JERA
砂樹あきら
第1話 伝説(1)
深草の 野辺の桜し心あらば
今年ばかりは 墨染めに咲け
源氏物語 第19帖「薄雲」より
むかしむかし・・・。
おとぎ話の世界よりももっとずっとむかしのはなし。
とある国のとある城に、それはそれは美しい姫がおりました。
渓谷を流れる滝のように豊かな黒髪も。
愁いを帯びた艶やかなその瞳も。
小鳥がさえずるような声も。
真珠のように白い指先も。
姫君のどこをとっても見ている者を幸せにするような美しさでした。
その美貌は鏡のような湖の水面に映る月にも負けないと評されるほどでそれ故、
やがてその姫も成人し、裳着の儀を迎えました。
婚礼の儀まであとわずかに迫った桜が咲き乱れる、春のある日。
姫は方違えでこの国で一番の『桜』の木の下を通ることになりました。
女房達の噂ではよく聞いていた『桜』。
それを自分の目で見ることができて姫は非常に喜んでいました。
古く、枝振りもたわわなこの枝垂れ桜は見る者をすっかり魅了してしまう何かを備えていました。
普段、あまり外に出ることのない姫が初めて言ったわがままでした。
風に揺れ、花びらを落とす『桜』に誘われるように牛車を止めさせ、乳母と共に姫はその桜の根元に降り立ちました。
時間を忘れてしまうほど、姫は『桜』吹雪の中を立ち尽くしていました。
ふと、目の前を黒い影が横切りました。
乳母はとっさに姫をかばうように前に出ました。
昔から、うつくしい桜の下には
姫は急なことに驚いて、乳母の背中からおそるおそるのぞきました。
するとそこには鬼などではなく、代わりにひとりの僧がしゃがみ込んでおりました。
どうやら『桜』の枝に登ったものの、足を踏み外して落ちたらしいのでした。
その僧は打ちつけた腰をさすりながら、驚いたように姫君の美しい顔に見とれておりました。
乳母が名をたずねると、その僧は
きっと旅の僧なのでしょう。
顔や袈裟などは埃にまみれていましたが、真っ直ぐな面差しが姫にはとても印象的でした。
はじめは警戒していた乳母も姫も耀桂の旅先での話に引き込まれ、次第に打ち解けていきました。
宮中の生活しか知らない姫にとって、耀桂の話は驚きの連続でした。
そんな楽しい時間はあっという間に過ぎていきます。
もう出立しなければなりませんでした。
姫は持っていた扇に和歌をしたため、一枝の桜とともに耀桂に渡しました。
『桜花ちりぬるときは見もはてでさめぬる夢の心地こそすれ』と書かれていました。
耀桂はその和歌を見て、にっこり笑いました。
しかし、姫に返しの歌を書こうにも旅の僧である耀桂は何も持っていません。
美しい和紙も扇子も何も。
それでも今の自分の想いを何かの形にして残しておきたかったのです。
耀桂は周りを見回しました。
ちょうど足元に青々とした令部の葉が何枚も茂っていることに気がつきました。
筆を取り出し、令部の葉を一枚取り上げると返歌を書き始めました。
姫の渡した枝から桜の花を一輪だけ取って添え、渡したのでした。
『いつまでか野辺に心のあくがれむ花し散らずは千世もいぬべし』と書かれていました。
姫はそれを大事そうに胸に抱くと、動き出した牛車の御簾から耀桂の姿が見えなくなるまで見つめていました。
こうして二人は道ならぬ恋に落ちたのです。
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