第15話 馬蹄橋の七灯篭(前編)

『馬蹄橋の七灯篭』



 1


 大阪難波にある新聞社Mの本社ビルは綺麗である。この場合『綺麗』とは新しくモダンであると言う意味であり、本社ビルは2021年に完成した。ビルは二十階建ての白塗りで周囲を阪神高速がビルに沿うように緩やかにカーブしている。その為、阪神高速に乗って関西空港や大阪南部へと行く人達はその姿を車窓から見ることができるが、唯、時間帯によっては白く照らされたビル壁に反射する陽を避ける為に車内で手をかざさなければならず、少なからずそれは時を経ず話題になった。

 だがそれは返って大阪の新しいランドマークとしての機能をひとりでに持ち得ることになり、ビル自体が人々の注意を一斉に引き受ける効果をもったことは情報の発信源としての新聞社という意味と広告性を考えれば、悪くはないことだったかもしれない。

 そんなビルの一階は大きな吹き抜けになっており、壁にはアールデコ調の大きな時計と現代美術家の作品が並びあって、エントランスとしての格調さを演出している。またその一階にはカフェが併設されており、社員はそのカフェで来客と応対し、また込み入った内容でなければ簡単な打ち合わせや商談の場所として利用している。だからM社の地域社会部記者である佐竹亮が老人を座らせてここにいても誰も不思議がる人はいなかった。

 壁に掛かる大きな時計の時刻は午後二時を過ぎた。丁度ビルに陽が掛かり始めた頃である。

 老人の年頃は七十五前後かもしれない。先程、老人は東京オリンピックの時はまだ十六だったと言った気がしたから、そうではないか?そんなことをぼんやり思った時、老人の鋭い語調の声が飛んできた。

「おい、あんた。何ぼんやりしとんじゃ。ワシは客やぞ、それだけやない。ここに書いてあるあんたんとこの記事読んで、態々、泉南の山深いとこから足運んできたんや。南海に銭払ってまで来たんやぞ」

 はっとして佐竹は老人に向き直る。老人はテーブルの上に投げ出された新聞を叩いている。それは間違いなく当社の全国紙である。

「…ああ、これは失礼しました。すいません、えっと…」

 名前を探し損ねている。

 それが老人にも分かる。分かると渋面づらになったが、溜息を吐きながら言った。

「猪子部(いのこべ)銀造(ぎんぞう)や、もう二度と言わんぞ」

 イノコベギンゾウ、

 手帳を開いて素早く書き込む。

「泉南は…あんたが分かるか知らんが、最寄は日根野駅」

「日根野?」

 佐竹は首を傾げた。

(確か南海と?)

 南海とは南海鉄道の事である。日根野はJR阪和線である。佐竹が首を傾げる様を見て老人が舌打ちして言う。

「今日は、南海側に用事があったんや、それでいいがな。細かいことは」

(まぁ…そうだな)

 ペンを手帳に走らす。走らせながら佐竹は老人に聞いた。

「…お住まいはどこですか?」

「住まい?」

「ええ」

「個人情報とかちゃうんか?さっきの駅名だけでええんちゃうんか?なぁ?」

「まぁそう言われれば仕方ないですが、もし記事にするとなれば…寸志程度ですが謝礼もありますので…」

「なんや、銭呉れるんか?」

「まぁそうです」

 ふん、と老人は鼻を鳴らしたが当人は満更でもないのかもしれない。舌で唇を濡らすと佐竹に手短に住所を言った。唯、表情が少しいやらしい。金には意外と執着が強いのかもしれない。だが、佐竹はそれを気に留める風も無い素振りで老人の住所を手帳に書き込む。

「それで…」

 言いながら老人が新聞を手に取った。

「ここに書いてある通りワシは或る話を聞いてもらう為にここにやって来た」

 佐竹が顔を上げる。

「これは二日前の朝刊やが、『東京オリンピックに関連した出来事やエピソードを募集』とあるが、それは間違いないか?」

「ええ、それは間違いありません。僕が担当してますので」

「それならええ、間違いないのなら。それでええ」

 老人は自分の中で確認するように声に出して復唱している。

「それで、失礼ですが…どんなエピソード、つまりお話があるんですか?」

 にがり笑いする老人。

「エピソードでええやないか?言葉かえんでも、いくら昭和生まれでもそれぐらいの言葉は知ってんで」

 老人が笑う。

「いやこれはすいません。それで話…じゃない、エピソード…というのは」

 佐竹が言うと老人は笑みをやめて、息を吸った。

「…あんた『馬蹄橋』と言うのは知ってるか?」

「馬蹄橋?」

「ああ、馬蹄っちゅうたら馬の蹄のことや。分かるか?」

「ええ…まぁ」

 佐竹が頷く。

「ほうか」

 老人が顎を摩る。摩りながら目を細めた。

「昔はなぁ、紀州の高野から難波の津に出るには一度、紀の川沿いに船で下り、今の和歌山にでるのが良く知られているんやが、ただ川で下るには荷物もあまり積まれへんから、大層めんどうやった。それで陸路やと山峰を越えて行ける小さな近道が今の犬鳴山にあった。それは高野の坊主共が難波に行くのに使っていた峠道だったんだが、いつの頃からかそれを知った土地の者が難波へ馬を引いて荷を売り捌く為に使う様になったんや」

 老人が話を切り出し始めたので急いでペンを走らせる。老人は話を続ける。

「犬鳴山っちゅうたら義犬伝説もある温泉街やが、まだまだその当時は、まぁ江戸の終わりぐらいにしとくと…あの辺は修験者がうろつくような物騒な山深い所。そしてなんせ近道とはいえ今とは違ってでこぼこの峠道で路面が荒い。いくらなんで馬を引いて紀州から難波に出るには重荷を背負った馬の蹄鉄は峠道までもたない。例え、そう持ったとしても難波迄は到底もたへん。そう誰もが思ったし、事実そうだった。そしたらやな、いつん頃かそこで鉄を打つものが現れたんや」

「鉄?」

 佐竹がペンを止めて聞く。

「おう、だがな、そいつはそれだけやない、鉄を打って峠に来る馬の蹄鉄を直し始めたんや。そいつは田中甚右衛門と言うてな、中々の腕やったし、良い蹄鉄をつくりよったから大変評判になり、そうなれば馬を引くもんは安心してその峠道をいけるようになるやろ?それから人の往来が自然とできてな、明治と時代が変わっても評判良く続いたんや。それでその店が在ったとこは丁度山から紀の川に注ぐ支流があって橋が架かっていた。まぁ当時は木の橋やったが…その橋の側にあって峠道の上から下を見れば小さな木橋が掛かり道を挟んでU型に曲がるように見えたし、それにそこで蹄鉄を直すやろ?それは馬の蹄や。だからそれらと合わせて、まぁそこを行くもん達だけかもしれんが『馬蹄橋』と呼ぶようになったんや」

「蹄鉄僑とは言わずに」

 佐竹がまじりとして老人に言う。

「言わずにや。そこんとこは兄ちゃん、愛嬌やで、愛嬌、愛嬌、土地のもんの愛嬌にしといて」

 それからかっかっかっと笑う。

(愛嬌ねぇ…)

 心の中で呟く様に言ってペン走らせ、要点を書く。書きながら佐竹は自然に出て来た疑問を口にする。

「…で、それが東京オリンピックとどんな関係が?」

「急かすな」

「は?」

「いや、話を急かすな。ちょっと水飲むから」

 老人はコップを手にすると一気に喉に水を流し込む。上下に動く喉仏とともに皺が動く。佐竹にはまるで蛇腹の様に動いてるように見えた。蛇ならば咀嚼すらする余裕もなく獲物を飲み込む。この老人が飲み込んでいるものは水だが、もしかすると自分が持ち始めた興味かもしれない。


 ――『馬蹄橋』


 なんぞ、知らぬ。

 おそらく土地のものしか語らぬ地名だろう。このインターネットで開かれた時代に未だそんな未踏ともいうのか、そんな場所が大阪にあろうとは。

 それが興味をそそる。

「兄ちゃん、ぼやっとせんといてや」

 再びはっとして老人に向き直る。だが老人は先程の様に不快感は無い。むしろ顔が紅潮している。話が饒舌で相手の注意を引いていることに満足しているとでも言うのだろうか。

「帰りは難波の立呑みで一杯引っかけようかな、いや、いかんいかん、今日は別件があった。気分がええなぁやっぱ人に知らんこと教えんのは」


 2


 翌日、佐竹はカフェで人を待っていた。匿名だが自分に会いたいというメールが来たからだ。来社する目的は昨日の老人、猪子部銀造と同じ『東京オリンピック』に関することだ。

 匿名の個人と言うのは結構多い。まぁ、それは個人としては語れない事情というものもあるわけだが、だが語りたければ『匿名』となる。人間と言うのはどうも黙ってはいられない性分なのかもしれない。壁時計を見れば、もうすぐ午後二時になる。その二時が相手との待ち合わせ時間だ。

 佐竹はメール本文に目を遣る。メール自体は定型文だが、文末にある「わたくしの一身上の理由から匿名でお願いします」という一文から、恐らく女性ではないかと推量している。『わたくし』とはあまり男性は使わないだろう。それも若い人ではない、となるとそれなりの年配の婦人と考えている。

 そんな簡単な当て推理をしながら、佐竹は待ちあわせ迄の数分で昨日の老人の話をまとめようとキーボードを打ち始めた。

 仕事は時間の隙間を利用して進めなければならない。



 3

 ――確か、『東夜楼蘭(あずまやろうらん)』と言ったかな。


 老人の唾液に濡れた唇が動く。動きながら僅かに開いた隙間から舌が見えた。まるでため込んでいた言葉を喉から滑らかに吐き出す為に。

「それでなぁ、その峠道。明治になると近代化っちゅうことで舗装され始めたんや。そうなると人の往来はより頻繁になり、その峠道だけを担ぐ生業が出来て運送業も出来たりして大層賑わいが出来ていた。だからその田中屋は一気に実入りが増え、段々大所帯になった。なんせ、難波、いやその頃は大阪でええやろう、昔の『大坂』やなくて『大阪』や。それでその道は段々、紀州から大阪に出るのに都合よい通りになり、まぁ昭和になるとやがてバスも通るようになったが、まだまだ明治の頃は馬が主流やった」

 佐竹はペンを何も言わず動かす。

「だが、やはり商売と言うのは必然か偶然か分からんが、やはり人が集まればそこで何かが起こるのか誰かが起こすのか分からんが、そうした人の往来の賑やかに目を付けた奴がでてきてなぁ」

 佐竹のペンが止まる。止まるペン先が僅かにインクに染まる。

「…目をつけた奴?」

「せや」

(成程…)

 佐竹は心の中で相槌を打つ。

 そんなもんだろう、商売と言うのは。人が集めればそこには必然として『欲望』が生まれる。

 新聞もそうだ。誰かが『知りたい』となる欲求にしたがって情報を売っている。人が集まれば自然横の人が誰か、少し離れたところでは何が起きているのか、相場はそうか等々、人々の『知りたい』は無限だ。

 勿論、現代の仕事もそのすべてがそうだろう。

 商社、物流、インターネット産業、食品、流通だけではない、いや性風俗さえもそうした『欲望』の上に上手にコントロールされて、金銭が動いている。

 兎に角も商売で第一人者といわれる人たちは、そうした『欲望』を自然的発生の様に合理的に纏める先見性を備えているものだ。そうした人を『奴』と含んで佐竹は言ったつもりだ。

「…『奴』ねぇ」

 感情と共に漏れた言葉。

 老人の唇が開く。佐竹の漏れた言葉を取り込もうと動く舌先と共に。

「そう、その『奴』と言うのが当時その犬鳴山を根城にしていた修験者の『根来動眼(ねごろどうがん)』や」

「根来動眼?」

 ねごろどうがん、平仮名で速記する。

「そう、犬鳴山があるっていうたやろ。あそこは小角、あぁ「えんのおづぬ」が大峰山に開山して、犬鳴山を含む金剛・和泉山系全体を「葛城」と呼んでなぁ、その中でも犬鳴山は修験道の根本道場となってるんや。そこに紀州生まれの動眼、恐らく根来生まれなんやろ、せやから根来動眼なんちゅう名やったんやろうけど…、そいつがそこで修行していた。修行しながら動眼には修験者としての『験』よりも、人々の欲望の方がはるかに良く見えたのかもしれない。それにあいつには不思議とある『感』が良かったのかもしれんが」

「ある『感』?」

「あぁ、霊感とも言っていいかもしれんが、あいつには或る能力があった」

「能力?」

「せや」

 老人が相槌を打つ。

「それは?」

 佐竹が問う。

「温泉を探る能力や」

「温泉…」

 佐竹の手が僅かに止まった。


 4


「そうや、あいつは日々犬鳴山だけやなく日本中のあちらこちらの山野を歩いた修験者や。だからかもしれんが自然と山下を流れる水や温泉を探る『感』が磨かれていったんやろうな。事実その磨かれた能力で馬蹄橋を見下ろす山上で源泉を見つけよった。昔から修験者にはそうした稀有な能力を持つ奴がおる。それだけやない。あいつは人の心の中が見て取れた。馬蹄橋を行き交う人々の『欲望』を」

「行き交う人々との『欲望』とは?」

「阿保かぁ、そんなん簡単やがな」

(簡単…?)

