第14話 夜の庭

足元で踏みしだかれる芝と土のにおいがする。


提灯やランプ、ダンス会場から漏れる光のおかげで庭は真っ暗ではなかった。

 

侯爵はフィオナの手を引き、誰もいないベンチに一緒に座った。


「フィオナ嬢」


呼びかけられて彼女は侯爵の顔を見た。薄暗い中でも、美しい顔立ちがわかる。


「あなたは覚えていないのですか? 私を」


あなたを?


「……仮面舞踏会で初めてお目にかかりました…?」


「違います」


彼は言った。フィオナは目を見開いた。


「あなたに初めて会ったのは、ずっと昔のグレンフェルの田舎の庭ですよ。覚えていませんか?」


フィオナは目を見張った。

グレンフェル家の田舎の屋敷と庭……知っている。覚えている。思い出がよみがえってきた。

それは懐かしい思い出だったが、同時に婚約破棄と深く結びつき、婚約者の死以来、家中の誰も一言も口にしなくなった。


侯爵を遠くから見かけた時、遥かに遠い、自分とは関係のない人だと思っていた。

グレンフェル家と関係があったのは、もうずいぶん昔だ。

でも、彼は覚えていたの? 私のことを?



だが、今はそんな感傷に浸っていられなかった。フィオナは危機にあった。これ以上、この人と一緒にいるわけにはいかない。どんどん引き込まれてしまう。


どんなに好きでも、妻や婚約者のいる男と一緒に夜の庭に出てはいけない。

婚約者がいることは、噂で聞いて知っていた。でも、本人に認められると、なんだかショックだった。

この人はあきらめないといけない。これ以上好きになってはいけない。だから顔を見ないようにしていた。好きな顔だった。見れば引き込まれてしまう。


「……あなたの婚約者に申し訳ありませんわ」


フィオナはようやく言葉を振り絞った。


「ご一緒させていただくなんて」


侯爵は、フィオナの目を見つめた。


「私の婚約者は、これから決まるのですよ。フィオナ・ダーリントン伯爵令嬢」


フィオナはあっけにとられた。


そして、侯爵の顔をまじまじと見つめた。


「みなさんが、あなたには婚約者がいるとおっしゃってましたわ」


「そう言う噂が流れた時に、私が返事をしなかったので、そのまま、その噂が広がったのでしょう」


事実無根なのか? それとも、フィオナを騙そうとしているのか?


「普通は否定するのではありませんか? だって、事実でないなら、本当に婚約したい人が出てきた時、困りますわ」


「結婚したらどうかとか、この娘と会ってみないかとか……ひどく面倒だし、社交界なんて好きじゃない。子どもの頃が懐かしい。一緒に遊びましたよね。婚約者と……そして私と。もう忘れてしまったのですか?」


フィオナは必死で思い出そうとした。ずいぶん昔の話だ。

たまに、侯爵家へ行って、何回か一緒に遊んだだけだった。


「一緒に遊んで……とても楽しかった」


フィオナは彼が楽しそうな表情を浮かべていることに気が付いてびっくりした。この人はこんな顔もするんだ。


女の子はフィオナ一人だったので、侯爵家の兄弟は彼女には優しかった。

セシルは婚約者と言われて、照れくさそうにしていたし、弟の方は目を輝かせてフィオナを見ていた。(フィオナの兄は妹がちやほやされるのを見てつまらなさそうにしていた)


「とてもかわいらしい女の子が来て、優しくて、楽しかった。婚約者と言う意味は、将来、結婚できるのだと知りました」


当時、フィオナは何も考えていなかった。彼女が、侯爵家の兄弟よりだいぶ年下だったせいだろう。


「私は、その時、自分も婚約者が欲しくなった。その小さな女の子と婚約したかったのです。後で兄と喧嘩になりました。婚約者は、ひとり、一人ずつで、彼女は兄だけのものだそうです。私も婚約したつもりでした。誤解だと拳固で訂正されました」


侯爵はおかしそうに笑ったが、フィオナは呆気に取られた。婚約者のつもりだったって……


「この春以来、私はあなたをあちこちで見かけて……で、思い出してもらおうとしたのですが」


「なにを……なにを、思い出すのですか?」


「一緒に遊んだことですよ。婚約をもとに戻したいと思ったのです。グレンフェル家とダーリントン家のね」


婚約を元に戻したい?


「この婚約は家と家を結びつけたい祖父たちの意志だった。でも、祖父たちが死んでしまった今、もう、意味はないのです」


「でも!」


フィオナは言い返した。

それなら、自分たちが結び直せばいいだけだ。自分のことなんだから。


……と言いかけて、危うく口をつぐんだ。


まるで、婚約して欲しいと自分から言い出すようなものではないか。うっかり、自白するところだった。淑女として大失敗である。


フィオナは侯爵が自分を見つめていることに気が付いた。その目は執拗に彼女の顔をたどっている。フィオナは、赤くなった。


「婚約は、大人になり当主となった私にとっては、自分だけの問題です。私はあなたを選びたい」




フィオナはポカンとした。


今、この人、私に求婚した?


