない。興奮して

 

 ベッドに潜り込んだ佐竹亮は寝付けに飲んだウイスキーですら自分の興奮を鎮められないことを、火照る身体で感じていた。

 またそれが何故かというのも冴えわたり始めた頭が嫌というほど自分に教えてくれる。

 それは自分が読んだ小説の所為(せい)だった。

 小説のタイトルは『馬蹄橋の七灯篭』

 それが読了後の自分を眠らせない。その理由は上げるとすれば二つ。

 佐竹は寝がえりを打つ。打ちながら会社の会議での説明の様に明確に自分に答える。

 まず一つはこの小説がまるで三文小説だったという失望。この小説を読めばあの猪子部銀造、西条未希が言うところの馬蹄橋に関わる全てがわかると言うベストセラー並みの期待を込めて、いち読者として佐竹は読みだしたが読み終えると、これは小説とは言えず、どちらかと言えば確かに要点を抑えた報告書に近かったのではないかという読者としての失望だった。

 だが失望だけで身体が火照るのではない。なぜならばこの小説にある人物の名が出てきたからだ。そう、それは田中竜二の心の暴露たる此処に。

 ――それこそ、まさに呪術。化学反応(ケミストリー)何ぞというものじゃないだろう

 いや、まさに呪いといえるのではないか?


 違うか?

 どうだ、名探偵?


 いや

 四天王寺ロダンよ!!


 ――四天王寺ロダン

 

 この名こそ、自分がこの浮き雲靡く難波の空の下で探し求めていた人物なのだ。

『彼』は自分が知るだけで二つに事件(勿論自分が担当記者として記事を書いているのだ!!)に関連して事件の謎を解決しているのだ。事件はそれぞれ『上町長屋の親子殺人』『生首坂』と言った。まるで舞台袖から上がった観客が見事に一級品の役者(この場合、探偵なのだが)を演じて、やがて舞台の終わりを見届けることなくぷぃとまた舞台袖から消えたまるでスケープゴーストの様な演者そが彼、四天王寺ロダンなのだ。

(その彼がこの件にも関与している)

 そう思うだけで自分の頭は冴えわたる。明日が早く来れば、と自分は思う。

(天王寺にある彼の劇団を尋ねよう。そこに行き、彼から直に話を聞くのだ)

 そう思って寝返りを打った。それで幾分か気分が落ち着いた自分は、やがて深い眠りに落ちていった。


(60)


 大阪難波にある新聞社Mの本社ビルの自動ドアを抜けた時、時刻はまだ九時になっていなかった。佐竹は出社時間より早めに来た。それは本日外回りをする為の届けを書くためだった。

 急ぎ自分のデスクに着くと引き出しを開け、届出書を取り出し、素早く書きこむ。掻き終われば周囲を見渡す。

(…居た)

 奥まったところに上司が居た。急ぎ立ち上がると佐竹は届出書を手に持ち、上司のデスク上に置いた。それを見て、上司が顔を上げる。

「なんや、取材か?」

 記者が外出届を出すと言うことはそれ以外にないだろうに確認をする口調で言う。

「ですね」

 返答に頷くと上司は所定の位置に判を押す。押すとそれを佐竹に返す。

「ありがとうございます」

 その言葉を残して立ち去ろうとする佐竹へ、上司が言った。

「佐竹」

 佐竹が振り返った。

「隣の二課からな、お前に昨日連絡が;あったぞ」

(二課…?)

 眉間に皺を寄せる。

 二課と言うのは府警等の警察関連を扱う部署だ。つまり、警察沙汰の事件という事だ。それに心当たりは…、そう自問する自分に上司が言う。

「なんでも、角谷(かどたに)っちゅう刑事がお前と面会したいんだと、出かける前に行ってみろ」


 今佐竹は本社ビルのエレベータで下に降りている。まるで昨晩自分がエレベータ前に残した昨日の自分の残像を背負って。

 先程上司に言われた事を佐竹は無視した。二課訪問については天王寺から戻り次第で良い。それで十分間に合うはずだ。何故なら自分には全く何も心当たりがないからだ。

 フロア到着の小さな音が耳に響く。佐竹は急ぎエレベータを降りるとバッグを背負い、入り口のエントランスを抜けて正面出入り口ドアを潜った。その時、男とすれ違ったが、その瞬間腕を強く引き寄せられた。

 その腕の強さは柔道選手の様な強い力で、まるで次の瞬間背負い投げで飛ばされそうな勢いだった。だが自分は投げ出されること無く、強引に外へと連れ出された。

 佐竹は引きずられる力に声を出そうと、相手の顔を見た。すると相手が自分を凝視したまま、強眼で睨みつけいる。気勢を制する強さに打たれた佐竹の耳に声が聞こえた。

「あんた、佐竹亮やな。俺は角谷譲二、府警のもんや」


 ――府警?


 佐竹は驚いて声を上げそうになった。正直仕事がらみの取材なんぞで警察沙汰になりそうな騒動は起こしてはいない。無論、実生活でもだ。だからこそ、声が出そうになったが、しかし、この男が言った次の一言がより、自分を驚かすことになった。

「この前死んだ猪子部銀造、それとなぁ、お前が調べとる馬蹄橋の七灯篭から出てきたバラバラの白骨死体のことで聞きたいんや」

 

(61)

 

 佐竹亮は地下鉄御堂筋の中で黙ったままでいた。それは横に突然現れた男の為かもしれない。

 男の名前は角谷譲二という府警の刑事だった。乗り込んだ御堂筋線は通勤ラッシュ後の閑散さが所々見受けられたが、乗り込んだ本町駅から天王寺迄は、それでも混んでいた。

 しかし刑事は人をはばかることなくまくしたてる様に自分に言った。

「猪子部銀造なぁ…あいつをヤッた奴を探しとると、あいつ自身がどうも馬蹄橋とかいう河内に縁ある奴やと分かった。それだけやない、あの男の身辺探ると通称馬蹄橋というところで見つかったバラバラの白骨死体の届出人東珠子、まぁあの芸能会社アズマエンタープライズやな。そこにあった田中屋という温泉宿の息子と兄妹らしい、そう思うと何か繋がりがあるっちゅう訳になる。そこで馴染み新聞社の記者を頼りに何かないか来てみたら…」

 そこで角谷は眉毛を動かした。相貌は蟹様な顔をしていると佐竹は思った。その蟹の甲羅の様な赤い皮膚の上で太い眉が動けば、まるで怒気を孕んでいてもしようがないと思わざるを得ない。

 だが、怒気は無く先程迄の声音とは違い、囁く様に言った。

「…あんたが昨日女優の西城未希と会っていたというわけや。西条未希は昨日、泉州奥の東夜楼蘭の日替わり特別ゲストとして出演をしてた。ならあんたに新聞社で会ったのも分かるが、理由は知らん。不思議や、アズマエンタープライズと馬蹄橋が此処で君を並べて繋がる。それに未希は関空で降りた後、別行動したいとマネージャに言ったそうな。まぁそれが誰とは言わんがね」

(やはり)

 と佐竹は思った。

 いくら何でも情報の中心地の本拠だ。変装したところで立ちどころに分かる。

(それにこいつ、今言い含んだがもう誰に会ったか調べはついているのだろう)

