topia
並白 スズネ
第1話
朝露に濡れた緑の匂いが鼻をくすぐり、蓮見トシアキは目を覚ました。視界は暖色電灯の光とすでに白みきった空の色がぼんやりと混ざり合っていた。手首のウェアラブル端末を見ると、時刻は午前6時27分だった。蓮見は完全に寝過ごしたようだ。
圧縮されたバネが解放されたようにベッドを飛び上がり、作業用のツナギを流れるように着て家を飛び出した。案の定、家のほぼ真横に設営された牛舎は煌々とし、中から空間をぽっかりと喰ってしまうような餌をねだる牛たちの鳴き声が聞こえた。
「なんだ、今日は寝てて良かったのに」
搾乳を終えた牛たちを牛舎に戻し終えた母が、こちらに気づいて声を張った。
「今日、テストだろ。大丈夫か」
母の言葉をついで父も蓮見の心配をした。父はでっぷりした腹を揺らしながら、牛たちにあげるおやつの準備をしていた。蓮見にしてみれば茹だるような熱気のこもる舎内で、日に焼けた浅黒い肌の上に汗の滝を流し続ける両親の方がよほど心配である。二人は問題ないと言うが、朝の作業を終えると生まれたての子鹿のように呼吸を肩で震わせてするのだ。
「大丈夫、大丈夫。問題ないよ」
朝8時、作業を終えた3人で囲む食卓の中心にはいつものように自家製のチーズが入ったスクランブルエッグ、近所の農家が作ったウィンナーとベーコンがそれぞれ大皿にぎっしりと載せられ、各々取り分けられるようになっていた。そして、手元にはライ麦のパンとレタスとミニトマトの入ったサラダボウルがあった。
「今日、午後3時50分からずっと雨降り続けるから、傘忘れないでね」
母が言った。蓮見は適当な相槌を返した。蓮見が世界の輪郭をはっきり掴めるようになった頃には、すでに天気予報の番組やニュース、気象予報士という職業は過去の遺物となっていた。それは、予報するまでもなく必中するからだ。
「えっと、気象衛星アマツキと」
耳を澄ましても聞こえない程度の声で答えを言ってから、答えを書くのが蓮見の癖だった。そして、ぶつぶつ言いながらタブレットに表示された歴史の答案用紙に電子ペンを走らせていく。
蓮見の生まれる数十年前、2072年頃、加速する地球温暖化による破滅的な影響をようやく自覚しはじめた世界中の国々は「topia」と題された国際的な地球環境復元計画を立てた。それは全人類のためにそれまでの利害と軋轢を水に流し、協力して地球温暖化を食い止め、豊かな自然を取り戻すものだった。
このとき、人間とはその二本足の立つ地盤が崩れる実感を得ないと、団結できない生物だと愚かさに絶望した人も多く、自殺者が増えたとか。
とはいえ、足並みを揃えた瞬く間に科学技術は進歩し、計画から20年で地球温暖化に歯止めがかかった。気象衛星アマツキもtopia計画のなかで産まれたものの一つだ。世界各地に設置された量子コンピューターを用いた観測所スサノオとの連携によって、三日後までの天気を分刻みに確定することができるようになった。
「topia計画は人類の生活にも……」
用語問題を軽々と乗り越え、蓮見のペンは長文問題に向かっていた。
topia計画は科学技術の急激な進歩だけではなく、人類の生活意識に変革をもたらした。コンクリートの箱を競い合うように積み上げ、地表にアスファルトの厚化粧を施した従来の都市は嫌悪され、それ以前まで絵空事であった自然を尊重する街づくりが本格化した。そして、人々は石炭や石油、火力発電といったそれまでの生活を支えていた近代産業の象徴を手放し、生活の質が落ちようともクリーンなエネルギーを選んだ。
「ふぅ……」
蓮見は一息ついた。一通り見直し、満点であることを確信した。周りはまだテストと格闘している。午後には数学、化学と物理のテストが控えているが、全く問題ではない。暇を持て余した手の中でペンを遊ばせ、ヒノキ製の窓枠に縁取られた冴え冴えとする空の青を眺めた。俯瞰した意識でこの光景を一枚の静止画にしてみると、映画のワンシーンのようなお膳立てされた美しさに苦笑いしてしまう。たびたびそんな瞬間があるので、高校で一番賢くて気の許していた教師に相談したことがあった。
