第4話 佐古部と田中 / 『目からうろこ』

「ねぇ、君。僕は君がある意味で大変失礼な男だと言うのは知ってはいたけれども、今日ほど君のその態度を見て思ったことはないよ」

 田中陽一はカウンター席で自分の横で煙草を吸う男を見て吐き捨てる様に言った。

 眼鏡越しに腕時計を見ると午後七時を少し過ぎている。

 呆れたような表情して田中はグラスの底に言葉を吐き捨てた。

「もう、一時間だ。一時間だよ、君。どういうことだい?僕を呼び出しておいて君はただひたすら本を読んでいる」

 田中は夕方、大阪本町にある会社のオフィスで横に座る男から呼び出しの電話を受けた。

「面白い話があるのでいつものバー『蠍』に来ませんか?急いで来てくれると嬉しいのですが」

 田中は電話を置くと時計を見た。

 五時丁度だった。

 少し深いため息をつくと別の部署へ内線を入れた。

「手島部長、田中です。急にすいません、実は急な用事が出来まして・・今夜はお断りさせていただこうと思います・・ええ、そうですね。はい、どうもすいません」

 総務部長の誘いを丁寧に断ると田中は紺色のスーツ姿で急いで呼び出された堂島の川沿いにある小さなバーに向かった。

 呼び出した男はカウンターに座って本を読んでいた。田中と同じ年頃の三十代の男でこちらもきちんとした紺色のスーツを着ている。

 男は店に入って来た田中を横目で見たが、あとは一言も何も言わず黙って本を読んでいる。

(どういうことだ。急ぎで僕を呼び出して)

 後は一言も発せず男の煙草だけが何本も灰皿に抑えられて消えて行く。

 田中はその様子を暫く見ていたがさすがにその態度に頭が来て男に言った。

「君は僕に対して何も思ってはいないと思うけどね、僕からすれば君と言う男は禁煙家の僕の前で何本もの煙草を吸い、また愛酒家の僕の前で女子高生が飲むような甘いジュースをおいしそうに飲む、そう、本当に失礼な奴だ。まぁそれは我慢して良いとしても、なんだい今日のこの態度は?君が来いと言ったから僕は来たものの君はまるっきり僕が居ないかのように振る舞っている。とても酷い男だと僕は思うね。どうだい、何か反論があるかい?」

 田中はそう言って席を立った。

 すると男は開いた本を閉じて田中を見た。男の手の隙間から閉じた本の表紙が田中に見えた。

 眉間に皺を寄せて田中が言う。

「聖書・・・?だって?」

 あまりの意外な本に目を丸くして田中は怒声交じりに言った。

「失礼な男が読む本とは思えないね」

 田中は自分が馬鹿にされているように思ってカウンターを力任せで叩いた。

 強く乾いた音がバーに響いた。

 グラスを布で吹いているバーテンダーが田中を見たが客の沈黙を待つように静かに目を伏せた。

 男は何か考えがあるのか足を組み直し、田中の怒声を無視して右手を軽く握って拳を作って軽く顎に当てた。

 その姿はロダンの彫刻「考える人」にそっくりだった。

 唐突に男が言った。

「目からうろこ」

「は?」

 田中は呆然として言った。あまりにも言う言葉が突拍子もないからだ。

「何が?」

 聞き返す。

「だから『目からうろこ』さ。田中さん、あなた知らないの?新約聖書使徒行伝第九章の一説、超有名だよ」

「知らないね?」

 ふんと田中は鼻を鳴らした。

「あっ、そう」

 首までかかる長い髪を揺らして二重瞼の黒い目で田中を見る。

 どこか日系二世を思わせるような顔つきできょとんとした表情をしていた。

 そして心の底からすまなさそうに言った。

「田中さん、意外と教養ないね」

 短く伸ばした髪の中から熱いものが沸き上がるのを感じながら、田中は言葉にならない怒りに狂いそうな自分を冷静にしようと務めた。

(知り合って二年になるが、この男の失礼さには今日はホトホト頭に来た)