 老人がせせら笑う。

「休みたいっちゅう欲望や」

「…えっ、それは??」

 困ったような表情で老人が語り出す。

「兄ちゃん、分からへんか?重荷を引いて歩いて大変なんわ馬だけちゃうで、人や、人も足腰疲れてしまうがな。せやろう?もしやな、馬も蹄鉄を直して休ませるんやったら自分達も骨休みしたいと思うのが人情や。それでもしそこに温泉があってみぃ?どない思う?」

 ああと頷きながら佐竹が答える。

「そりゃ、温泉で休みたくなりますね」

「せやろ?それにそこで温泉だけやなく小料理や…」

 言ってから老人は急に小声になる。

「…男を愉しませてくれる…妙技を持つ女達が居たら…ほら、たまらんやろう」

『妙技』と湾曲して言う老人の唇からちらりと舌が伸びた様に見えた。それが唇を濡らして照かる。だが老人は直ぐに自分の下卑た様を隠す為に居直ると咳払いした。

「…『東夜楼蘭(あずまやろうらん)』とその動眼が開いた温泉宿を言った」

「『東夜楼蘭(あずまやろうらん)』?」

 聞きなれぬ名を佐竹は手早く手帳に書き込む。

「ああ、山上に立つ『山楼』という意味と、なんでも動眼が若い頃旅したシルクロードにある滅んだ邦の名で『楼蘭』ちゅうのがあってな、その『楼蘭』のはるか『東』で滅んだ邦の『夜』を思い出させるって言う意味もあるらしい。動眼はどうも修験者やなく学もある修験者やったんやろうな。気取った名を高々と掲げてるが、まぁ分かり易く言えばいかがわしい温泉宿や。まぁええねん、そんなことは」

「そんなことは…」

 要点を書き残す佐竹のペン先に苦笑が混じる。老人は話を続ける。


 5


「やがて時代が下るにつれてその温泉宿は段々と格式張る様になっていった。それはやっぱ山の中にあるっちゅうところが密談やら色んなことに便利になったんやろう、維新後は政やら経済とかに関わる連中が忍んで来るようになり、それで実入りは増え、やがて爛爛たる本当の山上楼閣の様になった。それは、それは…昭和の戦争時も変わることなく絢爛とした立派な山楼や。若しかすると動眼の『験』がずっと残り続けたんやろうなと土地のもんは言い続けたんだが、もしかすると馬蹄橋を出て直ぐに見つかった狐の祠の霊力と合わさったのかもしれん」

「狐の祠?」

「あるんや、不思議やろ?実はなぁこの動眼、山上に温泉を当てただけやなく、その馬蹄橋の下にある場所にも温泉を当て寄ったんや」

「へぇ…」

「その源泉がなぁ、その祠やった。それだけやない。動眼はやはり目鼻が効くんやろうな。夜道でもその温泉街が遠くからでも分かるように灯篭を七基、その馬蹄橋を囲む様に立てたんや。そうすれば夜でも山間を照らすやろうし、まるであやかしの様な風も見せる」

「成程、確かにそうした風景と言うのは情緒もあるし、夜道を行く人にとっては休む場所のランドマークにもなりますもんね」

 老人が大きく頷く。

「それも狐の祠や、やがてそれは御稲荷さんにしよったが、或る意味参道の様な感じに見せた。せやからその馬蹄橋には温泉が溢れ温泉街は大繁盛や。やっぱ動眼は目端の利く男やったんやな。それからその温泉街では『東夜楼蘭(あずまやろうらん)』を上屋(あげや)、その祠から源泉引いた温泉宿を下屋(さがりや)と言うようになった。もうそうなると動眼は修験者をやめて姓を『東(あずま)』と変え、やがて東家っちゅうのがそこにできた。それで下屋には色んな連中が集まってきたが、ほら…その鉄蹄を打った田中屋を盟主にして小さくも山上と祠を中心にした温泉街が出来たんや。そこは明治から昭和初頭にかけて大繁盛してぁ通称『動眼温泉』と言われた」

「動眼温泉…」


 ――知らない。そんな温泉街など。


 佐竹の心の内を察したのか、老人が頭を掻いた。

「まぁ今ではもうそんな当時の名残ははとんと無く温泉も消えてしもうたけど、今でも山上の東夜楼蘭(あずまやろうらん)の建物と温泉街としての形だけは残っている。きっと山上のあれはどこかの誰かが所有しているんやろうな…それで…」

 老人が一拍の間を置く。

「温泉の成り立ち。中々ようできてるやろう?どこかの小説みたいやがな」

 かっかっかとと老人は笑う。笑うとコップを手に取り喉を潤す。潤して佐竹に向き直って力を籠めて言った。

「それでワシはなぁ。その当時の下屋の盟主田中屋の跡取り息子の田中竜二の友(ダチ)なんや」

 佐竹はペンを止める。

 それから老人の顔を見て思った。

(いつ東京オリンピックの話が出てくるのだろう)


 6


 佐竹は時計を見た。午後二時を過ぎている。席を立ち周囲を見たが、自分が思う目当ての人はいない。近くに若いキャップ帽を被る女性が居るが、恐らくそれは違う。自分は或る程度の歳の婦人を探している。

 佐竹は腰を下ろすと椅子に座りなおし、再びパソコンの画面にキーボードで文字を打ち込んだ。昨日の老人、猪子部銀造が話したことを思い出しながら。



「田中竜二…」

 メモする佐竹が確かめる様に老人を見た。

「そうそう、田中竜二。まぁダチや」

「ダチですか」

「そう」

 老人はそこで表情を曇らせる。

「…まぁダチやったと言うことにしといて、もう故人やから」

「故人というと」

「死んだ。二日ほど前に。癌でな」

「癌?」

「そうや、まぁやっぱり何とやらで、人間は自分の人生で一番使った箇所がやはり駄目になるんやな」

「一番の場所?」

「おう、建築の職人なら腰とか手とか、あんたらみたいな事務員なら目とか、営業ばかりしてる奴は飲み会が多いと内臓とか」

「そのぉ、つまりその田中竜二さんは何が原因で?」

「ちんぽやがな?」

「えっ…ち、ちん…?」


 ――ぽ?

 鳩ではないがそんな豆鉄砲をくらった顔をしている佐竹にまじりとして苦笑しながら老人が言う。

「つまり睾丸に癌が出来て、死んだ」


 ――人間は自分の人生で一番使った箇所がやはり駄目になるんやな、と老人は言わなかっただろうか?


「…せやがな。ここだけの話やが、どうもあいつ…成熟の早い子やったんやろうな。何せ、小学生のころには股間の物を隠れてしごいては自分でこっそり気持ちよくなってたいうてたからな」

「はぁ…」

「それだけやない。中学になると益々そっち方面が強くなり、まぁ温泉街の手伝に来てた古株女とかにお願いしたのかどうかわからんが、割合ハンサムやったのあって、どうやら女を既に知ってたみたいなんや。まぁ早い頃から股間の物を上手に使っていたという訳やから、そりゃ使いすぎて痛むのも早いわな」

 老人の目が細くなる。

「分かり易く言えば生来の『色きちがい』ちゅう奴や」


 ――色きちがい


 うーんと唸ると佐竹は老人に言った。

「それで、そのぉ。その田中さんが東京オリンピックと関係するんですか?」

 ひょっとすると自分は老人の暇つぶしに利用されているだけではないだろうか。確かにそうした事は唯ある。情報の提供と言って、実は何でもないことと言うのは。

 探るような目つきで佐竹は老人を覗き込む様に見つめる。その目つきに老人は何かを感づいたのか、強く鼻を鳴らした。

「ふん!!当り前やがな。ここからがやっと話の本題や。この田中竜二と火野龍平(ひのりゅうへい)、そしてさっき言うた『東家』の娘、東珠子(あずまたまこ)を中心にこれから東京オリンピックんに関連するんや」


 ――田中竜二

 ――火野龍平

 ――東珠子


 突然、老人の口から洩れた三人の名を佐竹は筆記する。

「書いたか?」

 確認する老人に佐竹が頷く。

「ええか、これからやぞ」

 老人は瞼を閉じた。閉じて記憶を探るようにしてやがて口を開いた。

「それで時は東京オリンピックが開催される1964年の少し前や…そう、生まれも同じ年頃三人が今でいう中学生の頃に、或る事件が起きた…」

(…事件)

 にじり寄るような興味が佐竹を包んでゆく。



 7



「…なんやが」

 老人はそこで腕時計を見た。

「今日はこれぐらいで終わりにしとこうか」

「え?」

 佐竹は突然老人が話を終わろうと切り出したので思わず声を出して驚いた。話がこれからというところでペン先は動くことなく、止まったまま唖然とした感情の余白だけをなぞっている。

「いや、いや。ちょっと猪子部さん」

 老人の名を言う佐竹。しかしその佐竹を尻目に老人は立ち上がった。

「悪いなぁ、兄ちゃん。これから待ち合わせがあんねん。せやからこの話は明日でもええやろ」

「用事?」

「ああ、長年のツレとこれから飲むんや」

 小指を立てる。女という意味を推し量れという老人の命令にも似た横暴さが出ている素振りに、やや佐竹は気分を悪くする。

「明日ですか?」

「おう、明日。また明日来るから」

(いやいや…)

 心の余白に昂る嫌味が顔に出る。それに気づいた老人が眉間に皺を寄せて言い放つ。

「なんや、ワレ?嫌やっちゅうんかい?こっちは情報提供者やぞ?」

(何が提供者だ)

 舌打ちしたくなる気持ちが湧き上がる。だが瞬時に佐竹は気持ちを切り替えた。何故なら自分は既に話の一部を切り出されただけとはいえ、この老人の話に大いに興味がそそられている。話が明日になるのならば、明日でもいいじゃないか。全ての話を聞き終えるよりは、徐々にその話を追って行けるのも悪くはない。それに自分にはまだこの後の時間を追う様に記事にしなければならない仕事がある。長い時間を割くよりかは効率的だ。

「…いや、すいません。突然大変興味あるお話を切られてしまったもんですから。思わず残念な気分が顔に出てしまい…大変、不愉快な思いをさせてすいません」

 頭を下げる佐竹の上を嘆息交じりの声が過ぎてゆく。

「…それなら、ええ、それなら…な」

 下げた頭を上げると老人は背を向けた。

「ほな、また明日来るわ」

「何時ごろに?」

 約束を繋ぎとめる佐竹の声に老人は首を左にかしげた。傾げると両肩をすぼめる様にする。馴れた動作に見える動きはこの老人が知らず知らず知らずのうちに身につけた癖なのかもしれない。 

「夕方来るわ」

 言って歩き出す。佐竹は老人の背に向かって言う。

「それでは、またお持ちしてます」

 手を振って歩き出す老人の手先に白い紙片が見える。

「名刺、貰って行くで」

 言ってから老人はカフェの自動ドアを潜る。

「しかし、長年秘密にしていた事件をわしに語らせようとしたのはあの若者のせいやで」

 呟きにも似た言葉を残すと、老人の指先に握られた白い名刺は降り注ぐ陽光に照らし出されて映えたが、やがてぐぃと老人のジャケットに押し込まれて消えた。



 8


 キーボードを叩く指に気配が圧し掛かった気がしたので佐竹は思わず顔を上げた。

 顔を上げればそこに女性が立っている。若い女だった。いや女は先程、少し前の向かいの席にいた女性ではないか?

 キャップ帽の下から自分を覗き込む眼差しが見える。

 それは酷く美しい。

 睫毛の下で黒くて大きな瞳、真っ直ぐに伸びた鼻梁。唇に薄く塗られたルージュ、映画やテレビに出て来る女優の様な顔立ちに思わず見とれた佐竹は心で呟いた。

(老人は夕方だったな…)

 キーボードを叩く指が止まる佐竹の表情を探るかのように女が言った。

「…失礼ですが、あなたは佐竹亮さんですか?」

 女が自分の名を言ったので佐竹は驚いた。驚いて尚、女をまじりと見る。

「もし違うのならば、すいません」

 女の唇は断点的ではない、懐疑的に動いている。

「…いや」

 佐竹は掠れる喉に唾を流し込みながら、言葉を選ぶように応える。

「私は…佐竹です」

 そこで思った。もしやこの女が自分に連絡を取って来た匿名の人物ではないだろうか?

 思いきるように佐竹が彼女に問う。

「もしや…昨日『東京オリンピック』のことでメールをいただいた方ですか?」

 要点を端的に尋ねる。

 果たして女は応えるように頷く。それを見て軽く驚く。

「いや、すいません。丁寧な文面から…、そのぉ…少しご年配の方かと思ったものですから」

 軽く頭を掻く佐竹。

「座っても、いいですか。立っていると目立つものですから」

 鋭さはあるが言葉遣いは丁寧だ。

 まだ二十歳を少し超えたばかりに見える。帽子を目深く被っているが、その表情は若々しい。だが帽子を被っているのは日差しを避けるためだけではないのかもしれない。

 女は対面に椅子を引いて座ると再び帽子を被りなおし、鍔を引いて目線が佐竹に映らないようにした。もしかすると佐竹だけではない。周囲を憚るようにその存在を消そうとしているようにも佐竹には受け取れた。

 その一連の仕草はまるで自分の顔が映像として残らないようにしているように見えて仕方が無かった。

 佐竹は思わず、それに反応して職業的行動が出た。スマホをごく自然に取り出すと机のやや真ん中に置く。

「失礼、時間をこれで知らないと次の方との待ち合わせがありますので」

 頷く女を尻目にスマホを僅かに動かす。相手にその指先があるものを捉える為に調整された動きであることは知られてはならぬ。

 佐竹は指を止めた。

 それからスマホに目を送る。そこには女の鍔下から覗く表情が見えた。スマホの画面に反射して映る美しいその表情。

 女は分からないだろう。

 佐竹は素知らぬふりして女に向き直る。それから佐竹は話を切り出した。

「失礼ですが、お名前は?」

 帽子の鍔が揺れる。

「…それでは匿名の意味がありません」

 間を置いた女の返答。佐竹は軽く首を左右に振る。

「いやいや、それは新聞の紙上面でのことだけで、実際はお名前やお住まいなどを伺わなければなりません。理由は勿論、情報の正確さや事実を確認する必要もありますし、それに場合によっては幾分かの謝礼もありますので」

「謝礼は必要ありません」

 反発入れない女の返答。佐竹がスマホに触れる。女の伸びた睫毛が見える。

「ええ、それは。勿論、お話を伺った後のことですから」

 スマホから手を戻す。それでより鮮明に女の表情が映る。

「ならば、匿名でもいいのでは?別段それでいいのであれば。それにこちらとしては住所など勿論言いたくはありません、だってそうでしょう?初めて会うあなたがどんなかたかもしれませんし、それに事後あなたが心変わりしてストーカーとかに変身されない保証もありませんから」

「ストーカーですか?」

 佐竹の表情に苦笑が混じる。

 女の強い口調にやや白ける自分を佐竹は感じた。

 偶にこうした輩が居る。

 情報は提供するが自分の身は隠しておきたい。確かに情報を扱う自分としては守秘義務があるが、情報の入手経路が全く分からないでは真実であったかを争う時が来たら何も出来ない。

 もしも掲載した記事が個人の多大な妄想であった、もしくは何の関係も無い第三者の名誉などを損なうものであったとなれば真実の報道に相反する。

「違いますか?」

 そう婉曲に佐竹は女に言った。

「そうかもしれませんが…」

 焦れた様に女が鍔を上げる。上げて佐竹を見て短く言った。

「嫌です」

 言って直ぐに目深く被る。それから押し黙る、仕草が不意に自分の記憶をなぞる。

(…おや、この仕草、口調…どこかで…)

 黙る女が佐竹に与えた沈黙は彼の網膜に残った残像から記憶を呼び起こすには十分な時間だった。佐竹は既に女の表情から記憶をシャッフルするように動かしている。これは長年の職業的訓練で培われている病気と言えないことも無い。

(…彼女の…この顔つき…見たことがあるぞ…)

 佐竹はちらりとスマホの画面を見る。女の長い鼻梁が白く映っている。

(…だが、どこでだろう…とても良く知っているようなんだが、一体…誰だったか)

 不明瞭な記憶が何かを繋ぎとめようとして苦労している。何かというのは『答え』である。その『答え』が真実であるという仮定をすれば、しかしながら有り得ないのだと思う自分と格闘させている。

 そんな内心の格闘とは無遠慮に女が佐竹に言った。


 ――それでアカシノタツはあなたに何を言ったのですか?


