第42話

 到底間に合うはずがなかった。ここから後方部隊が展開する区域まで二百メートル余り。最高速度百キロメートルで走行可能な軽装甲機動車であっても、数秒で時速四百キロメートルを超えるといわれるドラゴンの飛翔加速度とでは、兎と亀よりも分が悪い。しかも相手は鳥飼だ。呑気に昼寝などしてくれるはずがない。体勢を立て直し、恵庭がフロントガラスを仰ぎ見る。上空高く、飛翔する影が目に焼き付いた。春の霞を映すかりそめの空に一筋の雲を引き、放物線を描いていく。スピードが増していく。


 僅かな起伏であっても、その車体が傾く度に視界が乱れる。傾いた網膜のスクリーンに、前方に迫る後方部隊の隊列の中央付近から立ち上がる黒煙が映った。鳥飼の操るドラゴンが攻撃を仕掛けたのは明らかだった。爆発が空気を揺さぶり、フロントガラス越しに衝撃を伝える。後方部隊に打撃を与え、通信の混乱に乗じて司令室を押さえるつもりなのかもしれない。

 自分の無力さを呪ってもすでに遅く、恵庭は忸怩たる思いでその煙を見上げるしかなかった。



  **



 ヘリコプターのローター音が遠ざかり、代わりに細かな火花が空中に瞬いた。機関砲かミサイルか、いずれにしても、戦車の砲撃に続き、恵庭は攻撃の手を緩めるつもりはなさそうだった。

 戦闘の様子は、断続的に瞬く閃光と、時折立ち上がるキノコのような爆煙で推し量ることができた。どちらが優勢なのか、恵庭は無事なのか——。ポケットの中の〈オリハルコン〉は熱量を上げているが、細緻に戦況を把握する能力を与えはくれない。知らず掌に浮かんだ汗をジャージの裾で拭う。


 その時、視界に影のようなものが横切った。何かと思いそちらに目を向けると、つなぎのような作業服を着た禿頭がうずくまるように体を丸める姿があった。その背中がすぐに起き上がる。陰から迷彩服姿の自衛隊員が見え、その背中を励ますように叩く横顔に、夏希から「先生?」と驚きの声が上がった。そのスキンヘッドに出くわすのは数時間ぶりだったが、スーツ姿の宇佐美しか見たことのなかった真紀は、驚嘆と違和感を抱え、目を瞬いた。


「お前たちか。準備は順調か?」

 宇佐美は腰に手を当て、まるで学校行事の進捗を確認するくらいの穏やか声で言った。

「先生って、魔法使えるんですか?」

 質問に質問で返す無礼を承知で、真紀は言った。高校の教師にも、もちろん能力を持った人はいた。ただ、それは魔法の専門科目を担当する教師だけだとばかり思っていた。英語を担当する宇佐美が、と思う側から、真紀は単純なことに思い至った。


「もともと『ヴォーウェル』に所属していたからな、お前たちには言っていなかったかもしれないが」

 宇佐美という名前は母音始まりだ。そういうことか、と真紀は腑に落ちた思いだった。〈オリハルコン〉を自分に託す役割を担うのであれば、『ヴォーウェル』の関係者でない方がおかしいのだ。


「それで、先生も自衛隊の支援ですか?」

「他にできることもないからな。お前たちも気をつけろよ」

 宇佐美はそう言い残して消えた。自衛隊員も一緒に消えたから、医務室かどこかに移動したのかもしれない。励ますために、わざわざ立ち寄ったということだろうか。

「夏希は知ってた?」


「魔法族なのは雰囲気でわかってたけど、まさか戦場にいるとはね。でも、ちょっと似合っているっていうか、むしろ傭兵って感じだよね、あのなりだもん」

「確かに」

 アリスが深い声を出し、それが笑いを誘った。

「待たせてすいません。三人ともこちらへ」


 横合いから声をかけられた。向き直ると、先ほど車を運転していた隊員が、腕を折り、背後のテントを差した。自衛隊らしく深い緑色のそれは、学校にあるようなポールむき出しの華奢な体躯とは異なり、すべての面に布がかけられていた。幅十メートル、長さは二十メートル程度あるだろうか。

 隊員の背中について中に入ると、そこは長机が並ぶ殺風景な空間だったが、モニターを見つめる眼差しも、無線に「被害報告、ヘリコプター部隊、大破三、中破一、送れ」と吹き込む声も、その色は真剣そのものだった。


 奥に控える柳瀬が立ち上がり、硬い笑顔を浮かべた。夏希が早足になる。

「タイミングがギリギリになってしまってすいません」

 夏希が言う。アリスと真紀も倣って頭を下げた。

「いえ、間に合いましたから、大丈夫です。すぐに準備に入りましょう」

 柳瀬が後ろを振り返り、入ってきた方向と反対側の出口に向かう。出がけに隊員から無線の受信機とイヤーカフを受け取った。耳たぶに引っ掛けるのに注意を取られ、危うくつまずきそうになる。アリスの腕を咄嗟に掴んだ。