 佐竹は横目で角谷を見た。刑事の太い眉毛が動くと小さな目がぎょりと動いた。

「それで…あんた」

 刑事が言う。

「これからどこに向かうんや?俺は一日あんたと行動せにゃあかんほど暇ではないがね」

 暗に府警に来いと言っているのだろう。だが、佐竹はそれには乗らずに行った。

「今から行くのは或る人物のとこですよ」

「ある人物?誰や?馬蹄橋と関係あるんか?無けりゃ直ぐにでも俺と来てもらいたいんだがね」

 そこで一瞬、佐竹は言い淀んだ。続けるべきか、迷いが生じたからだ。だが…、佐竹は刑事の方を見た。見ると率直に言った。

「関係者ですよ。名は四天王寺ロダン君と言って、奇なる姓に妙なる名。まぁ難波の空の下、浮雲の端を掴むことがやっとできた人物です」

 



(62)


「四天王寺ロダンねぇ…」

 刑事の呟きがスマホを見る自分に聞こえた。いま目的の場所までの地図を開いている自分に吐いた溜息が、つまらなさを露にしている。

(黙って付いて来い)

 佐竹は心で舌打ちした。既にスマホの画面上では目的地についている。

 ここは天王寺駅からやや新今宮側に下った場所だ。もう少し歩けば西成地区に行くが、まだここはあべのハルカスを首上げて見上げる距離であり、天王寺の賑やかな界隈ともいえる。ただ、ビル群の隙間道を進まなければならず、ひょっとすると良く道馴れた地元のものしか通らないかもしれない。

 実は佐竹は以前の事件「生首坂」の時取材した警察官から四天王寺ロダンが所属している劇団名を聞いていた。

 その劇団名は『シャボン玉爆弾』と言う。

 それが今スマホで指し示す場所にある筈だが、在るのは赤いポストがかかる昭和の頃にできた雑居ビル。

 入り口は間口が開き、覗くと地下へ降りる階段が見える。しかしその先には明かりが無く、暗闇が見える。どこかおどろおどろしい。変な意味だが、浮浪者の死体がありそうなそんな感じがする。

「おい、見つからんのか?その何とか爆弾」

 刑事の野太い声がする。

(煩い!!)

 佐竹が舌打ちする。それが刑事に聞こえたのか刑事が言う。

「まどろっこしい。ここやろ、この奥や。早よ、いかんかい」

 佐竹はじろりとする。

「違ったらどうするんです?」

「戻ればいい」

「何かあれば?」

「はぁぁあ?」

 刑事が振り返り眉間に皺寄せて、詰め寄る。

「俺は時間が無いの?あんたの用事を早く終わらせてほしいんや」

 刑事の応対にそうだと頷く自分。確かにそうかもしれないが、どうしてもここじゃない気がしてらない。

 そうした心の動きが刑事に伝わったのか、彼はいきなり地下へ降りる階段へと歩み出した。

 暗闇に姿が消えて瞬間、刑事の叫び声が聞こえた。

「うわぁああ!!」

 悲鳴に似た叫びに思わず身体が乗り出す。

(死体が出たんじゃないだろうな!)

 刑事が慌てて出て来た。出て来て青白くなった顔で佐竹の顔を見て言った。

「…生首や!!生首があった!!!」

「えっ!!」

 思わず乗り出してそれを確認しようとする自分に突然後ろから声が掛かった。それは女の声だった。

「ちょっとあんたたちウチの倉庫で何してるの?」

 言われて刑事と共に振り返るとそこに、額まで前髪をそろえた若い女が居た。それはショートカットで黒いワンピースを着ており、何処か異国の女を思わせる容貌だった。

 彼女は自分達の隙間を抜け、ビル下の階段を下りて闇に消えるとやがて何かを持ってきてそれを見せた。

「これ、ウチの劇団で使ってる小道具の生首。本物じゃないから」

 それを自分に放り投げた。受け取って刑事と共に見る。見れば確かにレプリカの生首だった。

 それから彼女が階段下を見て言う。

「…まぁここはウチの劇団の物置。階段を使ってるの。誰もこんな暗闇恐ろしい場所に忍び込む奴居ないからね。それとこの赤ポストはウチの劇団のポスト。だからここに手紙とか偶に取りに来るのよ」

 彼女は言うや、ポストを開けて手にする。するとそこに何かあったのか、一枚の封書を手にした。それからじろりと佐竹と角谷を見た。

「…あなた達なにもん?劇団希望者じゃなさそうね」

 いうや交互に見る。

 佐竹は彼女のがしきりにいう『ウチの劇団』という言葉を探ろうと彼女の方に向かって言った。

「…あのさぁ、君。今しきりに劇団、劇団と言っていたよね。それってさ。若しかしてシャボン玉爆弾という劇団の事?」

 その言葉に彼女はあーと言って右斜め上を見る。それを見た角谷が言う。

「どうなんや?あんた」

 右斜め上から角谷をじろりと見る、目を動かして口が動く。

「せやけど、それが何?」

 佐竹の顔に喜色が浮かぶ。浮かぶと矢継ぎ早に言った。

「じゃぁ、じゃぁさ!!君、四天王寺ロダン君、知ってる?」

 その言葉を聞いた彼女が小さく言った。

「あんた?どっかの新聞や?それとも刑事(デカ)?」

 言われて佐竹と角谷が目を合わす。

「成程ね、コバちゃんが言う通りやね。まるで予言やな。ほんま怖いわ」

「コバちゃん?」

 佐竹が言う。

「そうコバちゃん、四天王寺ロダンは芸名。本名は小林古聞(こばやしふるぶみ)、だからコバちゃん」

 言うと彼女はすたすたと歩いて来て佐竹に先程ポストから取り出した封書を渡した。

「昨日、コバちゃんからチャットが来て、明日封書送るからもしそちらのどちらかが僕を訪ねて来たら、これを渡してっていってたんよ。ほな、渡したよ」

「あっちょっと待って。ロダン君は今どこに?」

 彼女がくるりと振り返る。

「何でも長年の友人が山口の彦島ってとこに急に帰っちゃったみたいで、そこに行くんですって。…えー失恋ですけぇ、なんて股旅もんみたいな口調で話して、行っちゃったわよ。昨晩、東夜楼蘭の観劇が終了して特殊メイクの道具をここにおいてね」

 言うや彼女はすたすたと見向きもせずに足早に去って行った。

 まるで狐に化かされた二人の様に立ち竦んでいたが、急にはっとして、佐竹は急いで封書を開けた。その横で刑事も覗き込んだ。同じように内容を見ている。封書は四天王寺ロダンが書いた手稿になっていた。

 それはつまり、あの小説で足りていないだろうと思われる真実の破片だ。

 ビルから覗く狭い青空の下。文字が流れてゆく。やがて私が目を通して読み進む内に、手稿は終いになった。読み終えて佐竹は思わず声にして叫んだ。

「そうか!!そうだったのか!!」

 小説を読んで文中に散りばめられた色んな意味の繋がらない言葉群、また完全に説明切らない不明瞭な点が此処に補足として全てしたためてあったのだ。


 ――血統的遺伝性

 戸川瀧子の『呪い』

 双竜とは誰なのか

 そして

 火野龍平はどこに消えたのか


 それでこそ、完全な『馬蹄橋の七灯篭』の小説の完成に繋がる。

 やはりあれは最低限の事を繋げた彼自身の恐らく誰かに向けた四天王寺ロダンの優しさに溢れた三文小説だったのだ。

 ――願わくば、

 事実はフィクションを越えた奇である故、それは現実世界で生きる何者かによって解明されることを僕は望む。

 これこそ…ロダンの本心。

 僕は体中を駆け巡る感動ともいえる震えが止まらない中、覗き込んでいた刑事が言った。

「なんや、ほんなら明日は俺もあんたとい一緒に出張という訳か…。四国の奥へ。週末が台無しやな」



(63)