 先程言葉にしていったがこの男はいつもどこか人を食ったような態度をしている。まるでドイルが書いた小説に出てくるホームズのようだ。

 そして彼の前では自分がいつも無知なワトソン扱い。

 小説はまだいい。ホームズにも無知なワトソンに対する愛情が感じられる。

 しかし、この男は・・

「帰るよ、実に不愉快だ。今日態々部長からの誘いを断って来たのに、ひどい目に遭った。悪いが僕の支払いは君がしてくれ」

 言うや否や革製のバッグを手に取り、田中は店を出ようと大きく一歩を踏み出した。

 その時、男が言った。

「経理の佐伯裕子」

 田中はそれで動きを止めた。そして眉をひそめて振り返った。

「君は人様の会社の事について起きたことまで何か知っているのか?」

 男の顔がにやついている。

「知っているも何も・・・彼女にとって僕は恩人ですからね」

 そう言って、男はジャケットの内側から小さな紙袋を出してカウンターに置いた。

「面白い話とはこのことです」

 そしてポンポンと紙袋を叩いた。

 田中は唇を閉じたまま、身体を向き直すと黙って席に着いた。

「そうそう、上司であるなら黙って話を聞かないとね」

 煙草を取り出すと火を点けた。

 田中はバーテンダーを目で呼ぶと「ビール」と言った。

 そして恨めしそうに佐古部を見て田中は言った。

「君・・いや佐古部君、良いだろう。佐伯裕子の事で何か知っていれば聞かせてくれよ。彼女、一週間前から会社に来てなくてね。僕も非常に困っているのさ」

 そう言う田中の顔に佐古部は煙をゆっくりと吐いた。



「話をするとこうです。僕の会社に御子神純一という男がいましてね。その男、なかなかの美男子なのですよ。そして美男子ならではの女の話と言うのがいつも付き纏っている。仕事もそこそこにできる奴でおまけにトライアストロンなんてスポーツもしているから身体がギリシャ彫刻の様に引き締まって申し分が無い。おかげで社内でも誰かと恋愛にあるとか不倫だとかの噂の類の消えない男です」

 佐古部はそこで煙草の煙を吐いた。

 煙の向こうに目を細めて話を聞き入る田中が見える。

「そう言う男は社内では結構男から嫉妬や妬みを受けるのですが、まぁ僕はどちらかと言うとどちらでもいい気にしないタイプでね。まぁほどほどに彼とは距離を置いて相手を観察して必要な話をするだけに留めていました」

 ぎゅっと煙草を灰皿に押し付け火を消す。そして青色と桃色の入ったグラスを口に含んだ。

「そうした或る日、彼と個人的に話をする機会が出来ましてね。新薬の開発費の事で打ち合わせをすることになりました。最初は真面目に話をして終わりましたが、その内何度か打ち合わせの機会があって彼と会うことが増え、いつしか夜にも何度か彼と食事をすることにもなりました」

「酒を飲めない君が夜の付き合いとはね」

 ほうという顔つきで田中が指を佐古部に指す。

「誰がお酒だと言いました?僕と彼は下戸なのですよ。だから僕達は美食倶楽部という名前を付けて無名のお店の名品を金曜日になると食べに行くように決めた」

「美食倶楽部ね」

 成程と頷く。

 確かにこの佐古部と言う男はどこか偏執的に物事を突き止めてゆく学者癖があるのを知っている。

 この前も或ることでこのバーに来ていた男と口論しているのを見た。

 フィボナッチ数列の事で話をしているようだった。

 その時遠くの席に座りその光景を見ていたが相手の男がお手上げの状態で席を立ったのを見た。

 後で佐古部に聞くとなんでもその男が気取ってフィボナッチ数列で全てを解き明かすことができると言うのを聞いて、じゃどうだという気持ちが湧き、議論を吹っ掛け相手を負かしてやったということだった。

 つまりこだわりが深すぎる男なのだ。

 おそらく美食にも相当のこだわりを持って接したに違いない。

「人の話し中に考え事をするのは失礼だと思いますがね」

 佐古部の不満気の顔つきが見えた。

 田中は咳払いをした。

「失礼」

 そう言うのと同時にカウンターにビールが置かれた。

 田中はそれを一口飲んだ。

「すまない、続けて」

 軽く首を横に振ると佐古部は話し始めた。

「その美食倶楽部で僕と彼は仲良くなり、その内、色んな話をすることになりました。そう、そして神戸の元町のある狭い通りの店で豚肉の料理を食べていた時、彼が僕に言ったのですよ」

「何と」

「この世で一番うまい食べ物は何だろうね?と」

 田中は目を細めた。

「それで君は何と答えたのだい?」

「僕?そうですね・・まぁ当たり障りのないことを言いましたよ。大概そういうことを言う時は、その人の自慢が出てきますからね。そう思う僕は少し馬鹿なふりして彼に分からないよ、降参だねみたいな感じで逆に彼に聞いたのです」

 新しい煙草を取り出して口に含んだが、それを再び口から離した。

「彼は僕に言ったのですよ。『佐古部君、この世で一番うまいものは野性では無く、良く飼育された鳥獣の肉だよ』とね」

「飼育された鳥獣の肉・・?」

 田中が反芻する。

 そう、と佐古部が頷いた。

「それも『人間が一番良い』とね」

「人間だって・・?」

 佐古部は首を振ると煙草を口に咥えて火を点けた。

「おい、穏やかな話じゃないな。その御子神と言う男。まさかその話と彼女が関係している・・」

 そう言おうとするところを佐古部が目で押さえた。

「人の話は最後まで聞いてくださいよ。それで彼とは店を出て人気のないバーに行きました。是非その話を聞きたいのでね。それに僕の学術的好奇心と言うものがすごく湧いたのですよ。この美しい美男子ともいう男から何ともいえないおどろおどろしい話しが出てくるなんて、心の中でゾクゾクしちゃいました」

 唾をのみこむ田中の喉の音を聞いて佐古部は満足そうに笑った。

 どこか意地悪で邪悪な微笑だった。

 確かにこの前のバーの男との口論の事と言い、この佐古部と言う男には何かに対しても容赦ないところが見えた。その物事に対する心根は悪魔的と言った方が良いかもしれなかった。