 佐竹は思惑の世界に居た。別の答えを探す自分に女の声は届かない。


 ――アカシノタツは何を言ったのですか?


 女の言葉は響かない。『答え』探しをしている佐竹には声は届かない。あまりにも反応がない佐竹に強く焦れた女が、声を大きくして佐竹を呼んだ。

「佐竹さん!!」

 その声に思わず、はっとして我に返る佐竹。目の前の女が自分を睨む顔がはっきりと見える。だが見えた時、佐竹は思わず手を叩きなる自分を感じて「あっ!!」と声を上げた。

「アカシノタツです!!」

 一喝する女の声は佐竹の頬を叩き、思惑の世界から佐竹を呼び戻した。

 確かな『答え』を連れて。



 9


 子役から成長して有名になった女優は沢山いるが、いま若者の間で一番人気があるとすれば一躍、清涼飲料水の企業CMで有名になった「ミーキー」こと「西条未希(さいじょうみき)」だろう。東京オリンピック開催で俄然CMが増えてテレビに彼女の露出が増えたと言うこともさることながら、近年某テレビ局の朝ドラ「叱る娘」で一躍中年男性を一渇する場面がうけ、演技力も評価された彼女は今や誰もが知る押しも押されもせぬ若手ナンバーワンの女優だ。

 佐竹の『答え』はその彼女だった。

 つまり日本で今一番売れている女優が目の前にいるのだ。

 そんなことあり得る筈がない、その否定的思考が『答え』を辿り着かすのを邪魔していた。佐竹は『答え』を口に出そうと唇を動かした。

「あなた…もしや…」

 それを抑える強い口調の女の言葉。

「私が聞いてるのです、佐竹さん――アカシノタツは何をあなたに話したのですか?」

 質問を遮られた佐竹は開いた口を閉じることができないまま、反射的に彼女が言った聞きなれない言葉を反芻した。


 ――アカシノタツ…?


(なんや、それ)

 思わず自分に突っ込む。突っ込むしかない。意味も対象も何を指すのか、自分ではてんで意味が分からない。

「アカシノタツです」

 彼女が焦れる。

「もう!!知ってて黙るんですか?佐竹さん!!」

 昼下がりのカフェは人が疎らになっている。だから彼女のやや興奮した声に振り返る人はいないが、唯、吹き抜けの天井には届いたのかもしれない。僅かだが空調が動く音がした。

 佐竹は十分間を取ってから、彼女に言った。

「…あのぉ、残念ですが、そのアカシノタツというのは何なのか自分には見当がつきません…」

 その答えに彼女は「あっ」という表情をしたが、やや興奮を冷ますように爪を噛んだ。爪を噛み、やがて顔を向ける。鍔下から鋭い眼差しが佐竹を捉えて離さない。

「本当ですか?」

 錐のような言葉が佐竹の瞳孔を突く。

「ええ、僕には」

「じゃ、あいつは何と名乗りましたか?」

「あいつ?」

 眉間に皺寄せる佐竹が彼女に問う。

「ええ、あいつです」

「あいつとは?」

 そこで彼女は大きく息を吐いた。吐くと佐竹に言った。

「猪子部銀造ですよ」


(10)


 パズルは幾つものパーツを集めて完成されてゆくものだ。初めてそのパズルを組み立てようと試みる者は手にしたパーツの形を見て、もしかしたらそれを歪に思うかもしれないし、また完成形というものを最初から見通せるものなどは絶対居ない。

 だから推理という知的作業もこうした完成形のパズルが崩された状態でさらされて、誰かの手によって完成されて初めてその結果と背景が如実に知見され、驚かされる。

 佐竹は実際、彼女が言い放った言葉にそうした知的作業が必要になるのか、戸惑いを感じた。

 それ程彼女が言い放った言葉はとても歪で、いやそう感じたのは彼女自身が放つ酷いほどの美しさ所以か、はたまたその先の完成形等、自分には皆目てんで見当がつかないが、唯、自分にできる精一杯の事、――つまり鸚鵡返しに聞くしかなかった。

 昨日訪ねて来たあの老人、


 ――猪子部銀造ですか?と


 暫しの沈黙が有った。

 彼女の眼差しが帽子の鍔越しから覗いている。

 今時計は何時を指しているだろう、と佐竹は思った。酷く長い時間が過ぎたように感じる。感じるままの時間は手に取るように押し丸めて捨ててしまいたいくらいの圧が在った。その圧は勿論、彼女が発している。

「…何も知らない?」

 彼女の唇が動く。圧に押しつぶされそうな時間を押し込む様に。

 佐竹は僅かに眉を動かす。

「…みたいね」

「ですね…」

 佐竹は喉が渇くのを感じる。背一杯の返事に唾液が絡んだ。しかしあの老人が時折唇を濡らしていたようにはいかない。唯々、乾いている。日本で今一番輝いている女優西条未希の前で、自分の唇が。

「ですか…」

 彼女が背を戻す。戻すが顎を手で引く。

「彼は私に昨日言ったんです。――あの『事件』の事は聞屋(ぶんや)に話したで、と」

 ブンヤ、と言えば新聞屋の事だと言うのは佐竹には分かる。しかしながら彼女はこうも言った。

 ――私に昨日言った、と…


 それは暗に彼女と老人がなんらかの繋がりがあるという事を示している。

「言わなかった?あいつ…アカシノタツ、『馬蹄橋』『東夜楼蘭』『七灯篭』とか…、いや大事なのは珠子さんの事…」

 彼女が繰り出すワードを佐竹は頭の中で反芻する。


 ――『馬蹄橋』

 ――『東夜楼蘭』

 ――『七灯篭』


 シャッフルする言葉と昨日の短期的記憶が交差する。交差すれば火花が弾ける。

 弾けて言葉が口から飛び出した。

「…ああ、そう言えばそれらの事を言ってましたね。それから…」

 彼女が身を乗り出す。

「何でしたかね、えっと…ちょっと待ってくださいね、ちょっと、えっとえっと…」

 佐竹が手帳を出して、昨日の日付を捲る。捲れば昨日の自分筆跡が今日の自分を見つめ返している。

「ああ、そうそう――『根来動眼』、そして『動眼温泉』いやいや、それだけではないですね、えっと…あったあった…『田中陣右衛門、田中屋、上屋、下屋、それから、田中竜二、火野龍平、東珠子』…」

 佐竹は自分でも不思議なくらい昨日老人が語った話の要点ともいうべき単語を全て話してしまった。記者としては話さなくてもいいくらいの内容かもしれないが心の内にひたひたと押し寄せる圧がそうさせてしまった。

 話を聞き終えた彼女が一言言う。

「ちょっと佐竹さん、あなた全部聞いてるじゃない」

 薄ら嗤う彼女。

 しかしながら酷く美しい。

 佐竹は手を出す。それを否定する為に。

「いや、すいません。まさかあなたがおっしゃるアカシノタツと言うのが昨日の老人の事だと思わなくて。それで突然あなたの口から出て来たから一瞬全てをド忘れてしまいました…、しかし、しかしですよ。実は話は全部聞いていないのですよ。何でも老人、いえ、猪子部さんがおっしゃろうとしたお話は今日これから、夕方ぐらいにこちらにお越しいただき、伺うことになっていたのです…西条さん」

 彼女が一瞬ピクリと反応する。反応すると、目を細めて佐竹を見た。その動きで佐竹は確信する。

(間違いない)

 だが失言という素振りで素知らぬまま話を続ける。

「実は、猪子部さん。当社の「東京オリンピックにまつわるエピソード」と言うのを見られてお越しになりましてね、それで僕が担当ですから、対応したのです。どうも何か面白い話…まぁ『事件』と言うのをお持ちの様でしたが、その日なんでも誰か待ち合わせがあって、帰られたのです。また明日来ると言って…」

 佐竹は言ってから老人の言葉と姿を脳裏に浮かべた。――長年のツレとこれから飲むんや、と言って小指を立てた老人の姿。

 その小指に先に彼女が見える。

 彼女は帽子を被りなおした。佐竹の視線を避けるためか、それとも何か予想もつかない事態から目を背けるためか。

「アカシノタツは来ませんよ、佐竹さん」

 彼女が言った。

「何故?」

 佐竹が間髪入れず問い返す。

「知らないのですか?」

「…え、知らないとは??一体何をです???」

 彼女が溜息を吐く。吐く溜息は誰日対する感情を込めているのか、佐竹は知りたくなった。

 だが彼女の溜息は予想もつかない事態を示していることをまだこの時佐竹は知らない。

 そう、知らないのだ。

 まだ佐竹は或る事実を。

 それは…

「あいつ、昨日死んだんですよ。難波の地下街で刺されてね」

 突如、佐竹は背を仰け反らせて空白の中に落ちた。

 空白の一点に落ちてゆく佐竹。彼は落ちながら開いた口で老人の言葉をなぞった。

 それは、

 長年のツレに…と。

 

 


(11)


 

 彼女が佐竹に語ったことは十分、佐竹自身を面食らわせた。言うまでもなく情報に身を寄せている自分が老人の死を知らなかったと言うことは職業人としての失格を烙印されたようなものである。

 それも恐らくではあるが面前に座る女優の西条未希に。

 彼女は佐竹にこう言った。

「――猪子部銀造は、昨日夕方近鉄難波駅に繋がる通路側の立ち飲みどこから出てきたところを後から追ってきた男と口論になり、その場で男が手にした鋭利な錐体物で首を刺され搬送先の病院で死亡。刺した男は現在逃走中、府警は行きづれの犯行として、目下男を捜索中…」

 それからスマホを佐竹の面前に差し出す。

 画面に佐竹の眼差しが映る。視線を下げれば、提供した記事元が見え、言わずもがなそれは当社だった。それもパーテンション隣の社会部二課。

 何ともはや…である。

 面食らうと同時に面目を失うという事だった。

 彼女がスマホを手元に戻すが、しかしながら眉間に皺を寄せている。眉間の皺が何を語るのか。佐竹に対する失望か、はたまた違う懸念なのか。佐竹は腕を組み次第に顎を引く彼女の眼差しを追う。追う先に彼女が見つめているものがある。それが彼女から語りだせるのか、それとも閉じこもったままになるのか。昼下がりに時間にどんな解決策が訪れるのか、今は未だそれが分からないが佐竹はテーブルに置いた自分のスマホを手に取って画面を見ながら、ポツリと言った。

「別れ際に猪子部さん僕に言ったんです。――連れに会うと、小指を立てて…」

 彼女がピクリと反応する。

 その反応が激しい。まるで何かに怯えるような…

 嫌、違う。佐竹は思った。

 やがて彼女が顔を上げて佐竹を見た表情は何かを唾棄するかのような、そんな眼差しだった。

 何か、そう、虫でも見るような、それもなんか粘液を出して這いずる虫を見つけて、面前に出されてそれを軽蔑する人間の本性をさらけ出した目だ。

 それが佐竹を見ている。いや違う、k直所が見つめているのは佐竹が吐き出した言葉を見つめているのだ。


 ――連れに会うと、小指を立てて


「外道。穢らしい奴、良くもそんなことが言える」

 まるで何か劇中に於いて、正義の主人公が敵に向けて発する辛辣さが含まれた刃の様な言葉が、佐竹の言葉を寸断した。

 あまりの切れ味鋭い言葉に佐竹は心中深く思うより他なった。

(一体…何があったと言うのか。彼女とあの老人との間に)

 佐竹はまじりとする。まじりとするとやがて生来の職業的野心が鎌首を擡げて来た。つまり興味がふつふつと湧いて来たのだ。昨日、猪子部銀造は語るべきことを全て語る事なく去った。去って、そして今日、自分の中で死んだ。死んで過去の昨日から自分の未来に向かって思いがけない使者を使わせた。それらが意味するところは、つまり語るべきものが唯変わっただけなのだ。自分がどうすればいいのか?簡単明白だ。自分は聞き、そして記事にする。それだけだろう?違うか?

 佐竹はスマホのアプリを起動させる。それは相手の声を録音するためだ。佐竹の中で失われた自信が戻り、やがて彼は記者として彼女に向き直った。

「…それで、伺いますが?そのアカシノタツこと猪子部銀造とあなたはどのような関係で?」



(12)


 録音アプリにノイズが残っている。

 誰も居なくなった夜のオフィス。佐竹はそのノイズの向こうに僅かに残っているかもしれぬ人間の感触を鼓膜奥で感じ取ろうとしている。

 それは、人の息遣い。それが乱れているのか、それとも整っているのか。ノイズの向こうに聞こえる僅かな感触の中に佐竹は意識をダイブさせる。

 誰もいない夜のオフィス。

 佐竹の仕事はまだ終わらない。そのノイズの向こうに残る『何か』を感じ取るまでは。



「アカシノタツ…」

 彼女はく潜る声で続ける。

「…良くも今までその姿をくらませることができたものだと、彼は私に言ったのです」

「彼?」

「…ええ、彼。そう彼が居なければ私達の長きにわたる苦悶というか、呪いともいうのか…それは、長い時間の『謎』は明らかにされなかったのです。珠子さんもそして祖母から私まで三代に渡る人々に横たわる『謎』が…」

 彼女はそこで咳払いをする。それから大きく息を吐いた。息が机を這う様にスマホのマイクに吸い込まれていく。それは酷く冷静な輪郭を保ち、佐竹の鼓膜に響く。

「アカシノタツ…私がその名を知ったのはごく最近の事…、亡くなった祖母の遺品整理をしていた時、或る手記を見つけたのです。その手記は私の祖父林武夫の自殺に関わる手記でした…」


 ――手記…


 ――祖父の自殺…


 ノイズの奥で僅かな乱れがある。何かそれらは彼女の感情を揺さぶるのだろう。佐竹はより深く意識を潜り込ませる。何故なら彼女の口から自分が老人から聞いた人物の名が出て来たからだ。


 ――珠子、

 それは恐らく東珠子の事であろう


 佐竹はその人物の名と経歴を既に知り得ている。検索エンジンに掛ければその人物の略歴は直ぐに見て取れた。検索エンジンでは東珠子当人についてこう書かれている。

 ――東珠子。芸能プロダクション『アズマエンタープライズ』会長。大阪中之島にあるFホールをはじめとして多くの劇場を所有。大阪の大劇場主であり、また配下の劇団から才能ある若手演者のみならず脚本家等多数輩出させる敏腕プロデューサーとしての手腕を持つ。またその他出身地である大阪南部に多くの不動産を所有する資産家でもある。

 つまりだ、

 佐竹は僅かに意識を捻らせる。

 彼女は大阪では知らぬ演劇会のボスと言ってもいいだろう。だがボスとは言え、当人は大女優とかではない。興行主、劇場主だ。それに検索エンジンには書かれてはいないが彼女の人脈は映画界やテレビ業界だけではなく、古典芸能も含め幅広いはずだ。だからこそ配下の劇団出身の多くの若手演者達がメディアで活躍できているのだ。それはそうした彼女の隠れた分野における手腕によるところであると分かる。

 そして、佐竹は捻らせた意識をゆっくりと解く様に息を吐く。

 ――いま売り出し中の彼女、西条未希もまた彼女の手によるところなのだ。

 つまり西条未希は東珠子が特に力を入れているⅩ劇団からの生え抜き女優なのだ。だが彼女は言わなかっただろうか?

