第44話

『柳瀬三尉、レーザー照準器をドラゴンの脚部へ』

 恵庭にそう言われ、柳瀬が左右を見渡した。レーザー照準器といえば、戦争映画でたまに見るような、肩に担いでミサイルに標的の位置を知らせる装置のことだろう。

「柳瀬さん、これを使ってください」

「こんなもの、どこから?」


「ニプラツカの首にかけてたんです。備えあれば憂いなし、ですよ」そうして冗談めかして言うことで、夏希は自らの緊張をほぐしているのかもしれない。「時間との勝負です。チャンスは一回しかありません」

 柳瀬が強く頷く。夏希から照準器を受け取った柳瀬が、素早く肩に携帯し、恵庭の言う通り迫り来るドラゴンに向けてその半球状のレンズを向けた。ドラゴンの首がゆっくりと右側、恵庭が乗っているはずの車両に向かうのがわかった。


「アリス、もう一踏ん張りだよ」

 夏希が言い、ニプラツカはそこで急制動をかけた。後ろを飛ぶドラゴンが堪らずといった様子で減速するや、頭上からアビーの咆哮が轟いた。いつの間にか体勢を整えたアビーはこの気を逃さなかった。自身の加速度に重力も加え、高速で降下するアビーがドラゴンの右側面から炎の帯を迸らせた。左に体を傾けてその暴威をやり過ごしたドラゴンは、恵庭に照準を合わせていたその視線をニプラツカに向けた。大きく口を開き、まっすぐこちらに向かって電撃を放とうとする。


「先輩、今!」

 夏希の号令が、空気と意識を震わせる。それまで美鈴に向けて放たれていた思惟が、世界に拡散するようだった。(発射!)恵庭が指示を出し、太い筒を掲げ、装甲車の天井に上がった柿崎が目を細め、引き金を引く様子が見えた。


 筒の両端が爆発し、煙をまとった弾頭が突っ込んでくる。狙い通り、ドラゴンの右太腿に命中した弾頭が爆散し、黒煙と血液があたりに飛び、広がる。ドラゴンは大きく口を広げ、苦しげに体を捻ったが、その目は恵庭を捉えて離さなかった。


「先輩」真紀は恵庭に呼びかけた。その時、急に世界が泡立つような感覚を覚えた。泡に浮かび、浮力が体を包み込む。これは——、と思うそばから、真紀の体がニプラツカを離れた。

 右手に温かい感触が生まれた。〈オリハルコン〉が、それまでとは違う、柔らかく朗らかな熱を発していた。夏希の放つ意識があやふやになる。この空気は、あの時、真紀の手を取って空へと導いた恵庭のものだ。


 恵庭の意識が干渉しているのかもしれないが、体を包む浮遊感が現実なのか、真紀には判断できなかった。まるで薄いベールに包まれたように、それまでそこにあったニプラツカの背中が遥か下方に小さなシミを作っている。そのベールの向こうで、戦っている恵庭の気配を感じた。陽炎のように揺れる空気の層の向こうで、二つの光がせめぎ合っているのがわかった。青い光が恵庭、赤い光が美鈴だと直感する。


 二つの色がぶつかり、スパークが飛ぶ。その狭間は、青と赤が混ざり合い、紫色の焔が立ち込めていた。ゆっくりと高度を下げるうちに、恵庭と美鈴の声が聞こえた。頭に直に響く声音は懐かしくもあったが、今は感慨に耽っている場合ではない。激しく明滅する光の中で、二人の意識もまたぶつかっているのだ。


 互いに譲れないものがあり、自分の正義を貫こうとすれば、相手を排除するしかない。そういう風にしかなれなかった二つの意思が、空気を揺らし、〈オリハルコン〉を共振させる。熱く渦巻く風に翻弄されながら、真紀は手の〈オリハルコン〉を握りしめた。


 恵庭を支えたい。この世界を救いたい。その気持ちだけでここまで来て、けれどそれだけでは美鈴を止めることはできそうもない。二人の意識に触れ、引き返せないところまで来ていることはわかっていた。

 魔法の是非が全てではない。魔法の可否が全てではない。全ての境目は混沌としていて、区別できるはずもない。どちらが悪いのか、それを線引きすることが、誰かを不幸にする。入学式の日、アリスの目に感じたあの疎外感は、誰もが感じてきたものだろう。それを受け入れようとする恵庭と、拒絶する道を選んだ美鈴。


 何が正しいのか、それはもうわからない。自分が今、どうしてここにいるのかもわからない。自分が望む未来が手に入るという〈オリハルコン〉を持っていても、自分はどこまでいっても普通の、一人では何もできない女子高生だ。夏希が戦っている。アリスも戦っている。そして、恵庭も戦っている。真紀にできることは、信念を持って戦っている仲間の力になる、それだけだった。


 それだけで、十分だった。

 頭の中心から意識の束が迸るのを、真紀は知覚した。それは青でも赤でもなく、曖昧な色をしていた。まだこの世に存在していない色、それが未来の色ならば、この世界をこの色で満たすのが、自分のするべきこと——。


 全ての光の波長が収束し、白銀の眩い閃光が真紀の網膜を焼く。光の中に、真紀はこれまでの数週間の出来事を見た。恵庭に手を繋がれて空を飛んだ時の驚嘆を、三人で〈タルタロス〉に挑んだ時の焦燥を、美鈴の夢の中で直面した絶望を、屋上で抱え込んだ悲壮を、作戦が始まる前の高揚を。走馬灯のように巡る記憶の残滓が指先を掠め、後方へ流れていく。その全てにこびり付く後悔を拭い去りたくても、過去は変えられない。