 だからこんな邪悪な微笑ができるのだ、そう田中は思った。

「二度目ですよ。人の話の途中に考え事をするのは」

 焦りながら田中が言う。

「失礼。続けてくれ」

 やれやれと言う風に佐古部は話し出した。

「バーの席に着くと彼は僕に数枚の写真をポケットから出しました。そして言ったのです。『君は僕と同じような何かを持っている気がするのだ。そうとても悪魔的な部分と言うかね・・。それに君は秘密を守ってくれそうだから僕の秘密を漏らしたい。見て欲しい、先程僕が言ったこの世で一番うまいものだけどね、それがこれさ』とね」

「それで君はその写真を見たのか?」

 田中は汗を額に浮かべながら言った。

「ええ、見ましたよ」

 素っ気なく佐古部が言う。

 顔を伏せて田中が言った。

「何と言う気の狂った男だ、君は・・・今僕は心から君を軽蔑したくなった」

 佐古部は壁に向かってゆっくり煙を吐いた。

「勘違いしているのは田中さん、あなたでしょう?あなたは勝手に僕の話で想像しているだけですよ。僕が見たものは今あなたが想像したものではありません。そう安心して下さい。人肉なんてものじゃないですよ」

「じゃ何だと言うのだ?」

 佐古部は口を開いて大きな煙の輪を作ると、その輪の中に指を入れて横に切った。

「写真は猿轡にされて縛られた人間の若い女でした」

「若い女だって!」

 大きな声で叫ぶ田中に「静かに」と厳しい声で佐古部が言う。

 動揺しているのか田中が眼鏡をはずして頬に手を当て何度も顔を素手で拭いた。 

「ハムの様に縛られていましたよ」

 バーテンダーが側に寄って来て田中におしぼりを渡した。

 それを夢中で手に取ると田中は顔を拭いた。汗を拭きながら心臓が踊るのが分かった。

 経理課の佐伯裕子が会社に出てこなくなり一週間が過ぎていた。

 過去にそうしたことが無かっただけに社員の誰もが驚いた。

 休んだ翌日、彼女の住まいの阿波座のマンションを訪ねた田中は郵便受けにたまった広告を見て戻った形跡が無いと分かると、無断欠勤した三日後には警察に届を出した。

 真面目で線の細い女性だった。肌が白く、笑みがとても美しかった。

 田中は顔を上げて佐古部に言った。

「警察に行こう、君の話を警察に言ってくれ」

 田中が哀願するように言う。

「へ、なんで」

 あまりにも非人間的な答えに田中は冷や汗が背中を伝うのが分かった。

「君は見たのだろう?ハムの様に縛られた人間の女・・つまり佐伯裕子の姿を。ならば彼女は今その御子神という変態の元で拘束されているのだ。それを見て君は何も思わないのか?」

 田中はカウンターを強く叩いた。

 手の痺れが脳に伝わるより先に佐古部の声が脳に届いた。

「誰が、そんなこと言いました。僕、そんなこと一言も話していませんけどね。田中さん、あなた想像力が豊かすぎますよ。経理なんかの仕事ではなく作家をされた方が世の中に貢献できると思いますがね」

 呆気に取られて田中が見ている。

「そう、その写真は確かに女でした。女が裸で縛られていたのですよ。まぁ彼に言わせれば飼育していることですが。なんでも近所に住んでいる人妻とからしく・・全く世の中は酷いものですね。旦那が居ると言うのに他の男に飼育されるのを喜んで昼間から遊んでいるのですからね」

 大きく首を振りながら佐古部は腕を組んですまなさそうに頷いて言った。

「じゃ、君が言おうとしている佐伯裕子と彼の関連性は?」

 あ、そうでしたと佐古部は軽く言った。

「その佐伯裕子ですがね、その彼の飼育リストに入っていたのですよ」

「ど、どう事だ?」

 戸惑ったように田中が言う。

「飼育リストだって?」

「そう」佐古部が冷静に言う。

「彼は結局のところ僕に言いたかったのは、美食とは人間の女と寝ること、まぁ性行為ですかね。性行為と食すると言う欲望は同じであると言うこと・・つまりは『美食』とは同行為であると言いたかったようです。そして飼育された女程、おいしいものは無いと言いたかったのです」

「それで、なんだい。そのリストって」

 退屈そうに佐古部は言った。

 そして一枚の紙を出した。何か手帳の一部をコピーしたものだった。

「この御子神と言う人物、非常に几帳面のようで関係した人物を全て顔写真つきでリストにしているのです。大学生の頃からこの趣向が始まったようで、それはその全てのリストです。このリストは僕にそっと呉れたのですよ。『一緒にやらないか』ということでね」

 悪魔の様に佐古部が笑った。

「ほら見て下さい、そこに名前があるでしょう。西暦はその人物と付き合った年らしいですが、ほら、つい一年ほど前の所に、田中さん、あなたの可愛い少し間の抜けた部下の名前が」

 田中はその紙を取るとその場所を見た。複数の女性の名前の下に彼女の名前が在った。

『佐伯裕子 電子機器会社 経理所属 二百万』

 写真が付いていた。間違いなかった。

 その横に自署があった。

“宣言 私はあなたに飼いならされることに喜びを感じる愚か者です”

(間違いない彼女の字だ・・・)