「それは青春への未練だな。蓮見は成熟してい……」
自分の悩みが「青春」という的外れな安い言葉に置き換えられてしまった時点で、話を聞く気が失せた。それ以来、その教師を避けるようになった。
「蓮見さぁ、知ってる?」
帰り道の午後、空気を震わす雨の弾幕をもろともしない友人のボウズの声が蓮見の耳に届いた。
「何が」
「F組の笹松とD組の袴田ってやつらが引っ越したらしいぜ」
「今月、6人目だろ。多いな」
蓮見の高校では、毎年3年生になると途端に転校が多くなり、卒業する頃には約2割の人間がいなくなるのだ。彼らの共通性に成績が悪いことが挙げられるが、例外もいる。そして
、不思議なことに仲のいい友人たちでさえ彼らの転校先、その後がどうなったのか知らないのだ。
「そういえば、最近サイトウ、何かおかしくね。なんか、今日のテストもぶつぶつ呟いていたしよ」
「成績伸び悩んでいるからじゃないか。医学部志望だけど、今のあいつの成績じゃあ、無理だから焦っているんだろ」
「でもよぉ、あいつの独り言「テンコウハイヤダ」って聞こえるんだぜ」
「ふうん」
蓮見はこの話題に嫌気がさして、興味を周囲の光景に移した。父が言うには、topia計画以前の学校周辺ですらモザイク画のようにビルと店舗が乱立し、自動車の吐く排気ガスを乗せた腐った雑巾のような生温かい風が吹いていたのだという。聞くだけで吐き気を催す、ディストピアだ。今は、密集率は下がり、ほとんどの建物が耐火性に優れた木材で造られている。街を走る車やバスも全て水素エンジンだ。舗装材には廃棄食材や植物を加工して作られた環境に配慮したセメントを使用している。挙げたらきりがない優れた科学技術が、俺の街を、生活を彩っている。
「なぁ、俺たちって幸せだよな」
「あぁ」
気のない返事がすると思い、横目で見るとボウズの友人は彼女とのチャットに忙しそうにしていた。だが、構わず続けた。
「三食食べれてさ、空気も美味しいじゃん」
「あぁ」
「戦争もないし、貧困じゃないじゃん」
「あぁ」
「犯罪はあるけど、多くはないじゃん」
「あぁ」
「いじめだって無いじゃん、目に見えた」
「あぁ」
「すごく幸せじゃん」
「あぁ」
湧き上がる思うことをそのまま声にしていくにつれ、背後でうるさく響く雑然とした雨音や雑踏があるパターンに従って動いているように感じられた。自分と世界とがズレていくこの感覚を、言葉にしようと試みる。
「だけどさ、この世界って何かさ……」
そこまで言いかけたところで、糸がプツンと切れたように言葉に窮した。
「なんだよ」
ボウズの友人は不思議に思って蓮見を見た。蓮見はその瞬間に雨は雨らしく、雑踏は雑踏らしい元の感覚を取り戻した。自分の妄想癖がまた起こったのだと思った。
「蓮見はさぁ、すげぇ頭いいから学者にでもプログラマーにでもなれると思うけどよ。俺は詩人の方が向いていると思うぜ」
「そう?」
「知らんけど」
そう言ってボウズの友人はニヤリと、傘を蓮見の方へわずかに傾けた。傘を伝う雨粒は計算通りの軌道を描いて蓮見の肩に直撃した。
「冷た!!」
雨は確かに冷たかった。
「ただいま」
家に着くと、母がリビングで、ホログラムテレビに映し出された好きな芸人のライブD V Dを見ていた。日本一チケットのとれないコント師らしく、母も二回ほどしか生で行ったことないのだとか。ホログラムは生の肉感と色合いを人間と見紛うほどのリアリティで再現し、本当に生の演技を劇場で見ているようだった。
「あれ、父さんは」
「買い物に行ったよ、もうすぐ帰ってくるんじゃないかな」
母は映像に夢中で、返事は上の空だった。父は食材を買いに行くときはいつも一人で、蓮見は今まで一緒に行ったことがなかった。しかし、一見奇妙に思えることも18年も続くと日常になるのだ。蓮見は階段を昇って自室に向かった。そして、机に着き、タブレットの参考書アプリを開いて受験勉強を始める。
