第三章 くっだらない喧嘩

     1

「バカミット!」

「死ね! 十回死ね!」

「ふざけんな、アホ!」

「出てけ!」


 わたしは矢継ぎ早に汚い罵りの言葉を叫んでは、床の上にあるものを手当たり次第に取っては投げ付けた。

 出てけもなにもここはミットの部屋なのだが、そんなこといまのわたしには関係ないのだ。


「悪かった、悪かったから機嫌直せよ。なんとかするから。大丈夫だから」


 懸命になだめようとしてくるミットであるが、なんだか子供を相手にしているかのようなその態度に、わたしはますます激昂した。


「もうそういう次元の問題じゃないんだよ! なんだいまさら、バカにしてんのか!」


 さらに投げ付けまくって、手の届くところに物がなくなると、床に腰を下ろしたままの姿勢でミットの身体に蹴りの連打。こっちの足が痛くなってくるくらいに、蹴って蹴って蹴りまくった。


 やがて立ち上がると、自分でもなにをいっているのか分からないことを大声で喚きながら、ミットの部屋を飛び出したのだった。


 わたしたちがなにをしているのか、いまさら語るまでもないだろう。

 そう、喧嘩だ。


 でもその理由については、語らねば分からないだろうから語っておこう。

 人にいうのが恥ずかしいくらいに、下らないことなのだけど。



 彼氏にライブチケットの入手を頼んでいたのだけど、手違いから入手しそこなった。



 と、ただそれだけの理由だ。

 それだけの理由ではあるけれど、それによってわたしは、静まり返る夜の杉並区住宅街を涙目になってぐすぐすと鼻をすすりながら、惨めな足取りで歩くことになったのである。


 向こうが子供のように見えて意外と大人なので、普段は喧嘩になること自体がほとんどない。でも、いざこうして喧嘩になると、わたしは毎度のこと、このように過剰なまでにヒートアップしてしまう。


 カルシウムが足りないとかホルモンバランスとかそういう問題ではなく、魂の領域のような気がする。

 こうなる時って生理が近いことも多く、それが喧嘩のゴーサインへと繋がっている可能性も否定は出来ないが、やはり根本は、わたしという生き物が、もうそういうものなのだろう。そういう魂が、雲間から足を滑らせて下界へと堕ちてきたのだろう。


 とにかく、そうなる度にわたしの胸は痛むことになる。

 以前の、嫌な記憶が思い出されて。


 まあ、その記憶があればこそ、わたしはそういう状態になってしまうのだけど。ここはぐるぐると廻ってしまうところで、鶏か卵か根本原因がなんなのかは自分でも分からない。


 その嫌な記憶とは、次のようなものである。

 わたしたちは高校三年の秋頃に、一度別れたことがあるのだ。


 といっても、喧嘩の際にわたしが勢いでそういってしまったというだけで、公式には別れていないことになってはいるのだが。

 結婚披露宴用に二人の交際史を作るとしたら、絶対に書かれることはないところだろう。


 とにかく、「もう別れよう」といって喧嘩をしていたその期間に、わたしは人間として最低なことをしてしまったのである。


 恥や軽蔑されることを忍んで語るが、腹いせにクラスの男子を何人か誘惑してしまったのだ。しかも、最後まで。


 どうせ別れたんだ、どこで誰となにをしようとあいつの知ったことか、と。


 その年の春に初を終えたわたしは、それまでミット一人しか男性を知らなかったものだから、好奇心もあって暴走してしまったのだと思う。


 いまさら打ち明けてどうなるものでもないから、これは墓場まで持って行くつもり。死んで地獄に落ちたならば、それは受け入れる。


 とにかくそれは、わたしの人生最大の過失であった。

 暴走状態から戻った後は、虚しさしか残らなかった。


 しかも学校でそんなことをしてしまったものだから、クラスの男子にこっそり動画を撮られていて、後日それをネタに関係を強要されたりもしたし。完全に自業自得だ。


 ミットとは仲直りすることになったものの、わたしはあまりの罪悪感から鬱状態になり、しばらく学校を休んだり、精神科に通院して薬を貰ったりなどした。


 黒歴史。思い出したくない、塗り潰したい記憶だ。その部分を記憶している脳細胞がここだと分かっているのなら、手術して焼き殺してしまいたい。


 ミットにとって良い彼女、将来的に良い奥さん、良い母親になることで償いをするしかないと考えている。


 と、常にそうした負い目を感じて生きているわけであるが、しかしひとたび喧嘩になると、すぐにわたしが爆発してしまう。

 喧嘩により、そのことを思い出してしまうからだ。


 たいていの喧嘩はわたしが悪いというのに、「喧嘩なんかふっかけてくるから、嫌なことを思い出しちゃったじゃないかよ!」と。

 ほんと、理不尽だよね。


 自分でも最低なのはよく分かっている。

 もう二十歳だというのに。


 でも、なんだろうな、二十歳ってさ。

 成人になり、大人と認めてもらうこと、その自覚を持って行動すること、と思っていたけのだけど、どうやら違うようだ。

 自分を見ていると、本当にそう思うよ。


     2

「お前、逆らうなんていい度胸じゃん」


 オジャことごうかず先輩は、指をぽきぽきと鳴らしながら、わざとらしい感じにニヤリと笑みを見せた。


「いえ、別に逆らったわけでは。オジャ先輩に逆らうだなんて滅相もない」


 ただ、どうしてそうすぐに喧嘩腰になるのかなー、と思っただけで。しかも、わたし全然これっぽっちも関係ないことなのにな。と、つい口に出してしまったというだけなわけで。


 まあ、彼氏に次元の低い喧嘩をふっかけて冷戦状態になっているわたしがいうのもなんだけど。


 ええと、いまなにが起きているのか説明しておこう。

 発端は、剛寺和子とみき、二人の三年生が、どつきあい寸前の一触即発の状態に達したことだ。


 その理由が実に下らない、というか情けない。アイドルグループしつぷうおおたにきようへい君がカッコイイだのブサイクだのと。


 わたしもいま彼氏と喧嘩して連絡も取っていない状態だけど、さすがにここまでバカバカしくないぞ。

 さすが東京まで出てくると、色々な人間がいるものだよな。

 ほっとしたような、同じ人類として情けないような、複雑な気分ではあったが。


 とにかくその火花を散らす様子を傍らで見ていたわたしが、無意識に、しかも聞こえるような声でリアルツイッターをしてしまったものだから、それをオジャ先輩に聞かれ、怒りのベクトルを完全にこちらに向けられてしまったのである。


「ほんっといつもいつも、いちいち逆らいやがってよ、お前は! ほしなんかより絶対に大谷君の方が素敵だろうが!」


 だから、わたしに標的を変えないでいいから、ミッキー先輩と戦えよ。というか、まだ問題点そこかよ。


「いや、だからそれあたしにいわれても。……疾風なんてどうでもいいし」

「お前いったな! それついにいってしまったな!」


 オジャ先輩が、激しい勢いで胸倉を掴んでねじり上げてきた。毎日なにかと難癖つけられては胸倉掴まれているから、さして動じることもなかったが。


「いやだから、特定の誰かを贔屓にすることはないといいたいだけで。だって、そもそも興味ないんですから」


 やばい、またいってしまった。

 考えてることつい喋ってしまうこの癖、ほんとやんなる。これで何度先輩の飛び蹴りや往復ビンタを受けることになったか。


「よおし、そうかそうか、そこまで先輩様を完全否定するってんなら上等だ。先輩様と、大谷君を。それじゃあ、やるか。この際いい機会だからさあ……普段あたしの陰口をいっている梨乃とズラとウマヨと内藤、面倒臭いからまとめてケリつけようや。男らしくフットサルで決着をつけようぜ」

「いや、あの、あたし、別に陰口などいってないのですが」


 むしろ堂々と、というかついつい無意識に本音を呟いてしまっているから、こうして毎日のようにいじめられているわけで。

 それと、男じゃないし。

 それと、別に大谷のことなんか否定してないし。やば、呼び捨てにしちゃった。また声に出してしまってないだろうな。


「あたしたちも、陰口なんて」


 いきなり名指しされたズラことしなざきすずとウマヨことのうは、当然ながら突然のことに慌てている。


 でもさあ、確かによく陰口いってるよね。

 特にウマヨ、いつか叩っ殺すとか。だからオジャ先輩の指摘は正しい。

 内藤は知らないけど、きっとわたしと一括りにされてるだけだろうな。


「ご め ん」


 もとえいがパクパクとそんな口の動きをしながら、両手を顔の前で合わせ、小さく頭を下げている。


「えーーっ!」


 ズラとウマヨの二人が、同時に驚きの声を上げた。

 はあ、なるほど。どうやら二人は、元木栄子の自己保身のために売られたようだ。


 栄子もきっと脅されたんだろうな。悪口いってんの誰だか白状しないと、お前もいじめるよ、などと。

 気の毒になあ、どちらも。


「いやいや、あたしだって気の毒だろ。関係ないのに。知るかよ、疾風なんて。くっだらない」

「あたしこそ、まったく関係ないのに……」


 完全に巻き添えをくった形の内藤が、ごっつい身体のくせしてなんだか今にも泣き出しそうな表情になっている。

 わたしと仲がよいというのが最大の理由だ。もう諦めて地獄の果てまで付き合え。


「はい、それじゃあこれから正規軍対反乱軍による、選手交代なしのデスマッチをおこないむあーす。では反乱軍の首謀者木村梨乃、そういうことなんだけど覚悟はいいな?」


 オジャこと剛寺和子はかっこつけて、わたしをぴっと指差した。


「え、ちょっと、なに、それ……」


 反乱軍って……

 しかもわたしが首謀者って……


「おっしゃあ、受けて立ーつ!」


 ミッキー先輩こと名場幹枝が、わたしの背後にぴたり密着、両肩に手を置きながら勇ましい声を張り上げた。


 おい、もともとあんたがオジャ先輩と喧嘩してたのが原因だろ。

 ばっかばかしい、あっっっほくさい、くっっっっだらないことで争っていたのが原因だろ。


 だけど、


「それじゃあ、やりましょうか。手加減抜きでお願いしますね」


 わたしは不敵な笑みを浮かべていた。

 彼氏との喧嘩でやり場のない苛立ちを抱えていたわたしは、先輩の理不尽な態度に段々と腹が立ってきていたのだ。と、同時に、ストレス解消出来そうでワクワクしてきていたのだ。


