最終章 これ、奇跡なんかじゃない! (続き)

     14

 ずっと、心の奥に、しまい込んでいた記憶。

 もうとっくに忘れ去ったと、意識的に思い込み、無意識の彼方へと追いやっていた記憶。

 決して、忘れてなど、いなかった。

 やり直すことが出来たら、と思っていた。


 ここからは、本当に自分でも分からないことなのだが、おそらくは、だからに魅かれた。


 眩しい……

 ここ、どこだ?


 ゆらゆら揺れる中、ゆっくりと目を開けると、通路の天井、照明。


 ゆうは、担架の上に載せられていた。

 二人の会場係員に、運ばれているところであった。


「試合、どうなった? 戻んないと。下ろしてください!」


 叫ぶような裕子の大声が、通路内を反響した。


「君はずっと気を失って倒れてたんだよ。先生に診て貰ってからじゃないとダメ」

「そんな暇ない!」


 裕子はごろりと身体を回転させ、担架から下りた。

 床に足をつけた瞬間に、足首の関節にヘラを深く突っ込まれてこじくられるような激痛に襲われたが、おかげで目が覚めたとばかり自身に気合いを入れ、雄叫びを上げると、走り出した。


 試合会場への大きな扉を、両手で押し、開いた。


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 まだ試合、やっている。


「シゲ、だから打たせんなって!」


 いくやまさとの、先輩を怒鳴りつける声が聞こえてきた。


 ゆうは、スコアボードに視線を向けた。

 あれからさほど時間が経っていないのか、それとも試合が中断していたのか、どちらなのかは分からないが、とにかく電光掲示板の表示によるとまだ前半戦の途中だ。


 自分の得点により、わらみなみがリードしていたはずだが、しかし、スコアを見ると、1ー1。


 追い付かれて、しまったのか。


 審判の、長い笛が鳴った。

 前半戦終了。

 佐原南ときようとうがつかんの戦いは、同点のままハーフタイムを迎えることとなった。


 ピッチから出てくる選手たち。

 両チームとも連戦によって疲れた足取りであるが、心なしか佐原南の選手たちの方が重いように、裕子には感じられた。


 中央扉の前に立っていた裕子も、佐原南ベンチへと歩き出した。


「もしかして、失点って、あたしのせい?」


 裕子はベンチへと近寄りながら、誰にともなく大声を投げた。

 みな、びっくりしたように、疲れた顔を上げて、声のする方へと視線を向けた。


「王子先輩……」


 たけなお

 彼女だけではない。裕子が戻ってきたことに、みな、驚きと嬉しさと不安のないまぜになった複雑な表情を、その顔に浮かべていた。


「そうですよ」


 里子は裕子へと近寄りながら、


「試合中だっていうのにぶっ倒れてるから。なに考えてんだか知らないけど、そこまで、頑張っちゃうから……だから。……あのさ、あたしたち、チームの仲間ですよね。なんで、隠していたんですか? 足のこと。まあ、そうなんだろうなとは思ってましたけど」

「なんだ。知ってたんだ」

「試合のことなんか気にしないで、早く病院に行って下さいよ。酷いんでしょ、足の状態。鈍感なあたしでさえうすうす気付いてたんだから、みんな、とっくに分かってたみたいですよ。士気が下がるからって、何事もないかのように試合に出てるんじゃないかって」