 けれど、未来は作れる。それが自分の、五十嵐真紀の存在する意義なのだ。唐突に思い至ったその時、光の中心、右手に収まる〈オリハルコン〉がさらに強い光を放った。

 瞬時に膨張する光に包まれ、真紀はとっさに目を閉じた。掌に収まっていたはずの〈オリハルコン〉が、光とともに膨らみ、形を変えるのがわかった。脳裏にその影が浮かぶ。細長い持ち手のようなものと、先端に膨らみを抱いたそれを、真紀は掴んだ。


 未来を作る。自分たちが、例え迫害されようとも、大衆から理解されなくとも、そうであってほしいと望むことができる——。そんな未来を手にするために、今は、それを挫こうとする思想と戦わないといけない。歪んだ願望と、対決しないといけない。

 拡張していた意識が、掌に集中する。右手に握ったそれを、真紀は振りかぶった。前傾姿勢をとった体が、急速に恵庭と美鈴が対峙する空間へと降下していく。大気が服の裾を弄び、髪の毛が時折視界を遮る。左手を上げ、右手の上から強く握る。風を受けるそれが重くなり、さらに速度を増す。


 バリバリとスパークを爆ぜされる光の境界へと、真紀は突進した。空気を切り裂き、虹よりも多くの光を引いて、真紀は体を縮こませ、勢いをつける。

「いっけー!」

 真紀は振りかぶった両手を思いっきり引き下げ、それを振り落とした。そこで初めて、真紀は自分が握っていたものが巨大なハンマーだと知った。四角く、角が面取りされた形状の先頭部が光の層を打ち破り、二人の間に割って入った。


「五十嵐……!」

「じゃまをして」

 二人の声が間近に聞こえた。空中を浮遊する二人の思念に入り込んだ真紀は、そこから先のことは何も考えていなかった。くるりと一周回った体を立て直し、美鈴と対峙する格好になった真紀は、けれどハンマーの柄を持ち、深く息を吸うと、その赤色の光に向かって猪突した。

「先輩から離れて」

「それが本当の姿か」


 もう一度振りかぶり、斜めからハンマーを振り下ろす。後ろに飛びのいて難なくかわした美鈴が、一気に間合いを詰めた。

「力は、使いこなせなければ、意味がないの。知ってた?」

「そんなこと……」

 グッと掌に力が入った。挑発され、血が昇る。もう一度……! そう思い振り上げる。ハンマーの頭がぐわりと持ち上がる。後退しようとする美鈴に、今度はこちらから肉薄する。体が軽い。姿を変えた〈オリハルコン〉に導かれるように、真紀はするりと美鈴の胸元へ接近した。


 そこで、頭を貫通するほど衝撃を頭蓋骨に受けた。火花が視界を飛び交う。目の前で美鈴が掌を広げ、赤色のオーラがこちらに流れ込んでいるのを知覚した途端、目の前が真っ赤に染まった。

「ねえ、〈オリハルコン〉を渡して」

 真っ赤な世界で、美鈴の声だけがはっきりと聞こえた。濃淡を浮かべて真紀を取り囲む波紋が波打つ度、ハンマーが共振する。それが頭痛をひどくした。脳が直接波に打たれているような感覚に、吐き気が迫り上がってくる。


「それはあなたには扱えない。自分の進む道のわからない人が持っていても、豚に真珠。魔法が使えないなら、大人しく私たちの家畜になればいい」

「そういう、どちらが上とか、マウントを取るとか、そういうことを繰り返していても、誰も幸せになんてなれません」

 痛みを振り払うように、真紀は頭を振った。


「言うじゃない。でも、それは綺麗事なんだよ。相手のことを理解しようとすればするほど、埋めがたい隔たりを目の当たりにするだけ。そうして自己と他者を区別することから差別は始まるの。しかも、ただマイノリティーだというだけで、虐げられる側に回る。どれだけ理解してもらおうと努力しても、潜在意識を変えることは簡単じゃない。それは人種の違いが未だに差別の温床になっていることからも明らかでしょ。みんな口では差別はダメだって言ってるけど、人間の本性はそこにあるの。性善説に立つのは勝手だけど、差別意識そのものをこの世からなくす力が、あなたにはあるの?」


「それは……、今はないかもしれません」真紀は正直に言った。自分に、そんな力はない。〈オリハルコン〉にもそこまでの力はないのだろう。人の潜在意識は、歴史が作ってきたものだ。過去は変えられない。差別は、なくせない。

 それでも、と思う。「それでも、私は、人の可能性に賭けたいんです。昨日より今日、今日より明日、今よりも生活しやすい、今よりも生きやすい、そんな世界をみんなが望むなら、それは実現できるはずです。誰かが幸福になって、誰かが不幸になる世界を、私は望みません」


「〈オリハルコン〉に、そんな力があると思ってるの?」

 厳しさを宿した美鈴の目が、その瞬間だけ柔らかくなった。こちらを憂いているような、同情するような、温かい熱を感じる。その変化に戸惑っていると、いつの間に近くに来たのか、恵庭が後ろに立ち、真紀の肩に手を置いた。

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