09:危機
やっぱり無理だ。
反省会が終わると、舞莉はそそくさと準備室のドアを開け、中を突っ切って廊下に出る。
水明祭の発表は楽しかったが、部活になると話は違う。
高良先輩が作り上げたパートの空気は、彼がいなくなってもなお、色濃く残っている。菜々美への過度なひいき、舞莉と大島先輩へのいじめ。それが生み出した実力差や権力差。
1年の舞莉と3年の高良先輩は、まだ関わる範囲が狭かったからよかったのだが、2年の細川先輩とは、ブラスシンフォニーの時からよく関わるようになった。
無視されたり、パート練習でいびられたりはあったものの、コンクールで忙しくなると、高良先輩の暴言は減った。しかし細川先輩は、舞莉のちょっとした行動が少しでも目に障ると、徹底的に虐げるのだ。
「そう……やっぱり高良が引退しても、細川がいるから変わらないってことか。それで少しでも状況が変わるなら、親として飲みこもう。」
両親からの許可は出ている。
明日、もりもってぃーに相談してみよう。
カッション……ごめんね。
次の日、舞莉は部活が終わると、森本先生に声をかけた。
「あの……急なんですが、私、パートを移動したいんです。」
「えっ!?」
驚くのも無理はないだろう。
「うーん、そういう話は荒城先生にしてくれるかな。荒城先生の方が把握してるから。」
すぐそこに、指揮者用の椅子に座る荒城先生がいる。
「何ですか、森本先生。」
自分の名前に反応し、荒城先生はこちらを振り返った。
「羽後さんがパートを移動したいって。」
「そうなのか。せっかく半年やったのに?」
荒城先生は立ち上がって、舞莉と森本先生のところまで歩いてきた。
「はい……。ずっと高良先輩からいじめられて、この間引退したから収まると思ったんですけど、一緒になって言ってた細川先輩が、まだ止めてくれなくて。」
荒城先生はうなずいてくれた。この反応からして、舞莉がいじめられていたことを知っているようだ。
「なるほどね。それで、どこに移動したいの?」
「サックスがいいかなって思うんですけど……。」
「サックスか!」
意外なのか、荒城先生は目を見張り、腕を組む。
「そうだなぁ……。アルト・テナー・バリトンの希望はある?」
「移動できるなら、どれでも。」
舞莉は予想していた。聞いた話によると、1年生のサックスは、この時期にバリサクになる人を決めるらしい。アルト2人とテナー1人の中から、1人選ぶという。
まだそれをしていないのであれば、バリトンサックスが空いている。よって、バリトンサックスになるのではないかと。
「これからオーディションで決めようかと思ってたんだけど、バリサクならこっちとしても都合がいいかな。」
予想通り。的中。
「今移動するとなると、1月の新人戦には間に合わないと思うから、新人戦はパーカス……まぁ、ピアノで出てもらうよ。それでもいいね?」
「はい。」
これも案の定である。
新人戦のピアノというのは、ブラスシンフォニーでピアノをした舞莉に、何となくの空気で、新人戦もピアノを任されたものだ。
舞莉なしのパーカス4人では、絶対人手不足の曲なのに。
「森本先生、明日にでもサックスパートに 、今の旨を。」
「分かりました。」
その夜、舞莉はセグレートでカッションと話をした。自分の部屋よりセグレートでの方が、近所迷惑を気にせずに語り合えるからだ。
いつもの場所に座る。
「カッション。実はさ、サックスに行きたいなって思ってて。」
「えっ……。」
カッションの表情を読み取った舞莉の心は、罪悪感でしかなかった。
「ごめんなさい。恩を仇で返してしまって。色々教えてもらったのに。あれだけ助けてもらったのに。」
頭を下げる舞莉を見ながら、カッションは下を向いて、しばらく黙っていた。
カッションが口を開いた。
「お前の人生だ。好きにしろ。」
「カッション……。」
すると、カッションのズボンにいくつかシミができた。