 翌日、佐竹は新大阪の駅から岡山行きの新幹線に乗り込んだ。

 自由席に腰かけ、姫路を過ぎたあたりで、隣のシートが揺れた。見れば昨日の角谷という刑事が腰かけている。

 どこから乗り込んだのか、という事は聞かない。相手は刑事だ。どこぞで見張りつつ乗り込んだのだろう。

 佐竹は手元に置いたバッグからタブレットを取り出す。それから画面をマップに切り替える。そこで画面をじっと見る。矢印が見えた。そこが今日の旅の目的地だ。

 場所は、


 ――徳島県祖谷渓の奥N。

 大阪から徳島に行くのであれば明石海峡を渡り高速伝いに行くのが近いと言うのは徳島市内に行く場合のアクセスだ。

 だがこれから向かう祖谷渓奥となれば、それはもう香川、高知が交わる四国山地の奥地だ。となれば岡山伝いに香川に渡り、そこから車と言うのが早い。

 佐竹はルートを画面で確認しつつ、車窓へと目を遣る。

 見れば播州平野が見える。雲が流れその隙間から陽が降り注いで豊かでなだらかな播州の野を照らし出してくれている。

 佐竹は車窓を見ながら(まさに)と思った。馬蹄橋の秘密は其処にあらず、遥か遠くの祖谷渓奥にあるのだ。

(しかし)

 と、思う。 

 見事なまでの調査だと佐竹は感心する。それは誰にか?

 勿論、四天王寺ロダンに…、である。

 彼は現在大阪を離れ下関への旅空の下だ。

 彼はまるで股旅者が浮雲を追う様に難波を旅立った。今回やっと彼の頭に溢れる縮れ毛の端でも掴めそうなところまで迫ったが、当人は既にいなかった。

(どのような人物か…)

 自分の中に想像をめぐらしても、残像が湧かない。記憶すらない人物をいくら思い描こうとも、車窓から見える雲を眺めてその先を想像するのと同じだ。

 それは全く分からないことなのだ。

 だが、彼は佐竹に一通の『解答書』を与えた。それが何か彼自身の個性というか人柄というか、彼の心根に触れている気がしてならない。

「サタやん」

 刑事が自分を略称で呼んだ。

 佐竹は目を向ける。その目に向かって刑事が言う。

「もう、着くで。岡山。ほなそこで降りて次は香川やな」

 それから立ち上がると、顎を斜めに引き出した。

 つまり、佐竹に先に行けという事だろう。佐竹は指示に従うように歩き出し、新幹線が岡山駅に着くとプラットホームに降りた。



(64)

 

 佐竹は香川の駅でレンタカーを借ると、祖谷渓奥へと車を進ませた。香川の市街地を抜け、やがて車は山道へと入り、やがて周囲は自分達を影の様に覆うようになった。背高い広葉樹が進む自分達の車に影を落としている。それを払いのけるよう進みながら一時間が過ぎただろうか、急に視界が開け、車内に陽が注ぐと、視線に小さな渓流が見えた。

 細くて岩肌に沿って流れる渓流。この渓流はやがて大歩危小歩危へと向かうのだろうなと、佐竹が思うとその先に見える山の高い所に小さな集落が見えた。フロントガラス越しにも見える石段を組んだ田畑と古い木造建築。

「あれか、Nっちゅう集落は」

 今まで隣で眠っていた刑事が目をぱちりと開けると眩しそうに車内に降り注ぐ陽を避けながら呟いた。

「まだ三十分はかかりそうやな」

 言って体の緊張を解く様に、腕を伸ばす。

「ほんま、大分奥やで。確かに遥か昔の往時、平家の落人が身を隠すにはもってこいの地やな」

 それから視線をこちら向ける。

「途中、猪を捌いてる家もあった。なんちゅう奥地なんや。ほんま都会の大阪とは偉いちがいやで」


 ――平家の落人が隠れ住むにはもってこいの地


 刑事の言葉に佐竹は頷いた。

(そうとも…、全てが隠れ住むにはもってこいの地だ)

 そう思うと佐竹はアクセルを踏んだ。ああの山袖に見える集落にできれば雲の影が落ちる前には着きたいと思ったからだった。


(65)


 その家はどちらかと言うと屋敷に近かった。豪勢な門構えをしており、昔は豪農だったという印象を佐竹に与えた。

 門は開いていた。普段からそうなのかもしれない。背後を振り返れば、今自分達が昇って来た山野が一望できる。いやそれだけではない。目を細めれば、遠くに海が見えた。つまりこの地は瀬戸内を遠くに見る、奥深い山地と言えた。

 この印象、佐竹は思った。和歌山から高速の帰り見えた泉州の地と似ている。その景観は勿論違うが、ひょっとしたら、是は互いの違いを僅かに残すが、双観の地なのかもしれない。

 門の前で立っていると声をかける者が居た。見れば農具を手にした農作業姿の老人だった。佐竹は老人へ歩み寄り言った。刑事は黙ってそれを見ている。

「すいませんが、こちらは在宅で?」

 それに老人が農具を置いて答える。

「ああ、みぃさんに用事がありなっしゃっと?」

「ええ、そうです」

「今日は法事があるよって福祉の人が来とらんから、家に居りなっしゃるやろ」

 言って老人は農具を手に取るとその場を離れて行った。おそらくこれから田畑に向かうのだろう。

 佐竹は振り返り、刑事に目配せして門を潜った。それに刑事も続く。

 佐竹はそれから障子が見える縁側伝いに関まで歩くと、呼び鈴を鳴らした。鳴らしたが、人の気配がない。また再び押した。中では自分の押した呼び鈴の音が響くのが聞こえる。もう一度、押した。その時、何かが動く気配がして、縁側の障子窓が開いた。

 ゆっくりと障子が開いて、中から一人の老婆が現れた。老婆は紺と薄い水色の縦縞の着物を着て、白髪の髪を綺麗に整えており、足袋を履いていた。

 身なりの行き届きは老婆の品性を現しており、それから佐竹を見つけて微笑は深い洞察を持っていることを佐竹に印象付けた。

「何でありまっしょろ」 

 ゆっくりと、しかし、はきとした声で佐竹に言った。

 佐竹は老婆に近寄ると頭を下げてお辞儀をして、顔を上げて、それから老婆を見て言った。

「失礼ですが、あなたは龍巳さんですか?いえ…」

 佐竹は大きく息を吸って言った。

「…旧姓、戸川龍巳さん、つまり明石の雲竜寺に嫁がれた戸川瀧子さんの双子の妹さんですね」

 老婆は佐竹の言葉に驚くことなく、静かに顎を引いた。

「ええ、そうです。瀧子は私の姉です」

 言ってから佐竹を見て微笑んだ。

「同じ質問を去年の夏過ぎにここに来た髪の毛がぼうぼうの人もおんなじこと私に言っておりまっしょった。何でも息子の龍平の弔問としてある方の代理でここに来たんやというてましたから」