 里子の強気な表情が、微妙に変化を見せていた。

 裕子ではなく、自分自身を責めるような、なんだか悔しそうな、なんだか淋しそうな、そんな、表情に。


 いいたいことが出てこないのか、口をもごもごとさせていると、


「そんなにあたしたちって、頼りになりませんか?」


 里子の思いを代弁するかのように、武田直子が尋ねた。


 裕子は、しばらく返す言葉が出てこなかった。

 弁明の言葉が思い付かなかったわけではない。正直な気持ちをいおうとするほどに、喉元で言葉がつっかえてしまって、どうしても声にならなかったのだ。


「バカ、だな。こんなに、頼りになる奴ら、他の、世界中の、どこを見たっているかよ。……ナオ、里子、みんな、ありがとうな」


 つっかえつっかえではあったが、裕子はなんとか口を開いて、声を絞り出した。


 裕子はみんなを、佐原南の選手たちの顔を、ぐるりと見渡した。

 つい先ほどまでピッチ上を駆け回っていた選手たちは、まだ肩で息をしている状態だ。そうでない者も、ぱっと見ただけで疲労の凄さが分かる。


 昨日からの連戦、相手と比べて前の試合との間がほとんどなく、さらには出場停止や怪我人のせいで選手数が少ないこと、などが原因だ。

 佐原南は、ただでさえ他よりも走るチームだというのに。


 だけど試合を全く諦めていない。そんなみんなの表情に、裕子は改めて、自身の覚悟を決めた。

 額の汗を拭うと、口を開いた。


「正直にいうとね、足の痛み、もう泣きたいほど酷い。走ると、筋がちぎれそうなのか骨が砕けそうなのか、もう自分でも分からないくらい、グチャグチャに痛い。なんにもしていなくても、ズキズキ、ズキズキ、心臓に合わせてなんか骨の間に突っ込まれてるみたい」


 ここで言葉を切ると、数秒後、また続ける。


「でも、あたし、みんなから、そんな痛みを吹き飛ばすを元気もらったから。だから、また、試合、出させて欲しいと思っている。その元気すらもなくなって、自分が役に立たない、いても邪魔なだけ、そう思ったら、自分から退くからさ。あたしなんかが部長やってて、みんなには色々と迷惑かけたと思うけど、これが、最後のお願いだから……」


 しん、と静まり返っていた。

 何秒過ぎただろうか。里子が、俯きがちに、消え入りそうな声で、喋り始めた。


「役に立つとか立たないじゃなくて……。多分、役に立ちますよ、王子先輩、凄いもん。そうじゃなくて。あたしらの気持ちってのは、そうじゃなくて……王子先輩が壊れちゃうっていってんですよ! そんくらい分かれ、バカ!」


 里子は裕子を睨み、怒鳴っていた。

 その目には、じんわりと涙が滲んでいた。


 感情叩きつけられた方の裕子は、表情はなにも変わらずに……いや、むしろより穏やかな顔で、


「壊れたっていいんだよ」


 小さな笑みを浮かべた。


「とにかく、燃え尽きちゃいたいんだ。悔いなく、真っ白に」自分のため、みんなのため、そして、のためにも。「……あのさ、誰かゴム持ってないかな? 髪しばるゴム」


 最近長く伸ばしてきた髪の毛であるが、汗で額にぴったりと張り付いているのが、いい加減鬱陶しくなってきた。ここに電気バリカンでもあれば、一気に坊主頭にしてしまいたいくらいだ。


「輪ゴムくらいしか」


 ながは、手首にはめていた輪ゴムをくいと引っ張った。


「それでいいや。ちょうだい」


 髪の毛を無造作に上へとかき集めると、三水からもらった輪ゴムを使い、頭頂でまとめた。


「痛いですよ、輪ゴムなんかじゃ」

「その方がありがたい。いてててて、ほんとに痛えなくそ」


 裕子はちょんまげのような、なんとも不格好な、髪型といえないような髪型になった。


「これでオッケー」


 と、ちょっとすっきり満足げな顔の裕子を見て、里子は、


「もういいや。どうでも。この先輩、ほんっと頭悪すぎるよ。……応援するしか、ないじゃんかよ」


 長いため息をついた。

 もう誰も、裕子に試合に出るなという者は、いなかった。


 それどころではない。みな、実に微笑ましい表情で、裕子の顔を見つめていた。


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 後半戦に向けての指示であるが、裕子はあまりの痛みに前半時の状況把握があまり出来ておらず、しかも途中で気を失ってしまったものだから、すべてをきぬがさはるに任せた。