 ――『謎』は明らかにされなかったのです。珠子さんもそして祖母から私まで三代に渡る人々に横たわる『謎』が…

 これはいったいどういう事だろう。彼女の言葉はまるでそこに関係する人物たちが一つのサークルを作り出していることを暗示させている。

 それはつまり、珠子、母そして彼女の三人が一つのサークルだとでも言う様に。

「…『謎』ですか…」

 呟く自分の声がノイズに交じった。 

「知りませんか?佐竹さん」

 唐突な彼女の問いかけに、佐竹が顔を上げる。

「東京オリンピックが開催された前年に神戸元町で起きた警察官ピストル強奪事件」

「強奪事件?」

 佐竹が口を小さく開く。

「…いえ、それは」

 彼女は首を縦に振った。佐竹の意図を察した頷きだった。

「では、それに連なる様に起きた連続…」

 一瞬彼女は躊躇い、首を振ったがやがて吐き捨てる様に言った。

「婦女暴行事件のことは勿論知らないでしょうね…」

 彼女が言った思わぬ内容に佐竹は眉間に険しい皺を寄せた。

(連続婦女暴行事件だって…?)

 彼女の声が低い床を這う様に伸びてきて佐竹の眉間の皺に触れた。

「そしてその事件に使われたのが強奪された警察官のピストル…」

「ピストル?…」

 ノイズ向うで息が乱れている。それは自分かはたまた彼女か。

「そのピストルが盗まれた警察官こそ、私の祖父、林武夫なのです。あろうことか、その盗んだ犯人は長い間捕まらなかったのです。しかも犯行の容疑者として当時の神戸界隈のごろつきは皆名が出ていたのです。その中にこのアカシノタツはあった。しかしながら彼はアリバイがあった。そうそう、山口の萩で祭りがあり、仕事で居ないと言うアリバイが同僚の証言であった。それから事件は闇の中にはいりこんだのですが、しかし…しかしやっと、やっと…私達はその盗んだ犯人を突き止めることができたのです。そう、自殺した祖父の無念をやっと晴らすことができた、それは彼のおかげで」

「彼のおかげ」

 彼女は頷いて言った。

「その犯人こそが、アカシノタツ」

「アカシノタツ」

 反芻する佐竹。

 頷くと彼女は素早くスマホを取り出すと文字を打ち込む。打ち込み終えると佐竹の面前に差し出す。画面に打ちこまれた文字が見えた。

 それは…

 アカシノタツではなく『明石の辰』


「…明石の辰」

 文字をなぞるように呟く。

「ええ、私達は最初聞いた時、そう理解していました。あの猪子部銀造はテキヤ仲間では「明石生まれの辰」ことアカシノタツと言われていましたから。だけど本当は違っていたんです。あのアカシノタツという意味はもうひとつあったんです」

「もう一つ?」

 彼女は素早くスマホを手元に引くと文字を打ち込んだ。

 佐竹には見えた。彼女の指先が僅かに震えているのが。それは興奮の為か、それともそれ以上の謂れも無き感動の為か。

 彼女は差し出す。佐竹の面前に。

 佐竹は画面を覗き込んだ。

 覗き込むと画面にはこう書かれていた。


 ――『証の竜(アカシノタツ)』と


(13)



 佐竹は指を動かし、画面を停止させる。停止させ、少し戻す。そして再生する。再生すれば、聞こえる彼女の言葉。

 ――『証の竜(アカシノタツ)』


「証の竜」

 自分の声が聞こえる。

「ええ、そうです。私達、母も珠子さんも間違っていたんです。――アカシノタツは『明石の辰』もさることながら、本当は『証の竜(アカシノタツ)』という意味を現している隠語

 だったということを」

 彼女の声はやや息が上がっているように聞こえた。対面して聞いていた時には感じられない感情の熱量と言うのが声の調子の中に感じられる。

 彼女にとってそのことは余程の驚きだったのだろうと、佐竹は過去の時間を振り返り、顎を撫でる。微かに伸びた無精ひげをつまむと引き抜いた。痛みの中に交じる余韻がノイズに飲み込まれ、やがて鼓膜奥で彼女の声が響いた。

「全ては彼が居なければできなかったこと…」

(…彼?)

 何度目だろうか彼女の口からできてた言葉、『彼』。重要な意味を持つのか否か、今それは分からないが、彼女が『彼』というとき、僅かに声が湿り気を帯びて、不思議な感情が押し込まれている様に感じる。

 佐竹は手帳を取り出すと彼女が繰り出した言葉群を書き込んでゆく。


 ――林武夫、祖父、自殺。元町で起きた警察官ピストル強奪事件、連続婦女暴行事件、事件に使われたのが強奪された警察官のピストル、アカシノタツではなく『明石の辰』、『証の竜(アカシノタツ)』、そして

『彼』


 そこで再び彼女の声が響く。

「アカシノタツが亡くなったあの日、東京から関西空港に着いた私は正午にあいつと待ち合わせて南海の泉佐野駅で待ち合わせたんです。連絡先は『彼』から聞いていましたので…それから難波へ向かう車両に一緒に乗り込んだ。ええ、それは…過去のある事件についてあいつに語り、そしていわれなき被害を受けた祖父、そしてそれに苦悶しながら生きた祖母や母へ謝罪させるために」

(待ち合わせた…あの老人と)

 佐竹は眉間に皺を寄せる様に老人の言葉を引き寄せた。

 ――「今日は、南海側に用事があったんや、それでいいがな。細かいことは」

(…それか、あの言葉が意味したところは)

 だが、と佐竹は思った。

 もしそれがそうであるなら、老人は彼女に嘘をついたと言える。何故ならまだ自分は老人に会っていない。つまりブンヤである自分はまだ何も聞いていないのだ。

 となれば、老人が彼女に言った『――あの『事件』の事は聞屋(ぶんや)に話したで』と言ったのは老人自身が成した彼女に対する一種の張ったりだと解すべきだった。

 張ったりはお手の物ということか、佐竹は頷く。

 テキヤであれば尚である。

 ノイズ向うの彼女は老人のはったりで心の中に潜ませた勢いをいきなり張られたのかもしれない。老人は気付い居ていたのだろう、だから彼女の物言わぬ心の内に秘めたものというのを感じて即座に、彼女の勢いを張ったりで払った。

 相手の心の動揺を誘い風見鶏の様にくるくると回転させてしまい、その場にすくませる。それだけで老人には十分だったのかもしれない。もしかすれば様子見という意味もあったかもしれない。様子を見て、次の手を探す。それは相手の意を虚に外して、虚が生じた隙間に次の取引を有利にする為の策術。

 佐竹は不意に昨日話の内容を切られた瞬間を思い出した。自分は虚を突かれた思い出はなかったか?

 良い所は一度に出さない、大事に出し惜しみすることの邪さこそ、もしかすれば佐竹から『銭』をより多くひきだそうとする老人自身の一種の交渉術だったのかもしれなかったかと考えた。それならばそれで、アカシノタツこと猪子部銀造は中々の練磨された人物であると言えた。

「だけどあいつ…」

 火が着火したような言葉に佐竹は振り返る。

「『――知らんでぇ、そんなことは、それらは全てあんたらの想像やがな』と言ってへらへら笑いやがったのです。そしてこういいました。『――ブンヤに話した内容は『東夜楼蘭』の謂れや『根来動眼』のことあとは田中竜二、火野龍平、そうそうあんたの育ての親である東珠子の事を話しただけや、あんたの言うピストル事件や婦女何とやら事件何て俺は全く知らし、かかわりのないことや』と」

  ノイズが響く。沈黙が有った。

「それから、あいつはそれ以後車内で黙り、難波駅に着くと足早に私の側を離れて人混みの中に消えた、謝罪もなく、何事も無かった平和裏に生きた市井のひとりの老人として…」

 彼女は唇を噛みしめる。

「だけどあいつは絶対にそうなんです。もうそれは此処に彼が調べてしたためてくれたものしかない。でも、それだけも十分、十分事件の成り立ちも背景も分かるんです!!」

 彼女は言うやスマホを佐竹の眼前に見せる。佐竹はそれを見る。見ればスマホの小さな画面にそれはPDFが映っている。

 それを彼女が見ろと言わんばかりの勢いで差し出している。差し出された指に薄くピンクに塗られたマニュキアが見えた。

 佐竹は瞼をぱちぱちとさせる。それから差し出されたマニュキアに向かってすまなさそうに佐竹は言った。

「すいません、このスマホではあまりにも小さくて見えません。ですので後で僕のメールに送っていただけますか?」


(14)


 プリンターの動くモータ音が消えると印刷された用紙を手に取って、佐竹は枚数を数えた。五十枚近く印字された用紙。それはまるで短編小説原稿程の枚数。佐竹は席に戻り、それを読み始めた。

 誰もいないオフィスで紙を捲る音だけが響く。

 印字された文字はデジタルで変換された工業規格。そこに人間の個性何てこれっぽっちも浮かび上がらず、勿論文字の筆跡から書いた個人の個性なんぞ読みとることはできない。

 しかしながら、彼はそれを読み込んでゆくにつれ、その内容に吸い込まれてゆく自分を感じないではいられない。

 それは初めて老人に会った時に感じた興味を、また彼女から感じた不合理な違和感を平たく押しなべてゆき、読み進むにつれ未知を既知へと変換させ、やがて佐竹の知識的平衡感覚を戻してゆく。

 読み進めた彼は、大きく椅子に反り返った。それからビルのライトの届かぬ闇を見見つめ、呟く。

「…東京オリンピックか…」

 まだこの小説の物語を全て読み終えているわけではないが、思うことが心に青い炎として纏わりつく感覚がある。それを端的に呟く。

「青春を奪い去る暗くて青き情念の炎、嫉妬、それに肉体に宿る性への渇望…」

 自分で何を言っているのか。佐竹は勿論それを理解している。頭脳はしっかりと回転している。不明確さではない答えを知って、その答えの先に何かを掴みたくなる感じなのだ。この小説の物語はまだ始まったばかりだというのに。

『彼』が彼女にしたためた報告書。

 いや、と首を振る佐竹。

 これは短編小説かもしれない、そう思った佐竹が、また首を振る。


 ――違う、


 小説ではなくまるで小さな劇の脚本と言ってもいいかもしれない。

 佐竹は腕を頭に組んだ。組むと目を閉じた。彼女はやはり女優西条未希だった。この中にそれははっきりとではないが、『彼』が『みきちゃん』と書いていることからそれは推し量られる。

 佐竹が読み始めて分かったことは沢山あった。そしてそれは既に事件は『彼』の手元で解決されており、もう過去の時間へと押しやられているという事だった。

 佐竹は時計を見た。午後十一時を指そうとしている。佐竹はそれから立ち上がると鞄を肩に下げ、パソコンの電源を落とした。それから辺りを見回し、同僚たちの作業机から明かりが消えているのを確認すると足早にオフィスを出ようとして部屋の電源を切った。

 急がねばならない。いくら御堂筋の終電が遅いとは言え、乗り換えが上手くいかなければ自宅には着かない。

 事件の顛末については自分の部屋でウイスキーでも飲みながら考えれば良い。

 佐竹はエレベータのボタンを押すとフロアの表示板を見た。上がって来るエレベータを待つ時間、佐竹は不意に呟いた。

「…『彼』か…」

 そしてその呟きを切って残す様に佐竹は開いたエレベータのドアに滑り込み、やがて階下へと降りて行った。明日、またそこに残る『彼』に会う事を信じて。



(15)


 ――みきちゃん、僕です。

 今回は『東夜楼蘭』での公演劇に誘ってくれてありがとう。僕等の様なしがない役者集団の小さな劇団に大手芸能プロダクション『アズマエンタープライズ』から声をかけていただいたのも、きっとみきちゃんのお陰だと僕は思っています。

 僕とみきちゃんは出会ってどれくらいだろうね。もう、始まりを思い出せないくらいの幼い頃だったからね。

 みきちゃんは『東夜楼蘭』の劇に誘ってくれた時、いくつかお話をしてくれましたね。それは『警察官ピストル強奪事件』『連続婦女暴行事件』だけじゃなく、根来動眼、それに東珠子さんや田中竜二、火野龍平さんの事等々。そして確かにみきちゃんの言う通り『馬蹄橋』はあった。勿論『七灯篭』もあって、動眼温泉の名残ある旅館街もあった。僕等劇団員は君の言う通り先に入って『東夜楼蘭』で劇の練習をして、そこに泊まり込んだ。

 でも、今回こうしてみきちゃんに調べたことをパソコンでパチパチと音を鳴らして書くうちに、ひょっとしたらみきちゃんが僕に声をかけてくれたのは、過去の事を調査してほしいと思ったからで、役者としての自分は必要とはされていなかったのかなぁ何て、思う次第です。(あっ、でもこれは僕の一方的な邪推かもしれない、もしそうならご免なさい!!汗)

 何故そう思うのかというのは幼い頃からの僕を良く見知っているみきちゃんが、僕自身の偏執狂的性格――つまり物事を深く行動して調べ尽くす性格と後は僕の遠い親戚があるえらい探偵の助手だったことを知っているからで、もしかしたら僕ならその過去のあらゆることを自発的に調べてくれるんじゃないかと思った次第です。だから僕は馬蹄橋の過去に彩られた『東夜楼蘭』に送り込まれたのかなと。