(66)


 忘備録『馬蹄橋の七灯篭』


 佐竹亮



 これは自分が徳島の祖谷渓奥Nに於いて、田中龍巳(旧姓:戸川龍巳)老婦から聞いたことを忘れないために認めた忘備録である。但し、この忘備録に於いて自分が新しく発見したものは殆ど無く、全ては四天王寺ロダン君なる聡明なる人物が別に呉れた手稿にほぼ沿うものである。それと忘備録には老婦と交わした内容についての会話や口語も交えて小説風に書き残そうと思う。そうすることで彼が書いた小説『馬蹄橋の七灯篭』の補録にもなると考えるからである。

 では忘備録を書くにあたり、やはり馬蹄橋における事件を今一度掘り起こし、整理したい。

 この事件の発端は戸川瀧子自身が馬蹄橋における土地簒奪を計画したことが全てである。その計画は、最初から最後まで一貫して自分の血筋を動眼温泉の上屋『東夜楼蘭』並びに下屋の盟主『田中家』それと繁盛家の『火野家』に送り込むだけではなく、まるでそれらが失敗したときの保険として自分の子(この場合田中竜一)との間に子を産み、それを存命中だった父の動眼に認めさせて(恐らく直孫としてかもしれないが、既に故人であるためその遺志はわからない)、父の財産を全てたらい上げ、この界隈一帯の財を吸い取り君臨すると言うことだったようである。無論当時は温泉街は今の様にさびれておらず、昼夜人は訪れ、まるで夜も眠らない殷賑の地であり、それについては龍巳老婦も、姉自身の性根を思えばそうであろうと述べていた。

 そして時代が下り、戸川瀧子が土地簒奪を目論んだ馬蹄橋の七灯篭の下の土中からバラバラにされた人骨が見つかった。その時代的経過に起きた昭和東京オリンピック前年の「警察官ピストル強奪事件」そして「婦女連続暴行事件」。それは結論から言えば戸川瀧子が起こすべくして最初から計画されたものではなく、当人からすれば全くの偶発的な事件であっただろう。しかし、因果が無いとは言えない。何故ならそれは我が子が起こしたことなのだから。彼女の産み落とした子等は彼女が書いた脚本の操り人形である以上の役者になった。

 何よりも、これらの事件の鍵は戸川瀧子である。

 事件の全容を知る為には兎に角、戸川瀧子という自分を追わなければならない。そして彼女について良く知るのは何よりもこの存命する双子の妹龍巳老婦である。その老婦から、聞かなければならない。

 私は戸川瀧子について尋ねた。すると龍巳老婦は暫く瞑すると、やがて小さく静々と言った。

「…ねぇしゃんですか…前に来たあんひとにも言ったしゃが、なんでっしゃろ、ほんに今思うとあん人はほんに恐ろしい御仁じゃなかったかと私は思いっしゃっとです」

 老婦は私の質問に頷くとぽつりぽつりと話し出した。

 彼女は、いや、お二人は遥か中国の奥地、日露戦争の激戦地の一つ奉天より奥へ進んだ山間地にある真言密教寺に生まれた娘であった。育った時には既に父母は他界しており、二人共祖父の手で育った。姉の瀧子は幼い時より自分とは瓜二つの顔をして尚、頭脳は明晰で、また何よりも人の心の関心と機微を捉えるのが上手い娘だった。それは長ずると共に美貌も兼ね備え益々磨きがかかり、それがために周囲の男どもは彼女を手元から離さぬ日は無く、十八を前にして男女関係の色んな噂が立つほどだった。

 転機は彼女が十八の時、二人を育てていた祖父が亡くなった。寺の住持が亡くなった寺は廃れるしかないのだが、瀧子は寺の一切を売り飛ばし金銭に替えると妹の手を取り、当時の朝鮮半島を経て、日本行きを決めた。

「へぇ…そうです。家には定期的に父動眼よりいつも手紙がきなしょったから、父が日本に居ること、そしてどうやら大阪の南で何やら商売を始めて成功してるとも書いておりなしょったので、姉は寺を売り払いその伝手を頼って日本行きを決めしゃっとです。それで手紙はいつも明石の雲竜寺からだされしょったので、まずは其処に行こうと釜山から下関へ渡り、瀬戸内を汽船に乗って兵庫の明石へ向かうことに決めました」

 しかしながらである。この明石行きの旅程でも姉の姉の瀧子はその人物的魔力ともうべき力で幾人かの男と連れ添う様に消えては、懐に幾分かの金を掴んで妹の前に現れたと言う。

「つまりねぇしゃんどうも生来男(おのこ)が好きだったんでっしゃろな。大陸から半島へ、半島から九州へと乗る船が変わる度、目をつける男が変わり、特に奉天からの船で知り合った銀造とうおのこは一番ねぇしゃんにたらしこまれました。可哀そうに陸に騰がると誰かに恨みでも買っていたのか、殴られて刺されて海に海に放り投げ、溺死でっしゃった。ほんにねぇしゃんは寺を売って有り余るほどの金銭があったにも関わらず、その一切を使うのを嫌がり、近寄るおのこから日々の銭を取ってなしゃっとです。私はそれを見てはずかしゅうございましたが、見ぬふりしていた…いや、ねぇしゃんはほんに恐ろしいほどの念の聞いた声音で言う事があり、心底こわっかったものですから、私は何もいえませんでした」 

 成程、と私は頷く。恐らく瀧子はそうしたところ、つまり恫喝というか人の心を震わすよな銅鑼の響きを放つ刹那と言うのを心得ていたのであり、従来生家が真言密教寺という事もあれば、そうした念の籠る強さというもの自然自得していたのかもしれない。

 そんな戸川瀧子龍巳二人の兄妹だが、その明石迄の旅程で事故が起きた。その事故というのは龍巳老婦に起きたのだ。

「…ええ、あれは呉から香川へ渡る船の中でしゃった。私は突然、得も言われぬ腹痛に襲われ、それは後で分りしゃたんですが、赤痢でしゃった。激しい激痛と下痢で動けなくなった私は香川の湊から動けなくなりましたが、ねぇしゃんはそんな私を香川に残すと何も言わず人足先に明石へ向かう汽船に乗りなしゃったのです。ええ、私は一人香川に残され、私とねぇしゃんは離れ離れになりました。でも私は幸か不幸か、香川でこの家の旦那の介抱を受け、やがて病院へ行き、そこで身体が回復すると、行く当てもない身ですから、旦那に誘われるままそのままこの家に来て色んなことを手伝ううちに、こん家の旦那に嫁入りすることになりやした」

 奇妙な運命と縁(えにし)としか言いようがないと私は思った。それは横にいて静かに聞いていた刑事もそう思ったに違いない。ここは山深い奥地である。ひょっとするとこの家は平家の落人の流れを汲む一族の末流かもしれず、それが遥か大陸から海路遥々やって来た行倒れの娘を助け上げたと言うのは、お伽噺の様である。

 しかしながら、話はお伽噺のようにならなかったのである。

 龍巳老婦が二十歳の頃、突如、明石へと向かった姉が姿を現したのである。




(67)