「ちょちょ、ちょっとなにいってんの梨乃おお! 取り消して、いまの言葉取り消してっ! 墨塗ってベタ塗りで消してえ! 断じて国民の総意じゃありませえん!」


 ウマヨこと瀬能真代が、慌てふためいたようにわたしの前に立ちふさがった。


「でもさ、全力で挑んできてくれなきゃ、叩き潰して嬉しくないでしょ?」

「だからっ、あたしがいってるのはそういうことじゃなくてっ! だからっ、違うのっ! あたしはっ! だからっ!」


 ウマヨはわたしの肩を掴んでがっくんがっくん揺らした。


「てめえ、ウマヨ、怖気づいてんじゃねえよ。梨乃はその意気だ! さあ、オジャのバカをやっつけるよ。あたしがしっかりゴール守っててやるから、ガンガンいきな。公開レイプだ。ボッコボコにしてぐうの音も出ないようにして、ガンガン突きまくったれ」


 幹枝先輩はキーパーグローブをつけ直しながら、なんだか楽しそうな顔でさらり凄いことをいっている。二十歳越えると、人はこうも恥じらいをなくすものなのか。


「ねえ、あたしたち真剣にやらないといけないの? それともわざと負けないといけないの?」


 ウマヨが、不安全開の泣き出しそうな表情を隠しもせず、わたしへ尋ねてきた。


「ねえどうなの? 真剣にやっても先輩たちに勝てるとは思わないけど。……負けたら負けたで、なんかさせられそうな気もするし、もしも勝ったら八つ当たりで殴らたりいじめられそうな気もするし……」


 ほんとウマヨはびびりだな、相変わらず。内藤とどっこいどっこいだよ。

 でも、勝っても負けても不安って、考えてみればもっともなことか。だってあの先輩たちだもの。


 そもそも陰口がばれてこのような事態になったわけで、つまり部活のしごきが多少なりともヒートアップするのはもう確実なわけで、ここでどういった立ち振る舞いをすれば今後のそれが少しでも小さくなるか、それがなにより重要ということなのだろう。


 でもそんなのどうなるのかなど分からないのだから、だったら取るべき行動は一つだろう。


「勝ちに行くに決まってんじゃん。先輩たちを、絶対に叩き潰す!」


 わたしは強く拳を握った。


「よくいった! さすがはバカリーノ! その名にふさわしくバカスカ点を決めて圧勝して、オジャ大泣きさせてやれ! あん畜生、星野君の顔なんかたいしたことないとか、そこらへん歩いてる子の方がよほどマシとか抜かしやがって」


 幹枝先輩も、まだ疾風にこだわっているのかよ。つうかバカリーノって誰だよ……


「梨乃先輩頑張れ~」


 などと明るい声を発しているのは、一年生のこしざきだ。

 案の定、先輩方にギロリと睨み付けられ、小さくなってしまった。


 などとやっているうち、なんだかんだ試合準備は進み、現在ピッチ上には試合をするわたしたちだけが残って、それぞれの思いを胸に開始の笛を待っている状態なのであった。いや、ウマヨたちはおどおどするばかりで、別に待ってはいないか。


 正規軍メンバーは、

 ごうかず

 かめどり

 ばん

 早乙女さおとめみどり、

ながぬま


 そして迎え撃つ我ら反乱軍は、

 わたしむら

 ないとうさち

 しなざきすず

 のう

 みき


 三年生対二年生、ただしゴレイロはそれぞれ一学年上、絵里香先輩は四年生で、幹枝先輩は三年生だ。


 笛を手にしているのは、主将のさわ。三年生の暴走をたしなめるどころか、ノリノリで審判役を買って出たのだ。


「いくぞーっ」


 その主将の吹く笛の音で、正規軍と反乱軍(オジャ先輩が勝手にいってるだけだけど)による激戦の火蓋が切って落とされたのだった。


     3

 笛の音と同時に正規軍のピヴォであるオジャこと剛寺和子が、踏み付けていたボールを前へちょこんと蹴った。


 わたしも笛と同時に、そこへ全力で突っ込んでいた。奪えるなどとは思っていないが、こうしてプレッシャーをかけて相手の判断を焦らせるのだ。


 でもオジャ先輩は冷静だった。くるりと後ろを向いたと思うと、その瞬間に再度くるりと向き直って、わたしのすぐ横を風を切って駆け抜けていた。


 しかしそれはリーグ戦でのいつもの手口、そばで常に試合を見ていたわたしが引っ掛かるはずがないだろう。

 わたしは自身に急ブレーキをかけると、後ろ向きのまま下がった。


 フィクソである早乙女みどり先輩からのパスがわたしの頭上を、放物線を描いて越えていこうとする。読み通りだ。

 わたしはなおも後ろ向きに下がり続け、ボールに追い付いた。背中で誰だかをどんと突き飛ばしながら(たぶんオジャ)、おでこでトラップ。

 足元に落ちる前に蹴り上げて、前線で張っている瀬能真代へとパスを出した。


 しかし瀬能真代、ウマヨは番場紗希先輩に激しい体当たりを受けて転び、奪われてしまった。

 完全なファールのはずだが、主将の手にする笛の音は聞けず。


「おいバン! いまのファールだろ!」


 我々のゴレイロ、名場幹枝が後方から抗議の怒鳴り声。


「うるせーバカ!」


 バン先輩は、幹枝先輩へと中指を立てながら味方にパスを出すという曲芸を見せた。


「下がれ!」


 わたしはそう指示を出すと、自らも下がりながらパスコースを塞ぎ、ボールを持つオジャ先輩との距離をじわじわと詰めていく。

 ボールを挟んで、わたしたちは向き合った。


 すぐさま、わたしはさっと足を伸ばしていた。ボールタッチの癖を予測して、一気に奪おうとしたのだ。

 しかしながら、オジャ先輩の方こそわたしの動きの癖を読んでいたか、わたしはあっさりと股を通されてしまっていた。


 斜め後方から、バン先輩がそのボールへ走り込んでいた。

 やば、と思ったその瞬間には、既に躊躇なく左足を振り抜いていた。


 ゴレイロ名場幹枝は、利き足と逆のシュートにタイミングをずらされ、ぴくりとも反応出来なかった。


 だが、運はこちらにある。

 シュートはポスト直撃で跳ね返った。

 と思った瞬間、奇声を上げながら詰め寄ったオジャ先輩にねじ込まれ、ゴールネットが揺れていた。


 失点……

 始まって間もないというのに、先制を許してしまった。しかもわたしのミスから。


 悔しさと申し訳なさにがくりと肩を落とすわたしの方へ、ゴールを決めた剛寺和子が、ずんずんと近付いてきた。

 ぐぐぐっと迷惑なくらい至近距離にまで顔を寄せると、


「ばあーーーーーーーか!」


 そういうと、ああすっとしたといった表情になって、持ち場へ戻っていった。


 あの、こっちは全然すっとしないんですが。

 などと思っていると、今度は我々側のゴレイロである名場幹枝が肩を怒らせて、やはりずんずんと足を踏み鳴らしながらこちらへと近寄ってきた。


「オジャなんかに股抜きされてんじゃねえよ! てめえの股間はガバガバかよ! この腐れ○んこが!」


 すっさまじく下品な台詞とともに、ぼがんと頭を思い切り殴られた。


「すみません」


 わたしは痛みをこらえながら、軽く頭を下げた。

 そっちだってあんな偉そうなこといってたんだから防げよ、とも思ったが黙っていた。

 この試合の間だけとはいえ、現在とりあえず味方についている唯一の三年生と喧嘩したくなかったから。


 しかしなんだって失点してどっちからも悪口をいわれなければならないんだよ。しかもわたしだけ。


 実に釈然としない気分ではあったが、そんなことを気にしている余裕などはない。現在リードされているわけで、ここから巻き返さないといけないのだから。


 わたしは、失点に絡んだといういことはさておいて、手をばしばし叩いて味方を鼓舞した。


「まだまだ、これからこれから! 相手年寄りだから、すぐバテるよ! オジャ先輩なんかタバコ吸ってるし」

「吸ってねーよ!」


 事実がどうかなどどうでもいいが、しかしとにもかくにもどうにも士気の上がらない我らが反乱軍。

 兵隊どもは、この戦に全力で当たらねばならないものなのか、決めかねているのだろう。

 まあ、下手をしたら翌日からの先輩たちのしごきがエスカレートするわけで、それを考えれば迷って当然か。


 とはいえ、わたしとしても甘いことはいっていられない。絶対に勝つんだから。

 仕方がない、ここは緊急手段を使うか。


 わたしは品崎涼羅に、すっと近寄った。

 そして、こそっと耳打ち。


「ズラ、手を抜いたりなんかしたら、オジャ先輩が机に置いといたアイドル雑誌の袋とじを、勝手に破ったことバラすからね」

「えーーーっ! それやったのほとんど梨乃じゃん!」


 突然の理不尽かつ不可解な脅しに、品崎涼羅はびっくり仰天といった表情をその顔に浮かべた。


 そう。どちらかといえば、わたしが率先してやったことだ。

 アイドルなんて別にどうでもいいけど、まだ破られてない袋とじを見ていたらなんだか無性に破りたくなったのだ。

 わたしが主犯ということで安心したのか、ズラも結構ノリノリで犯行に及んだわけだが。


「あたし別にそれで先輩にいじめられても構わないもん」


 まるで他人事、といった表情のわたし。

 実際、どうせこれ以上にしごきが酷くなることなどないだろうし。


 といった点を踏まえると、これは理不尽でも不可解でもなんでもない、実に合理的な外交カードなのだ。

 明日からのわたしとズラとの距離は、大きく開きそうな気もするが。


「なんだよそれ~」


 などと不満に満ち満ちた顔のズラに背を向け、今度は瀬能真代のところへ。


「ウマヨ、真面目にやらないと亀尾取先輩の名前のことを合コンで楽しげに話題にしていたのばらすよ」

「え、ちょっと、なんで知ってんのそれなんで知ってんの? ……分かったよ、もう!」


 ドーピング、完了。

 そして試合は再開されたわけだが、やはり手を抜いていやがったか、と思えるくらい見違えるほどに彼女たちの動きが変わった。


 まず、ボールを諦めず追うようになり(当たり前のことだが)、声も出すようになり(これもやって当たり前だが)、キープやパス回しもしっかりと出来るようになってきた。


 それでも地力に勝る先輩軍団、やはり強い。

 我がチームは、味方に対して多少の計算が出来るようになったというだけで、苦戦を強いられ続けているこの状況にはいささかの変化もなかった。


 相手がみんな上級生というだけじゃなく、ゴレイロが四年生の長沼先輩だからな。

 リーグ戦に出たり出なかったりでは迷惑がかかるから守護神の座を後輩の名場幹枝に譲っただけで、試合に出ればやっぱり凄い。ポジショニング、飛び出し、コーチング、すべてが的確だ。


 でも、こっちだって負けていられない。不利な点は気迫でカバーだ!