「俺は……お前を助けられなかった……。実力を上げれば……何も言ってこなくなると思ってた……。そう簡単じゃなかった……。」
カッションのむせび泣く声が、自分の心臓を締めつける。
「俺に気を使って……つらくないふりをしてたんだな……。そんなのも見抜けなかった俺は……パートナー失格だ……。」
舞莉は返す言葉が見つからなかった。ただ、ごめんなさいと謝るしかなかった。
「半年前に出会って……人間と精霊っていう関係で……パートナーになったけど……、今は違うんだ。」
「えっ?」
袖で涙を拭ったカッションは、舞莉の目をしっかりと見た。
「一緒に過ごすうちに、お前のいいところにも悪いところにも、惹かれるようになった。これが『好き』ってことなのかもな。」
「!」
舞莉はゆっくりとカッションを抱きしめ、「……ありがと。」と、耳もとで言った。
カッションの耳が赤くなる。
「気持ちだけ受け取っておくね。ここで『私も』って言っちゃうと、あとでつらくなるから。」
舞莉の肩をカッションの涙が濡らす。
「カッションの役目は『音楽の楽しさを知ってもらうこと』でしょ? 十分に役目、果たしたと思うよ。部活はつらかったけど、演奏は楽しかった。パーカスの醍醐味も分かったし。」
「いや。」
カッションは首を振り、舞莉の腕を解かせた。
「部活では一切やってなかったドラムを、みんなの前でやってほしかった。自分のドラムに他の人がついてきてくれる、あの感覚を味わってもらいたかった。」
「結局カッションの願望じゃん。」
「そうだな。」
2人に笑顔が戻る。
「カッション、サックスに行ってもいい?」
「さっき言った。好きにしろ。」
同じセリフでも、カッションの表情は違う。ためらいがなかった。舞莉の気持ちをしっかり掴んでくれた。受け入れてくれた。
それがかえって、舞莉の心情を複雑にさせる。心から了承してくれたと分かっていながら。
「舞莉、サックス来るの?」
次の日の反省会が終わった後、舞莉はアルトサックスの
「うん。」
「打楽器から管楽器って大変だと思うけど、一緒に頑張ろうね!」
「ありがとう。よろしくね。」
舞莉はホッとした。
「何で来るの?」と、奥谷がこちらの事情を聞いてこなかったのは、せめてもの救いである。こいつならそういうことは言いかねないと、身構えていたからだ。
パーカスの人たちにも、移動することを伝えた。
菜々美は「えー、1年で女1人?」と、冗談めかして言った。だが、菜々美は舞莉にだけ「吹部辞めよっかなぁ。」とは言っている。
大島先輩は名残惜しそうにし、司は「ふぅん。そっか。」と、興味がなさそうだ。
細川先輩はというと……そもそも部活に来ていない。なぜか休みがちなのだ。アンサンブルコンテストに出るにもかかわらず。
一昨日に舞莉が話を持ち出し、昨日はサックスの人たちに、今日はパーカスに報告したところで、明日いきなり移れるわけではないらしい。
なぜって……それは先輩たちのアンサンブルコンテスト(アンコン)があるからだ。
南中からは2チームがアンコンに出場する。
1つ目のチームは、管打楽器8重奏で、曲は『沢池萃』。コンクールで演奏したもののアンサンブルバージョンである。いや、こっちの方が原曲で、コンクールで演奏した方は『吹奏楽版』なのだが。
2つ目のチームは、水明祭でも披露した木管3重奏の、『トリプルあいす』である。
『沢池萃』には、アルトサックスの持ち替えで、バリトンサックスを吹くところがある。そこで、唯一1本余っているバリサクを使うのだ。
「まぁ、アンコンでバリサク使われちゃうので、終わるまではしばらくいますけどね。」
寂しい目をしていた大島先輩は、安心している様子だ。先月買ったという先輩の黒いメガネ越しに、舞莉の今月買ったばかりの赤いメガネを通して、舞莉は大島先輩の表情をうかがっていた。
とはいえ、ずっとバリサクを使うわけではないので、使っていないときには舞莉に吹かせてくれた。
「舞莉ちゃん、これからよろしくね。まぁ、名前は知ってるよね。」