「瀧子さんが?」

 私が聞くと龍巳さんは首を縦に振られ、そこで着物の皺を伸ばして再び私に背筋を伸ばして向きなおられた。縁淵のどこかに

 蝉が止まったのか勢いよく鳴き始めた。その鳴き声に交じるように老婦の声が私に響いた。

「ええ、そうです。それは私が二十歳を過ぎた頃でしゃった。そう、二人が生まれて三日も立ってない頃で、姉は突然現れなさったんです。私はお産が終わり病院のベッドに横たわっていたんです」

 ここに重要な言葉が出て来た。

 つまり


 ――二人が生まれて三日も立ってない頃


 それはどういう意味か、いや既に私はその意味をロダン君の手稿から答えを聞いている。だから驚くことなく言った。

「つまり、龍平と珠子ですね」

 老婦は頷いた。

「そうです。二人の名を父…つまり旦那さんが役場に届けに行った直後の事でした。ほんに今思えば、いや悪魔来る時、逢魔が時とでもいいなっしゃるんでしょうか、ねぇしゃんが現れた時と言うのは。それでねぇしゃんはいかように私の場所を知っていたのかなんぞ語らず、側までついとやって来ると言いなしゃったとです。

 ――あの二人にいい暮らしをさせる為に私が預かる、それだけじゃなく、それは父動眼の意思でもあると。それに私は雲竜寺に近く輿入れする。ずっと目の届くところにわっちの子はいるのだ、安心しろと言います。しかし、信用できるでしょうか?わっちを捨てる様に明石に向かったねぇしゃんを…私は首を振りました。こんな山深い奥地でありますが、此処の土地は裾広く、また朝夕には遠く瀬戸内の輝く海が見える。遠く奉天の奥から来た私にすれば、此処はもう天国でした。しかしです。断りを受けたねぇしゃんが帰ったその日から三月後、二人の子が突然姿を消したのです」


 ――二人の子が突然消えた。つまりそれは失踪。


 それが何を意味するのか。


「ええ、当初はこの近辺の神隠しとか、熊とかに攫われたとか言われましたが、私は次第にもしかしたらねぇしゃんの仕業ではないかと思いました。ねぇしゃんはその頃明石の雲竜寺に輿入れしており、私も何度か文通を送りました。えぇ、そうです。二人の子を抱いた写真は私です。そしてそれは私がねぇしゃんに子が元気に育っている証に送ったのです。その写真は、二、三枚あってそれは一枚、此処に息子の弔問に来た人に渡したんです。ここに自分を派遣した方にみせてやらねばとかおしゃってたんで」



(68)

 

 蝉の無く声が一段と高くなり、鼓膜奥に響く。私と刑事は二人蝉に交じる言葉を懸命に聞き分けようとしている。それは雑居物に交じる純物を取り除くように。

「それからどれくらいたった頃でしょうか。いやもう年月という物が既に自分の中で風化し、何も感じられなくなった程の時間でしゃった。想像してくらっしゃい。子が突然消えた夫婦の苦悩、いやむしろ旦那様よりこの場合、わっちの気持ちです。どこにいるのか、生きているんか、それも分からない日々を此処に一人居て過ごす侘しさ。ええ、勿論、一度ならずともねぇしゃんの居る雲竜寺には行きましたが、そこには私の子はおらず、ねぇしゃんの子が居るだけでしたから。この子等は会うたびに大きくなってゆく…私の心の燻りはねぇしゃんへの嫌疑と嫉妬なんぞが混じり、やがてねぇしゃんのとこにも行くことは無くなり、捻じ曲がる様な年月でした。そして次に覚えているのが、ええ、東京オリンピックが一年後に控えた頃でしゃった。突然ねぇしゃんが此処に来たのです。ねぇしゃんは臨月を迎えていました」

 雑居物に反響して響く声に何かが含まれている。それが純物だとしたら、これから聞いたことは余りにも余りある純であり、真実であろう。

「ねぇしゃんは私に腹を撫でながら言いなしゃった。――お前の子は父の目の届くとこに居る。それも一人は祖父の孫として『東夜楼蘭』、そして息子は『火野屋』の跡取りとして居てそこで何不自由なく暮らしている。息子の龍平は特に体に優れているようで、東京オリンピックの候補生でもあると。それを聞くや、,私はねぇしゃんに叫びました。「なぜ、このような仕打ちをしなしゃったとです!!」と問い詰めたんです。するとねぇしゃんは毅然としてわっちに言いなさったんです。――動眼へ罪を背負わせるためだ、と」


 ――動眼へ罪を背負わせる。


 私も刑事も眉を上げた。


 ここにおいて動眼がまるで蜃気楼のように浮かび上がった。

 

 動眼、通称根来動眼。

 そしてここに居る龍巳老婦と戸川瀧子の父である。この男こそが、全ての始まりなのだったのか。私は自然と背負っていた鞄から手帳を取り出した。メモを捲ればそこに猪子部銀造とやり取りした言葉がある。その言葉の隣に私は書き込んだ。

 根来動眼、と。


(69)


「動眼、つまりわっちどもの父は聞くところでは紀州生まれで、年少の頃から聡明で、それだけでなく美しい童だったようです。それが歳を経て、やがて不思議に何か感が良い少年になり、それで自ら望んだかどうかはわかりませんが、学校へ行くことは無く大きな真言密教寺に入りなしゃった。どうもそうした宗教の世界と言うのが本人には気性としても生来あっていたのでしゃろうな。過ごした寺では――性すこぶるよく、声も程よく呪を唱えても朗々として、まさに天地震わす。また地脈に通じ、良く質を捉える――と言われなしゃたそうですが、実態は中で相反するものがぶつかりなしゃたような複雑さがあったしょうです」

「それは?」

 私が聞くと老婦は口に手を遣った。

「それは御察しできませんやろか。聖人君子いいましても、中には沢山の欲を抱えていらっしゃる。それと他人様の期待に添える様に生きようとする人格が反撥すれば、本物の正邪淫濁なる人に化けなっしゃるでしょう」


 ――本物の正邪淫濁なる人


「これは奉天での父の噂でやっす。父は本寺で修業後、大陸へ渡りなしゃった。それはシルクロードの果てにある楼蘭を目指し、そこに自分の真を探しにいきなしゃったが、しかしながら父が奉天に来て遂に遠く日本から外れると、まるで諺の旅の恥はかき捨ての様に父は精神が緩んだんでしょうな。如何わしい土着宗教に伝わる葉物を吸われて、遂に精神タガがとれてしまい、とうとう女犯をされた。それがわっちらの母でしゃった。母は一度の事でしゃったが、ついぞ身籠り、わっちらを生んだ。その時、父は奉天を逃げる様に去りなさったのです。これこそが父の真の姿なのです。父は何もえらい人物ではありません。夢想し、希望を描く、まるで少年のような子供だった。如何に精神を鍛えた修験者といえど大人の男女の事まで通じていなかったようで、愛なんぞと大言を仏の前では説教できたかもしれなませんがいや寧ろ性根は優しくて臆病だったのかもしれません。結局は何度も雲竜寺から手紙を寄越しては何かと自分の事を書いて、時折金銭を送られました。それは口封じでもあったかもしれません。中国の事が漏れるのを恐れた動眼自身のです。そしてその文通の中に温泉を掘り、『東夜楼蘭』を建てたことなどがあり、いずれ自分達を日本に呼びたいとありました。小心さが現れる小者だったでしょう。自分の野望なんぞ、語れないそんな小者が根来動眼の本来の姿なのです。空想に蕩かされて、現実には弱い人物なのです」