 わたしは猛然とダッシュすると、亀尾取奈美先輩に肩を当ててよろけさせ、ボールを奪い取った。

 接触プレーに厳しいフットサルでは本来ファールだが、しかし笛は吹かれなかった。


 さっきわたしたちも、もっと酷いことをされたけど流されたし、主将はファールの判断に関与するつもりはあまりないらしい。きっと面白くなればそれでいいのだろう。


 と分かっていたので、わたしはセルフジャッジで足を止めることなくドリブルで突き進んだ。早乙女みどり先輩が身体を寄せて妨害をしてきたが、フェイントでかわしざまシュートを打った。


 ゴレイロの絵里香先輩が、さすがの反応で腰を落としながら足に当てて弾いていた。


 バン先輩がクリアしようとするが、わたしがそうはさせじと素早く跳躍するように詰めた。二人に蹴られ揉まれたボールは、どうっと鈍い音を立てて転がった。


 こぼれ球を瀬能真代が拾うが、そこへ亀尾取奈美先輩がスライディングタックル。ウマヨは身体を真っ直ぐにしたまま、ボーリングのピンみたく吹っ飛んだ。


 なんか笑ってしまう光景だが、しかしサッカーならいざ知らずフットサルではあきらかな反則。

 しかしこれでも笛は鳴らず。

 鳴っていればPKだったのに。


「てめえ、この○○おんな、ファールだろ! ○○!」


 ブチ切れた名場幹枝先輩が、ついにその禁断の三文字を叫んでしまった。もうやだこの先輩、下品すぎるよ。


 そんなことより試合だ。

 とにかく、PKが得られなければ流れから決めればいい、それだけのことだ。


 とボールへ詰め寄ろうとしたわたしだが、横にならんだ番場紗希先輩に袖を掴まれ思い切り引っ張り倒されてしまった。


 でもそのプレー、想定済みだ。

 わたしはわざと大袈裟につんのめって、倒れ様に、不可抗力をよそおってバン先輩の足を引っ掛けて転ばせてやった。


「梨乃てめえ!」

「申し訳ありません、先輩のファールをかわしきれない未熟なわたしで!」


 などと正規軍ゴール前でごちゃごちゃとした攻防をしているうちに、誰も想像しないようなことが……


「おりゃああっ!」


 と、ここにいるはずのない我が反乱軍ゴレイロ名場幹枝の叫び声、それとともにゴールネットが揺れていた。

 いつの間にか自陣ゴールをガラ空きにして、ここまで駆け上がってきていたのだ。


「よっしゃあ、同点!」


 幹枝先輩は思い切り飛び上がって、喜び爆発。

 正規軍の先輩がたは、床を踏み付けて悔しがっている。相手がほとんど後輩である上に、なおかつ得点者がゴレイロだからな。


「あと七十二点取るよ! いくぜ子分ども!」


 幹枝先輩は、相手ゴールを指差すと、次いでその腕を天へと突き上げた。

 子分かよ、わたしたちは。


 しかしこの先輩、リードされていたとはいえまだ試合始まったばかりなのに、勝手な判断で我々も知らないうちに相手ゴールにまで攻め込んだりして、デタラメにもほどがあるだろう。


 でもまあ、とにかく追い付いたのは事実。

 オジャ先輩ども、ザマアミロだ。

 気持ちいい!


「ミッキー先輩、ナイスシュート!」


 と、幹枝先輩とハイタッチだ。

 喜んでいるのわたしたち二人くらいなものだけど。それどころかズラとウマヨと内藤は、


「先輩、すみません!」


 などと正規軍の面々に、深々と頭を下げている。


「いちいち謝んなよ!」


 わたしと幹枝先輩は、声を揃えて怒鳴っていた。

 そうだよ。いま戦争してるんだから。向こうから売ってきた戦争をさ。


 さて、試合再開だ。

 同点に追い付かれたあちらは、突き放すべく四年生ゴレイロの長沼絵里香先輩がどんどん攻め上がりを見せるようになった。


「パワープレーだよ。マークに気を付けて!」


 わたしはぐるりと周囲を見回しながら、叫んだ。

 絵里香先輩、ゴレイロだというのに一昨年の公式戦では部員の中で一番得点が多かったというくらいFPとしても高い技術を持っているから、要注意だ。

 わたしは一昨年はいなくてよくは知らないけど、その頃はまだうちも弱いし、リーグそのものがまだ洗練されてなくて弱小校が多かったことも大きいだろう。

 とはいえ、彼女が凄い先輩であることに違いはない。


 しかし同点なのにパワープレーとは。

 ただでさえパス回しなどの連係は先輩たちチームのほうが一日の長があるというのに、なんであえてそんなことを……


 でも、だからこそか。

 本気を出せばそうそうはボールを奪われることもないし、パワープレー自体がさほどリスクにはならないということか。仮に運悪く失点したって、すぐに取り返せばいいだけの話。と、そう考えているのかも知れない。


 実際に、その素早く正確なパス回しに個人技によるフェイント突破を織り交ぜた怒涛の攻めに、わたしたちはすっかり防戦一方になっていた。


 ズラたち三人は、勝ったら八つ当たりでいじめられそうだし負けたらそれはそれで地獄の罰ゲームが待ってそうな気がする、という不安の中、必死に食らい付いて守っている。


 どういうモチベーションであるのか分からないが、同点になってからその必死さが倍増した気がする。

 多分、このまま引き分けで終われれば、すべてがうやむやになって、もしかしたらなにもされないかも、などと思っているのだろう。


 その必死に粘る守備陣をゴール前から引きはがそうと、正規軍は頻繁にポジションを入れ替えてパス回し。陣形を大きく広げたりコンパクトにしたりして揺さ振りをかけるが、それでもわたしたちは崩れずに粘り続けた。


 格下相手になかなか点の取れない苛立ちからか、先輩たちのプレーがどんどん荒くなってきていた。


「死ね!」


 と突然、亀尾取奈美先輩はわたしの懐に入り込み胸倉を掴んで上手投げを仕掛けてきた。

 おい! それ荒い荒くないどころの話じゃなくて、競技が違うじゃんかよ。


 重心を低くしてぐっとこらえなかったら、投げ飛ばされていただろう。それでもファールを取られない主将の適当ジャッジにプラスして、向こうのパワープレーによる人数差で、こっちが失点していたに違いない。


 でも先輩たちのやってくることなど想定済みだ。

 と、そうした心の余裕がなせる技であっただろうか、上手投げに抵抗するがため勢い余ってと見せ掛けて、先輩の横っ面に頭突きを食らわせてやった。


 たた、とよろめきつつ後ろへ下がる奈美先輩から、ボールを奪い取っていた。

 わたしの頭突きを舐めんなよ。小学生の頃、スカートめくりをしてきた男子をこれで泣かしたことだってあるのだ。


「雷獣シュート!」


 ボールを持ったわたしは、なにが雷獣だか知らないけれどとにかくそう叫び、右足を振り抜いていた。


 自陣ゴール前からであったため、人の目にはクリアとしか見えなかったかも知れないが、ボールはぐんぐん伸びて虹の軌跡を描いて無人の相手ゴールへすぽーんと入ってしまった。


 うそ……

 決まっちゃったよ。


「逆転だ!」


 ザマミロ、オジャ!

 わたしは両腕を突き上げた。


 なんだか嘘みたいなシュートだが、現実は現実だ。

 逆転したぞ。

 ああ、すっきりした。


 睨みつけてくる先輩たちの視線が気持ちいい。

 わたしは彼女らに向けて、いまのシュートさも計算ずくといった顔を作ってやった。


「おおおおおおお!」


 オジャ先輩が、夜間の住宅街なら迷惑条令違反で逮捕されるんじゃないかというほどの大声を張り上げながら、こちらへと地響き立てて走ってきた。


「生意気なんだよお前!」


 わたしの頬にオジャ先輩の全力パンチが炸裂。

 不意を突かれてモロに決まった。


 先輩は、後ろに吹っ飛んでごろりと転がったわたしにのしかかり素早くうつぶせにすると、背中に飛び乗るように跨がり、足を掴んで思い切り引っ張り上げた。

 逆エビだ。


「死ねええ!」

「痛い痛い、先輩、ギブ、ギブアップ!」


 三十秒ほども背骨をぎちぎちとやられ、ようやくわたしは地獄の攻め苦から解放された。


「終わりでいいよ、もう! やってられっか、こんな試合! もうどうでもいい!」


 そういうとオジャ先輩は、だんと足を踏み鳴らした。


「通訳すっと、これで許してやる、と、そういうことだそうだ」


 などと楽しげにいっているのは、バン先輩こと番場紗希だ。

 バンとオジャ両先輩は、わたしに背を向け、ピッチの外へ歩き出した。


 ようやく、終わったか。

 苦しい戦いだった。

 我ながら、素晴らしいゴールだった。


 しかし、変だなオジャ先輩。

 あんなに激怒し、理不尽逆エビで発散しまくっといて、なんだかまだなにか堪えているかのように肩が震えている。


 オジャ先輩の右を歩くバン先輩は、肩越しにまたわたしの方を向いた。


「冗談に付き合ってくれて、ほんとノリがいいねえ君。だ、そうだ」

「え?」


 え?

 え?


 いつのまにやらオジャ先輩の左側には名場幹枝先輩、二人は実に仲良さそうに肩をならべて歩いている。

 わたしの方を楽しげにちらりちらりと振り返り見ていたかと思うと、いきなり声を上げて爆笑しはじめた。


「えーーーーーっ!」


 そりゃないだろ!

 疾風のことで大喧嘩してたくせに!

 それで、わたしのこと巻き込んだくせに!


 勝手に反乱軍の首謀者扱いして喧嘩ふっかけてきておいて、なんだよそれ!


 歯が折れそうなくらい本気で殴ったり、背骨折れそうなくらい容赦のない逆エビかけたりしといて、なんだよそれ!