 違うなら再度御免なさい。

 さて、僕はみきちゃんの期待通りだったかは別として、結局自ら自発的に過去を日捲るように調べてしまったのです。そしてそれをここにしたためました。でもせっかくなので僕はこれを小説仕立てにしてみました。そうすれば万一誰かの目に留まっても個人の名も名誉も架空のフィクションとして、また劇の素人脚本として読まれるだけでしょうから。

 僕という存在は決して現在のみきちゃんの存在を危うくするものではない唯のしがない三流劇団員の役者です。いつでも蜥蜴のしっぽの様に切り落とせるようなもんです。

 では、みきちゃん、冒頭を長々と書きましたが物語のあらすじとして読んでいただいたら、いよいよ本文へと進んでください。

 そう、この短編小説のタイトルは『馬蹄橋の七灯篭』にしました。

 それでは、みきちゃん。僕の拙い短編小説を是非読んで下さい。



(16)


 小説

『馬蹄橋の七灯篭』


 僕は一週間後、山上の楼閣『東夜楼蘭』で開かれるアズマエンタープライズ主演の演劇に出る為に、劇団の仲間数人と早くに此処にやって来て他の舞台芸術のスタッフ達と共に泊まり込みで開演準備をしていた。

 茹だる様な梅雨が過ぎ、にわかに世間では東京オリンピックの足音も聞こえ始めた頃ではある。僕はまぁ準備といっても自分の演じる役の練習や舞台美術の設営等であって、そんな色んな事をしている内に、いよいよ開演を明後日に控え、最終リハーサルがあるので他のまだこちらに来ていない残りの劇団仲間をこの古びたバス停――当地区ではこのバス停を古くから謂われている『馬蹄橋』といっている――の待合所の長椅子に腰かけながら待っていた。

 このバス停、実はちゃんと日差しや雨を避ける屋根もあり、意外に中は広く何処かひなびた鉄道駅の様な木造建てになっておいる。先程も数人の地元の御老人たちが談笑して過ごされていて、茶を喫するような場所もない関西の辺鄙な一場所としては茶一服の話柄を持ちだして近在の人々と語り尽くすにはいい場所なのではないかと僕は感じている。

 だからかもしれないが、今もまだ一人このバス停に老人が杖を片手に目深く鍔の在る帽子を被って座っているのが見えるが、恐らく誰か語るべき人を待っているのかもしれないと自分は思うし、またそうした期待をしている。

 日暮れまではまだたっぷり時間がある。見上げれば空は青い。遠くには犬鳴山の木々の緑が色時雨の様に網膜に降り注いでいる。そんなところに佇まいをきちんとして座る老人を見れば、山緑濃い夏の蝉が鳴く羽音の中で生きる人々への愛着が膨らみ、先程の期待を裏切らないでほしいという事に繋がるのは都会に生きる僕の勝手な妄想かもしれない。

 さてこの鄙びた場所にあるバス停の由来について先程居合わせた老婦人達に伺うと、ここは元々『動眼温泉』という温泉街であり今こそ鄙びているが、往時を偲べば結構な人が週末とは言わず平日でも押しかけ大層賑わっていたらしい。来客は泉佐野近くだけでなく、遠くは大阪市内の難波からも来ており、その為バスが何便も運行していて、その来客の為にあつらえたのがこのバス停、いやバス駅舎といってもいいぐらいの当時の有名建築家に依頼して創られた見事な建築物だったそうだ。

 感心するほか僕はない。何故ならもうその往時を偲ばせる姿はこの広い室内にある長椅子のベンチにしか見えないからだ。知っている人がこのベンチを見ればこの長椅子の手すりがアールデコ調の見事な堀作りと気付くだろう。

 そんな場所で僕は昼下がり、次のバスが来るの待ってる。

 バスは恐らくあの河下に伸びている稲荷神社向こうの緩やかな蛇行した上がりカーブを上がって来るだろう。そして僕の視界に見える山上の楼閣『東夜楼蘭』下を過ぎて橋を渡り、やがて僕の前で止まる。

 しかしながらここから見る景観は何というのだろう、印象派の画家が描くような風景ではないが、それでも一端の美に対する才能があるものを連れて描かせれば、ここは一枚に見事な絵になるに違いない。

 それは先程僕がバスを追う様に視線を動かした先に見える橋は爾来『馬蹄橋』と言われ、昔は馬が蹄鉄を鳴らして渡ったと言われている。橋は石を組み煉瓦を重ねてできており、さながら西洋の美しい田舎に在る様な立派な美的建築物で、またそれだけでなく馬蹄橋を囲む様に灯篭が七つ規則正しく並置されているのだ。それはみれば西洋と東洋とが交わるシルクロードの果ての小邦を思わせるだろう。

 事実、夜になり灯篭に灯が点くとそれは闇深い山野に於いて、何とも得ない幻想的な魔法邦のように僕には見えた。

 普段はこの灯篭は祭りの時期にしか灯が灯らないのだが、今回は『東夜楼蘭』での演劇開演に合わせて、その山楼の持ち主である東珠子(このかたは『アズマエンタープライズ』の会長でもあるのだが)の頼みで演劇を盛り上げる為、地元の協力を得て、ここ数日行われてる。地元も過去の動眼温泉の繁栄を懐かしみ、またその動眼温泉の上屋当主である東珠子の願いがあれば、その助力を惜しまなかった。

 それがテレビ報道されるや否や、夜に浮かび上がる幻想的な小邦の姿を写真に撮るために夕刻近くになるとカメラを抱えた人々が集まり、ここ数日は賑わいができた。かくいう僕もミーハー的な立場で盛り上がりを愉しんでいる一人ではあるのだが。

 ただ今は昼下がり。夜が始まるのは未だたっぷりと時間がある。バスを降りて来る劇団仲間もそれを愉しみにしている者もいる。但し、その前に厳しい最終打ち合わせをしなければならないのだが。

 僕は首を回して髪を掻く。丸まるになった僕の頭姿と細い体を見て人はマッチ棒という人もいる。見れば足元を伸びる影が色濃く、僕の身体的特徴を否が応でも見せつける。僕は影に言いたい。唯僕の髪が縮れ毛でただのアフロ状態になっているのだと。

 それを聞いた影がこちらを見てせせら嗤う。

 こちとら唯々お天道様にあんたの事実を僕は映し出しているんだよ、と。

(こん畜生め!!)

 思って影を強く踏もうとしたその時、

「…ちょっとあんた…」

 と、言って誰かが呼んだ。

 その声に驚いたのか影の嗤い声は吸い込まれるように消え、僕は踏みつける為に上げた足を下ろす場所を探さなければならなくなった。

 そう、声がした背後を振り返りながら。



(17)


「いや…君…」

 老人の言葉遣いが丁寧に改まった。

 僕は足を上げたまま振り返る。見ればそこには老人が一人。その老人は目深く帽子を被り、杖を手にしてベンチに腰かけている。

 それは語るべき人を待つ老人ではなかっただろうか?

 僕は上げた足は下ろす場所を失い、老人には所作なげな若者に見えたかもしれない。だからかもしれない、老人は的確に言った。

「まぁ…まず、片足を下ろしたらどうかね」

 しっかりと状況を見定めた提案であった。

 僕は老人の言葉に従い足を下ろす。唯、下ろしたがそれで老人は言葉をやめない。止めないどころか僕にとってとても大事な事を言ったのだ。

「君かね?私をここに呼んだのは」

 僕は地につけた足から湧き上がる血の滾りを感じた。それは上げた足が単に地面に着いて血流が上がって来ると言う様な生理学的なことではない。それは自分が知ろうとしている問いに対する『解』を得たのでは無いかという、興奮に対する滾りなのだ。

『血』に対することではない。

『知』に対する滾りなのだ。

 一体、何の事だろうと恐らく読者諸君は思うだろう。

 そもそも問いかけに対する『解』なんぞ、冒頭に自分が書いたこととは全く縁も無き物語のミスリードではないか?

 何故ならこの僕は劇団の一員であり、かつ明後日本番を迎える『東夜楼蘭』での演者である。その演者が問いかけに対する『解』なんていうことなんぞ、全く埒外で、本当にミスリードだと思うべきだ。

 全くお門違いも甚だしい。

 だが違うのだ。

 僕は確かにバス停で仲間を待っている。それは確かな事実である。

 しかし、その一方で僕は秘めていた『解』を待っていた。それを冒頭では書いていない。

 いやいや全く全く混迷させてしまうかもしれない。

 唯、いたって僕は正気である。

 また頭脳は冷静である。

 但し、そんな自分でも間違いなくミスリードだった言いたくなるのは、その『解』を持ち得る人物は自分が待ってるバスでやって来ると見込んでいたらだ。

 読者の方にはもはや僕が何を言っているかてんで分らないだろう。でも今はそれでいい。

 何故ならこれから全ては明らかにされるのだ。そう『解』を持ち得ているこの老人から…。

 僕は老人を見て頭を掻いた。もじゃもじゃ頭に指が入り、それから首筋をパンと叩いた。その音が待合室の天井に響いてやがて地面に叩き落ちて来た。そんな錯覚を覚える自分に向かって僕は呟いた。

「…つまり、そのぉ…あなたは…?」

 老人は押し黙る。

 僕は再び首筋を叩く。

「いや?僕はどちらをお呼びしたんでしょか」

 間髪入れず、老人が言う。

「まぁ、どちらでもええ、それは同じことや、君」

 パンと頬を平手で叩かれた気がした。

 老人は婉曲にしかし適切に自分に『解』を示したのだ。

 僕は見る。

 佇む老人は明晰な頭脳の持ち主かもしれない。明晰な頭脳と言うのは何も学歴に裏付けされる必要はない。知性と言うものは愚者によってはじめて『恵』を得る。知恵とは知に対する恵みなのだ。恐れる者であればある程、知恵が身につく。難波に巨躯な邦を作り得た太閤秀吉はきっと歴史上最大なる愚者であろう。故にあれ程の人生の経験としてそして生き延びる為に明晰な知を得たのだ。だからこそ天下を取ったともいえる。

 勿論、是は自分の一つの論理ではあるが、しかしながら先程の老人の応対は自分が知り得ようとしてラストピースに対する見事な『解』であったのだ。まるで先手先を読む将棋指しのような詰みの見事な一手だった。

 僕は頭を掻いた。掻いてベンチに腰を下ろした。下ろすと老人を見る。

「いやぁ…ここの土地の方だとてっきり思っていました。まさか…びっくりです。油断をしたというか、まぁなんというか」

「いや間違ってはいまい。私はここの土地の者だから…」

 言って老人が帽子の鍔を挙げた。老人の相貌が覗いて見える。その相貌に黒縁の眼鏡が見えた。その眼鏡の奥で見つめる眼差しはとても冷ややかだ。それはまるで敵を見つけた時の蛇のように僕は見えた。

「まぁおっしゃる通りですね」

 僕は汗ばみ始めたシャツの背を嫌って、僅かにシャツを捲った。それで幾分か汗が引くのを感じた。老人は僕の所作を逃さない眼差しで見つめてる。

「ですが、封書を送ったのは昨日でしたでしょう?なのでどう考えても早くても今日の午後、そう丁度今待っている泉南からのバスに乗っていると思っていたもんでから」

「君はバスの時刻を見ていないんかね?」

「時刻を?」

 僕は首を伸ばす。伸ばして時刻を見た。

「いやいや見てますよ。えっと泉南からは朝八時丁度着以後はやはり次の午後二時十五分しかないですが…」

「それは泉南からだ、日根野ならどうだね?」

 僕は思わずあっと言った。言って老人の言われた日根野からの時刻表を見る。見れば午後七時着に続いて、午前十一時三十着とあった。

 僕は思いっきり頭を掻いた。縮れ毛のアフロヘアが激しく揺れた。それを見て老人が可笑しがるように笑った。

「いや、何と愉快やな。あれほど理路整然とした答えを持った君なのに、足元にある時刻を見落としているとはな」

 再び老人が高々と笑った。笑いながら、だが徐々に目を細めてゆく。やはり心の底で警戒を解かぬ慎重さが老人の眼の奥底に見え隠れしているのかもしれない。老人は再び蛇の様な眼差しに戻った。

「誰の差し金かね?」

 僕は口をすぼめる。

「演技をされても困る」

「いやぁ…何のことか」

「しらばっくれても何も意味はあるまい。私達は或る意味、既に秘密を通じた共通の友人ではないか?」


 ――友人?


 奇妙ではあるが僕には麻薬の様な囁きだ。人の心を蕩かすような詭弁。手慣れたものならば、物事の本質を捉えてすり替える様に詐術に持ち得ることは造作ないだろう。

 老人は友人である、と言った。

 まるで禁断の果実を食したものを共に犯罪者とは言わず、友人という事で『正』と『邪』をすり替える知的な言葉遊び。知性を持つ者だけが愉悦に浸ろうとする人間心理に忍び込む蛇の舌のような甘く、ぬるりとした感触があった。

「…いや、とんでもない」

 僕はへらへら笑う。

「それはこちとらの自分勝手な趣味でさぁ、ご老人」

 僕はどこの方言とも分からぬ言葉で老人のぬめりを躱した。だが老人はまるで掴んだウナギの殺し方を心得ていのか、口を開いて白い歯を出すと舌先で舐めて言った。

「東珠子やろ?いやそれだけじゃない、西条未希の差し金やろが。今週末、山上の『東夜楼蘭』でなんでも劇があることはテレビでも宣伝されて知ってる。まぁそれにかこつけて、君がここに送り込まれた?ちゃうか?」

 老人は杖で地面を叩いた。

 待合室に響く地面を叩く音。それは裁判の終わりを告げる鐘の様に僕には聞こえた。


(18)


 小さな咳払いの音。

 老人が手で口を覆う。覆うと隠した唇が動く。

「しかし、まぁよく、君は私の場所が分かったもんだ。余程、何かを執拗に調べたのか、はたまた頭脳が明晰というのか」

 僕は慌てて手を振る。

「僕は何もあなたがいま言われたようなことなんて一片の欠片もない人間ですよ。確かに他の人よりか幾分だけ行動力があるのは認めますが、ただ分かることは地道にひとつづつ後を追ってゆくことが大事なんです」