 私はそこまでは聞けば特に何ごとでもない気がした。確かにお二人には気の毒な身上の話だと思うが。 

 だが、何ゆえに戸川瀧子は動眼へ罪をかぶせると言ったのだろう。


「しかし、その中にいけないことが書かれてなしゃったんです」

「え?…いけないこと」

「そうです」

 老婦は顔を下げた。

「父、動眼が東を名乗りなっしゃったのは…つまり東家の娘を娶り、所帯を持ったということなんです。それが姉の心を激しく揺さぶり、内心で父への憎悪を強くさせたてしまったんです」


(70)



「童のようやと笑わんでくらっしゃい。ほんにわっちもねぇしゃんがそんな心持なんじゃっととは知らんかったんです。まるで少女の様な純粋さをお持ちになりなしゃるとは、あまりにも行動とは別人のよいうですから。確かに奉天での暮らしは辛いことがありました。辺りには囁かざる口があり、それがわっちらの出生に関わる事でしゃったから。そして父の再婚。捨てられたと感じるのは誰でもそうではないでしゃろうか」

「お子さんは?」

 私は聞いた。

 老婦は軽く首を横に振る。

「幸いかどうかはわかりませんが、東家ちゅうのは紀州の中々のお家でタオル事業で成功し泉南の土地を有していましたが、その家には娘さんしかおらず、それを不憫に思った本寺からの檀家紹介の養子縁組でした。それで以後父は東を名乗りましたが、娘さんは結婚後すぐにお亡くなりになりましたそうです。子は残りませんでした。ねぇしゃんは…その事を恨み、まるで少女の様な幼心のまま純粋に保ち続け、やがてそれを心中秘めてひとり背負いながら日本に来よりなさったんですな。つまりわっちの二人の子をかどわかしたのも、全てねぇしゃんの少女の様な父に対する痴擬に等しい純粋な怒りの先にあった行動だったのです。――ねぇしゃんは、そう、この縁側に座り蝉無く声に耳すましながら臨月の腹を撫でながら言いました。――これですべてが揃った。私の呪法は完成し、父は楼蘭という夢が崩れるのを見るだろう。これで全ては呪われる」

 私はペンを走らせる。そしてそこでピタリと止まった。止まって聞きなおす。

「全ては呪われる。その呪いとはつまり…」

 私はロダン君の手稿に書かれていた文字を手探りで引き寄せて口に出そうとした。しかし、それを老婦が押さえる様に言った。それはまるで自白の様だった、長い年月の間、語られることの無かった秘中の中の秘。

「ええ、つまりねぇしゃんは腹に父動眼の子を身籠りなしゃったんです。ええ、あの弔問の若者は言いました――僕は勘違いしをしていた、つまり瀧子さんは自分のではなく…と」

 横に居た刑事は蟹ばった顔を引きつかせながら僕を見た。

 そうなのだ。

 私がロダン君の手稿を読んで叫んだのはこの全てを知り得た時なのだ。

 つまり身を焦がすような焼土の中で嬰児を抱えた戸川瀧子は、父の子を身籠って生んだのである。

 そして、である。

 悲劇の連鎖はそれを自分の子だと勘違いした精神的多重人格を有してしまった憐れな竜一によって、その二人が葬られたという事なのだ。その葬られた先はどこかと言うと…

 それこそが馬蹄橋の七灯篭なのだ。


 想像するがいい。恐ろしさに震える蛇が、恐怖のあまり自分が抱えきれない卵を飲み込んだ。それは勘違いかもしれないが、間違いなく完成された呪いと共に。

 その呪いはまるで過去から既に決まっていたように選ばれた人物の胃袋の中から精神へと伝わった。彼、 田中竜一の中で。

 彼の存在はまるでこの血脈の連鎖の中で選ばれた時代の供物だった言えないだろうか。

 誰への供物となのか。

 それは時代を彩った外道達への供物ではないか。時代はやがて血となり彼という肉体と精神の中で蝕み、やがて、因果を求める。

「ねぇしゃんは今考えるとやっぱり幼い少女だったんじゃないかと。本当は父を求めて寂しい少女。だから成長すればおのこをほしがりしゃるが、それは父性を求めていたんでしゃっしゃろな。それがまぁほんに子供のような幼稚な論理で転がり、殺されなしゃったんですな」

 ただと私は思う。

 戸川瀧子が広げたのはまるで曼荼羅だ。それは胎蔵曼荼羅図。それやがて時代を経て広がり、そこには

 父である動眼も

 子である銀造、竜一、竜二も

 そしてこの龍巳老婦とその双子の龍平、珠子も。

 いやそれだけではない、東夜楼蘭も根来動眼の殷賑さも全てが屏風絵のように描かれた見事な金襴に輝く胎蔵曼荼羅図屏風と言えるだろう。

 そしてそれらの曼荼羅図をまるで風呂敷を包むかのような手並みで閉じた人物こそ、彼、四天王寺ロダンと言えるのではないだろうか。

「それでなぁ、婆さん聞くが。誰が二人を殺したと思う?」

 刑事が思いを切り裂くような図太い声で言った。

「え?」

 私は刑事を振り返る。

「つまりだ。俺が聞きたいのは誰が戸川瀧子と嬰児を殺したのかだ?だってあんた今言ったろ?『ねぇしゃんが殺された』ってな。不自然だろ?それはむしろその事を知ってる人間しか言えねぇ言葉じゃないか、なぁ違うかい?」

 私は老婦の沈黙にのしかかる角谷という刑事の言葉を追う。

「つまりだ。検視したらまぁ長年経過した遺体だがやっぱり科学技術っちゅうのは昔ならわからない過去を暴く様だ。まぁそれはほんまにどうしようもないが、つまり遺体は何か鋭利なもので頭部を殴られ、まぁ斧みたいなもんやな…、それから焼かれてる」

 それから刑事は言う。

「ここは奥地や、それに下から上がって来る時に猪なんぞ捌いてるところもある。この辺りの家にもそれなりのもんがあっておかしくないやろ?

 なぁ聞くが、戸川瀧子は何処で出産したんやと思う?それに田中竜一…あいつも姿を変えて流れのテキヤやったわけや。日本中、色んなとこ流れとる。ここに来たんやないか?それにあいつ自身の精神はまともだったのか、錯乱してるんか?錯乱しているんだったらまともじゃないだろう?つまりあまりの衝撃にきちんと事実を受け止めるだけの精神的余裕が有るとも思うかい?もしかしたら自分がそうあるべきだと言う妄想に取りつかれて真実を虚実と入れ替えて…それで殺人を犯してもおかしくはない。それに…」

 刑事が一気にまくしたてると一拍の間を置いて息を吸い、吐き出すように言った。

「瀧子の子が三つ子なんて誰が言うてるんや?」

 一瞬だが龍巳老婦人が肩をびくりとさせたように見えた。それは刑事の大声に驚いたのか、それとも核心に触れられた慄きにためか、私には分からない。

「誰かが書いた報告書みたいな三文小説はこちらに来る新幹線で読んだが、全くあてにならん。確かに明石の雲竜寺の住職は猪子部や、そして俺が戸籍を調べたところ瀧子の子は二人。見ればそれも竜一、竜二、銀造なんておらん」

 私は刑事を振り返る。

「居ない?」

「せや。銀造なんて出生届出されてない。それだけじゃないぞ。竜一、竜二ともあの馬蹄橋の田中家に養子に出されてる。どんな理由かはしらん」

 …どういうことだ?