舞莉の直接の先輩になった、バリサク吹きの
「はい。古崎先輩、よろしくお願いします。」
長身で、静かな雰囲気の先輩。アルトの先輩とテナーの先輩が元気な人なので、彼女でパートの雰囲気を程よく保っているという印象である。
「仮入部とかでやったから覚えてるかな? リード1枚あげるから、これを湿らせて、リガチャーでマッピとリードを留めて。」
古崎先輩は、自分のリードを外し、手順を説明しながら、また組み立てた。
「リードの位置は、マッピの先が少し見えるくらい。髪の毛1本分だって先輩は言ってたけど。」
「か、髪の毛……。」
舞莉は先輩のお手本を見ながら、リードの位置を調節した。
「リガチャーの位置は……なるほど、ここかな。リガチャーってどれくらい締めればいいんですか?」
「どれくらい……うーん、そんなにギュッとはしなくていいかな。やりすぎるとリードが痛むし。」
ここまでして、やっとマッピでの音出しができるのだ。
こんな細かいことやってたんだ……。
「じゃあ、音出ししてみようか。」
うなずいた舞莉は、マッピを咥えた。
デカい。やっぱりデカい。
こんなに大きなマッピは初めてなのだ。楽器体験で吹いたのは、小さなものから順に、クラリネット、アルトサックス、テナーサックス。バリトンサックスはテナーサックスより大きい。
半年前の感覚を呼び起こし、舞莉は息を吹きこんだ。
クラのような『ピィーッ』という高い音とは違い、角の取れた音色である。
こんな音なんだ……。
「おっ、1発で音出たね!何回か続けてやってみて。」
多少音が上下したが、ハッキリと出すことができたので、マッピをネックという部分に差しこんだ。
「これで吹いてみて。」
舞莉はネックを持って吹いてみた。さっきのマッピだけの音とは違い、まろやかで優しい音色になった。
「うん、大丈夫そうだね。そしたら本体でやっちゃおうか。」
ネックを本体に差しこんで、ネジを留め、舞莉の前に差し出した。
「私が楽器持ってるから、舞莉ちゃん、ストラップにつけてくれる?」
サックスは真鍮 (ブラス)という金属でできているため、重いのだ。そこで、首にかけて楽器を支える、ストラップというものがある。
円いリングに、ストラップのフックを引っかける。
「よし、こことここに手を添えて。離すよ。」
古崎先輩は、ゆっくりと手を離した。
ズシッ
「おお……重い。」
ちなみに、バリトンサックスはおよそ6キロある。
「でしょ? 肩こるんだよね。」
最初は、サックスでいう『高いソ』の音を出してみる。
「これがチューニング
バリサクの『ソ』って、ピアノでいう『シ♭』の音なんだ。
パーカッションの鍵盤楽器はピアノと同じC管(ドの運指で音を出すと『ド』の音が出る)だが、アルトサックスとバリトンサックスは
舞莉はC管でドイツ音名を覚えているので、E♭管バージョンで覚え直さなければいけない。
「後で吹部ノートに、これをメモしておいて。」
渡されたのは、『B♭、C、D、E♭F、G、A、B♭』、その下に『べー、ツェー、デー、エス、エフ、ゲー、アー、べー』、その下に『ソ、ラ、シ、ド、ミ、ファ#、ソ、ラ』、その下に運指が書いてある紙だった。
舞莉は『ソラシドレミファソ』の音階をゆっくり吹いてみた。リコーダーとほとんど運指が同じなので、クラみたいに、どこを押さえるかで混乱はしなかった。
低いソを、少し音が裏返りつつ出し、ラシドレミファソと、続いて吹いてみる。
「はぁ……。」
久しぶりの管楽器なので、息が続かない。
「舞莉ちゃん、すごい。もうソから高いソまで吹けちゃった。」
舞莉の初めてのバリトンサックスは、こんな感じで終わった。
その後も、週に3回くらいは楽器が空くので、自主的に練習していた。
一時的に、舞莉はパーカスとバリサクを掛け持ちすることになったのだ。
この時の舞莉は思ってもいなかっただろう。毎日、掃除三昧になるなることを。
