第10話

 週明けの月曜日、始業式もほどほどにホームルームへと続く人波をかき分け、恵庭は職員室に向かった。ひとまず反省文だけでも先に提出してしまおうと、プリントアウトしたばかりの用紙を入れたクリアファイルを見下ろし、ドアを開ける。銘々談笑している教師の脇を抜け、教頭の席まで行くと、思案顔の教頭と教師の宇佐美が立ち話をしていた。


「恵庭くん、ちょうどいいところに」

 恵庭を目にした途端、先週とは打って変わり、まるで守護神でも目の当たりにしたかのような安堵を浮かべる教頭の顔を見て、恵庭は「はあ」と生返事をした。教頭は宇佐美に視線を移し、恵庭も釣られる。さも最初から恵庭に話を持ちかけるつもりだったように、宇佐美は神妙な顔で滑らかに喋り始めた。


「実は、ある生徒から相談を持ちかけられたんだが、『ヴォーウェル』の協力が必要かもしれない」

 何がちょうどいいところだ、と思いながら聞いていたが、宇佐美の言いようは冗談と受け流していいものではなさそうだった。


「魔法に関わること、ですか?」

「ああ。去年受け持っていたクラスの女子生徒なんだが、夢で、黒い靄のようなものに話しかけられた、らしい」

「靄、ですか……。他には、何か言っていましたか? それ以外に見えたものとか、声の内容とか」

「『あと二日』そう言っていたらしい」

「……カウントダウンですか。それは、厄介かもしれません」


 邪術や妖術の類は、被術者にどのような影響を及ぼすのか、正確に把握するのは難しい。そして、判断を保留しているうちに最悪の状況を招くこともある。あと二日……。その話が事実なら、時間は限られる。

「なんとかなりそうか」

 宇佐美が窺うような視線を向けてくる。禿頭が蛍光灯を反射して鈍く光る。教頭はともかく、宇佐美の頼みは無下にできない。


「わかりました。『ヴォーウェル』で預かります」

 本当は色々と条件をつけたいところだが、元々の力関係を覆すだけの材料があるわけでもない。どちらにしても、学校では対処できないのだ。

「その生徒のクラスと氏名を教えてください」

 恵庭は嘆息を胸にしまい、宇佐美にそう頼んだ。



  **



 高校生になっても、これまでの生活はほとんど変わらないと思っていた。新しい環境で戸惑うことはあっても、それは時間が解決してくれる。中学がそうであったように、高校でも新しい友達ができて、その中で自分のことが少しでも好きになれたら……。そういう感慨は、決して自分だけが持っているものではないと思っていた。


 それがどうだろう。まさかその日常がこうも呆気なく崩れてしまうとは、誰が想像できただろう。しかも、その状況に陥っているのは自分ひとりだけなのだ。

 魔法やドラゴンのことを、真紀は自分なりに調べてみた。恵庭が言っていたように、表向きはその存在は隠されているようだった。検索サイトに『ヴォーウェル』や『日本特能研究開発機構』と打ち込んでも、類似する言葉しかヒットせず、もちろん組織のホームページなどを見つけることはできなかった。けれど、少しネットの海を彷徨っていると、魔法に関わる噂のような話は、掲示板のスレッドにちらちらと上がっていた。地下には不思議な空間があって、そこにドラゴンたちの楽園があるとか、湖の底には魔法の操る特殊な組織の秘密基地があるとか、そういう都市伝説めいた話だった。


 これまでであれば、それはアンダーグラウンド系の荒唐無稽な与太話だと笑って流すことができた。けれどこの世とは違う世界を知ったことで、姿は違っても間違いなく現実に存在するのだろうという実感が、真紀にはあった。

 それが具体的にどのようなものか、その時まで、真紀は想像することができなかった。


「この学校には、自衛隊の基地があります」

 月曜日、在校生の始業式の間に始まったホームルームで、教師の宇佐美が「金曜日に言い忘れたが」と前置きして放った言葉は、一瞬真紀の思考を停止させた。

「魔法が一般社会から受け入れられていないということはみんな承知の通りで、けれど知っている人は知っているし、それを快く思っていない一部の人々によって、私たちは常に襲撃やテロの危険に晒されている。そこで、みんなを危険から守るために、特別な部隊が編成されている。自衛隊の基地はこの高校の地下にあって、体育館の反対側が搬入口になっている。稀に装甲車や自衛隊の隊員が校庭にいることがあるが、驚かないように」