 それが終ると、佐原南は登録メンバー十二人全員で、この大会最後の円陣を組んだ。

 三年生は、このフットサル部での最後の円陣を。


「佐原南、勝つぞおおお!」


 裕子は力の限り、声を張り上げた。


「おう!」


 続く部員たちも、負けてはいない。


「佐原南い! 全魂全走!」

「おう!」

「うっしゃ! 燃えろ、青い弾丸!」

「おう!」


 円陣解除。

 もう既に境東学館の選手たちは、後半戦に向けピッチ上に散らばっており、佐原南も遅れてピッチ上に広がった。


 佐原南の選手は、

 ゴレイロはたけあきら

 FPフイールドプレイヤー真砂まさごしげ

 いくやまさと

 かなめ

 たけなお


 対する境東学館は、

 ゴレイロは飛鳥あすか

 FPはよしもとほう

 じまあき

 ふたせい

 ないとうなつ


 ライン際に立つ第一審判が、笛をくわえ、右腕を高く上げた。


 笛が鳴った。

 佐原南のキックオフで、決勝戦後半が始まった。


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 最初は必ず前にボールを転がさなければいけないフットサルのルール、通常は、少しだけ転がしたところで相手のチェックを受けるより先に横なり後ろなりへパスを出すものだが、たけなおは正面へとドリブルをした。


 相手の意表を突くつもりであったのかも知れないが、きようとうがつかん主将のじまあきには数ある行動予測の一つに過ぎなかったのか。


 奪われていた。


 慌てて奪い返そうとする直子であるが、矢島彰子はくるり背を向けてボールをキープ。


 いくやまさとがフォローに向かう。


 矢島彰子はちらり横目で里子を捉えると、顔の向きとは反対側のふたせいへとノールックパス。


 二場聖華は、反対サイドにいるないとうなつへと、こちらもまたノールックでパスを出す。


 サイドを駆け上がりながら受けた内藤千夏は、ヒールで後ろにいるベッキのよしもとほうへと戻した。


 わらみなみの陣形を崩すそうとするパスに対し、里子は全力で軌道上へと飛び込んだが、あと半歩届かず、目の前をするりとボールが抜けた。


 読んでいたのに。

 と、そんな表情で舌打ちをする里子であるが、次の瞬間、その目が驚きに見開かれた。


 なんと吉本宝の方から、ドリブルで里子へと向かっていったのだ。


 完全に意表を突かれたか、里子はぴくりとも動けないまま、脇を抜かれていた。


 フリーになった吉本宝は、ゴール前を指差し走る主将の矢島彰子に気付くと、指の示す先へと悠々ボールを転がした。


 飛び込んだ矢島彰子は、シュートを放った。

 利き足の右で、アウトサイドに引っ掛けるようなキック。


 ゴレイロのたけあきらは完全に逆を取られたが、かろうじて足を伸ばし、踵でボールに触れ、コーナーに逃れた。


 前半戦と、流れはあまり変わっていない。

 昨年度の関東チャンピオンに、佐原南は完全に圧倒されていた。


 境東学館のCKコーナーキツク。キッカーは矢島彰子だ。

 審判の笛とともに、特に奇をてらうこともなく単純にゴール前へとボールを転がした。


 いや、佐原南ゴール前の密集から、ボールに向かって境東学館の吉本宝が飛び出していた。ヒールでボールの軌道を変え、マイナス方向へと流していた。


 いつの間にか、やはりゴール前から抜け出していたないとうなつが、下がった位置、ボールの軌道上で待ち構えていた。

 タイミングよく、右足を振り抜いた。


 遠目からのシュートであるため、それ自体はなんということのないものであったはずだが、だが矢島彰子とふたせいの二人がゴレイロにとってブラインドになっていた。


 横へさっとよけた二人の間から、突如空間に現れたボール。晶には、そう見えたことだろう。


 ほんの一瞬、反応が遅れた。

 それでも、バランスを崩して倒れ込みながら、しっかりとパンチングで弾いたのは、さすがは佐原南の守護神というところであったが、しかしそのこぼれを二場聖華に狙われて、再びシュートを打たれた。