 頭を掻いて、それから首筋をぴしゃりと叩く。

「まぁ棲み処が分かったのは、明石に出向いてからですよ。明石であなたの御生母の戸川瀧子のお墓に参った時なんです。ほらあそこのお寺…なんといいいましたけね…ほら」

「雲竜寺やろが。まぁ忘れた振りなんかせんでもいい。あそこは私の実家なんやからな」

「まぁそこに行けば自然とあなたの棲み処なんてわかっちゃう。なんせ、あなたはごく普通の市井のひとり。今でもちゃんとご先祖の供養には顔を出しているのですから」

 そこで僕は首筋から手を戻す。戻して言う。

 ――ただし、

「猪子部銀造としてですがね」

 老人が反応する。帽子の鍔が作る翳の中で眼鏡の奥の瞳が爛と輝いたように見えた。

「まぁ猪子部銀造にとっては血の繋がりはない実家。なんせ瀧子さんは腹に別の人の種を宿して、嫁いだわけですから」

 老人は覆った手をゆっくりと下ろす。下ろすと唇が紫色をしている。その紫は何を意味しているのか。

 その意味を僕は彼に問うたのかもしれない。だから血の色は紫に変わり、代わって唇が変色して震えているのだ。

 それは僅かばかりに驚きと共に。

 老人は上着のポケットに手を入れると、白い封筒を取り出した。それは僕には十分見覚えがあった。

「これが…君が私に送った封書だね」

 言って中から便箋を取り出す。

「…これにはこう書かれている。――昭和の初めに起きた『警察官ピストル強奪事件』『連続婦女暴行事件』について、お話を伺いたく。沙羅双樹ならぬ「双竜」を知るあなたに馬蹄橋の七灯篭で今週の土曜までお待ちしています。万一来られなければ飛ぶ鳥の羽音があなたを悩まし続ける事でしょう――」

 老人は皺のある細い指で丁寧に便箋を折り畳むと白い封筒に入れた。

「見事だといいたい。これらの事を簡潔にこの書面で全て補完してる。だからこそ今君が言った言葉は正に…『双竜』の事すらも既に知り得ているのだと私は思う」

 いやいやと首を僕は振った。

「いまね、僕がそこに書いたのは全くはったりのでまかせで根拠のないことですよ。唯あなたのまえでいっちょ噛ましてみただけです」

「はったりやと?」

 老人の唇の口角が上がる。

「ええ、はったりもはったり。テキヤ商売ならではのはったりでさぁ」

 僕は笑う。

 笑うが嘲られた老人の態度で僕は正に今確証を得た。だからこそ自信を隠しつつも、しかしながら核心に触れるように言う。

 それは長饒舌に。

「ですがね…もうこれで僕は最後のラストピースを手に入れました。これで事件の全ては僕のこの縮れ毛ぼうぼうの頭の中で完成しました。それでご老人、いかがですか。ほらあそこあの屋号のかかった看板が見えるでしょう?『田中屋』と書いてある。ああ…そうでした、もう今は田中家の所有じゃなかったですね。別の若いご夫婦が温泉を維持して小さな旅館をしています。まぁそこは今の僕の宿泊先ですがね。…で、丁度、その玄関先にある灯篭の側に石のベンチがあるでしょう。そこでお話をしませんか?あそこからだと馬蹄橋と七灯篭を見渡すにはもってこいの場所です。それであのベンチですがね、何でもあの夏祭りの時から一寸も動いていないそうです。七灯篭の側にあるベンチは平和裏に夏を愉しむカップルや温泉を訪れた客人達の為に設置されたそうですが、しかしながらそれが火野龍平の障害事件と絡んでくるなんて誰も思わなかったでしょうね。おそらくそれを実行した犯人にとっては格好の射撃場所でしたんでしょうが」



(19)


 僕は腕時計を見た。まだバスがやって来るには十分の時間がある。

 いや正直、今の僕の気分はほっといてもやって来るバスなんかよりも、馬蹄橋を臨んで隣に腰かけている老人とのこれからの語らいの方が自分にとって愁眉の事であると言っていい。

 この馬蹄橋を囲む様に配置された七灯篭を臨むこのベンチこそ、東京オリンピックの前年1963年の在る事件について語らうには最もふさわしい場所と言えたからだ。

 僕は老人と腰かけ、古びているこの七灯篭を順に眺めた。煉瓦造りの馬蹄橋下には川が流れている。小さな川面を滑るような涼風が吹きあがり、それが僕の縮れ毛を揺らして去って行った。

 そこで僕は思うのだ。

 七つの数と言うのはキリスト教では大罪を示すが、それは人間を死に至らすものだと謂われている。ひょっとしたらこの七つの灯篭はそんな西洋の宗教が有する訓戒的的な人間への戒めを東洋の修験道によって呪術的封印を施された聖地だったのではな いかと。

 ではもしそうであるならばそれを施して呪術的聖地に仕上げようとした人物はそれなりの教養を有していた人物に違いにない。 

 根来動眼という人物は人の『欲望』には鼻の利く機敏な人物で在ったという事は自分の調べで分かっている。しかし彼は一方で若い頃は遠くシルクロードの果ての『楼蘭』という邦を夢見ていた仏僧だったというのも分かった。

 シルクロードは古の過去、洋の東西を一帯にする路であったし、それは唯一、当時の地球上に張り出された東西を結ぶ一本の糸であっただろう。その糸を手繰り寄せれば他方を手繰り寄せる。そんな一本の糸なのだ。

 馬蹄橋の七灯篭、この場所もそんな一方を引き寄せる場所なのだ。…いや、もう全てが過去ならば、それは『場所だった』のだ。


 ――正と邪


 ――聖と魔


 僕は縮れ毛を揺らした風を掴む様に手を面前に伸ばした。その手に風が当たって、やがて僕の指をすり抜けようとする。だが僕はそれを掴んで力強く引き寄せた。

 自分が得た『解』を逃さぬよう、いや『解』から見えた事件の全てを逃さぬよう僕は力強く引き寄せたのだ。それは魔に振り回された聖者を憐れむ悪魔をここに引き寄せて、白日の空の下、嗤う為に。



(20)



「それでは…」

 僕は言ってから老人を見た。

「僕から話しても?」

 言うや老人が苦笑する。

「話すも、何も君が私をここに誘ったんやろう?じゃぁ君が話すのが筋というか、異論を挟むべき何もないじゃないか」

 かっかっと乾いた笑いでズレた眼鏡を戻して帽子を取るとパタパタと仰ぐ。

「あぁ暑いわ、いくら川も近いと言うてもやっぱり暑い」

 老人は帽子を被るとふうと息を吐いた。

「まぁ、もし君が話すところに何か間違いがあれば、遠慮なく注釈をさせてもらう。まぁ聞かせて貰おうじゃないか」

 老人は唇をにっとして口角を上げると静かに黙った。僕はそれを合図に話し出した。

「そう、まず事件のそれぞれを話すよりも先に、やはりというかまず僕の立場をお話ししなければいけませんねぇ」

「…ほう」

 老人が僅かに顎を引く。

「君の立場を言うのか」

 苦笑交じりの老人の声。

 えっへっへ、と僕は笑う。

「まぁそうですね。別に僕は探偵でも警察でも何でもない、唯の劇団員です。まずはそれをあなたに言わなければ」

「…うむ」

 老人の苦笑は続く。

「それとある依頼人が居るということは間違い」

 僕はにっと笑う。

「…ほう、それは間違いというのか?」

「ええ、是はですねぇ、まぁ何というか僕の性格的なところというか、何というか…」

「何だ?歯の浮いたことを」

「まぁ…あれなんですよ。僕のですねぇ性格的な執拗さというのか、どうも僕はですね、こう身近に何か不思議な事や事実などがあると、どうもそれをほっておけない…まぁそれを何というのか自分のですねぇ知的好奇心と言うのがふつふつ湧くのをそのまま知らないままで置いておくことができないそんなところがあるんですよ」

「ほうか、そんなところがあるのか?」

 老人が僅かに首を振り僕を見る。

「ええ、その通りでやんす。おっと失礼。もうどこの言葉かもわからない迷言で答えてしまいました。そうなんです。…まぁ、でもこれは仕方がないかと僕は最近思っているんです」

「仕方がないやと?」

 ほうと言うような表情をした老人が怪訝そうに僕を見た。

「ええ、そのぉ、突然ですが…あなたは血縁間で伝播していく何かがあるというお考えはお持ちですか?」

「血縁間、伝播?何やそれは?」

 鼻先の眼鏡を持ち上げながら老人は問いかけ、それに僕は答えた。

「あ、それはですね。例えばですよ、才能という奴です。分かり易く言うと芸術的才能は身体的才能とかそうした諸々の事です。そうした事が親から子へとか、親族間でも伝播して…」

「つまり遺伝かね?」

 パンと音を鳴らして僕は掌を叩く。

「そうそう、それですそれです遺伝ですね」

 老人は僕を見つめたまま目を細める。

「私に何を言わそうとしているのかね?」

 鋭くなった視線を避けるために僕は思いっきり髪の毛を掻く。じょりじょりと言う音がはっきりと鼓膜の奥に響いた。

「まぁそれです。つまり遺伝性というやつです。それって伝播するとお思いでしょうか?」

 僕の問いかけに老人は表情を険しくした。それは自分自身に対する切実な問いかけだと老人は思ったに違いない。

 だからこそ険しい表情になったのだと僕は思った。



(21)



「そんなことを問いかけられて私が何と答えるとでも?それも君は明晰な頭脳で既に先回りして回答を得てるのかね?」

 少し自嘲気味に笑う老人に僕は手を振る。

「いやいやとんでもないです。それに僕には明晰な頭脳なんてない。僕の遠い親類には明治、大正、昭和の頃に活躍した探偵の助手をしていた人物がいますが、僕には到底そんな人物の頭脳のこれっぽっちもありません」

 僕は親指と人差し指を丸めて隙間を作って老人に見せた。勿論指が吸い付くぐらいに限り合る隙間を。

 それを見た老人がからからと笑う。

「どうも君は不思議と人を和ませる才能があるようだ。まぁ劇団員として働いているようだが、将来大成するかもしれんな。まぁもしかしたらその遠い親類さんの様にそちらの方でも成功するかもしれんが」

 言うや老人は帽子を被りなおして、僕を振り向いた。

「伝播するだろう。遺伝性はな。特に人間の繁栄に関わるような生殖を司るだろう性癖などと言うものはな」

 僕は老人があまりにもまじまじと言うのを拍子抜ける様に聞いていた。正直、もし老人が答えるとしたら、

 それは、否

 と、答えると思ったからだ。

 何故、そう思ったのか。

 それはそう答えることで自分を核心から外して遠くへ行かそうとしなければ、自分自身が危うくなるからだ。その為にはシンプルにそう答えるのがベストなのだ。

 僕は頭を掻く。

 掻きながら老人へ問いかける。

「成程、それでは、あなたはこの事件にすべてに関わるある血縁的配列について『ある』と言えるということですか」

「そうだな」

「ある血縁と僕は言いましたが、あなたはそれを理解してるようですね」

 老人の顔がやや上がる。それは少しミスをしたことを隠そうとしている仕草に見えた。

 つまり僕の誘導尋問に対してひっかかった自分の心の動揺を隠す仕草という事だ。

「そうならどうといえる?それが君の言う血縁的関係とマッチするとはいえるのか?どうかね」

「じゃぁ言いましょうか?」

 僕が挑戦的な視線を送る。

「まぁ事件のそれぞれを話す前に、事件それぞれに関わる全ての人々の関係を話したほうがいいでしょう」

 僕はぴしゃりと首筋を叩いた。

「まず、時代の中心にいた三人として東珠子、火野龍平、田中竜二、これらは同じ年に生まれた三人。この三人はこの集落で育った、そうですね?」

 老人は頷いた。

「そうだ」

 僕は頷いた。

「そう、僕は言いました集落で育ったと、そして生まれ育ったとは言っていませんので、あしからず」



(22)


 老人が仰け反るようにするのが見えた。僕は鼻を掻く。そんな僕を見て目を細める老人。

「…どうも君は困るな。何やら色んなとことに落とし穴があるようだ」

 へへと僕は笑った。

「まぁ…それでももしかしたら間違があるかもしれませんのでその時は…」

「ああ、訂正させてもらう」

 老人が顎を引く。

「では続けましょう。それでこの三人、まずは東珠子ですが、彼女はこの山上楼『東夜楼蘭』の娘で、つまり根来動眼が「東良平(あずまりょうへい)」と自分の姓名をあらわにしてから、つまり孫にあたります。彼女自身はまた演劇が当時から特に好きで、よくよく難波などにも出向いたそうです。まぁ結局、彼女のそうした好みが現在の彼女を作っているわけで――つまり『アズマエンタープライズ』の会長に押し上げたということかもしれません。ちなみに東珠子の祖母の実家は泉州タオル業で財を成した家で、また泉南地域の大地主でもあったそうですがね」

 僕はここまで言うと老人を見る。老人は軽く顎を引いた。


 ――その通り


「では次に火野龍平ですが、彼はこの動眼温泉の下屋のひとつ『火野屋』の長男。彼の所の『火野屋』は温泉の源泉かけ流しを売りにした宿で、当時は下屋の盟主『田中屋』と遜色ない繁盛をしていた店だった。それに彼にはある才能があった。それは何かというと長距離を走る才能だった。彼はこの温泉街の殆ど坂ともいえる場所を走り続け、まぁ持ち前の運動神経の良さもあったのでしょうが、それらがやがて彼を大きな舞台へと引き上げようとした。そう、それがあの事件への引き金になる…訳ですが」

 僕は再び老人を見る。老人の目は薄くかかった靄を払うように瞼を閉じているが、それでも小さく顎を引く。

「さて…」

 僕は咳払いをした。

「ここに三人目として田中竜二が出てきますが、しかしながらです。僕は事件全体を俯瞰的に見ても、彼という特徴極まる人物が居なければ、きっとこのような悲劇は無く、きっと三人皆が平和裏に人生を謳歌できたのではないかと思うのです。それ程までに僕は、人間というものはこうも他人の人生に影響を与えるのかと考えないではいられません。本当に彼とその背後を思うだけで人生はシェークスピアの書く悲劇よりも何よりも、本当に奇妙で歪だと感じないではいられなかったのですから」

 老人は不意に目を開けると帽子の鍔を握りしめた。握りしめて軽く上げて、僕を見た。

「まるで君の言葉は哀悼あるものへ捧げる言葉のようやなぁ」

 言ってから老人が杖で地面を叩いた。

「聞こうやないか、ほな、竜二の事を」

 僕は顎を引いて頷いた。



(23)



「田中竜二。彼はこの動眼温泉の下屋の盟主『田中家』の跡取りです。その彼ですが生まれもここではなく、いつの頃か不意に父親である田中良二に連れられてきたのです。それから以後は此処に住み、そしてやがて東珠子、火野龍平らと共にここで成長してゆく。しかしながら彼は成長するにつれ、人々の噂に乗るようになった。もし田中家の跡取りとしてだけの存在ならば、彼のそうした背景をそれ程囁く必要も無く、またこの集落における『田中家』の立場や家格を考えれば慎むべきことだったにも関わらず、あることが囁かれるようになった。何故それほどまでに彼にそうした関心が注がれるようになったか?それは思春期において彼の特徴極まる部分が見え始めたからです」