 会社の書類で見る彼女の細い字を見た。

 震える手で田中は聞いた。

「なんだ、これは・・・、それにこの金額は・・?」

「ああ、それですね。下の金額はそうした変態仲間内でまぁ彼らの言葉で言えば飼いならしたペットを身売りする時の売買の値段です」

「ペット・・?売買?」目を丸くして田中が言う。

「そう、そうした趣向の集まるサークルがあるらしいのですが、飽きたらそのペットを売りに出すそうですよ。そしてその時取引される値段と言うのが書かれていて、つまりそれは秘密サークル内の売買価格ということです。そして事実としてそのリストに飼育された鳥獣として彼女の名前があると言うことです」

 あまりにも非現実的な世界の事に田中は呆然自失した。

 普段は真面目で、誰にでも愛される性格の佐伯裕子という仮面の下にこうした闇の世界が潜んでいたとは知らなかった。

 しかし努めて冷静になりながら田中は現実を確かめる様に佐古部に言った。

「佐古部君、虚言じゃないだろうね。もしそれならばただでは済まないぞ」

 咥えていた煙草の灰がスーツに落ちた。佐古部はそれを手で払うと「そうですか」と言った。

「警察で証言しましょうか、今話した事。全て事実ですからね」

 田中は首を横に振った。

「いや、それはまずい。そんなことしたら・・」

「ええ、そうでしょうね。S製薬の常務さんの息子との結婚が破談になり、あなたの今日お誘いを断った部長さんが失脚する、でしょう?なんせお宅の手島部長がS製薬の常務さんの息子さんにと紹介した娘がまさかそんなふしだらなことをしでかしている人物だと分かれば、相手はどう思うでしょうね。佐伯裕子自体は京都山崎の中々の良いところの娘さんのようですが、結局、人間は分からないものですよ」

(何でそんなことまで知っているのだ)

 顔が青くなるのを押さえて佐古部を見た

 そこでにやりと嗤った。

「ふふ、田中さんの昇進も見送り、左遷ですかね」

 そう言ってどことなく知らない顔つきで煙草をふかしている。しかしその横顔はどこかにやついている。

(この男、悪魔だな)

 眼鏡に手をやりながら言った。

「いや、佐古部君。君の言うことを信じる。そしてこのことは僕の心の中にしまっておく」

「そう、それが良いですよ」

「しかし、だ」佐古部を見た。

「それで彼女は今どこに?」

 佐古部はそこで紙袋を叩いた。

「それでこれが出番なのですが、その御子神についてまだ話があるのですよ」

 にやりとして言った。

「聞いていただけますよね?」

 佐古部が満足そうに言った。



 窓から見える大阪の街が暗闇に包まれ始めた。目の前を堂島の川が流れ、ネオンが水面に揺らめいている。

 それはまるでゴッホの描いた星月夜の様に見えた。

「教えてくれ。それでその御子神と言う男、いまは何をしているのだ?」

 青い液体を口に含むと佐古部は、目を細めて面倒くさそうに言った。

「どこかに高跳びしましたよ」

「高跳び?」

 田中は驚いた口調で言った。

 おいおいと言う風に佐古部の顔に向かって目を寄せた。

「一体どういうことだい?高跳びなんて。それじゃ全く佐伯君の事が分からないじゃないか?それに高跳びって・・何か犯罪でもしでかしたのかね?」

 すごくまずそうな顔をして佐古部が田中を見る。

「まぁこうです。神戸で別れた翌週の金曜日、また彼から電話がありました。土曜日に僕のマンションで会わないかと。そして例の話の続きをしたいとね」

「で、行ったのだな?」

 佐古部が頷く。

「僕はもう既にその時には興味は無かったのですが、できれば彼の秘密の深部を覗いて断ろうと決めていましたから、彼に返事をして土曜日の午前十時ごろ彼の所に行きました。ドアを叩くと、彼は出てこず、マンションの中では何かを探すような音がドアの向こうから聞こえていました。それでもう一度呼び鈴を鳴らすと彼が出てきました。彼の顔は凄く困っていました。しかし僕の顔を見るや少し笑うと『いいところに来てくれた』と言ったのです」

 ぷかりと煙草の煙で輪を作ると、小さく息で拭いた。煙の輪が音も無く消えると、空になった煙草のケースを手でクシャリと音を立てて潰した。

「僕は彼に言ったのです。何か困っているようだね?と。彼は僕を急ぎ部屋に入れると僕に言ったのですよ。『昨日集金した下請け業者の三百万の小切手の入った革製の青いバッグを無くしてしまった』と」

「彼に聞くと非常に間抜けな内容でね。本来ならば集金した現金、小切手があれば必ず直帰などせず社に戻るのがルールなのですが下請け業者から出て社に戻るまで少し時間があるので日曜大工用品店に寄ってしまい、結果として社の帰社時間に間に合わなかったらしいのです。それもその店に寄ったのは、その夜に女と遊ぶためのロープを買うために寄ったと言うことらしいです。彼の様にそこそこ仕事ができる男でも欲望の愉楽の為にルールを外して、こんな失敗をするなんて。結局僕が来る明け方まで激しく楽しんだのですが、その最中に失くしたようです」