そんなバカな。この人が? フィオナは言葉の意味をかみしめた。求婚っぽい……ような気がしてきた。



一瞬にして、周りの空気も世界も、優しく柔らかく、愛おしいものに代わり、周りのすべてが目に見えなくなった。侯爵以外。



侯爵はフィオナを見つめている。フィオナは言葉を喋らなくてはならなかった。


「私の家は貧乏伯爵家で……侯爵家より身分は落ちます。そして……お金がありません」


フィオナは目を伏せた。この婚約は侯爵家にメリットはないのだ。


「そして、私は美人でもなければ、特に才能も有りません」


言いながら気が付いた。どうして不利なことばっかりしゃべっているんだろう。


「伯爵家は間違いがないが、それ以外は間違っている」


「か、家族は、グレンフェル家との結婚は、大喜びすると思います」


マルゴットも含めて、この破格の良縁に大喜びするだろう。


「家族の意向を聞いているんじゃない」


急にグレンフェル侯爵が真剣になった。


「あなたはどうなのですか?」


フィオナは真っ赤になった。


「家格だの、なんだのと言う問題は、どうでもいい。それより、あなたに聞いています」


「こ、侯爵のような、立派な方に選ばれて、うれしくない娘なんかいませんわ」


「一般論なんか聞いていません。あなたと私の問題です。もし、あなたが、私と結婚したいと言ってくれるなら……」


フィオナは侯爵を見た。


「私たちの意志だけが二人を結び付ける。私はあなたをダンスに誘い、話しかけ、家を訪問する。結婚を申し込む」


フィオナだけに聞こえる密かな声で彼は尋ねた。


「私を嫌いですか?」


フィオナは一生分の勇気を振り絞った。ここで正直に答えなかったら、自分は一生後悔する。結果がどうなろうとも。


「……いいえ」




彼はベンチから立ち上がって、フィオナの手を取った。


「さあ、行きましょう」


「え? ど、どこへ?」


侯爵はダンス会場を指さした。


建物のドアはあけ放たれ、光があふれていた。


「ダンスに行きましょう。みんなに見せる。私があなたに好意を抱いていると」





それは、まずいのではないかとフィオナはおびえた。


何しろ、侯爵家の若い当主である。しかも、イケメンで将来有望だ。


今まで侯爵は結婚する気がないのだと言われていた。婚約していると言うあいまいな噂もあった。ダンスパーティーなどには、来ないので有名だった。


こんな人物が結婚市場に投入されたら大変である。たちまち大騒ぎになる。


地味で貧乏な伯爵令嬢なんて、あっという間に押しのけられてしまうだろう。


もし、フィオナの家がどこぞの裕福な大商人だったら、そして莫大な持参金をもっての輿入れなら、世間は納得したろう。

あるいは侯爵家以上だったら、または家同士の繋がりがあったなら、納得されただろう。

そうでないなら、おそらく世間は納得しないだろう。


『だって、私は陰気臭くて地味で、全然美人じゃない。きっと、誰も納得しないわ』


それなのに、グレンフェル侯爵は、みんなに見せつけようと言った。彼が彼女を選んだことを……。 


「大丈夫」


侯爵はフィオナの顔をのぞき込み、子供の頃と違ってずっと大きくなった体で彼女を包み込むようにして答えた。


「私が守る。今度は世間に負けない。あなたを私が守り抜く」






ピアの最後の舞踏会の晩、グレンフェル侯爵は、ずっとフィオナから離れなかった。


ダンスを踊り、一緒に軽食を取り、話し笑った。フィオナにとっては、まるで夢のような一夜だった。


モンゴメリ卿がイラついて割って入っても、侯爵は穏やかに受け答えをしたが、結局フィオナをモンゴメリ卿に渡さなかった。

侯爵の方が、年は若くても、モンゴメリ卿より上位に立つのだ。

そのことに気付いて、フィオナは愕然とした。

侯爵は爵位もあったが、それ以上に貴族員議員で政治力があった。社交界の帝王のモンゴメリ卿とて、政界に影響力のある高位の貴族の侯爵には逆らいにくい。

たかが、若い娘一人、モンゴメリ卿はフィオナの旧知なのだから、貸してやってもよいはずなのだが、侯爵はあえてそれをしなかった。



いつかの仮面舞踏会の晩、フィオナが疑問に思ったことが、今解答として理解できた。

フィオナにはわかっていなかったが、侯爵に飲み物を命じられた召使たちは、彼が誰だか知っていたのだ。

だから、あれほど、急いで、侯爵に媚びへつらって、要求に従ってたのだ。


「なんか、怖い」


ダンスをする侯爵を大勢が驚きの目で見ていた。彼はそれまでダンスをしたことが、ほとんどなかったのだ。

いつでも忙しそうで、夜会などに参加するときも、言い訳程度に立ち寄るのみでダンスなどしたこともない。娘たちが近付く隙がなかった。



「なんなの。あの貧乏伯爵家の娘」


通りすがりに誰かが言う声が耳に入った。


「みっともない。全然似合わないわ」


誰かがせせら笑った。


「身の程知らず。もっと侯爵にふさわしい令嬢に、すぐに取って代わられるわ」

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