黙々と問題を解き進める蓮見の頭の片隅には、将来の自分が陽炎のように揺れていた。歴史学者になるか、家業を継いで農家になるか、両親がしきりに勧めるプログラマーになるか。自分は、どの職業にもなれる自信があった。ただ、今日言われた詩人は人生で初めて無理かもしれないと思った。
「詩人になろうかなぁ」
そう独り言を呟きながら、彼は黙々とタブレットに数式を並べた。父が帰ってきたのはそれから、二時間後だった。
「進路決めたか」
夕食中、父は蓮見に尋ねた。もうすぐ高校最後の夏というのに蓮見の進路が定まっていないことに焦っていた。
「とりあえず、T大かな」
「そうか、学部とかは決めたのか」
「理工系の分野に行って、プログラマーにでもなろうかな」
蓮見がそう言うと、父は安堵して自然と顔が緩んだ。
「でも、topia計画を徹底的に研究してみたいし」
「えっ」
蓮見の言葉に、父の表情は一変して怯えと心配の色に染まった。
「いや、詩人も面白いと思うんだよね」
「詩人!?」
初めて息子の口から出た職業に父の目はパンダのようにまん丸になった。蓮見は父の豊かな表情の変化が面白かった。
「こら、お父さんをからかわないの」
母がピシャリと蓮見を叱った。蓮見は子供と大人の間を揺れるような笑顔をこぼした。
蓮見はベッドに入り込み、明日を想像した。明日も朝、牧場の仕事をこなし、学校では適当に授業をこなし、友人と雑談しながら家に帰り、気休め程度に勉強して寝る。もちろん、三食食べる。とりあえず、大学進学まで同じような日々が続くと予想された。そして、その後も平穏な日々が続く。国々は手を取り合い、貧困も犯罪もほとんどない。こんなユートピアを誰が壊したいと思うのだろう。
そんな風に想像してみると、心は安らぎ、たびたび感じる世界への違和感も些細なことのように思えてくる。凪のような心は蓮見をまどろみに誘い、平和な明日に連れ出すのだ。
目を覚ますと、何度経験しても慣れない病的な白が眼球を刺激する。私は眼が慣れるのを待ってから、窮屈なポッドの中から這い出て立ち上がった。感覚としては変わらないはずなのに、こちら側の方が疲れるのは3つの真っ黒なポッドとシンプルな壁掛け時計以外何もない無機質に真っ白な部屋のせいだろう。数週間前に比べて、体全体が細く青白くなっており、皮膚は垂れ下がっていた。しかし、体のどこも調子の悪いところが感じられないのは、さすが人類の科学技術だと感じた。
時計を見ると支給の時刻まではまだ時間があった。最近、帰宅の早いトシアキに見られまいと早く来すぎてしまったようだ。topia計画からもうすぐ三〇年が経とうとしており、赤子だったトシアキは運命を左右する一八歳になってしまった。幸い息子は非常に賢く、判断さえ間違えなければ安泰であろうと思われた。
息子はtopia計画について研究したいと言うたび、私は肝を冷やされる。妻はただのからかいだと言うが、万が一の可能性だってあるのだ。
topia計画は端的に言えば、人類を仮想の地球「topia」に移住させることであった。私が高校生の頃、すでに地球温暖化は取り返しのところまで来ていたが、為政者たちは名ばかりの環境保全を掲げ、経済ゲームに勤しんでいた。それから、十年後、私と妻が結婚したときに世界中の国々が協力して本気で地球温暖化を止めることを宣言し、その計画が発表された。
それがtopia計画であった。しかし、トシアキが習ったような内容であったならばどんなに良かったか。その実態は、脳に様々な電磁波を送り、現実世界での生活を仮想世界でも行えるようにし、人類全員で仮想世界に移住するというものだった。
私ははじめチープなディストピアS F小説の世界に迷い込んだと思ったが、紛れもなく現実の出来事だった。もちろん、世界各地で反対運動が起きたが、軍による容赦ない弾圧を受け、一年足らずで治った。私たち夫婦も反対運動に加わろうと考えたが、賛同者には仮想世界での安定を約束し、以後三代先まで優先して安定を保証すると政府は言っていた。