「何と言う間抜けな話だ・・」

 田中は口を開けて、首を振った。

「それで小切手が見つからず・・か」

「そうですね」

 佐古部がグラスを振りながら話を続ける。

「まぁ一応、彼に何か思い出してごらんよ、と言いました。彼の話だと『会社から帰ると既に女がドア前に留めてあるロードバイクの中のサドルバッグから鍵を出して部屋に入っていて、それからはマンションを出ることは無かった。そして翌朝、女が帰るので近くの駅に送りに行くのに一時間程マンションを離れた。それだけだ。誰も不審者なんか部屋に入っていなかったし、盗難にもあっていない』と僕に言ったのです」

「それだけか・・」

「そうですね。一応彼に女が小切手を持ち出していないか確認したのですが、女は一晩中裸で居て最後に服を着る姿をワインを飲みながら見ていたので全然そんな形跡は無かったそうです」

「何と言う破廉恥な生活なのだ、その御子神という男は」

 眼鏡を曇らせて田中が言う。

 怒っているようだと佐古部は感じた。

「僕はそれでじゃもう一度部屋を探してごらんよと言って部屋の外に出たのです。そして煙草を吹かしながらマンションの外を眺めていました。彼のマンションは5階で目の前は救急病院があります。あとは遠くに大きなタワーマンションが見えます。どこにもあるような都会の平凡な一つの街です」

 佐古部は目を閉じた。

 眉間に皺を寄せて田中がその顔を見ると、目がぱっと突然開いた。

「な、何だ。佐古部君」

「考えるべきだ、そう僕は思ったのです」

 天井を見ながら言葉を吐き出してゆく。

「そう、僕も会社の金が無くなるのは嫌ですからね。彼はドア向こうで音を立てて必死に小切手を探している。僕はロードバイクを見ました。そこにサドルバッグがありました。そこを開くと確かに鍵があります。横並びのマンションを見ましたが、静かで誰も出てきません。田中さん、普通の生活のリズムの中で中々こうしたシンプルな場所に隠されているものほど見つけにくいものです。返って手の込んだ箪笥の奥の財布とか絵の裏に隠したへそくりなんて言うものの方がはるかに見つかりやすいものでしょう。誰もがそんなところに置いていたら危ないだろうと思いう場所ほど安全なのです」

「そうかい?」

 田中が笑う。

「あまりに勝手すぎるだろう」

 ビールを飲み干して言った。

「あなたの例の健康に悪いDVD。モネの立派な絵の見事な額の裏に隠してあるのはどうかと思いますがね?」

 田中が紅潮して言った。

「君!どうしてそれを」

「あんな崇高な作品の裏に邪なるものを隠す。それが人間の本性でしょうね。まぁそんなことは今どうでもいいでしょう。どうしてそれを見つけたかは秘密です。知りたければこの話の後に言いますよ。それよりも話を続けます」

 佐古部が真面目に言った。

「まぁ彼がそこまで考えて部屋の鍵をここに隠しておいたかどうかはわかりませんが。とりあえず僕は結論として『誰かが忍び込んだ』と、結論づけたのです。そうすると考えはシンプルで、ではどうしてこの場所がわかって彼が不在の一時間と言うというジャストタイミングで忍び込めたかと」

 もじもじするように田中が背を丸めている。

 ふふとその姿を見て佐古部が笑う。

「で、どうなのさ。その結論にあう答えを見つけたのかい?」

「ええ」

 佐古部が言った。

 目を丸くして田中が言う。

「どう、やって?」

「簡単ですよ。つまりは知っていたのです。彼のバッグを結んだ人物はこの場所に鍵が隠してあると言うことをね」


 

 

 田中はビールを追加した。

 追加しながら思う。

 益々この佐古部と言う男が分からない。

 田中はそう思いながらバーテンダーが持ってきたビールを受け取った。

 二年ほど前に初めて佐古部とこのバーで会った。酒も飲めないのに週末になるとこの男はバーにやって来て一人で微睡んでいる。

 最初はこの奇妙な男と少し距離を置いていたがやがてある日この男から声をかけられてから距離が近くなった。

 その日、田中は猫の写真を見ていた。

 一人暮らしが長い。せめて猫でも買って一人のときの心の慰めにでもしようと思い、ペットショップに出ていた猫の写真を眺めていた。

「猫ですか?」

 声がして横を振り向くと佐古部が興味深そうに写真を覗き込んでいる。

 なんだ、という表情で田中が佐古部を見た。

 それに気づいて佐古部が軽く頭を下げた。

「いや、なかなか可愛らしい猫の写真を見ているものですから・・つい」

 咳払いをして田中が言う。

「猫に興味がおありですか?」

「いやいや」

 そう言いながら満更でもないような表情をして佐古部が答えた。表情が非常に柔らかい。

「猫ね・・ふうん、失礼。田中さんでしたね。いつも週末にはここに来られていますね。いつかお声をかけたいなと思ってはいたのです。私は佐古部と言います。いやー実に羨ましい猫をお飼になられるなんて。ほらその写真のイギリス産のスコティッシュフォールドの子猫、可愛くて堪りません。それいかがです?」