11月も半ばに入った頃、今日はバリサクが空いておらず、パーカスの方で鍵盤楽器の練習をしていた。半音階や全調スケールを、合奏の時のテンポより速くして、正確に叩く練習だ。
ヴィブラフォンを叩いていると、板倉先輩が息を切らして音楽室の中に駆けこんできた。
「みんな! 練習止めて!」
板倉先輩の慌てように、舞莉はただことではないことを悟った。
「聖子、何があったの?」
昨日は来ていなかった細川先輩が尋ねる。
「分かんない。とりあえず練習はしないで!」
そう言うと、板倉先輩はすぐに音楽室を出ていった。
舞莉たちはお互い顔を見合わせる。
何やら、廊下の方から騒がしい声が聞こえる。
舞莉はマレットを小物台に置き、音楽室のドアを少し開ける。
「何をしてくれたんだ!」
同じ階の理科室の方から、怒鳴り声が聞こえた。
「あぁ、これはまずいな。誰かやらかした。」
カッションがため息混じりでつぶやいた。
すると、他のパートの人たちが続々と音楽室に入ってきた。
舞莉は急いでさっきの位置に戻る。
「何かやらかして、怒られてる感じだな。」
ドアを開けた時にそっちまで聞こえたのだろう。大島先輩もカッションと同じ考えのようだ。
音楽室は何事かとザワザワしている。
サックスパートと低音パートの人だけ、戻ってきていない。
『サックスは第1理科室、低音は第2理科室だよね。』
「そうだな。もしかして、そいつらが?」
『たぶん……。』
舞莉は床に体育座りをし、心のざわめきを感じつつ、時が過ぎるのを待った。
しばらくして、残りの2パートの人たちが音楽室に入ってきた。目をふせ、表情は完全に暗かった。しかし、一部の人がいない。
「あれ、奥谷と
舞莉は空席になっているところを見てつぶやく。
森本先生が早足で音楽室に入ってきた。
「先生、何があったんですか!」
板倉先輩がそこに駆け寄る。
「後で他の先生方からみんなに話します。静かにして待ってください。」
「はい……。」
板倉先輩は振り向き、「みんな静かに!」と手を叩いた。一瞬で静まり返る音楽室。
そして、理科の
「いいか、こいつらは、部活の貴重な練習時間に、勝手に先生の机の扉を開け、アンモニアと塩酸とBTB溶液を混ぜて遊んでいた!」
勝手に……薬品を!?
ここでざわついてはいけないことを、部員たちは知っている。特に強面の尾越先生の前では。
「アンモニアと塩酸は……習ったよな?どれだけ危険なものなのか!」
静かにうなずく部員たち。
巨体から発せられるずぶとい声は、音楽室に嫌という程響いている。
「お前ら、分かってるよな。俺の授業を受けていれば。」
授業中、先生に当てられて正解できなかったら、連帯責任でクラスみんなでスクワット。実験中にミスをしたら、その班は連帯責任でスクワット。何でも連帯責任をさせる先生である。
もしかして……。
「これから吹奏楽部は、連帯責任で無期限 部活動禁止だ! その代わり、部活の時間は奉仕作業をすること。分かったか!」
罵声に圧倒されて、言葉が出ない。
「おい、この部は返事もできねぇのか!?」
「「「はいっ!!」」」
舞莉は冷や汗をかき、心臓をバクバクさせ、固唾を飲んだ。
「この後の行い次第では、吹奏楽部を廃部にするというのも頭に入れておけ。分かったな!」
「「「はいっ!!」」」
すると、いきなりカッションは失神して、舞莉の肩から転げ落ちた。舞莉は床スレスレで掴むと、他の人にバレないよう、ゆっくりと床に横たわらせる。
『カッション、しっかりして!』
心で呼びかけるが、返事はしない。他の人に見えないカッション、その上この状況。ヘタに動いたら怪しまれる。
『どうなっちゃうの……。』
茜色の空。綺麗なもののはずが、心なしか怒りの色にも見える。あるいは危険信号……かもしれない。
舞莉のパーカッション人生は、ここで幕を閉じることとなった。
スピリッツ・オブ・ミュージック♪ 〜第一楽章〜 終
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