 「もうどうでもいい!」って、それこっちの台詞だよ。


 はあ……

 かつてない脱力感。


     4

 ここは東京都中野区

 池袋に非常に近く、安アパートが多いため、貧乏学生に好まれる地域だ。


 いまは夜。

 わたしは、君の住むアパートの前に立っている。


 志田君とは、わたしの彼氏である高木ミットの、大学での友達で、わたしとも顔馴染みの仲である。


 ここにミットと二人で来たことは何度かあるが、今日はわたし一人だけだ。

 事前に連絡したわけではなく、ふとした思い付きで、ふらりとやってきた。そもそも電話番号など連絡先をなにも知らなかったし。


 男一人暮らしの部屋に女一人で行くのもな、と躊躇しないでもなかったが、でもまあ、いつも彼女と一緒に行動しているらしいから別に構わないだろう。

 と、ここまで来たはいいが、ここから先に進むのは、さすがにちょっと勇気が必要で、こうして呆然と突っ立っている次第であった。


 でも、そこへ助け舟。というか本人たちが現れた。


「ね、あれちゃんじゃない?」


 不意に横から、そんな女性の声が聞こえてきて、そちらを向くと、志田君と、彼女であるたちばなことちゃんが、仲良さそうに手など繋いで向こうから歩いてくるところだった。

 どうやら外出をしていたようだ。


「ああ、ほんとだ。梨乃ちゃん、どうした?」

「あ、いや、ちょっと……」


 話があってわざわざこんなところまで来たというのに、どうにも切り出しにくく、口ごもってしまっていた。


「ミットのことだろ」


 その通り。

 察しがよくて助かった。

 わたしは頷いた。


「全然連絡もとってないの?」


 その言葉に、またわたしは頷いた。


「ナオ君、立ち話もなんだから、部屋に上がって貰ったら?」


 立花琴美が、彼氏の腕の裾をくいくいと可愛らしい仕草で引っ張った。


「あ、すぐすむからここで大丈夫。どうもありがとう。……ちょっと志田君に、ミットの様子を聞ければいいだけだから」

「喧嘩してしまったってことは聞いているけど、それってもしかしてライブチケットの件で?」

「うん」


 わたしは、低レベルな喧嘩の一端を覗き見られてしまっているということに、ちょっと恥ずかしそうな顔で小さく頷いた。

 といっても、もうそれそのものはどうでもいいことなのだけど。


 いまは別に、チケットのことで怒っているわけではない。いまはというか、そもそもがミットのなだめかたが気に食わずに、爆発してしまったというだけだから。

 まあある意味、チケットのことだけで怒っているよりたちが悪い気もするけど。


「やっぱりそうか。おれ、あいつと梨乃ちゃんが喧嘩したということを知っているだけで、原因なんか聞かされてなかったから、だからそれのなにが喧嘩に繋がったのかは分からないけど、とにかくちゃんと買えたらしいよ。というより、問題なく買えていたんだって」

「え……」


 買えて、いた?


「後からお詫びの連絡があって、先日届いたって。粗品と一緒に」

「そうなんだ」


 でも、わたし、知らなかったから、そんなこと。だから……


「最初、チケット会社に何度も問い合わせたけど、当方に間違いはないですからと取り合ってくれなかったんだって。仕方なく、友達に聞くなりネット使うなりしててさ、別のルートから入手しようとしていたところ、その詫びの連絡がきたって。なにがあったかのかは知らないけど、とりあえずそうやってあいつなりには頑張ってたんだから、許してやってよ」


 わたしは言葉を返すことが出来ず、ただ突っ立っていた。

 だって、なんていったらいいのか。


 許すもなにも、最初からミット全然悪くなかった。

 わたしが理不尽なことで怒っていただけだった。


 ミットの言葉を信じず、見苦しい弁明をしていると思い込んで、物を投げ付けたり蹴っ飛ばしたりして。


 でもミットは怒り返すことなく、一言の不平不満もいわず、陰ではわたしのために動いてくれていて……


 なんでもうちょっと、ひとの話を聞いてやろうとしなかったのだろう。

 本当に最低だよな。

 わたしは。


     5

 半年程度では当然かも知れないが、佐原駅周辺は記憶と比べていささかの変化もないようだった。


 そもそもここ十年の変化を思い出してみても、駅員が切符にハサミを入れる改札から電子乗車券による自動改札になったというくらしか考えつくものがない。

 それくらい、ここはゆったりと時間が流れる街なのだ。


 昭和時代を思わせる円柱形の赤い郵便ポストも相変わらず。


 ここは千葉県とり市。

 利根川を挟んで、茨城県と接している市だ。


 この辺りは、元々はわら市という市名であったのだが、何年か前に香取市に吸収合併され現在にいたる。


 どうせなら香取よりも佐原の名前を残せば良かったのに、とわたしはいまでも思っている。

 だってここ佐原はまがりなりにも観光地、江戸情緒を残す町並みなどで、そこそこには有名なところなのだから。


 一時間に一本か二本しかないくせに車内ガラガラの、そんな電車に揺られて佐原駅に到着したわたしは、久し振りに見る佐原駅のお城のような駅舎や、周辺の眺め、少なくとも東京よりは格段にきれいな空気などを存分に堪能すると、着替えなど詰め込んだ大きなバッグを肩に背負い、歩きはじめた。


 南口をすぐ左に折れ、古くさい町並みの細い道を歩いていく。

 ここは祭の時にはおおいに賑わうのであるが、それは来月であり、いまは観光客数はそれほど多くはない。

 ちらほらと、お年寄りや外国人がいる程度だ。


 江戸情緒も終わりに近い街の外れに、一軒の和菓子屋がある。看板には「九頭和菓子」と落語っぽい毛筆体で書かれている。


「こんにちはあ」


 お店の前で足を止めると、ガラス戸を少し開いて中を覗き込んだ。

 そこにはパート従業員と思われる初老の女性店員と、棚を整理している少し頭髪の淋しい中年男性の姿。


「おー、ちゃん、久しぶり。こんにちは」


 中腰になって作業をしていた中年男性が、なんだか機械のような動きで腰をすっと伸ばしくるりとこちらを向いた。

 佐原南フットサル部時代の後輩であるづきの、お父さんだ。


 彼は自分の頭を指差して、さらになにか口を開きかけたが、しかしその瞬間、


「明日、帰りに寄ってなんか買ってくから。じゃあね」


 わたしは口早にそういうと、さっとガラス戸を閉めてしまった。


 失礼かとも思ったけど、でもこのおじさん面白すぎて、話し始めるとつい時間を忘れてしまうんだもの。

 いまだってどうせ、淋しい頭髪を利用した自虐ネタで笑わせようとしていたのだろう。


 お店を冷やかした後、さらにさらに歩き続けると、小江戸も終わって、気付けば単なる田舎道。

 狭い割に車通りの多い坂道を、うねうねと上っていく。


 登頂にまで行けば、そこにはわたしの母校である佐原南高校があるのだが、今回、目的地はそこではない。


 坂の途中、中腹で折れて、車がようやく一台通れるような細い細い道に入った。

 少し進むと小さな住宅街があるのだけど、そこが目的地だ。

 要するに実家に帰ってきたのだ。

 実に半年ぶりに。


 なお、その近所にはたか家もある。そう、わたしと高木ミットとは、幼い頃からの知った仲なのだ。


 高二の冬に付き合い始めるまでは、おおよその場所を知っているというだけで、お互いの家の前を通ったことすらなかったけど。


 住宅街に入るとすぐに「木村豆腐店」と看板のある店が姿を見せた。

 吹けば飛ぶようなボロ屋。ここがわたしの生まれ育った実家だ。


「ただいまあ」


 暮らしていた時となんら変わらぬさも当然といった態度で、お店の正面から中に入った。


 外の夏の湿気がむしろさわやかに感じられるくらいに、むあっとした水蒸気のような濡れた空気が全身にまとわり付いてきた。

 奥で豆腐を作っているため、大豆くさい蒸気がカマからカタカタ吹き出して、こっちまで漂ってきているのだ。


「お帰りなさい、梨乃ちゃん」


 渋い顔で電卓と伝票とをにらめっこしていたきぬさんが、不意に顔を上げるとにっこり微笑んだ。

 彼女はわたしのお母さん。実母ではなく、お父さんの再婚相手だ。

 本当のお母さんは、わたしが小学生の頃に死んでいる。


「ああっ、どうも、お帰りなさい、梨乃さん」


 もう十年近くここで働いている従業員のヒデさんが、奥から顔を覗かせて、相変わらずのたどたどしい口調で頭を下げた。


「ただいま、ヒデさん。なんか手伝おうか」

「そんな、来たばっかりで。店は大丈夫ですから、奥でゆっくりしてて。でもそこ突っ切ると、またオヤジさんにどやされますよ」

「いいよ。久々にどやされたい」


 と忠告も聞かずにというかむしろ聞いたからこそ店の真ん中を通って、奥の住居部分へと向かった。


「バカお前、店ん中を通って上がるなっていってんだろが!」


 ヒデさんを突き飛ばすようにして、その後ろからお父さんが姿を見せた。


「いいじゃん、こっちの方が近い」

「そういう問題じゃねえっつーの」


 以前、毎日のようにしていたこのやりとり。ほんと、帰ってきたんだという気がする。


 ヒデさんはああいったけれど、わたしは仏壇に線香をあげて居間で少しだけ落ち着くと、すぐにお店に出た。みんなの中に加わりたくて、なかば奪い取るようにして仕事を手伝い始めた。

 邪魔でしかなかったかも知れないけど。


 絹江さんがここへきたばかりの頃には、伝票の書き方やレジ打ち、接客についてなど、わたしも色々と教えてあげられるところがあったけれど、いまは逆に、あれこれと指示される立場になっていたから。


 やり方の細々した部分を忘れてしまったということと、実家を出てこれまでの間にやり方そのものが色々と変化していたためだ。


 絹江さん、すっかり豆腐屋の女将さんが板についてきているようだ。気が回ってテキパキと雑用をこなすし、接客もしっかりしているし、見ていて安心だ。


 豆腐屋に嫁に来る運命だったのかも知れないな。名前が名前だし。まあ、絹江さんも再婚だけど、それもふまえて運命か。


「ね、これどうするの?」


 絹江さんが、帳簿をペンで指しながらお父さんになにやら尋ねている。


「ああ、そいつはね……って、いいよいいよ、そこ難しいから、おれが後でやっとく。ちょっと奥で休んでなよ」


 出たあ、お父さんの激甘っぷり。相変わらず絹江さんにはデレデレなんだな。見ているこっちが恥ずかしくなるくらいに。


「それじゃぼくはこれで」


 奥で帰り支度をしていたヒデさんが、こっちに姿を見せたかと思うと妙にそそくさとした足取りで出ていってしまった。


「お疲れ様~」


 わたしはその背中に声を投げた。

 この豆腐屋で、通いで働いているのはヒデさんのみだが、なんでも毎週金曜日は、いつもよりも一時間早く上がれるようになったらしい。絹江さんが来たことで、余裕が出来たためだ。