私たちは何日も考え抜いた結果、topia計画に賛同した。これから生まれてくる子供を守るために仕方のないことだと言い聞かせた。SDGsという言葉のもと環境保護への意識の高い親世代、その影響下の同世代からは非人間と罵られたが、彼らは皆軍に連れてかれて殺されてしまった。
計画発表から約5年、ついに仮想世界「topia」に移住するためのポッドとそれを管理する施設が完成した。ポッドには排泄の処理、栄養の摂取、必要最低限の筋肉の維持など現実の肉体を管理する機能の備わっていた。発表後、順次、賛同者が仮想空間に移住していった。その時期だった、妻がトシアキを出産したのは。
ついに私たちの番が来た。全裸になってポッドに入り、しばらくすると私たちは役所のような場所に居た。はじめ仮想世界ではない現実世界のどこか違う場所に連れ去られたのだと思い、私は失望と怒りに体を震わせた。仕方なく、私たちは受付の女性の説明を受けた。初めに職業と住所を選択するように言われて東京の地図をもらうと、それが私の知らない別世界のものになっており、そのとき、ここが仮想空間なのだと思った。そして、職業も食品会社に勤めるサラリーマンだったが、思い切って酪農家を選択すると、全裸のはずの私たちはいつの間にか黒色のツナギを着ていた。私たちは仮想世界にいると確信した。
そして、受付のお姉さんはこの世界について説明し始めた。
「この世界、通称「topia」は国の区分、各国の法律や自然法則など現実世界を忠実に模した世界です。もちろん、生死もあります。違うのは自然を尊重し、自然と共生する人類が真っ当に進歩すべきだった理想の都市に変化していることです。今は全員、揃っていないので皆様の生活を支えるNPCが動いていますが、全人類の移住が完了しだい、彼らは自然といなくなります」
「「topia」特有のルールみたいなのはありますか」
お姉さんはNPCなのかという疑問も起こったが、私は大切なことを聞いた。
「はい。二つほど。一つは皆様は貴族や各国首脳をはじめとしたこの世界を管理する「秩序者」と呼ばれる人たちに監視されています。そのため、子供世代にここが仮想世界であることや本当のtopia計画の内容など、「topia」の秩序を著しく乱す言動行動は慎んでください。それから、一つ目のルールに違反したり、お二方の子供の能力が著しく低いと判断させてもらった場合、家族全員「topia」から退場してもらいます」
「退場って、一体どうなるんですか」
妻は恐怖に顔を引き攣らせながら、お姉さんに尋ねた。お姉さんはにこやかに答えた。
「劣悪な現実世界で「topia」を維持し、「秩序者」に奉仕する業務を死ぬまで行う「奉仕者」になってもらいます」
私たちは絶句した。ディストピアから逃げてきた先は、ちょっとマシなディストピアだったのだ。
「食糧をお届けに参りました」
私はポッドに座り込みながら、思い出に浸っていると「奉仕者」が来た。
「ドアの前に置いていってください」
「わかりました」
返事の後に、ドサリといかにも重そうな音がドアの向こう側でした。
「ありがとうございました」
「はーい」
そう言って、「奉仕者」は去っていった。しばらくして「奉仕者」が完全にいなくなったのを確認してから私はドアを恐る恐る開け、手前の段ボールを引きずって運び入れた。中には透明の液体が入った2Lの容器が9本入っており、これが私たちの現実の肉体を維持するための栄養剤であった。私はすぐに自分と妻と息子のポッドから空の容器を取り出し、新たに3本補填した。これで、仮想世界時間において、一ヶ月はもつ。空の容器は段ボールに入れ直して、ドア前置いておけば、「奉仕者」が回収してくれる。
役目を終えた私は再びポッドに入り、「topia」に戻る。私は「topia」に初めて来たとき、そこをディストピアだと思った。しかし、時が経つにつれなんとも思わなくなり、トシアキの楽しそうな様子を見ているとユートピアのようにも思えてきた。
topia 並白 スズネ @44ru1sei46
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