 宇佐美はさも当然のように言い、クラスメイトもあまり大きな反応は示さなかった。後から夏希に聞いたところ、それはこの高校に入る生徒ならば知っていることらしい。

「真紀の場合は、入学前に情報を入れないようにしてたのかもね。情報だけが先行するよりは、肌で感じた方がいいって誰かが判断したんだと思う」

 自衛隊の基地が地下にあるなんて、まるで漫画だ。そこには魔法に関わる兵器なり装備なり、それこそ都市伝説の話にあるように、ドラゴンさえもいるのだろう。


「もちろん、いわゆる抑止力としての機能の方が大きいが、いざという時はみんなのことを全力で守ってくれる。六月頃には学校と自衛隊合同で非常事態訓練も実施されるから、そのつもりで」

 宇佐美はそれで話を締め、委員会の選任に話題を変えた。学級委員に始まり、美化委員や図書委員の選抜をしていく。

 夏希が学級委員に立候補し、真紀は図書委員になった。アリスはそうした活動には気が向かないようで、「どうする?」と話しかけた時も、背中を丸くして、その存在を消そうと必死な様子だった。


 自衛隊が守ってくれる。その言葉は、しかし軍事力でなければ対抗できないほどの敵を想定しているということの裏返しで、魔法の権利を守るだけではない何かの存在を想起させる。

 恵庭が言っていた『ヴォーウェル』という存在、それこそが守りたいものなのではないか、という疑念が湧く。もし本当にそうなら、『ヴォーウェル』はより大きな秘密を守る存在なのかもしれない。

 休み時間、そんな疑問を二人にぶつけた。アリスが大きく目を見開き、夏希は腕を組んで思案顔になった。


「『ヴォーウェル』と自衛隊の関係なんて、考えたことなかった」アリスが俯きながら言う。

「もしかしたら、私たちが想像しているよりも、もっと危ないことがあるかもしれない」真紀は思ったことを話しただけだったが、そうして言葉にすればするほど、得体の知れない不安が心に迫ってくる。引き返すことのできない場所へ、真っ逆さまに転がり落ちているのではないか。


 そこで、夏希が一つ咳払いをした。

「そうかもしれないけど、まだ何も知らないんだし、それこそ、恵庭先輩に聞いてみないと。何が嘘で何が真実なのか、それを知るまでは、私は引かないよ」

「さすが委員長は、言うことが違いますねえ」アリスが茶化すように言う。

「でも、そうだよね、ごめん。不安がらせちゃって」

「ううん。そういうのも大切だと思うよ」

「私だけがって、どうしても考えちゃって……」


 自分だけが魔法を使えない。世間では普通でも、この学校では自分の方が異端なのだ。その現実は、真紀を孤独にする。けれど、だからこそ、と思う。だからこそ、私は——。

 俯き、スカートのプリーツを弄んでいた真紀は、その時ふわりとした空気を胸に感じた。まるで、心に風が吹き込んだように、雲が晴れていく。はっとして顔を上げた真紀の目に、夏希の暖かい瞳が映った。

「やるって決めたんでしょ?」

「うん」


 心の中に浮かんでは消えていった決意の片鱗。その粒子が一陣の風に巻き上げられ、ひとつの形を成していく。それを眺めているうちに、真紀は頷いていた。

「不安とは、決意から生まれる」夏希が芝居めいた口調で言った。

「何それ? 誰かの名言?」アリスが身を乗り出し、夏希に問いかけた。

「私の言葉。普通ってことだよ。不安は消えない。始めるのも不安、やるのも不安、止めるのも不安……。結果に確信が持てないのはみんな一緒。だから、それを解決するためには、逃げるか、立ち向かうか、どちらかしかない」


 夏希の瞳が熱を帯び、まっすぐに真紀を見つめてくる。こちらの決意を試しているように感じる。悩んで、迷って、戸惑って、その先に何があるのか、自分でもわからない。けれど、夏希の言う通り、そこに踏み込まなければ、その先のことはわからない。

「私は、立ち向かうよ。怖いけど、でも、恵庭先輩が言っていたこと、私は信じたい」


 人の心を結ぶ。それができるなら、自分はもっと自分を、他人を好きになれそうな気がした。

「私もやるよ。恵庭先輩と仕事するの、憧れてたから」

 迷いなくそう断言するアリスに、夏希が大きく頷いた。

「じゃあ、決まり。午後の部活紹介が終わったら、生徒会室に行こう」

 こうして、何事もなく物事が進んでいく。けれど、先週のように後塵を拝することはない。三人で、やっていけばいいのだ。決意を新たに、真紀は大きく頷いた。

 いよいよ高校生活が始める。そんな予感があった。

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