 客層開拓が進んで、むしろ忙しくなった部分も色々とあるらしいけど。


 忙しくなったといえば、香取市内の給食センターと商談中なんだって。上手く採用されてなおかつそれが軌道に乗れば、さらに従業員を雇うことになるかも知れないとのことだ。


 そうなったら、こんな昔ながらの小さな設備ではやっていけないのではないだろうか。となると次に必要なのは、ここの拡張かな。移店などもあるのだろうか。


 わたしが幼いころからずっと変わらなかった豆腐屋だけど、終らない不景気への危機感からか分からないが、なんだか少しずつ歯車が動き始めたようだ。

 これがよい方へと回っていくといいけど。


 ヒデさんの話に戻るけど、なんでもいつの間にどこで知り合ったのか、彼女が出来ていて、しかも婚約中とのことだ。

 今日は仕事が一時間早いことだし、これからデートだろうか。そわそわと落ち着きがなかったし、さっきだってそそくさと出て行ってしまったし、おそらくそうなのだろう。


 振り返ってみるとわたしの周囲って、いい感じに付き合い始めたり結婚したりしているカップルばかりだし、だからきっとヒデさんも上手くいくのだろう。根拠はないけど、そうに決まっている。


 でも、わたし自身はどうなのだろうな。

 彼氏とよい付き合いが出来ている、といえるのだろうか。少なくとも、胸を張ってはいえないよな。

 今回だって、あんな下らないことから喧嘩になってしまったしな。


 中高生の頃は、大人になりたいって事あるごとに思っていたけど、結局、二十歳になってもなにも変わらなかったな。


     6

「お風呂あいたよ。でも、あたし別に最後でよかったのに」


 わたしは寝巻姿に頭にはタオルなどを巻いて、すっかりくつろいだ格好で、和室の居間へ入った。

 絹江さんは義理とはいえわたしの母親なのだし、こんなだらしない格好でも、さして問題はないだろう。


 わたしが進学で東京に出るのと入れ違いでの結婚だったから、一緒に暮らしたことはないけど、でも別に彼女に自分をさらけ出すことについてあまり照れなどはない。

 だってまだ結婚前の、たまに遊びにきていた程度の絹江さんにだって、わたしはもっともっとだらしない姿を平気でさらしていたのだから。なにをいまさら、だ。


 ただわたしがガサツで無神経、というだけかも知れないけどね。

 お父さんのいるとこで平気で着替えたり、お父さんが先にお風呂に入ってるいることに気付いても平気で入ってしまっていたからな、この家を出るまでずっと。


「いいのいいの、お客さんを歓迎しているだけなんだから、そんな遠慮なんかしないで」


 絹江さんは和室の居間のテーブルで、またなにやら帳簿付けをしている。


「お客っていわれると、なんか淋しいなあ」

「ああ、ごめん、そういう意味じゃないから」


 でも、確かにその通りなんだよな。

 ここは自分の生まれ育った家ではあるけれど、もうここの住民ではないのだから。ある意味で客といえば客だ。


 風呂上がりの肌に、エアコンからのそよそよとした冷気が気持ちいい。

 この風を浴びると、実家という感覚が少し薄らいで、なおさら客という意識を強くさせる。

 わたしが暮らしていた時はずっと、夏は扇風機だったから。


 絹江さんは、これまでなくても生活出来ていたものを自分が嫁いできた後に買うことに抵抗感を持っていたのだが、お父さんが強引に買ってしまったらしい。ベタ惚れだからな、とにかく彼女を大切にしたいのだろう。


 エアコン以外に変わったものといえば、ビデオとテレビか。

 何年か前までは、VHSのビデオデッキと、製造二十年くらいの小さなオンボロテレビだったのだが、それがハードディスク内蔵の録画機や、横長で薄っぺらな、液晶テレビになった。

 ついにアナログ放送も終了してしまったから、壊れていなくとも買い直さざるを得なかったのだろうけど。


 わたしが暮らしていた頃との違いは、せいぜいこのくらいだろうか。

 あとはなにもかも以前のままだ。


 備え付けの電話も黒電話だし。

 ジリリリン! と金属音のベルだから、夜遅くの静かな時に鳴るとびっくりするんだよな。

 現在どころかわたしが小さな頃にだって、こんな旧式の電話のある家なんか他になかったから、小学生の頃、よく遊びに来た友達に珍しがられたよ。


 他は特に、変化はないか。

 当たり前だけどカレンダーが変わっているくらいで。


 居間の変化について一通り観察し終えたわたしは、ばったりと後ろに倒れて大の字になった。


 天井の染みを見ながら、


「あたしさあ、癒されに帰ってきたんだよね」


 そんな、かっこつけた台詞を呟いてみた。


「なに、傷ついちゃったの?」

「うーん。傷、付けた方かも知れない」

「なにがあったの?」

「知りたい?」

「そうでもない」

「そりゃないでしょ、ここまでいわせといて」

「勝手に梨乃ちゃんがいってんでしょ。で、なに?」

「あのね……」


 どうでもいい前置きもほどほどにして、絹江さんに悩みを打ち明けた。彼氏とつまらない理由で喧嘩してしまっていることを、すべて、素直に。


 別にここで問題を解決しようとは思っていないけど、でも絹江さんに話すことでいつも気分が楽になるから。


 それが今回の帰省の、一番の理由だ。

 なにか理由付けでもしないと面倒臭がっていつまでも実家に戻らないから、というのもあるけれど。


 うんうんいいながら聞いていた絹江さんであったが、わたしが口を閉ざしたタイミングで入り込んできた。


「あのさ、ミット君は最初から全然怒ってなかったんでしょ? 梨乃ちゃんのためにチケット探してくれてたんでしょ? じゃあもうなにをすべきかどころか、なにを考えるべきかにおいてもなんにも悩むことないじゃない」


 いつもながら、スパッスパッといい切ってくれるよな。


「いや、まあ、それはそうなんだけど」


 だけどもそんな、ぐじぐじとした態度を取り続けるわたし。

 ま、確かに絹江さんのいう通り、悩むことなんかなにもないんだよな。本当はさ。

 ちょっと、スッキリした。


「そんな大当たりの彼氏なんだから、じゃあとりあえず、ごめんと謝っておけばいいじゃない。それで全部元通りだよ。それが恥ずかしいなら、謝らなくても普段通りに接しておけばいいんじゃない? いきなり気軽に挨拶したりして」

「あたし、謝りたいなどとは一言もいってないのだけど」


 起きた事実をありのまま伝えただけで。なのにどうしてそういう方向に勝手に持っていくかな。


 でもまあ、そうなんだろうな。

 わたしより絹江さんの方が、よほどわたしの状況や気持ちを理解していると思う。わたし、自分の心にすら嘘をつくから、自分がどう考えているのか分からなくなること多いし。


 しかし、そうさらりと簡単にいわれてしまうと、なんだか本当にたいしたことない問題な気がしてきたな。


 オジャ先輩たちに理不尽なフットサルバトルを挑まれたあたりから、なんだかことごとくについて、深く悩むのがバカバカしい気がしてはいたのだけど。


「でもとりあえずは、癒されたかな。絹江さん、ありがとう」

「実家に帰ってきて、正解だった?」

「うん。お線香もあげられたし。よし、それじゃあお礼に肩揉んであげるよ」


 わたしはそういうと、絹江さんの背後に回り込み、肩を揉み始めた。


「おう、きくねえ。相変わらず握力あるね、梨乃ちゃん」


 女子にそれいう?


「それ全然褒め言葉じゃないと思うんですが。……やっぱり、凝ってるなあ」

「やっぱり?」

「重いもの担いだり重労働だしさ、それに帳簿付けなんかは一種のデスクワークだし筋肉ガチガチになるでしょ。下向くこと多いし」


 絹江さんは、まだお父さんと交際していた頃も、よく仕事の手伝いに来てくれたことがあり、その時にも半ば冗談で肩を揉んだことがある。でも、ここまで硬くなんかなかった。


 本当に、大変なんだな。

 わたしは暇な時に手伝っていた程度だから、どれだけのものであるかなど、よくは分からないんだろうけど。


 しかし、いまさらだけどわたしたちって仲がいいよな。こういう関係を、友達みたいな親子とかなんとかいうのだろうか。

 前のお母さんを忘れるわけではないけれど、でも、いいお母さんが出来て、よかった。

 本当に、そう思う。


     7

 右手には住宅街の町並みが、左手には陽光を反射してきらきら輝く利根川の水面。

 そんな視界が、微小な上下動とともにどんどん後ろへと流れていく。

 川沿いの遊歩道を、一人でジョギングしているのだ。


 ここは実家で暮らしていた頃によく走った道。

 特に陸上部員だった中学時代は、風邪をこじらせた時や、生理痛があまりに酷い時以外は、ほとんど毎日、飽きることもなく走っていた。


 そんな思い出の溢れるこの道を久し振りに走ったことで、ついつい戻り道のことなどなにも考えずに、ただひたすら進み続けてしまった。

 気付けばもう香取駅近くにまで来てしまったし、そろそろ戻らないとな、などと思っていると、河川敷内にある小さな公園で、ボールを蹴っている女の子たちの姿が目に入ってきた。


 わたしのよく知っている二人であること、遠目からでもすぐに分かった。

 懐かしいな。

 などと思いながら、土手の階段を走り降り、手を振った。


「おーい、さき! あきら!」


 って……あれ?

 高校時代の後輩であるなしもとさきたけあきら、と思って声をかけたのだが、咲は間違いなく咲であるものの、晶が晶とはちょっと顔が違うような……


 別人? いや、晶? ちょっと会わない間に、こんな変わる?