 僕はそこまで言うと老人を見た。老人は黙して何も語らず、ただじっと聞き入っている。僕はそんな老人の鼓膜を震わせようと再び話し出す。

「あれは…一体誰に似たのだろうか?」

 囁きが届いたのか老人の肩がピクリと揺れた。僕は続ける。

「つまり…そう、彼のあの…女に対する執着、いや、そのぉ…まぁ何というか、性的な行動、つまり思春期において急進的に現れた彼の性的衝動(リビドー)、それは一体誰に似たのか?」

 老人はピクリと動かした肩を、今度は固くしているのか、反応はない。僕は鼓膜奥に響いているだろう自分の言葉が老人の中でどんな化学反応を示すか、確認したくなる衝動を感じた。

 少し乾いた唇を舐めて僕は話を続ける。

「つまり彼の性的衝動(リビドー)は一体誰から受け継がれたものなのか?父親の田中良二は、それ程の切れ者ではないがそれでもごく一般的に欠落の少ない平凡な人物である。その彼から何故に彼のような特異性のある子供が生まれたのか、いやいやもしかしたら父親の中にもそうした隠れた遺伝性分子が在ったのかもしれないが、しかしながら父親の良識の中に竜二の姿を垣間見ることは出来ないから、それはきっと見も知らぬ…母親からの遺伝に違いない…そう、誰もが囁いたわけです。それらならばそれはきっと母親から受け継がれた遺伝性が潜んでいて、それが突如思春期を迎えた若い肉体の内からマグマの様に現れたに違いない、と…」

 老人はふぅと息を吐いた。吐くとやや肩を下げてそれから杖で地面をコツコツと音を鳴らした。その音に交じるように老人が語る。

「まぁ、良く分かる理論やな、子は親に似る。つまり竜二の特徴は誰から引き継がれたか、親父に垣間見られへんのなら、残りは片方になるっちゅうわけや。まぁ簡単な事やで」

「ええ、まぁ。そんな簡単な理論です」

 僕は答える。そして答えて、且つ僕は言う。

「つまり、事件をめぐる答えとしてのひとつのピース。それは彼の母親は誰なのか?そこなんです」


(24)


 ――母親は誰なのか?


 僕は一拍の間を置く。それは言葉と言葉の間にある律を整えるためではない。自分の頭の中で整理している事柄を時系列に背列するための、最後の確認のためだ。

「田中竜二、つまり彼は思春期に誰もが感じ得る若者としての発芽以上に、いや異常に強く顕著に出てしまった。それは実は性的衝動(リビドー)だけじゃなく、『恋』…そうしてまさに青い炎とでも言うべきでしょうか、『執念』というか」

 僕は頭を掻く。ぼりぼりと掻いて首筋をぴしゃりと音を立て叩く。

「…しかしですよ、しかし…そのぉ何ですか、これから彼がしでかしたことをつらつら僕は話そうと思いますが…実は僕はですね彼についてとてもある側面から見れば、何というか、非常に深い精神構造の中である意識が強い人物だったのではないかと評価をしないではいられないのですよ」

「ある側面?」

 老人が地面をコツコツと杖を叩いて鳴らす。

「何や、それは?そんなんが竜二にあるんか?」

 ええ…。僕は首を撫でながら言う。

「そのぉ、つまり哲学的側面として」

「哲学的側面?」

 老人が眉間に皺寄せる。なんだそれは?という言葉を眉間に挟んでいる。

「プラトンです」

「プラトン?」

 顔を上げる老人。

 眼鏡奥の瞼が僅かに大きく見開いているように見えた。

「ええ、プラトン。プラトンです。僕は田中竜二の行動にはまるでソクラテスとディオティマとの会話に中にあるある言葉が全てではないかと思ったのです」

 僕の言葉に意味を探る老人の目がうごっく。

「…それは?」

「つまり『恋(エロス)』」

 僕は答える。

「『恋(エロス)』やと」

「ええ、そう『恋(エロス)』です。間違ってはいけないですが、エロティシズム

 とは違いますよ。哲学における『恋(エロス)』、つまり『美』のイデア」

 静かに黙るこむ老人。

 そんな老人を突き放す様に僕は語り出す。

「そう、僕が読んだ本にはこう書かれていたんです。 ――『恋(エロス)』とはつまり、善きもの、美しいものが永遠に自分の物であることを願う欲求のことである。するとでは、それは「いかなる仕方で」これを追求するのか。このソクラテスの問いに対してディオティマは言う。「つまりそれは、肉体的にも、精神的にも美しいものの中で出産することなのです」”」

 僕の唇の動きを止めるのを待っていたかのように老人が唾を地面に吐く。

 その唾の中に何が混じっているかを推し量る技量は自分にはない。自分にはないが、老人の次の言葉に僕は十分それを推し量ることができた。

「何がプラトン、『恋(エロス)』や!!あいつは唯の色気違い!!色気違いやで!!君は何でそんな美化するんや?!あ?なぁ!!?」

 老人の激昂ともいえる剣幕が、不思議だが僕を非常に冷静にさせた。

 稀に犯罪者を称賛したくなるような心理が働くことが、犯罪に関わった正義の側でもあるのではないだろうか、と僕は思う。つまり僕はこの田中竜二をある側面では正しくこうして評価してしまった。それが老人の剣幕、つまり正常ともいえる精神によって頬を平手ではたかれたのだ。

 だから冷静になれた、というよりも幾分か心の内に湧き上がる興味的野心の熱を下げ、常識的判断に戻ることができた。

「そうですね、そうです、そうです」

 自分に言い聞かせるように強く三度言って頷いた。

「田中竜二、彼は『色気違い』でまた強く自己欲求的な執拗さと異常があった。確かに彼にそれ以上の評価は出来ませんね。だからこそ、そうした彼独自の性格の傾斜がここで『事件』を起こしたのです。その事件こそ、それこそ世間に大きく取り上げられるようなものではなかったのですが、しかしながら東珠子と火野龍平、――特に火野龍平にとっては人生の開かれた輝かしい未来から急に人生の崖底に落とされたのですから」



(25)

 僕はそこで言葉を切り、老人に言った。

「東京オリンピックの時、あなたは御いくつでしたか?」

 ん?という表情をした老人。しかし、直ぐに背を逸らせて僕に向き直ると言った。

「確か十四、五ぐらいだと思うが、それかもう少し上だったか」

「ですかね?東珠子、火野龍平、田中竜二、彼等も当時あなたとあまり変わらない年だったでしょう。その三人、幼いときに方々からこの土地にやって来て、ここで育った。一人は温泉上屋の娘、一人は下屋盟主「田中屋」の跡取り、そして温泉一の流行り店『火野屋』の跡取りとして。勿論、歳も同じですから、学校でも地域の行事でも顔を合わせる。つまり顔なじみならぬ、幼馴染という間柄です。ですが、やがて彼等も過ぎる月日が過ぎ、オリンピック前年頃にはつまり思春期を迎えた年頃だった」

 僕はベンチに座る足を組みかえた。組み替えて胡坐をかいた。地面に映る影が胡坐をかく仏の様に僕の姿を映し出す。

 胡坐をかいて老人をみれば背を逸らせて、杖を小さくコツコツ鳴らしている。まるで僕を急かして話を聞かそうとでもいうかのように。

 咳ばらいを一つして、僕は話を続けた。

「実はその当時の三人について今でも知っている方がここにはまだいましてね。僕、劇団の練習やら設備の時間の合間にちょっとその方に聞いてみたんです。そうするとその方がおっしゃるには、まず東珠子は若い頃は容姿端麗で本当にこの地域では『お嬢様』だったようです。特に学制服なんかで歩く姿は本当に都会の育ち良い名家のお嬢様と言う感じだったようです。火野龍平はですね、彼は持ち前の運動神経もさることながらこちらもハンサムだったらしく、どうも当人はその当時から俳優になりたいと思っていたらしく、暇があれば東珠子と難波やらに出かけて映画を見に行ったそうです。だから当時、そんな二人を見て、やっぱりできてるんじゃないかという今の言葉で言えば付き合っているという二人だったんだろうと言ってました。それで田中竜二ですが、彼については、その方は口をつぐんでしまって、黙ってしまったんですが、唯言うには、顔は中々のハンサムだったらしい。それも色白で、病身の者が持つような白蝋とした肌の上に大きな瞳、それがどこか何といえない雰囲気で漫画とかに出て来る魔青年の様。しかしながら頭も割合よく、遠目にはごく普通の青年に見えた、と言ってました」

 そこで老人が笑う。

「魔青年か、そりゃいい。語ったそいつがどこのどいつかは分からんが。あれについてはその成りや特徴を良く見知ってるといえる」

「そりゃそうでしょう」

 僕は強く言う。

「彼の最初の相手、いや狩りの最初の獲物であれば特によく覚えているでしょう」

 老人はぎょっとして目を見開き、顔を一瞬でひきつらせた。まるで凍結した時間を引きづらせたままの恐ろしい貌で。

「…なんで、お前。そんなこと…」

 僕は気にせず、さらりと言う。

「まぁ蛇の道は何とやらとでもいうのでしょうか。女の世界は狭いとでもいうのか、つまり知れ渡るところには知れ渡る。それに思春期であれば、そうした事は誰にでもあるでしょう?『早さ比べ』とはいいませんが。ひょっとするとそれは青春の輝く太陽を手にした勲章でもあるのかもしれませんしね。男にとっても、女にとってもね」

 川面を風が吹いた。その風に僕等は吹かれる。爽やかな風に交じるのは何だろう。唸る老人の声だけが混じって、爽やかさはどこかに消え去ったかもしれない。

 そう、爽やかさ。

 思えば、青春の頃の爽やかさとは 汗に交じる肌の上で滑るように落ちる珠玉のような雫。

 肉体の内に潜む力を発揮させようと誰かが七灯篭の馬蹄橋を走り抜けて行く。運動靴を履いてリズミカルに、しかしながらしっかりとした足音で。

「――火野龍平…」

 僕は呟く様にその足音に問いかける。

「その先には誰が居たのだろう」

 唸る老人が僕を見る。

「ほら、なんとなくですが、ここを火野龍平が走っていくのが見えませんか?」

「…何を言うんや?」

 老人には聞こえただろうか。この傾斜或る馬蹄橋を走る若者の息遣いが。

 僕の意識が火野龍平を追ってゆく。

 若者は灯篭を越えて行く。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…。やがて最後の灯篭を抜けると彼の視線に川下の稲荷神社へと下る石段が見える。彼はまるで初めからそこに行くように決めていた足取りで迷うことなく階段を走り下りる。

 この地域に住む誰もがここら一帯を力強く走る火野龍平の事は知っている。運動神経もよく、また長距離足にも耐えうる肉体的才能を持ち、それを日々こうして怠りなく肉体を鍛え磨いている事。そしてまだ表立ってはいないが、東京オリンピックの長距離選手として既に候補に挙がっていることを。

 それはまたこの石段先で待っている女も知っているのだ。彼が懸命に走るのはもしかしたら女神の口づけが唯、欲しいからかもしれない。走り疲れたメロスの唇を閏わすものは、女神の唇でなければならない。何よりも美しき思春期を迎えた若々しい勇者の肉体がもっとも欲するものは『恋(エロス)』ではないか。

 メロスは自分に告げた時間通りに戻って来た。それは彼がタイムを管理できる優れて優秀なランナーの証でもある。

 彼は戻って来た。

 影が岩場に映る。

 女神の口づけを受ける為に。

 女神とは誰か、

 それは言わずともしれた彼女。

 東珠子以外に居る筈もない。

 彼等はなだれ込むかのように唇を重ねる。思春期に香る青臭く茂る薄暗い稲荷の洞穴の嗅ぐ若しさの中で。

 しかし、そこに違う影が忍んできたとしたら女神は女神でいられるだろうか。



(26)

 

 悪魔は誰にでも忍び寄る。

 それが例え、

 女神であろうとも。


「まぁ、この場面が創作かどうか…、というのはあなたには分かる事かどうかはしりませんが。まぁつまりです。実は田中竜二は東珠子が好きだったのです。そんな彼女がどうも、火野龍平と良い仲の様だと分かり、その二人があそこの稲荷で逢引きしていると分かった。珠子と龍平は休みには映画を見に行くし、それだけじゃなく、学校では陸上部の選手とマネージャ。そう思えば簡単に彼等の現状を把握できた。そこで竜二は『嫉妬』に狂った。しかしながら、そこに彼の性的衝動(リビドー)が重なり、彼は火野龍平が戻る前に、一人待つ珠子へ向かい、強引に迫った…」

 老人は杖を鳴らさない。

「…というのはいかがでしょう?」

 剽げた声を上げて僕が首をぴしゃりと叩いて音を鳴らす。

 老人は何も言わない。

 否定もせず

 肯定もせず、

 唯、黙っている。

「あまりお気に召しませんか?やはり僕には脚本のような才能は無いかもしれませんねぇ」

 僕は髪を掻く。

「才能があるかは知らんが、そこに見て来たような事実があれば、人はそれだけで虚実だとしても真実として捉えてしまう。まさにそれこそ虚構を事実として捉えさせる才能に思えるが違(ちゃ)うか?」

 僕は老人がお世辞にも褒めてくれたと感じると少し照れた。

「君が言ったことは今ここに置いておけ。それよりも話を続けてくれ」

 僕は頷く。



(27)

「…では続けます。火野龍平が東京オリンピックの長距離走の選手として候補に挙がっているという話はごく一部の人々にしか知れ渡っていないことでしたが、それがいつしか田中竜二の耳に入ったようです。まぁこんな狭い地域のことですし、普段から顔を合わせている間柄、そんなことはいずれ隠していても分かることです。しかし、その事が彼の中にある火野龍平に対する嫉妬心を煽り、一層、身を焦がす様に火が点いた。彼は…彼自身自分の事をどれほど理解していたかどうかわかりませんが、そうした性格の射角が自分の視野を狭くさせ、あまつさえ脅迫心に迫るぐらいの恐怖、この場合、東珠子を火野龍平に盗られてしまうという恐怖ですね、それに支配されると、もう狂わんばかりの脅迫概念というか自己妄想に陥り、そこかから必死に逃れようともがく、それはまるで射精感をため込んでため込みまくり、やがて一気に爆発しようとする彼自身の生理的機能と一致するかのような勢いで、やがて彼はピストルから放たれた弾丸の様に一直線にある結論へと自分の考えを昇華させたのです。それが何か――、それはきわめて単純なんです」 