 晶が倒れてぽっかり空いたところを目掛けた、二場聖華の至近距離からのシュート。

 佐原南にとって絶体絶命ともいえるピンチであったが、晶は腕の力で後方へ身体を伸ばしながら、背を逆エビに反らせながら右足を高く上げ、そのシュートを防いでいた。

 ぽーん、とボールが打ち上げられた。


 佐原南ゴレイロの見せたミラクルセーブに、観客席からはどよめきが起きた。

 思わず立ち上がってしまった者もいた。


 こぼれ球を、直子がヘディングで大きくクリアした。


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 それを拾ったかなめは、すぐさまドリブルで前へ進む。


 きようとうがつかんないとうなつに詰め寄られるが、サイドライン際でボールをキープし味方の上がるのを待つ。

 と、突如身体を反転せさ、内藤千夏と正面から向き合ったかと思うと、次の瞬間には、足先に吸い付くようなボールタッチでかわし、反対サイドを駆け上がっているたけなおへと大きなパスを出した。


 だが、直子はあと僅かのところで追い付けず、爪先で触れるのがやっと。タッチラインを割ってしまった。


「ごめん、カナちん」


 直子は手を高く上げ、追い付けなかったことを謝った。


「こっちこそ。長くなり過ぎた」


 パス精度の問題か、直子の疲労を考慮していなかったことか、とにかく久慈要も直子へ謝った。


 境東学館、じまあきのキックイン。


 よしもとほうが、真砂まさごしげを背負いながらなんなく受けると、すぐさまパスを出す。


 全力で飛び込むいくやまさとの足先をかすめて、内藤千夏へ。


 内藤千夏へと圧力をかける直子であったが、対峙する時間は瞬きするほどもなかった。直子は、見るも簡単に抜かれてしまったのだ。


 この決勝では後半戦からの出場であるというのに、直子は、ほんの数分で目に見えて動きが悪くなっていた。

 これまでの連戦の疲れが、まったく取れていないのであろう。


 佐原南は、攻守両面、とにかく走ることを基本とするチームであり、特に直子は、久慈要の周囲を衛星のように駆け回っていたからだ。


 だがしかし、というべきか、それは直子だけではなかった。

 佐原南の全員が、動きが鈍くなってきていた。


 もちろん境東学館の選手たちにも、連戦による疲労はあるだろう。しかし佐原南は、前述した通り決勝戦の直前に準決勝を行なっており、休憩時間がない。


 しかも、その準決勝の際には二人も退場させられており、さらにこの決勝戦では負傷退場者が出ている。そのため交代可能な選手が少なく、時間の経つほどに不利な状況になっていく。


 境東学館もこの試合でひがしゆきが退場しており、そこだけが救いといえば救いであったが、とにかく佐原南にとって絶対的に体力面で不利である状況に変わりはなかった。


 足が止まれば、佐原南は他校以上に顕著な弱体化を見せる。

 そして現在、佐原南は足が止まりかけている。


 そのことに、境東学館の監督が気付いたのだろうか。攻め方に、変化が起きていた。

 攻めるでも守るでもなく、ボールを回し始めたのだ。


 ボールを保持し、相手つまり佐原南のプレスを引き付けてはパス、引き付けてはパス。

 徹底的に佐原南を走らせて、疲れさせようとする作戦に出てきたようであった。


 流れを断ち切るべくファール覚悟で、という勢いで、里子は吉本宝の前に強引に身体を突き入れてボールを奪い取った。


 運よく笛は吹かれなかった。

 準決勝であるギガモード選抜との試合だったならば、笛どころか間違いなくイエローカードが出ていたことだろう。


 里子はドリブルで、奪い取ったボールを前へ運ぼうとする。

 が、誰に背中を押されたわけでもなく、いきなり膝が崩れ、転倒していた。


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 転がったボールを悠々と、きようとうがつかんよしもとほうが取り戻した。