 顔が真ん丸で、個々のパーツなども実に晶だというのに、それなのに何故こんなに可愛らしい顔立ちをしているのか。あ、いや、晶が可愛くないということじゃなくて……


「先輩、お久しぶりです!」


 咲が、走り寄るわたしへと大声で、手を振り返した。


「お姉ちゃん、知ってるんですか?」


 晶だか晶似の子だかが、ボールを踏み付けながら、小首をかしげて可愛らしいきょとんとした表情を浮かべている。


「え、晶がお姉ちゃんって……それじゃあ」

「はい、妹のなおです」

「やっぱり!」


 王子から、存在は聞いたことがある。

 やっぱりジャガイモみたいな顔をしているのかな、などと笑い合ってしまったりしたが、まさかこんなにそっくりな顔をしているとは。


 しかしなんなんだ、こんなそっくりなのに、なんでこんな違うんだ。どこが違う? 分からない。分からないけど、まったく違う。


「あのぉ、もしかしたらむら先輩ですか?」

「え、ああ、そうだけど、よく分かったね」


 王子だか誰だか、肉体的特徴をさんざん吹き込んだんじゃないだろうな。がっちりして首が短いとか。あとなんだろ、わたしの外見特徴って。自分じゃ分からん。


「ああ、やっぱり木村先輩ですか。お会いできて嬉しいです!」


 武田晶の妹、直子はにっこり笑顔でわたしの手をぎゅっと握ってきた。ほとんど晶、といったその顔でそんなことされると、なんだかとてつもない違和感が……


 しかし可愛いな、この子。

 じゃあ晶も、ぶすくれてるからああなだけで、素材は秀逸だったのかな。


「あたし、別にそんなたいしたもんじゃないよ」


 部長だったというだけで、地区優勝させたことすら一度もないし。


「そんなことないですよ。お話は色々と伺ってますけど、いまの佐原南フットサル部の礎を築いた人じゃないですか。あたしにとっては雲の上の存在ですよ。雲の上どころじゃない。成層圏、衛星軌道上にいる大大大先輩、仙人様です、杖かざして魔法びびびみたいな」


 なんだかよく分からない例えになってきたな。

 そんな衛星軌道の大先輩な仙人様も、いまでは大学でアホな先輩どもにイビられる毎日なのだが。それを話したらすっかり夢壊れるだろうな。


「まあ、褒められて悪い気はしないかな」


 わたしはちょっと照れたように鼻の頭を掻いた。


「それで、どうした咲、こんなとこでこっそり直子ちゃんにドリブルでも教えてもらってたか?」

「えええっ、なんで分かったんですか? しかも、こっそりってことまで」

「そりゃあ、ね。仙人様だから」


 梨本咲は現在高校三年。わたしが高三の時の、新入部員だ。

 最初はFPフイールドプレイヤーとしてみんなと練習をしていたのだが、しばらくして自らゴレイロ転向を志願してきた。


 足元の技術に自信がなく、当時顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた犬猿の仲であるいくやまさとに分の悪さを感じ、転向を申し出たのだろう。

 真実は本人からなにも聞けてはいないが、わたしたち先輩の間ではそうことになっている。

 咲の、一見強がっているものの実は気の小さい性格からしても、おそらく間違いのないところだろう。


 そうしてゴレイロになったはいいが、でもサッカー以上にキーパーにも足さばきボールさばきの技術が求められるのがフットサルという競技。フィールドも狭く、攻め上がってFPとしてプレーすることが多いためだ。


 武田直子との仲がどの程度のものかは知らないが、気を許せるような一部の者に、こうしてこっそり特訓の相手をしてもらっているのだろう。


 別に仙人様だから見抜いたわけではないのだ。

 咲は、もう少しで引退のはずだけど、それでもこの向上心。なんだか見ていて気持ちいいよな。


 しかし咲と会うのは久し振りだけど、心なしか随分と丸くなった気がするな。ツンケンしたトゲが取れて、ギスギスとしたオーラがなくなっている。なんというか、まるで普通の女の子だ。


 初めて会った時など、それはもう酷かったんだから。

 挨拶もろくに出来ず、それ以外も取る態度のことごとくがとにかくもう最悪で、何度ブチ切れそうになったことか。よくわたしも脳内出血で死ななかったと思う。


 でも、振り返ってみれば楽しい思い出だな。

 咲のことに限らず、フットサル部での全部が。


 当時わたしは、佐原南高校女子フットサル部の部長だったのだけど、とにかく強くするんだという野望に燃えて、あれやこれやと練習方法を考えては試す毎日だった。強豪として有名なひがしに、ひたすら頼み込んで練習試合の相手をお願いしたりもした。


 結局、わたしの代ではたいした成績は残せなかった。

 残せなかったけど、でも土の中で、蕾はゆっくりと養分を吸って育っていた。


 わたしのあとを引き継いで部長になった王子ことやまゆうが率いた去年、ついに関東の強豪の集まる大会にて初優勝を達成。

 その大会では直子の姉、武田晶がゴレイロとして獅子奮迅の働きをしたらしい。

 と、ここまではわたしも話に聞いて知っていた。


 いま、咲と直子からその後のことを教えてもらっている。

 王子は引退、今年の春に高校も卒業。追試に次ぐ追試で奇跡的に、ということらしいが。


 新しく部長になったのは、咲と同様にわたしが相当に手を焼いたいくやまさと


 佐原南フットサル部の強さは相変わらずで、先月行われた大会では、関東大会での優勝候補であった我孫子東を正面から実力で打ち砕き、決勝トーナメントでも破竹の勢いで勝ち進み、優勝。なんと日本一になってしまったというのだ。


 トーナメントだから運や勢いもあるとはいえ、実力がなければ日本一になどなれっこない。本当に凄いことだ。


 その大会での正ゴレイロが、ここにいる梨本咲だ。


 以前は千葉県の強豪として有名なのは我孫子東だけだったが、現在は佐原南も強豪として知名度を上げており、西の我孫子東に東の佐原南といわれているらしい。

 なんだか西なのか東なのか、紛らわしいけど。


 佐原南の強豪としての地位は、聞いた感じでは当面安泰そうだ。

 なんでも去年の初優勝によって、フットサルをやりたいから受験する、入部する、という者が増えて、現在部員数が三十人を越す大所帯で、しかもほとんどが経験者ということだから。


「それでねえ、向こうもほんっと守備が硬いんですよぉ、それだけじゃなく審判がほんとおかしくて何故かこっちのファールばかり取るし、なんでこっちがイエロー? みたいな。それでモトコちゃんって右アラの子が退場になっちゃいましてえ、一年だけど凄く上手な子なんですけどね、カード貰うようなプレーなんか絶対にしてないのに、とにかくその退場で、相手が息を吹き返しちゃって佐原南はもう一方的に攻められちゃって。でも一瞬の隙をついた里子先輩のボール奪取、そしてづき先輩の突き放すゴール。それが決勝点になったんですけど、もうその時の葉月先輩のシュートがあ、凄いんですよ。ぶおおお、ぎゅるぎゅるどっぎゃーーんみたいなあ、至近距離なのにドライブかかってるんだもの」


 直子が身振り手振りまじえ一生懸命話をしているのは、その日本一を決めたという大会決勝戦の様子だ。


 葉月というのは、昨日も店の前を通っておじさんに挨拶したけど佐原駅近くにある和菓子屋の娘、づきのことだ。

 彼女は現在佐原南の三年生、副部長になって生山里子をサポートしているとのこと。

 どうやら相変わらずの気弱で優しい性格らしいけど、フットサルの実力は入部時とは見違えるほどの成長を遂げており、得点を量産しているらしい。

 ボール扱いの技術もさることながら、相手をよく研究して、死角に入ってボールを受けるのがとにかく上手いらしい。さすが優等生、頭脳派だな。


 それにしても……


「直子ちゃんって、すっごい喋るね」

「そうですか?」


 なんだか機関銃のように絶え間無く言葉が飛び出して、わたしは相槌を入れる間さえなく、ただ聞いているしかない。弾薬が切れて装填中なのか、ようやく弾丸雨霰が納まったので、こうして口を挟んでみたわけだが。


 わたしには、しのなどというやはりもの凄いおしゃべりの後輩がいたから、直子がどれだけお喋りであろうとそれほどの驚きはないけれど、でも、この晶な顔でと思うと違和感もはなはだしいな。


「そうだろ、お前は。自覚しろよ。ほんっとこいつお喋りで、あれと似た顔で、なんでこうも違うのか。佐原南七不思議の一つですよ」

「やっぱりみんな、そう思うわけね」


 あれと似た顔で何故、って。


 どうせわたしの心の中の声なので、ここで包み隠さず申し上げると、直子の姉である武田晶というのは…………暗い。

 性格はもちろんのこと、もう身を包むオーラそのものが。


 見た目にもいつも仏頂面で、口も重く、聞かれたことしか喋らない。

 陰湿ということはなく、そういう面ではからっとはしているのだけど。

 でもまあ王子の影響で、少し変わってきたとは聞くけど。


「ああ、そうそう梨乃先輩、ナオから仕入れた晶先輩ネタ、聞きます?」

「え、なになに? 聞く」

「えー、それじゃあ特別に教えてあげますね」


 話したくて仕方ないといった顔のくせに、なんだかもったいをつけると、咲は楽しげに晶のことを喋り始めた。


 実はアイドルグループのしつぷうが好きだとか、

 ブロマイドまで持ってるとか、

 あの顔のくせに血液型や星座占いを気にしているとか、

 妹のミニスカート勝手にはいて鏡の前でポーズをつけていることとか、

 可愛いハードカバーの日記帳にポエムみたいな日記つけていたことがあるとか、

 子供の頃に漫才のネタを考えて練習していたとか、

 外国人観光客に丁寧な日本語で道を尋ねられて片言の日本語で受け答えしてしまったこととか。


 普段のイメージからはまるで想像も出来ないその行動の数々に、わたしは腹をかかえて笑ってしまった。


「学校での態度とのギャップが凄すぎる。お腹痛い! 死ぬ! でもさあ、咲だって晶と双璧をなす仏頂面キャラだったのに、ほんと、変わったよね」


 晶と咲、二人のおかげでゴレイロといえば暗くて地味という印象が、無意識のうちにわたしの中に植え付けられてしまっていたようで、だから大学でみき先輩の弾けっぷりを目の当たりにした時には実に衝撃的だった。


「変わってませんよ」

「いや、間違いなく変わったよ。明るくなった」

「そうですか? まあ、こんなのが一緒にいちゃあね」


 咲は、武田直子の首に腕を回してぐいと引き寄せると、頭を拳でぐりぐり。


「いてて。咲先輩ね、一年の子にも毎日いじられていてほんと楽しそうな顔してますよ。なんでもフットサル部の中に、漫才愛好会を作るんだとか」

「いってねえよ!」


 咲はぐりぐりに力を込めた。


 佐原南フットサル部の話題はまだ続いた。

 次に盛り上がったのが、我々三人の共通知人の話題、つまりは現在の三年生と去年の三年生の話だ。


 あの、誰もどんな声だか覚えていないという衝撃的なまでに無口な真砂まさごしげが、まさかの電撃結婚をしたこと。

 生山里子部長のワンマンぶり、等など。


 でも里子は、王子の影響でも受けたのか横暴に振る舞おうとはするものの、九頭葉月副部長の理路整然とした意見には逆うことが出来ず。毎度のようにたしなめられ、実質のところ葉月が大部分をしきり、里子の暴走を抑え、部は上手く回っているとのこと。