 僕は頭を掻いた。 

 ゆっくり、四度。

「東京オリンピックの前年1963年の在る事件とは何だったか、それは火野龍平をピストルで撃ったという事件なんです」


(28)


「…火野龍平を撃つ?ゃと…?」

 老人が首を斜めにして僕を見る。その眼の奥底から僕に伝わるものがある。

 まるで幾つもの重なり合う事実の中から、抜き取られた一枚の真実があるとすれば、当人にすればそれを見た時の驚きは真正面から見れないのかもしれない。その時、人はやや斜に構えつつ自分の心を防御しようと咄嗟にそうした反応をするのかもしれない。そしてそれを隠そうとするために人は瞬時に嘘をつくかもしれない。

「なんでそんなことができるんや。ピストル何て手に入らんのに」

「そうでしょうか?」

 僕は間髪入れず、問いただす。

「何?」

 老人が眼鏡の奥で睨むような眼差しを見せる。僕はその視線を受け流し、それから腕をのばして馬蹄橋向うの方を指差す。

 老人の視線が僕の腕に誘導されて動く。動くと視線の先に向う側の灯篭とベンチが見えた。それは此処のベンチ側の灯篭から数えて七番目にあたる灯篭だった。

 僕の腕は綺麗に真っ直ぐ伸びている。唯、指差す為だけに僕の腕は伸びているのではない。これは或る事実を示しているのだ。そしてそれは或る事実を知っている人物にとっては、最も知られたくない『解』に違いない。

 知られたくない人物とは誰だろう。

 僕は浮かんでくる人物の名を伏せ、腕を真っ直ぐ伸ばして灯篭を見る。

「確かにここで起きた火野龍平の障害事件は、実のところ、それが障害事件という結論すら出ずに、まるでお稲荷さんの祟りだという迷信めいた、…まぁ彼自身東珠子との逢引きを神聖な場所でしていたからそれがバレてからは集落の人に陰口をたたかれるようでもあったので、全く警察の手を煩わせること無く潮が引くように終わったのです。それに狙撃された夜もあのベンチで東珠子と会う約束でしたから全く持って余計そうだったのでしょうね」

 指は無言の灯篭を指差している。僕はそこに火野龍平の姿が見える気がした。

「東京オリンピックの前年1963年の丁度この夏の盛り、そう…あの日あの時あの夜、ここは夏祭りで露店も出て、温泉と涼を求めて沢山の人だかりだったようです。そんな夏祭りの夜です、火野龍平があそこで肩を撃たれたのは…」

 撃たれて蹲る火野龍平が見えたのは、僕の錯覚だろうか。

「そんな中、ここである人物が射的の店を任されていた」

 僕はそう言いながらベンチから立ち上がる。

「射的の店はこのベンチを覆う様に天幕が張られ、大人子供が沢山いたそうです」

 当時その射的の露店があったであろう店を思い描き小さな円を描くように歩く。 僕は誰に言い聞かせようとしているのだろう。老人へかそれとも当時のここにいただろう誰かに対してか。しかし僕の腕は真っ直ぐ灯篭へ伸びている。それは北を指すコンパスの様に、一点を指してぶれてはいない。

 僕は話を続ける。

「まだ当時、十八になるかならない子供じみた大人ぶる若者だった彼はサングラスを掛けて、既に大の大人相手に商売を切り盛りしていた。肝も頭を中々の座った人物だったようで、仲間内からは生まれ育った明石の地名を取って『明石の辰』と謂われていた。そう彼の名は猪子部銀造と言って、明石の名刹『雲竜寺』のドラ息子だった」



(29)



 暗い森の木々の葉が揺れ動く音が聞こえる。それは森の木々の隙間を抜ける風音に運ばれ、やがて馬蹄橋に出て四散する。四散した世界は法華の世界か、はたまた閨の闇がる無限世界か、しかしながら常世の夜は無性に暑かった。だからこそ人々は祭りの世界に日常から苦楽の逸脱と僅かばかりに涼を得るために風に吹かれようと、露店並ぶこの通りに群れ出たのかもしれない。

 七灯篭に照らし出され揺れ動く人々の頬に薄く昇る香華と影が彩る世界。

 今夜の彼女は無性に感性が鋭くなっている。

 だからかもしれないが、と彼女は前置きするように睫毛を細く白い指で撫で

(私には…)

 と心で呟く。

 ――『欲望』が見える。

 それは祖父、根来動眼の言葉と重なる。幼い頃、私を膝によく抱いて良くここから外を見て、そう言った。


 ――珠子、私にはね、人間の『欲望』が見えるんだ。


 遥か昔、私がタクラマカン砂漠を旅して、幾つかの山を越えシルクロードの果ての邦『楼蘭』に着いた時、砂塵舞う世界で爛爛と輝く邦は正に密教が問う雑密混じる混沌を私に見せた。だがその混沌は同時に人々が信じる宗教の本願を越えた真理を私に与え、存在する邦はまるで東方西方世界における巨大な曼荼羅のように私には映った。

 それは非常に美しい。

 異なる文明に交じりながら生きる人々の『欲望』は極限まで純化され、広い、広い思想の世界を私は泳ぎ続けた

 私はそこで見開かれたんだ。

『欲望』が見えてこそ、初めて『美』が見えるのだ、と。

 それは遥か昔に滅んだ『楼蘭』見せた幻影かもしれない、大きな戦争が迫ろうとする時代に於いて、私が見たものは。

 しかしながら私は国に戻り、山野を巡り、いつかこの地に私は滅んだ『楼蘭』を浮上させようとした。

 そしてやがて山野の深い森の中を通る馬の蹄音響く、この場所を見つけた。この場所に西方世界における七つの大罪を慰め、美しい東方世界の曼荼羅に加えようと。



 山上の『東夜楼蘭』。そこから覗く地上の世界はまるで天竺を彩る百花繚乱の曼荼羅世界に見えたかもしれない。欲望に群がる人々を照らし出す七つの灯篭が見える。

 いや、感性の鈍い人にはそうは映らなかったかもしれないが、少なくとも今夜の東珠子にはそう見えた。珠子は回廊のある窓から下の世界を見ている。それはまるで天上世界から見える下界、美しくも儚く釈迦散華の魂が濡れて動く、遥か西方世界の謂う天国(パライソ)というのが今自分の眼下に在るのかもしれない。

 彼女の手が動き、胸ポケットに仕舞われていた一枚の紙片を取り出した。それは丁寧に折りたたまれている。まるでその人物の性格を映し出すかのような、折られた紙の角。それは鋭く、見もせず触れてり舞えば指先を切ってしまうかもしれない程の鋭利さがある。

 それを指先で撫でる様に触れて紙片を開く。


 ――今夜、夜九時。

 貴方を稲荷側の七灯篭にて待つ。


 文字は自分が良く見知る人の筆跡(て)で書かれている。

 それを見ると珠子の唇が引き締まった。


 恐らく、相手は私を責めたくて呼び出したに違いない。それはきっとあの日の稲荷の祠で起きたことを責めたくて。

 だが、と珠子は思う。

(あれは、私の責任じゃない)

 指を動かすと唇に触れた。それから紅を引く様にゆっくりと撫で動かす。

 その姿は下界から洩れる明かりに触れ、美しく浮かび上がる。まるで曼荼羅を見つめる女神菩薩のように。

 きっと菩薩の唇を奪うものは悪魔と謂れるだろう。

 ましてや人間であれば、それは何と言われようか。

 珠子は振り返り、柱時計を見た。刻限が迫るのが見えた。

 振り返る外の世界の明かりはまだ消えない。もしかしたら今夜は夜通し祭りが続くのではないかと思うぐらい、何故か不思議と胸騒ぎがする。それは悪いことが起きるようでもあり、楽しみが自分にも起きるのではないかという期待感のような、そんな思いだ。

(…きっと)

 珠子は僅かの風を掴む様に耳を聞きたてる。

 その中に聞こえる音がする。

 それは若い男の声。

 まるで喧嘩の様に威勢がいいとおもえば、次には人の心を蕩かすような声音で響いてくる。

 その時折聞こえる若い男の声がまるで銅鑼の響きの様に響き、眠りに宿に戻ろうとする人々を呼び戻すから、今夜は夜通し祭りが続くのではないかと珠子は胸騒ぎがするのだ。

 声は銅鑼の様に響き、人々の笑いを誘う。

 珠子は思う。


 ――天照神を岩戸から引き出したのは笑い声ではなかったか。


 それを銅鑼のように響く声主が人々を湧きたてているとしか珠子には感じ得れなかった。

(舞台で一度舞えば、中々の良い舞い手だと思うかもしれない)

 人々との阿吽の呼吸を持つ者は、良き芸の担い手でなかろうか、と思うのが最近珠子の中で培われている『芸』への思いだ。大阪の大都市でみる観劇を見れば見る程、その思いが深くなってゆく。


 ――だが、

 そうそんな思いを切るように珠子は階段へ向かった。途中、耳を澄ませば、その声は若く、恐らく自分と変わらない筈だと感じた。

 しかしながら今はそんなことは思わず珠子は紙片を折り畳んで強くポケット奥へ押しこむと階段を下りて行った。

 それは裁判をうける被告人のような足取りだった。


(30)


(馬蹄橋とはよく言ったもんだ)

 夜でも汗が噴き出る暑さ。

 若者、いやまだ少年の面影を残した若者というべきか、しかし彼はそれに負けまいと声を張る。そう、声を張らねばならない。そうしなければ、人は集まらない。また集まるだけでは自分は生きていけない。目の前に居並ぶ面々から銭を出させなければならない。その為には卑猥な事も、何でもいい。相手の関心を引き付け気持ちよく銭を使わせなきゃいけない。

 今夜、自分は射的の店を任されている。射的と言えばお面や菓子を売っている店とは違って幅広い商品が客の面前に並ぶ。

 まぁそれらは殆ど倒産品だが、それでも中には良い代物がある。時計、ベルト、子供にっては魅力ある玩具類。

 それらを狙って客が居並ぶのだ。

 それをこちら側から見れば、欲望に釣られる面々。まるで欲望のお面を売りに来た、という逆の立場に見えてしょうがなくもない。

 パン!

 音が鳴る。

 欲望は銃口から音が消えた時に、情けない顔をしてぶら下がる。

 それを横目で見て、鼻で笑う。


 ――当たるまいよ。


 そう言ってまた新しい銃を客に渡す。渡すと若者は流れ歩く人々の隙間から見える灯篭の灯を見た。

 見て目を細める。

(七灯篭…)

 それから再び心の中で呟く。

(馬蹄橋か…)

 何でも、昔高野から大坂に出る為に開かれた路で、馬を引いてあるく人々が、ここで馬の蹄鉄を打つ間休んだ。しかし、いつの頃か温泉が湧いた。その温泉の脈を探り当てたのが、そこで若者は顔を上げるみあげる、つまりあの山楼を造った根来動眼という修験者――そして今は東家と謂われているのだが、という事らしい。

(存外、土地の勘も物事に対する見方も悪くはない験者だったんだろうな、あの動眼という爺は)

 若者は顔を元に戻すと差し出された銭を受け取り、空気銃を子供に渡す。渡しながら若者は思う。

(悪いが当たんないぜ)

 銃にはコルクを丸めた弾が仕込まれているが、しかしながら銃は中で弾の通り口が少し曲線になっている。つまり弾は発射されても、そいつは自然と対象物から曲がって逸れていく。

 そんなことを知らずに子供が銃口を向ける。当たってしまうかもしれないと思う子供の緊張が現れて徐々に火照る頬を冷静に見つめる若者は嗤いを噛みしめる。

 そんな工夫がなぜ必要なのか、

 つまり簡単さ。

(当たられちゃ困るからさ)

 パン!!

 弾は逸れて、やがてテント幕に当たり落ちる。

「坊(ボン)、残念だったね。でも次はきっと当たるよ」

 子供の欲望を焚きつける。そうすれば銭が出る。

(そう、そう)

 手に入らない悔しさは、自分の誇りを焚きつける側面もある。そいつは大人も子供も関係ない。

 だから

(ほうら出たぜ、銭が)

 ひょいと銭をポケットに仕舞い込みながら若者は新しい銃を渡す。

 まるで神社の鈴緒の下、車輪の上で一人銭入れ袋を開いて歩いているもんだ。吊るされた欲望の鈴が振られる度に銭が落ちて来て、それを受け取り、今夜は唯々何度も回転している。

 あまりにもうますぎる出来に、含み笑いが出そうになるが、それを感づかれちゃいけないと思う自分をもみ消す様に若者は声を張る。

 山林を震わす銅鑼の声の様に。

 パン!!

 銃砲の虚しい音が響く。

(そうそう、当てられちゃ困るのよ)

 

 ――簡単にな


 そう思った時、テント下から隙間を捲るように手が伸びて来た。見れば手には落ちた無数のコルク弾が乗せられている。

 突如テントの隙間から現れた手に若者は一瞬ぞくりとしたが、急に思い出したかのように伸びて来た手に指示する。それは手にしか聞こえないような低く弾丸が飛ぶような口調で。

「あっちに置いとけ」

 低い口調に撃たれた手はそれに従う様に、滑るように地面を這いながらあっちを探して彷徨いだすと、やがて小さなアルミ缶を見つけ、そこへ全てのコルク弾を投げ入れた。

 投げ入れると声がテント向こうからした。

「辰兄ぃ、弾拾いやっといたぜ」

 若者は声の方を振り返らず

 ――おう、ありがとよ

 低い声で答える。

 すると手はやがて音も無くするするとテント幕の隙間から夜の闇に消えて行った。

 パン!

 子供が放った鉄砲音がして弾が逸れてテント幕に当たって落ちた。

 若者は背後の夜の世界に消えた気配を感じながら思った。

(そうだった、あいつにとっては外れちゃ行けねぇ、今夜は絶対あたらなきゃいけねぇんだったな、絶対に)

 顔を上げれば、泣き出しそうな子供の顔が見える。

(泣くなよ、ボン。こちとらアンタラの悔し涙で生きてるんだからよ)

 夜風が吹いた。

 その時、若者の耳奥に小さな鈴緒が鳴る音が聞こえた。それで思い出す。

(ああ、そういや、川向こうのあの灯篭の下に稲荷があるだっけなぁ)

 そこを参篭する人が鳴らした鈴緒だろうか。それが夜風に吹かれてここまで運ばれたかもしれない。

(存外、あちらと此方、距離は近いな。ならば…外すまいよ)

 それから若者は自分が背後の闇に預けたものを思い出した。

 それは弾一発が込められたピストルだった。

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