 あまりの猫への傾倒ぶりが見える態度に田中は意地悪心がふっと出て来た。

 にやりと心で笑いながら答えた。

「猫?全然興味ないですね。これはたまたま上司が僕に見せてくれた飼い猫写真です。猫何て僕はどうでもいい」

 そう言って佐古部の顔を見た。

 顔が何とも言えない程邪悪に満ちていた。

「何て人なのだ。猫の可愛さが分からないなんて。田中さん、あなたは人ではないですね」

 それから二人の交流が始まった。

(しかし)

 と田中はビールを口に運びながら思った。

 どこか偏執的な執着心があるのは付き合いだして分かり始めたが、この男にはまだ自分が知らない引き出しが沢山あるのだと知った。

(自分の会社の事情も何故かこの男は知っている)

 それだけでも十分驚きだったが、この男の偏執的ともいえる探求心の深さにも驚きだった。

 普通御子神のようなそんな性癖の男とは誰も付きあわないだろう。秘密の性癖を打ち明けられたとき、眉をしかめるのが普通の感覚だ。

 しかしこの男はそうしたことを一切気にせず、御子神と言う人物の性癖の深い部分を悪魔のような探求心で覗き込んだ。

 しかし結果としてそれが不明になっている佐伯裕子を探す手掛かりになっている。

(話の続きを聞こう)

 そう思って佐古部を見た時、唇が動いて何か言おうとするのが見えた。

 それを素早く押さえる様に田中が言う。

「三度目とは言わせない」

 すごく残念そうにする佐古部の表情が見えた。

 ちっと舌打ちする音が聞こえる。少し満足気に田中は鼻を鳴らした。

 そして言った。

「続けてくれ、話を」

「分かりましたよ」

 佐古部が答えた。

「それで僕は誰が彼のマンションの鍵があることを知り得ることができたか考えたのです。両隣はどうやら普通の子供のいる家族のようでした。生活のリズムもあり、とても悪意が感じられない」

「他の階の人間の可能性は考えないのかい?」

 ぷっと佐古部が笑う。

「田中さん、あなたマンション暮らしでしょう?現実に他の階の人間に興味とかあります?」

 田中は無言になった。

「でしょう?都会の生活で人は誰にも関心が無くなっている。そんな現代でマンションに住む他の階の人間に興味がある事なんてまずないでしょう?むしろ関わりを持ちたくない、それが本音ですよね」

(成程、佐古部の言うとおりだ)

 田中は頷いた。

「じゃ少し考えを飛躍して一日中望遠鏡で覗いている人物がいるだろうか。先程も言ったようにここは5階で他を見渡しても大きなマンションはタワーマンションだけです。そこのベランダから覗いている人物がいて彼の生活リズムを知っていれば犯行は可能です。でもそんなことは不可能です」

「どうして?」

「マンションの一階入り口はオートなのですよ。中から誰かが開けてくれるか、誰か出てくるときに合わせて入るかしかできない。そんなタイミングよく走って来て入る事なんてできませんよ。だっていつ彼が帰ってくるかなんてわかりませんから。タワーマンションからこのマンションに来るだけでも5分はかかりますよ」

 そこで佐古部はバッグから新しい煙草を取り出した。包装のフィルムをとき新しい煙草を口に咥えた。

 そしてぽつりと言った。

「ですが・・その距離が近ければ可能です」

 佐古部がライターで煙草に火を点ける。

 ライターの明りが一瞬、佐古部の相貌を照らしだした。

 目が光っているのが田中には見えた。

「そう思って、僕は煙草の煙をマンションの外へ吐き出したのです。その時です、偶然ですが病室の窓が開いたのです。窓の向こうに半身起きて自分を見ている男の姿を僕は見ました」

 煙をゆっくりと吐き出す。

「かなりはっきりと男の容貌が分かりました。建物同士の距離は道路を隔てているだけで20メートルそこそこあるぐらいですからね。髭を生やした頭が剥げている男でした。顔は青白かったですね。丁度その時、御子神がドアを開けて僕を呼んだのです。どうやらやはり見つからないと言いました。それですまないが今日は帰ってくれないかと。それで家に僕は帰りました」

「それが先週の土曜日か?」

 佐古部は頷く。

「そして休み明けの月曜日、御子神は会社に出て来ませんでした。火曜日も、水曜日も。それで僕が彼のマンションに行くと彼は出てこなくて、管理人に事情を言って部屋に行くと既に彼は荷物をまとめて消えていました」

 面倒くさそうに佐古部が言った。

 慌てて田中が言った。

「それじゃ、御子神が小切手を失くしたって言って君に偽装演技したのじゃ」

 佐古部が首を振った。

「換金は銀行指定です。調べたところまだ換金されてはいないようです。と言うことは本当に失くして恐ろしくなりその罪から逃れるために高跳びしたのでしょうね。また会社のルールを破ったことを聞かれれば彼自身大変なことになるのは目に見えて分かる。まぁ300万、小さな金額じゃありませんよ」