 まあ、上手く回ってないわけがないよな。先月行われた大会では、日本一になってしまったわけだし。


「あの、サジ先輩って、どんな人だったんですか?」


 直子がわたしに尋ねてきた。


「そうか、サジは二年生の秋に広島に転校しちゃったからね。直子ちゃんは会ったことないんだ」

「はい。お姉ちゃんの持ってる集合写真で顔を見たくらいで。咲先輩や里子先輩が凄い凄いといっているのは何度も聞かされましたけど、その凄い先輩を育てた木村大先輩からもお話を聞いてみたいな」

「いや、別にあたしが育てたわけじゃ……」


 おだてたって、なにも出ないぞ。


 わたしは直子に、ゆうの話を聞かせてあげた。


 それはもう、信じられないくらいにボール扱いが上手だったこと。

 身体が軟弱という弱点こそあるものの、ボール扱いだけでなく、決定力、突破力、戦術理解力などは、欠点を補って遥かにあまりあり、天才的といってもなんら誇張ではない、そんな選手であった。


 ただ、それ以上にわたしが凄いと思うのが、彼女がフットサルを通じて自分に自信を付け、自ら殻を破ったことだ。


 もともと佐治ケ江の実家は広島で、小中と酷いいじめを受けて、中二の時に、逃げるように母方の祖父母の家がある千葉に転校してきた。


 せっかく環境がリセットされたのに、そこでもいじめられることを怖れたのか、他人とは最低限度の接触しかせず、精神的にほとんど閉じこもったまま過ごし、そして高校に進学。


 佐原南高校の教室でも、そしてフットサル部でも、その閉じこもった態度は相変わらずだった。もう誰もいじめる者などいないというのに。


 根は優しいものの、すっかりおどおどして人間不信になっていた彼女は、フットサル部の中でも異常なまでに浮いていた。

 だから何度か呼び出して、注意をしたことがあるのだが、人の中や部の中に溶け込むつもりはない、などときっぱりといい切り、まったく態度を変えようとしなかった。

 おそらくは、傷つくのが怖かったんだと思う。


 でも彼女は、フットサルを続けることで自分という人間にわずかながらも自信を感じるようになり、(王子の影響が大なのだが)徐々に部の仲間たちにも溶け込み、根本の性格こそ変えることは難しいものの、自分なりの生き方に対する精神的ポジションというものを見つけ、人として強くなり、そして広島に帰っていった。


「ちょっとだけ、分かる気がします。サジ先輩とはまったく違いますけど、でも、あたしも自分が嫌いで、自信がなくて、高校入るのをきっかけに今度こそ自分を変えるぞ、って思ってたんですよね。変われたのかどうか、全然実感ないですけれど。……でもほんと、凄かったらしいですね、サジ先輩のプレーって。ボール持つだけで観客が沸くというか。同じピヴォとして、憧れます」


 直子はすっかり、会ったこともない佐治ケ江をベタ褒めだ。


 佐原南の初優勝自体は佐治ケ江がいなくなった後だが、彼女の存在が様々に影響して優勝に繋がる大きな要素となったこともまた間違いのない事実だろう。

 初優勝の立役者の一人である生山里子など、「サジ先輩を絶対に抜かす!」と意気込んで、必死に練習に取り組んでいたしな。


「謙遜してんですよ。こいつ、こないだの大会得点王なんだから」

「それは葉月先輩とならんででしょ」

「照れんなよ、ナオちゃ~ん」


 咲は相変わらず直子の首をがっちりかかえながら、鼻をぎゅぎゅっと摘んで引っ張った。


「へえ、凄いな。得点王か」


 トーナメントで優勝したということは、途中敗退したところより試合の数が多いわけだから、そりゃあ得点も多くなるだろうし、守備陣の踏ん張りがなければ途中敗退してしまってそんな記録は生まれなかっただろう。でもやっぱり得点王なんて凄いことだ。

 個人としての能力も高くなければ、とてもそんな記録は達成出来ないからな。


 葉月も、か。成長したんだな。

 帰りに和菓子屋さんに寄る予定だけど、その時に会えたらいいな。


「ああ、そういや晶って、進路どうしたんだっけ?」


 直子の顔を見ているうち、ふと姉のことが気になってしまった。

 答えたのは直子ではなく咲。


「茨城の女子大に進学しました。彼氏出来ないいいわけが出来てよかったですねっていったら、お尻蹴飛ばされましたよ。そこフットサル部がないので、サークル立ち上げたらしいですよ。ナオも来年、そこへ行くんだよな」


 咲はようやく、直子への締め付けを解いた。

 直子はげほげほとむせながら、


「お姉ちゃんの真似ばかりしてるみたいにいわないでくださいよ。でもあそこ、家から電車一本で近いんですよね」

「ほらやっぱり、行く気じゃないかよ」


 フットサル部がなくて、自分でサークル立ち上げか。なんか、残念だな。

 晶のその行動力は凄いと思うけど、あれだけの優れた能力を持ったゴレイロが、同好会でくすぶることになるなんて。


 たまたま素質のある人間が集まってくる可能性もゼロではないだろうけど、普通に考えればゼロに近いだろうし。

 立ち上げたばかりで、対外試合を組むどころか人数揃えてのまともな紅白戦すら出来るかどうか。


 来年、もしも直子が本当に入学すれば、その人柄などから一気に参加者が増えそうな気もするけど。


 でも、そういうことを始めたということであれば、そこで頑張って突き進んで、めきめきと実力を上げて部にも昇格して、いつか対戦することが出来たら嬉しいな。

 わたしの卒業前に実現出来るように、今度電話でもして発破をかけておくか。直子に伝言頼むのもいいけど、久々に本人とも話したいしな。


「あ、そうだ、王子先輩のこと……聞きました?」


 咲は、ちょっと真面目になった表情を、わたしへと向けた。


「知ってる」


 わたしは頷いた。

 山野裕子、あだ名は王子。先ほども話に出たけど、高校時代のわたしの後輩だ。明るくて、行動が無茶苦茶で、晶とのデコボココンビは本当に見ていて楽しかった。


 練習態度はふざけてばかりだったけれど、もともと運動神経が抜群で、勝負への執念も目を見張るものがあった。

 でも、その執念の凄まじさ故に、ちょっとやりすぎてしまった。


 去年、佐原南が初優勝したという大会、足の怪我を抱えながらも強行出場した王子は、無茶に無茶を重ねて、自らの足首の関節を再起不能なまでに破壊してしまったのだ。


 実はわたしも試合で、そうなる寸前にまで自分を追い込んでしまったことがあるので、無茶してでも頑張る王子の気持ちは分からなくはない。わたしの場合は、そうなる前に試合終了時間がきたので助かったのだけど。


 半年前に帰省した際に、王子と久し振りに会ったのだけど、そのぎこちない歩き方に、わたしは胸を締め付けられる思いだった。


 手術とリハビリとで、自分の足で歩くことは出来るようになったものの、医師いわくそこまでが限界とのこと。

 もうまともに走ることが出来ないのだ。


 本人は、全力でやり切ったんだから、と、試合に強行出場したことを全然後悔していなかった。


 人工関節を埋め込むことで、スポーツはさすがに無理でも多少ならば普通に走ることが出来るが、と提案を受けたが王子は問答無用で突っぱねたらしい。


 生身であれば少しずつでも治していけるかも知れない、という希望を持って生きていられるけれど、そんな人工物などを体内に入れてしまったら、もう永遠に治らないから、と。


 そう、彼女は医師からこれ以上の回復は無理といわれているにも関わらず、まったく諦めていないのだ。足を完治させることを。


 それを聞いたわたしは、どんな思いを胸に抱けばよかったのか、なんと声をかけてやればよかったのか。複雑な気持ちがぐるぐると頭の中をめぐった。


 王子がそこまでの覚悟で人生を送り、このような結果になり、それを本人が受け止めているのであるならば、その気持ちに付き合ってあげるのが礼儀。

 それが、わたしの出した結論だった。


 だからこの件に関しては、あまり悲しまないようにと意識することにしている。

 複雑な心境ではあるけれど。


 でも、後から知ったことにより覚悟を持って王子と会うことが出来たわたしよりも、実際に目の前で壊れていく様を見ていた咲たちの方が遥かに辛かっただろう。


 王子は卒業後、どこかの事務員として就職したとのことだ。

 まずは進路がしっかり決まってよかった。

 本当に卒業出来るのか、ってくらい成績が悪かったらしいからな。


 そういや、単刀直入に聞くけど次期部長にならないかなどと声を掛けた時も、タントーチョクニュウってなんですかなんていわれたっけ。思い返すに本当にアホだな。メンバー表を、メンバーおもてとか読んでたし。


「あ、梨乃先輩、そういえば王子先輩って、なんで王子っていうんですか?」

「えーっ。ナオ、それ知らなかったの?」


 っと、会ったばかりなのにナオなどと気安く呼んでしまった。梨乃先輩と下の名で呼ばれたことで、つい無意識に。


 なんか、この子の明るさや人懐っこさには、ぐいと引き込まれるものがあるな。晶とはまったく別の意味で、調子が狂うよ。


「はい。みんなが当たり前のように王子と呼んでいたから、由来を考えたこともありませんでした」

「髪の毛を、男子のスポーツ刈りみたく短くしてたからだよ。それよりもうちょっとだけ長くて、逆立ててたかな。性格はもうあの通りガサツだけど顔立ちは結構整っているからさ、美形の男の子みたいってことで。部員にはまむしひさってチビがいてね、そいつが考えたんだ。しきりに王子様王子様とからかっているうちに定着した名前だよ」

「えー、そんな髪型してたんですか。想像つかない!」


 直子はちょっとびっくりしたような、でも想像しているのか楽しそうな顔。


「あたしはいまだに、肩まで伸ばしてるって方が信じられないよ。病院にお見舞いに行った時、誰だよって思ったもん」


 わたしもその時ちょっと伸ばしていたものだから、お互いに「誰?」だったわけだが。


「ああ、そういえば王子先輩、髪の毛が鬱陶しい、スキンヘッドにしたい、って、常々いってましたね」

「なってるかも、今頃!」


 わたしのその言葉に、直子はぷっと吹き出した。


「やだ、想像しちゃったじゃないですか!」


 お腹押さえて苦しそうだ。


 しかしこうして話しているとしみじみと思うんだけど、わたしがこれまで出会ってきた人達って、個性的で、さわやかで、自分の生き方に責任を持っている感じで、なんか気持ちがいい。何故だかそんなのばっかりなんだよな。