 私は困惑する。届けが事実なら、銀造なんてこの世にいない…

(じゃぁ…自分が会ったあの人物は誰なのだ?)

 混迷の霧を振り払う刑事の声が鼓膜に響く。

「それになぁサタやん。いいか、この家で珠子が生まれたというのは事実かどうかも分からん。なんせ珠子はこの婆さんの戸籍には無いんや。それは俺が昨日m、もう調べておいた事実や。ともすれば今の話を信ずると仮定してこの婆さんの子供である二人、龍平共々珠子もここから連れ出されたことになる。考えてもみぃ?矛盾やで、いくら何でも戦後の混雑があると言え、有り得すぎるフェイクやないと思わんか、いやそうならば完璧に仕上げられた真実を隠すフェィク劇や、シェークスピアも真っ青のな」

 刑事の言葉は霧の中に広げられたトランプを捲る様に次々と新しい事実を露にしてゆく。

 刑事は屈みこみ、老婦人に言う。

「なぁ婆さん。全部こちらが調べた事とはどうもてんでばらばらや。この辻妻誰がどう合わせるんや?それとも何かぁ、全ては誰かが企画した誰にも解けない謎なのか?それとも真実を知っている誰かが語ったことを再び符牒を合わせて辻褄立てて封印しようとしたのか??じゃぁ辻褄が合わない人物は誰かが生んだ空想上の怪物か??

 まるでこれは劇やで。真実を知っている誰かが、誰かを庇う為に話の道筋をすり替えて本質を曇らせた、そんな劇や。あの小説はその為の小道具としては十分の効果がある。読めば読むほど困惑して、真実を歪めることだろう。

 だがな、事実はいずれはっきりする。実際にこの劇で重要な鍵を握っている人物の言葉を正確に追えば、おのずから誰が犯人なのかは分かる。何度も言うが事件は簡単なのだ。誰が殺してあの馬蹄橋に埋めたかなんだ。そしてこうした複雑な事件はいつもそうだが、誰もが一番思いつかない人物、そう、事件のサークルから距離を取っている人物が犯人なのさ」

 私は刑事が言わんとすることが分かった。彼の老婦の沈黙を追う言葉は、今、この龍巳老婦の何かに向かっているのだ。そうここにはロダンの手稿は書かれていない。

 つまりもう一つの真実は今ここにある。そしてそこに刑事がいま迫りつつある。

 だが、

「…まぁええ。それは推論や。もう、あれはあのままで良い事件や、そのままで良い。時効とかじゃない。関係者がいうんだからもういいやろ」


 ――関係者?


 私は刑事に振り返る。それはどういう子意味かと。それに気づいた刑事が私に言う。

「ああ、俺なぁ、知ってるやろ?林武夫って警官。あれは俺の爺さんさ。俺はその娘林聡子の二女の子。つまりだ、俺はあの女優、西条未希と従兄妹なのさ」

 言うや、それ聞いた私の驚きを他所に刑事は老婦に振りかえると言った。

「まぁこの件はこれで仕舞い。この出張で俺は何も知らんし得るものが無かったちゅうことで、もう終わりや、未希にもそう言っとく。時代はミレニアムやでなぁ…」

 言ってから刑事が老婦を見て僅かに笑う。

「婆さん、ええやろ。全てはもう終わりや」

 それを聞くと龍巳老婦は身づくろいを改めて手を縁に付くと深々と刑事に頭を下げた。

「ありがとしゃんです。ねぇしゃんがほんに迷惑をかけました。わっちが代わりに頭をさげますかい、許してくだっしゃい」

 私は突然訪れた予測もしない終わりにただ茫然とした。蝉は私達の頭上で鳴いている。

 僕は心の中でロダン君が書いた手稿で感じた疑問を心の中で反啜する。

 自分の疑問に答えるロダンの声が蝉に交じる。

 ――血統的遺伝性とは?


 決して性格的偏執性の遺伝性をだけを示しません。それは女性にある多胎児出産をもさすのです。


 ――戸川瀧子の『呪い』とは?

 少女の純粋な気持ちが生んだ純粋な父性の欠乏が生んだものなんですよ。それがまぁ彼女の中で復讐を生んだのでしょう。異常性はあるが、内容は至ってシンプルですね。


 ――双竜とは誰なのか?

 ああ、それは戸川瀧子と龍巳さんの事ですよ。田中竜一、竜二ではありません。引っかかりましたかね? まぁ銀造さんすらもそう思っていたようですが。


 そして

 ――最後に火野龍平はどこに消えたのか


 あ、それは!!

 ロダンが慌てる声が響いたように聞こえたが、やがて老婦の声が響いてきた。

「今日は息子龍平の一回忌でしゃります。龍平はどこかでわっちがここに居ることを知ったんでしょうな。火野家を出て以後は此処に一緒に住んで暮らしました。旦那さんは既に亡くなりまっしょたから、大人になった龍平をついぞ見ることなく。ええ、勿論、あの弔問客の方は東家のかたじゃないかとはわかりましたが、唯、あの若者の方はなんでもインシャネッチョで息子の名を検索したら此処で息子の死亡記事が出てたそうで。まぁ時代はほんにすごかですねぇ。

 ええ、息子が死んだのは猟に出てそこででかい猪にやられたとですよ。それが新聞に出たんです。そう、猪にね。しかし子が親より先に死ぬなんて何ていうことでっしゃろう」

 言うと老婦は目配せをした。今日は法事だと道行く人は言ったのを思い出した。それはつまり…

 私は引くべき時が来たと感じた。

 それで私は老婦人に頭を下げた。

 しかし、その時私は此処で別れに似つかない一言を残してしまった。それは不意に自然と不思議に出た言葉だった。

 後からそれを詮索すればきっとこの事件はより深い迷宮に落ち込むだろうと確信してしまう余計な言葉。

「…龍巳さん、あなたは本当に龍巳さんですよね?本当は戸川瀧子さんではないですよね。どうも双子と言うのは外見上良く分からないもんですから」


(71)


 忘備録としては長い内容になっていることは個人として十分に分かっている。だがこれがあの四天王寺ロダン君が書いた小説の補講として補うにはちょうどいいと思っている。そんな相反する中で、いよいよ忘備録も最後になった。

 つまりこの事件、私は『馬蹄橋の七灯篭』とするが、この事件の結末を幾つか書くことでこの忘備録を終わらせたい。

 まず猪子部銀造を殺害した人物だが、それについては後日、角谷刑事からメールが来た。犯人は意外なところに居たのだ。そう、犯人であるその人物はあの雲竜寺前にラーメン店を出していた店主『たこべぇ』だったのだ。