「まだまだあ!」


 いくやまさとは素早く上体を起こし、膝に手をつき、立ち上がった。


 膝が、がくがくと震えている。

 里子は、心の中で舌打ちをした。


 疲れて転んでしまうなんて。

 体力には自信があると思っていたのに……

 その分走り回ったからだ。

 後先を考えず。

 でも強豪ばかり揃うこの大会で、手など抜けるはずもない。

 後先などを考えていたら、自分たちは今ここにはいなかった。


 里子は振り向き、走り出すが、吉本宝の背中はすでに遠く向こう。


 吉本宝は、ゴール前にいる味方のふたせいへと速いパスを送った。


 真砂まさごしげのマークを巧みに外してボールを受けた二場聖華は、真横へドリブルをしながらタイミングを計り、シュートを打った。


 至近距離から突然打たれた弾丸シュートであったが、ゴレイロのたけあきらはがっちり胸の中に抱え込んだ。


 茂美が咄嗟にプレッシャーをかけてシュートコースを絞ってくれたおかげではあるが、それを置いても、さすがというしかない反射神経であった。

 ファインプレーに、また観客席から歓声が湧いた。


 ここで境東学館が選手交代を行なった。

 二場聖華に代えて、よねももへ。

 重戦車タイプから、華奢ながらも技術のあるタイプへ。


 よりボール保持率を上げて、さらに佐原南を疲れさせるつもりということだろう。このまま同点で延長になったとしても、いや、なったとすればより優位に立てるからだ。


     20

 まだまだ。

 みんなだって、頑張っているんだ。


 かなめは荒い呼吸で肩を大きく上下させながら、そう心の中で唱えると、


あきら先輩!」


 ゴレイロのたけあきらにボールを要求しつつ、走り出した。


「カナ!」


 晶の投げたボールを、左サイドを走りながら受けた久慈要は、速度を全く落とすことなくドリブル動作に入った。


 ピッチに投入されたばかりのよねももが、久慈要へと猛然と迫り、二人は向き合った。


 久慈要はボールをちょんと浮かせると、米田桃子の脇を駆け抜けていた。


 相変わらず無駄のない、素晴らしい技の冴えを見せて抜き去ったものの、その後のボールタッチにミスが出て、横へと転がしてしまった。

 自分で追い拾おうとしたが間に合わず、米田桃子に後ろから抜かれ、奪われた。


 久慈要も、相当に疲労していた。

 もともとがスタミナに自信のある選手ではないし、昨日今日と、ここまで連戦につぐ連戦などは生まれて初めての経験。


 大会開始前から自身の体力に不安は感じていたが、やはり、足にきた。

 心臓もだ。どっどっ、と止まることなく一生懸命に働いてくれているのは誠に有り難いが、酸素供給量がまるで足りず、非常に息が苦しい状態だ。頑張って大きく呼吸してみても、なんにも肺に入ってきてくれない。


 でも、ここで頑張らないと。

 大会が終わったら退部するつもりだけど、だからって中途半端なことは出来ない。

 お世話になったこの部のみんなのためだけでなく、自分のためにも、そしてよしちゃんのためにも。

 必ず、結果を出さないと。


 久慈要は走った。

 きようとうがつかん、米田桃子に必死に食らいつき、後ろからボールを蹴り出した。


 いくやまさとが拾った。大きくクリアするだけでなく、あわよくばの得点を狙ったようなキック。強く山なりに、蹴り上げた。


 おそらく里子も、ここまで正確にゴールへと飛ぶとは思っていなかったのではないか。ここまでび大きくブレながら、ゴール間近でいきなりストンと落ちるとは思っていなかったのではないか。


 これ、入っちゃう?


 見ていた久慈要も期待に思わず唾を飲むような弾道であったが、結局、境東学館ゴレイロに冷静に弾き出されて得点ならず。

 しかしながら、佐原南はCKコーナーキツクを得た。


     21

 キッカーは、かなめだ。


 ゴール前には、たけなおないとうなついくやまさとよねもも飛鳥あすか真砂まさごしげよしもとほう。肩や胸をぶつけあい、審判に注意を受けるなど、蹴られる前から激しく戦っている。


 きようとうがつかんじまあきだけは、反撃に備えて少し下がったところに位置している。上手くボールを受ければ、一人でわらみなみゴール前にまで持ち込めるし、ロングシュートだって狙えるだろう。