 周囲がそうであればあるほど反対に、自分ってなんなんだろうと、ますます自己嫌悪に陥る。


 佐原へは、元気を充電しに帰ってきたわけだけど、

 このジョギングから戻って少ししたら、もう東京へ帰らなくちゃならないわけだけど、

 元気、しっかりと充電出来ただろうか。


 わたしはふと、自分の胸を押さえていた。

 針で刺すような、ちくりとした痛みを覚えていたから。


 ここでこうやって話していることが楽しいほど、

 咲が、以前とすっかり変わった自分を見せるほど、

 直子の笑顔が輝いているほど。


     8

 もう全然、怒ってなどはいない。

 それはそうだ。だってそもそも、悪いのはどう考えても、いや考えるまでもなくわたしだったわけだし。


 でも、

 だからこそ、

 なかなか前へ踏み出す勇気を持つことが出来なかった。


 何度も電話をしかけたのだけど、その都度、呼び出し音が鳴るのも待たずに切ってしまった。


 アパートに行ってみたこともある。

 というより、まさにいまがその状況だ。


 電柱に隠れて、そっと見ているだけだが。


 そもそも、なんでそっちから来ないんだよ。

 別に怒っていたって構わないから、とにかくそっちから声かけてくれさえすれば、わざわざこんなことしたり、こんな思いをしなくてすむのにさあ。


 などと、実に自分の立場をかえりみない身勝手なことを考えてしまうわたしであった。


 いまは夜。

 高木ミットの部屋の窓からは、蛍光灯のあかりが見えている。


 わたしが来た時には、もう既についていた。

 だから部屋にいるはずだ。


 しかしいっこうに出て来る気配がない。

 かれこれもう一時間以上もこうして電柱の陰に隠れて立っているというのに。お巡りさんに不審者と思われて捕まったらどうしてくれるんだよ。


 どうせ相変わらず自炊なんかしていないんだろうから、だったらそろそろコンビニに買い物にでも行けよ。


 それより、部屋にじっとしてて特にやることもないんだったら、わたしのところにでも出掛けりゃいいじゃんかよ。まったくもう。


 と、またやってしまった。

 自分の心の中だけのこととはいえ、また立場をわきまえずに勝手なことをほざいてしまった。


 しかしだらしないよな、わたしは。

 せっかく佐原にも帰って懐かしい空気をいっぱいいっぱい吸って、きぬさんにも悩みを相談したし、偶然にもさきと再会して色々と語り合ったりしたというのに、全然パワーをもらえなかった。

 ほんとダメすぎだ。


 いや……

 決め付けるな。


 自分がダメだなどと、誰が決めた。

 勝手に、自分で決め付けているだけじゃないか。


 変わるんだ。

 ここで。

 そうだ、ここで変わればいいんだ。

 わたしが、変わればいいんだ。


 ぎゅっと、両の拳を握った。

 電信柱の陰から出ると、アパートの敷地へ入り、建物端の錆びかけている階段をのぼった。


 ドアの前に立つと、そこで大きく深呼吸。

 いっこうに気が静まる様子がないので諦めて、ドキドキしながらもそっと右手を伸ばした。


 ちょっと躊躇ったが、右手に左手を添え、思い切ってチャイムのボタンを押し込んだ。

 部屋の中から、ありきたりなピンポンという音が聞こえてきた。


 その音の後は、相変わらずの静寂。

 がさごそと動く様子もない。


 ボロアパートだから、中で物音を立てればここまで聞こえてきてもおかしくないのに。現にチャイムだって、ドアも壁もないんじゃないかというくらいに大きな音に聞こえてきたし。


 再び手を伸ばすと、今度はノックをした。

 しかし、というかやはりというか、扉が開いて誰かが出てくることはなかったし、中で動く気配もまるでなかった。


 じっと息を殺しているんじゃないだろうか。「しまった電気消しとけばよかった」とかなんとかいって。


「あの……梨乃だけど」


 再びノックをすると、小さな声ではあるものの中のミットに聞こえるよう話し掛けた。


 耳をそばだててみたものの、いつまで待ってもなんの反応もなかった。

 夜とはいえ、まだこんな早い時間に寝ているはずもないよな。


 まさか浮気じゃ……。二人でじっと、息を潜めているとか……


 いやいやいや、まさかまさかだ。

 でも、こんな最低の女が彼女じゃあ、他に気がいってしまうのも仕方ないかも知れないよな……


 じゃなくて! そう、ここで変わるんだ、わたしは。いまそう決心したばかりだろ。

 自分で最低とかいうなアホ!

 謝れ、とっとと自分から謝って、早く楽になってしまえ。


「あの……ごめん、ミット、本当にごめんなさい。あたしが全部悪かった。チケット会社側の手違いって、最初からミット説明してくれていたのに、あたし全然聞かないで……そっち全然怒らなくてたしなめるようないいかたするから、なんか子供扱いされてるように思えてイライラしちゃったのかも知れない。でも、時間が経って、ミットにずっと会えなくて、どんどんバカなことしたな自分って思うようになって……本当に反省した。だから……」


 ほら、やれば出来るじゃんか。


 いつも意地を通しっぱなしのわたしが、ついに自ら謝った。これを成長といわずして、なんといおう。

 まあ、誰がどう考えても百パーセントわたしが悪かったから、さしものわたしも謝ることが出来ただけかも知れないが。

 いやいや、でもこれまでどういう喧嘩であれこっちから謝ることなんかなかったから、じゃあやっぱり成長だ、進歩だ。


 しかしどんなにわたしが成長の兆しを見せ付けようと、中からはこそりとも物音の立つことはなかった。


 まさか本当に、中に他の女がいるのでは……

 って、だから、そんなはずないでしょ! ミットに限っては。


 じゃあ、怒ってるんだ。

 いまさらのこのこやって来てなんだよ、って。


 でも確かに、そう思われてもしょうがないよな。


「怒ってるんだよね。当然だと思うよ。だからこっちも、許してくれるまで何度でも謝る! ごめんごめんごめん、いて!」


 ガンと鈍い音。ドアにおでこを思い切りぶつけてしまった。酔っ払いか、わたしは。


 めげずになおも謝り続けるが、中からの反応はまったくなかった。

 こうなったら根比べ、篭城戦だ。あ、いや、城の外にいるのはわたしか。じゃあ、城攻め、兵糧攻めだ。


 腰を下ろし、ドアに背を預けた。

 ここでこうやって、何時間でも粘ってやる。


「邪魔だよ!」


 確か二部屋隣に住んでいる筋肉モリモリ建設屋のおじさんが、本当に邪魔そうな渋い顔でわたしを見下ろしていた。


「す、すみません!」


 わたしは素早く立ち上がると、ペコペコ頭を下げ、おじさんが通って自分の部屋に入っていくのを見送った。


 なにやってんだろ、わたし。

 心の中で、ため息をついた。

 ぺたん、とまた座り込んだ。


 ミットも酷いよな。

 せっかく、意地っ張りで性格も悪いわたしが、珍しく潔く謝ったというのに、なんで出て来ないんだよ。

 そこまで怒ることないのに。


 なんで、いつまでもこんなことしてなきゃならないんだよ。


 先ほどのドア越しの謝罪は本心からだったが、届かぬその誠意に、またちょっと心が苛立ってきていた。


 じわりと涙が出てきた。

 同じ喧嘩をするんなら、ドラマや漫画みたいな感じのがよかったけれど、現実とはこうも絵にならない情けないものなのか。

 それとも、それはわたしだけか。


 いっそコンビニでお酒でも買ってきて、一気飲みして酔った勢いでドアを蹴り破ってやるか。

 いや、アルコールなんかに頼ってたまるか。

 二十歳になってそんなに経っていないというのに、わたしを何度も酷い目にあわせてきたアルコールなんかに。


 わたしは勢いよく立ち上がった。


「いい加減にしろ! ドア蹴り砕くぞてめえ!」


 怒鳴りながら、ガスガスと二発、膝蹴りをかました。

 そしてドンドンドンドンとノックの連打。

 またさっきのおじさんに怒鳴られるかも知れないが、知ったことか。


「出てこい! ほんとに一人か? 女だろ! 女がそこにいるんだろ!」


 か、どうか証拠はないが、猜疑の言葉がつい口をついて出てしまった。

 でも、怪しいことをしているミットが悪い。違うというなら出てきて無実を証明してみせろ。

 とにかく出てこい。


 わたしは、まるでドラムの乱れ打ちのようにドアを叩きまくった。


 ふとその手の動きを止めたのは、アパート横の階段から、ぎいぎいと金属の軋む音が聞こえたからだ。

 また、誰かが来た。


 わたしは、そちらへと顔を向けた。

 顔を向けたその瞬間、驚きにびくりと肩が震えた。


「え……なんで、ここに、というか、外に……」


 そこに立っているのは、高木ミットだったのである。


「いや、あかり、消し忘れてさ」


 久し振りに聞くミットの声。

 相変わらずの口調、態度、表情。

 なんだか懐かしかった。久し振りといっても、それほど経っているわけじゃないのに。


「ああ……」


 ぽかんと空いたわたしの口からは、なんだか間抜けな声が漏れ出ていた。


「お前のとこに行ってきたんだけど、同居の子が、出掛けてていないっていうし、どこ行ったか知らないっていうし。だから諦めて戻ってきたら、お前がいた。……まあ、色々とさ、悪かった」


 ミットはちょっと真顔になって謝ると、バッグからチケットを取り出した。


「無事、手に入ったから」


 取り出して、見せてくれたけど、でも、全然、見えていなかった。

 ミットが手にしているものどころか、ミットの顔さえも。

 視界、完全に塞がっていたから。

 自分の涙で、まるで大雨の車の中のように、視界、塞がっていたから。


 震えていた。

 気が付けば、わたしの肩が、ぶるぶると。


「悪かったって……なんでそっちが謝るの!」


 そういうと同時に、ミットの胸の中に飛び込んでいた。


「悪いのは、全部こっちでしょ! 怒りゃいいじゃん。あたしがみんな悪いんだから! 怒ればいいじゃんか! ……ほんと、ごめん。ごめんね」


 静かな夜の住宅街だというのに、わたしはそんなことまるで気にせずに大声を上げて泣いていた。


 自分が嫌で。

 わがままで、ずるくて汚い、そんな自分が嫌で。


 そして、ミットの優しさに、

 その身体の温もりに。

 涙が、嗚咽の声が止まらなかった。


 とにかくこうして、これまでの人生で経験したこともないような低レベルの喧嘩、というかわたしの一人相撲は、あっさりと幕を下ろしたのだった。


 しかし……誰もいない部屋の前で、わたし、なにをしていたんだろう。

 大恥もいいところだ。

 今回の喧嘩、その大恥で相殺どころかこっちがアイスクリームおごってもらったってバチあたらないよな。


 まあでも、これでまた少しは人間として成長出来たのかな。

 九歳が十歳になった程度かも知れないけどね。

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