「段差があるから気をつけてくださいね」

 柳瀬が振り返りながら言った。顔をあげると、前線を臨む空き地が目に入った。柳瀬の言葉通り、その地面は一段掘り下げられていて、むき出しになった土の上には、さらに細かな線が何重にも掘られ、幾何学的な模様を真紀の眼前に晒していた。左右には黒い電信柱のような筒が聳え、異様な雰囲気を醸していた。

「これって、魔法陣?」

「しかも、これでもかってくらい強力な」


「予定時刻まで一分を切ります」戸口に立つ隊員がこちらに呼びかけた。耳につけた装置の向こうが騒がしくなる。様々な声の中で、真紀は我知れず恵庭の声を探す。

「真紀はここに立って」夏希が真紀の手をとり、魔法陣のすぐ脇まで誘導した。「そのまま、私の手を握って。もう片方で〈オリハルコン〉を握りしめて」

 夏希はこちらにじっと目を向け、はっきりとした声で言った。詳しいことは、何も知らない。これもきっと、鳥飼のマインド・リアクターに悟られないためなのだろう。信じる心は、不安を簡単に打ち消してくれる。真紀は小さく頷くと、ポケットから〈オリハルコン〉を取り出し、脈動するそれを掌に包み込んだ。


「ねえ、私は?」

「アリスは、そこでじっとしてて」

 ウインクを添えて懇願する夏希に、アリスが唇をすぼませる。

『奥寺、準備はいいか』

 アリスが反駁するタイミングを見計らったように、イヤーカフを通して恵庭の声が耳に届いた。骨伝導というのだろうか、直接耳の穴に入れているわけでもないのに、その声はまるですぐ隣にいるかのように、明瞭だった。


「いつでもいけますよ」

 夏希の声が、耳の外と中から同時に聞こえた。その感覚にこそばゆくなる。けれど、今は目の前のこと以外に注意を払っている暇はない。真紀は両方の指先に力を込めた。左手は夏希の、右手は〈オリハルコン〉の、異なる熱があった。それが、自分の鼓動と一つになって、静かに脈動する音を、真紀は確かに聞いた。


『抗防御術式起動』

 それが合図になった。真紀の体の奥深くから、熱が湧き上がってきた。血液が沸騰すると錯覚するほどの苛烈な炎が、真紀の心臓から溢れ出す。右手の〈オリハルコン〉がその炎を巻き取るように全身に纏うイメージが真紀の脳裏を占領する。炎は熱をたぎらせた雫となって魔法陣に降り注ぐ。雫は流れになり、流れは陣を形成する溝の隅々にまで行き渡る。


 魔法陣全体を覆う炎は、その赤をいよいよ強め、鮮烈な光へと姿を変えていった。ハレーションを起こしたように全ての光が白く収斂していく。その光は、魔法陣の左右へと延び、その行先に視点を転じた真紀の網膜に、円筒形の黒い装置が染みを作った。

 筒の下方から侵入した光が、螺旋状に駆け上がるのを、真紀は見た。頭頂部まで達すると、行き場を失った光が左右から同時にほとばしり、四方八方へと拡散する。頭の上を飛び荒ぶ光の行方を追うことは叶わなかった。目の前の光が静かに魔法陣の中心に収束するのと同時に、真紀を包んでいた光のイメージが急速に失われていく。


「真紀、もう大丈夫だよ」

 夏希の声に、真紀は目を閉じていたことを知った。

「光が……」

 それ以上の言葉は見つからず、真紀は視界の隅に焼き付いた光の残滓を求め、空を見た。残像が尾を引く以外、先ほどと変わった様子はない。

「術者の能力を削ぐ術式を発動したの。もちろん、私や恵庭先輩の能力に影響はない。事前に登録してある能力者の固有振動を検知して、影響を及ぼさないように、術は選択的に効くように設定しているから」


「メールのドメイン指定みたいな?」

「そんな感じ。あの筒が私の思惟を飛ばしている、いわば中継機器ってわけ」

「夏希ちゃんって、こういうのどこから持ってきてるの?」

「それは企業秘密。でも、真紀がいてくれなかったら宝の持ち腐れだった」


「奥寺さん。効果ありです。敵陣は乱れ、ヘリが包囲しています」

「了解です。柳瀬さん、こっちに来てください」

「はい」

「今度は何をするの?」

 返事を寄越して近づく柳瀬を横目に、真紀は夏希に尋ねた。

「それは、やってみてのお楽しみ」

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