「それじゃ佐伯君の事はどうするのだ?御子神と言う男がいなけりゃ、手掛かりがないじゃないか」

「だからこれって言っているじゃないですか?」

 佐古部が紙袋を叩く。

 いらつくように田中が言う。

「君はさっきからこの紙袋の事を言うけど一体何だって言うのだい?」

 ゆっくりと紙袋を田中の前に出した。

「開けてみてくださいよ」

「何?」

「まぁいいから」

 仏頂面で田中が紙袋を開けた。

「・・・・・!」

 直ぐに紙袋の口を閉じる。

 驚く田中の顔を見ながら佐古部がにやにや笑っている。

「おい、これは・・!」

 佐古部は煙草を灰皿に押し付けて火を消した。

「そう、現金300万ですよ」

「ど・・、どういうことだい?つまり君は御子神が失くしたって言う小切手を見つけたっていうのか」

 佐古部が静かに首を縦に振った。

「どこで・・?なぁ・・どこで?」

 田中が佐古部のスーツの襟首をつかんで懇願するように言う。

「ちょっと、田中さん止めてくださいよ。その汚い手で僕のスーツに触れないで下さい」

「いやだめだ。早く教えろ!早く!」

 興奮して襟首をつかむ田中の手を放すと佐古部は少し息を切らせて言った。

「まぁ落ち着いて下さいよ。つまりこうです」

 佐古部は息を整えた。

「僕は彼が居るかどうか水曜日に確認に訪れたのですが、彼は今言った通り部屋に居なかった。それで僕はふとあの病室に居た男の事を思い出したのです。もしその男が入院していたら1日中ベットから窓から見える同じ風景を見ているわけですよ。となれば彼が鍵を隠している場所も生活のリズムも分かる。それだけじゃない。足が不自由じゃなければ彼と同じように部屋を出たタイミングを合わせれば丁度マンションの入り口ですれ違うことも可能だとね」

 乱れたスーツを正して席に座り直す。

「それで病院に行きました。五階に上がって病室を覗くと男はいません。それで不思議に思っていると年配の女性看護師が僕に声をかけてきたのです。『條辺さんのご親戚の方ですよね。これ亡くなられた條辺さんの遺品です。今丁度受付で忘れ物があるとご遺族の方を呼び出したのですけど直ぐ来てくれて助かりました』そう言って僕に青いバッグを渡したのです。そう、そのバッグこそ御子神の失くしたバッグでした。開けてみるとそこにはちゃんと小切手が入っていたのです。それで僕は遺族の真似をして丁寧に頭を下げて病室を出たのです」

 呆気に取られて田中は佐古部を見た。

「そうそれで僕はこの事情を整理して、佐伯裕子の失踪で相談を受けていた田中さんのところの手島部長の所に行きました。実は手島部長と僕は或る秘密倶楽部の会員でね、知り合いなのですよ。いえいえ、御子神のような変態倶楽部ではないですから心配せずに」

「手島部長にだって?」

「そうです」

「何の秘密クラブだっていうのだい?」

 目を丸くして田中は言う。

 佐古部は小さく息を吐いた。

「そうですね・・まぁいいでしょう。秘密と言うほどじゃないですからね。猫、猫ですよ。猫ちゃんの愛好家倶楽部ですよ」

「猫・・・」

 田中は力が抜けるように息を吐いた。

「そう、しかしただの猫じゃない。或る血統種を護るれっきとした倶楽部です。ちなみにその倶楽部では僕は上位会員で手島部長は下位会員ですがね」

 どうでもいいと言う顔をして田中は言葉を吐いた。

「つまりその倶楽部で知り合いと言うことか。そして君が上位会員、でうちの部長が下位会員と言うわけね」

「あとS製薬の例の常務さんもね」

 それを聞いて天を見上げて田中が阿保かと呟く。見上げる田中に佐古部が言う。

「人間、表の世界だけではなくちゃんと裏の世界もありますからね。そしてその席で僕は彼らからそうした話を聞いたのです。良く考えてくださいよ。結婚なんてそんな簡単にできると思いますか?何か強い繋がりが無ければいくら何でも難しい。さて、話を本題にもどします。手に入れた小切手・・まぁあとはこれを現金化するだけです。それはうちの方でしました」

 呆気にとられながら田中が呟く。

「猫ちゃん倶楽部繋がりね・・」

 それにはむっとして佐古部が言い放った。

「れっきとした倶楽部です」

 はいはい、分りましたそんな感じで田中はビールを口に含んだ。苦い味が口に広がった。

「良く分からない。何故、その病室の男が御子神の部屋に忍び込んだのだ。金目当てかな」

 佐古部も同じようにグラスの中の青い液体を口に含んだ。そしてそれをゆっくり置くと伏し目がちに田中に言った。

「警察に僕の知り合いがいるのですがね。門谷っていう刑事ですが。彼に條辺という人物について何か知らないか聞いたのですよ」

「警察にも猫ちゃん倶楽部の人間が居るのかい?」

 それには無視して佐古部は言った。

「條辺と言う男、覗きが趣味らしくその関係で警察にしょっ引かれたことがあるらしいのです。なんでも女性宅に小型ウェブカメラを仕掛けてそれを録画して楽しむそうですよ」

「じゃ、御子神宅へ忍び込んだのも?」

「でしょうね。週替わりで女が男の部屋にくる。それを病室の窓から覗いていたらあとは部屋の中で何が行われているか、覗きたくなるという欲望が沸き上がるのを押さえられなくなったのでしょう。ちなみに取り返した御子神のバッグの中にはウェブカメラの映像を映して録画する専用のスマホがありました。おそらくこれは亡くなった條辺のものでしょう」