 彼は長年、銀造の恋人(つまり男色としてのだが)だったのだ。つまりあの日去り際に私の面前で銀造が立てた小指は間違いなかったのだ。たこべぇ自身、あの事件後、明石のたこフェリーふ頭から身を投げて水死したのだが、そこに彼の遺書があった。全ては此処に記載しないが大事な点としては、彼自身は幼少の昔から銀造との深い仲だったが、ある時期から何か違うのを感じていたらしい。それは恋人同士の愛の世界における愛撫の仕方などだと書かれていたので深く推量せぬが、それを永年感じていた彼はついぞ、あの日、銀造に言ったのだ。それを聞いた銀造は遂に口を割ったようだ。それを長年内心薄々感じていたたこべぇは席を立って外に出るや銀造を先の尖った鉄串を握って追うや、力任せに銀造の首を突いた。それを数度やると後は駆ける様に逃げ、それから明石の海に身を投げた。

 遺書の最後には恨み言があったそうだ。それは猥語ではあるが、この事件の性格を現す側面があるので私の意思で一部ここに書き残す。


 ――たこべぇの遺書より


『外道め!!良くも長年俺をたぶらかせやがったな。俺はお前の息子が店に現れた時思ったんだ。お前が女を愛して子を作っていたことを知らなかった!!それを知った俺の動揺が分かるか??しかしそれで嫉妬に駆られてお前を追求したら遂にゲロったな!!なんて汚らわしい奴に俺の躰は長く蹂躙されていたんだ。まるでガマガエルに俺の身体を舐められていた気分だ!!汚らわしい!!そうか、竜一。良くも兄貴を殺しやがったな。よしいいさ、お前が死んだのはニュースで見た。おうよ、俺も一緒に地獄へ行くさ、そこで今度は今までとは逆にお前の尻を責めてやる、いくはてもなく、いくはてもなくだ!!ひぃひぃ言わせてやるからな、銀造、いや竜一!!まってろよ、地獄で』


 

 東珠子は『東夜楼蘭』での観劇のあと、これから日本全国に残る地方演舞場を現代の役者で再興していこうとメディアに発表した。それは昭和の頃から残された地方の演舞場の復興と地方文化の息吹の吹きかえしだけでなく、次世代の役者や脚本家を育てる目的である。

 その中に劇団『シャボン玉爆弾』があるかどうかわからないが、いち個人としては大変期待している。実は後日、私は彼女にインタビューを申し込んだ。勿論、馬蹄橋の事である。彼女は内密にという事を条件で受けてくれ、私は所定の場所で待ち合わせた。そしてそこに彼女が現れたのを見た時、思わず「――良くあの人に似ている」と漏らしてしまった。それは誰かと彼女に聞かれたのがインタビューの始まりだったが、私が彼女に言ったのは一言、――お母様にです――だった。

 それを聞いて彼女はどきりとしたようだったが、後は平然として私に向かって今度はこちらが驚くようなことを言った。

「――そう言えば、彼も同じこと言ってました」

 その時の彼女、東珠子は酷く美しく私には見えた。

 それから彼女は不思議な事を私に言ったがその意味が分かったのごく最近の事だった。

 彼女が言った事。

 それは…


 ――彼、演技はいまいちでしたけど、貴方の前に現れた時の変装のメイク技術は中々のものでしたでしょう?

 

 馬蹄橋で発見された遺骨だが、それについて事件性は否定できないものの、これらの事件に深く関与するだろう最後の特定される被疑者が全て亡くなった為、また届け人である東エンタープライズ自体も何も損害が無いことから事件は被疑者不明のまま、司法の手に触れぬままこのまま消えることになるだろうと思慮する。

 全ての関与人の死亡とはつまり龍巳老婦の死亡を指す。私が訪れて丁度七日後、老婦人は老衰により自宅で死亡した。婦人の死は家を訪れた社会福祉センターの係員よって発見された。

 龍巳老婦の死に姿は綺麗な着物着のままであり、まるでその姿は五月人形の様で、手に小さな数珠が握られていたそうだ。そしてその側に手書きで書かれたものがあった。

 それはこうだった。


 ――ててさま

  りゅうへい、たまこはおなじはらのこにて、

 なんびとにもさとられぬよう、よろしゅうに


 それはりゅうを呼びましょうから


 どちらにしても奉天から続けた彼女の長きにわたる人生の旅は遂に終わりを遂げた。

 さて、猪子部銀造なる人物であるが、後日自分が調べたところ、彼はどうも無国籍者だったようだ。なぜそうなったのか?単に出生届出の際に彼自身の記載が脱落したのか何か意図が瀧子にあったのか、今となっては結局のところ分からないし、また記録がない為、彼の正確な没年も分からない。戦後はそうした曖昧さがあったのかと推量するが、どちらにしても自分が会った人物が誰だったのか、今は思いを巡らすしかない。


 ではこの忘備録は西条未希と四天王寺ロダンの事を書くことで最後にしたい。

 まず西条未希だが事件後一度だけ彼女から電話があった。

 その時、彼女は私に言った。

「…佐竹さん、あの小説読まれたでしょう?あの時勢いよく渡しましたけど、あれってどこか不自然でないですか?今読んでもなんかしっくりこない、なんか大事なところは小出しにされていてるんだけど、何かこう、事件の何か大事な核心というべきところを、濃霧の様に消されているような…」 

 そこで私は言った。

「所詮、素人小説何てそんなもんです」

 そう言ってから一瞬、躊躇した思いが湧き上がると不意に漏らした。

「西城さん、もしかしたら真実は彼だけが知っていて、それ以上語ることは誰かの何かを…深く抉る様なものがあり、あえてあんな三文小説、…つまり喉に骨が引っかかった様に読ませた人を霧里夢中の中で歩かせるように仕上げたのかもしれません」

 言うと電話の向こうから沈黙があり、小さく頷いたような気配を感じた。

 以来、私と西条未希とは連絡をしていない。勿論、それでいいと思っている。

 もしかしたら自分が書いた東京オリンピックの記事を見て連絡があるかと思ったが、未だそれは無い。

 新聞に書いた東京オリンピックにまつわるエピソードは火野龍平の事を書いた。才能あふれる若者が不思議な事故に見舞われ夢を絶たれたというエピソードだ。それはこの『馬蹄橋の七灯篭』の中で唯一、清涼ある部分だし、亡くなられた龍巳老婦の人生に対する僅かながらの敬意と慰めである。



 さていよいよ最後に四天王寺ロダン君であるが、彼は一体今どこにいるだろう。山口の彦島には行ったようだが、その後、消息が分からない。

 ひょっとしたら既に難波に戻り、飄々としたその風采で役者をひた向きに目指し、今も何処かで自分磨きに忙しい身かもしれない。

 だが、ロダン君。

 いつか此処に顔を出してくれないだろうか。

 私は大阪のこの難波の新しいランドマークともいえる様な高層ビルに居る。あべのハルカスほどではないが、それでも何かと話題があるビルだ。

 私は君を探すより、此処で待つ。

 きっとそのほうが雲を掴むような君を探すより、いつかその雲がこの高層ビルに当たるようにふらりと君がやって来そうだからだ。そう、何となくだがそんな気がしてならない。

 

 さて、『馬蹄橋の七灯篭』の事件ついて私自身が知り得ていることはこの忘備録に全て書いた。

 それはつまり、

 以上を持ってこの『馬蹄橋の七灯篭』の事件は終わりだと言うことである。


(了)

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