 そう言ってジャケットの内側から佐古部がスマホを取り出した。

「中を見たのか?」

 それには佐古部は首を振った。

「あとで遺族の方にお返ししようと思います。この中には故人の大事なコレクションが入っているのですから。余人には変態の趣味でしょうが、この方にとってはピカソやルノワールと同じぐらいの価値ある芸術品でしょうからね。届けてやることで窃盗をしたことへのせめてもの罪滅ぼしになるかと」

 それには田中は何も言わず、小さく息を吐いた。

「変態同志の繋がりか、同じ穴のむじなのドミノ倒しだな」

「そうですね」

 佐古部が笑う。

 田中も同じように笑った。

「佐伯裕子について聞きたい」

 ええ、と佐古部は言った。

「今日彼女をここに呼んでいます」

「え?」

「もうすぐ、来ると思いますよ」

「彼女今までどこに居たのだい?何故会社に出てこなかったのだ」

 田中が眼鏡の縁に手をかけた。

「一体、どうして・・」

「それはですね。彼女、御子神に結婚するのでこのことを秘密にしてほしいと言ったらしいのです。そしたら御子神が『それは出来ない。何せ君の売る先はもう決まっているのだから。どうしてもと言うのなら二百万現金で用意するのだな』と言ったそうです。それでその現金を稼ぐため風俗の世界へ・・というよくあるストーリです」

「なんていう男だ。御子神ってやつは・・」

「どうやら御子神、そうした手で女を食い物にしていたところがあるようですね。まぁ重ねて変態でどうしようも無い酷い奴です」

「全くだ」

 田中はそう言って一気にビールを飲み干した。

「彼女をどこで見つけた?」

 少し首を佐古部がかしげる。

「まぁ手っ取り早く大金を稼ぐためには高級何とやらです・・ですから先程言った門谷って刑事に調べてもらったのですよ。その刑事その辺が仕事でも遊びでも専門ですからね。そしたら入手した或る倶楽部の名簿に彼女の名前があった。だからそこに刑事を行かせて連れ戻してきてもらったのですよ」

「連れ戻す?一体どこなのだ」

「フィリピンです」

「・・・・」

 田中は手を上げた。お手上げだった。想像を超えていた。

「海外へ居たのか」

「ええ・・田中さんまぁいろんなところでいろんなことが起きているのですよ。決して日本だけでは無いですから。この世界は闇が深い。それにそのフィリピンで稼ぐことも御子神が佐伯さんに吹き込んだらしいから、全くどこまでも食えぬ男です。それで今日その刑事が彼女を連れてここに来るのですよ」

 そうかと疲れたように田中が言った。

 どうもすれば気が狂いそうな程、壮大な話だった。しかし自分が知らない世界がこれほどあるとは思わなかった。

 普段人々は真面目に生きている。

 だがこの世界は表と裏が実は縦に横に交わって出来ていることをこのことで思い知ったように感じて、グラスを持ってうなだれた。

(驚きとはこのことだな。まるで諺の・・)

 ふと田中は顔を上げてカウンターに置かれたままの聖書を見た。

(そうか、成程な)

「それで君は僕に言ったわけか『目からうろこ』とね」

「どうです。本当に身に染みる良い言葉ですよね」

「そうだな」

 田中が同意する。

「御子神はどうなる?」

「彼は明日警察に横領罪と言うことで届を出しますよ」

「ここに現金があるのにかい?」

「ええ、手島部長が言うのはこの金は佐伯裕子の売り先人に渡せと言うことです」

「本気か?」

「ええ、そうした倶楽部ではとてつもなく恐ろしい人物が控えていることがあるのですよ。売り渡しの約束を反故にされて、そのことに根を持って暗闇から手を伸ばして光り輝く人生を歩く人を地獄に突き落とす輩がね」

「やはり恐ろしい世界だな」田中が眉間に皺を寄せる。

「ですから闇の世界には闇の正義たるルールに従うべきだというのが部長のお考えです」

「好きにするがいいさ、俺は何も知らない。それだけさ」

 佐古部は頷いた。

 するとバーのドアが開いた。そこに短い角刈りの男に付き添われて立つ女性が居た。二人は自分達を探しているようだった。

 田中にはその女性が佐伯裕子だと分かった。

「佐伯君・・」

 そう言って立ち上がろうとする田中の手を佐古部が抑えた。

「ちなみに田中さん、これ・・彼女の売り先人の名前です」

 一枚の紙を出されて田中はぎょっとした。

「これは・・」

「そう」

 佐古部がにやりと笑う。悪魔の様相で。

「彼女の婚約者ですよ。彼もまた御子神の所属する倶楽部の一員です。でも祝福しなくては。二人は結婚して結ばれるのですからね。ちなみにおつりで百万程残るのですが、田中さんいかがです?ほらこのリストの所に百万と書かれている女性が居る。どうです?一度勉強ということでこの変態倶楽部に入りませんか。そうすれば本当に『目からうろこ』がおちてこの世界の素晴らしい真実に触れることができるかもしれませんよ。まぁその保証はできませんけどね」


(終わり)

 


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