 佐原南としては、本来そこにも人をつけるべきなのだが、ゴレイロのたけあきらとキッカーの久慈要以外、全員が境東学館ゴール前へと集中している。


 ここで必ず一点を取り、そして守り切る。そのような気合が、ピッチに立つ全員から感じられた。


 この連戦につぐ連戦、逆境につぐ逆境は、佐原南に過度な疲労をもたらしただけではなかった。急速に、意識の統一感というものが芽生えてきていたのである。


 だからこそ、やまゆうは一切の指示を出していないというのに、誰からともなく自然とこのような攻撃的な配置になっていたのである。


 審判の笛。

 久慈要は右手を高く上げると、ボールへと走り寄る。


 山なりの、大きなボールを蹴り上げた。

 ゴールの反対側、ボールの落下地点には、既に混戦の中から抜け出た里子が待ち構えていた。


 里子は頭で、前線へと放り込むのではなく、後方へと戻していた。


 だが前述した通り、そこに待っているのは矢島彰子。彼女は、さっとボールへと駆け寄った。

 だがボールを奪うことは出来なかった。


 混戦の中から飛び出した真砂茂美が、そのボールをおでこで受けていた。

 ボールを落としながら茂美は、身体を反転させる。

 矢島彰子に奪われないよう背中で防ぎながら、再びゴール前へと入り込もうとしている里子へと、ボールを送った。


 境東学館の米田桃子が、ゴール前の密集から離れて、里子へとさっと近寄った。


 里子は、相手をぎりぎりまで引き付けてかわすと、爪先でボールを蹴り上げた。と同時に、ゴール前の密集地帯へと身を踊り込ませた。


 ボールはゴール前を放物線を描いて通過、反対側にいる久慈要へと渡った、が、


 次の瞬間には、ボールはゴール前正面にいる里子の足元にあった。


 久慈要がダイレクトに蹴ったパスが、守る境東学館の選手たちの間を抜けて、精度完璧どんぴしゃりと里子に渡ったのだ。


 一連のプレーで、境東学館の選手は誘導され、ゴール前が手薄になっていた。


 ゴレイロの久保田飛鳥が、シュートを打たれるより先に、と里子へと飛び込んだ。

 だが、里子の足元には既にボールはなかった。

 ヒールで後ろへ転がしたのだ。


 そこに構えているのは真砂茂美。一瞬の躊躇もなく、右足を振り抜いた。


 ゴレイロの咄嗟に伸ばした足に当たって、惜しくも跳ね返される。


 ファインプレーを見せた久保田飛鳥であるが、バランスを崩して、後ろに転倒した。


 逃してはいけない絶好の機会。

 里子は、ゴールから逃げるように転がるボールに素早く駆け寄り、拾うと、反転し、爪先をボールに力一杯叩き付けていた。

 ゴレイロ久保田飛鳥の舌打ちが聞こえた。


 決まった。

 と打った里子だけでなく、佐原南の選手たち全員が確信したことだろう。だがその瞬間、ボールの軌道が大きく角度を変え、真上へと跳ね上がっていた。


 ラインを割る寸前に、境東学館の吉本宝がスライディングで身体を入れてブロック、足に当たって弾かれたボールが真上に飛んだのである。


 転がったボールは、武田直子が拾った。

 米田桃子をかわし、シュートを打とうとしたところ、ゴレイロのスライディングを足に受けて、転ばされた。


 PKでもおかしくないプレーであったが、笛は吹かれなかった。


 ゴレイロの久保田飛鳥はセルフジャッジでプレーを止めることもなく、足を押さえて苦痛の表情を浮かべる直子を尻目にアンダースローでボールを転がした。


 矢島彰子が受けると、境東学館のFP全員がヨーイドンの鉄砲でも鳴ったかのように一斉に走り出した。練習により、感覚の共有が出来ているのだろう。

 佐原南の選手たちは、慌てたように追い掛け始めた。


     22

 こんなの、なんてことない。

 王子先輩だって、もっと痛いのに頑張っているんだ!


 たけなおは、蹴られたことによる足の痛みを堪えて素早く立ち上がり、走り出した。


 だが、

 相手、ボール、持って、走って、いるのに、背中、全然、近づいて、こない。


 直子は焦りながらも、ただ懸命に、ただ全力で、きようとうがつかんの選手たちを追いかけた。


 視界の先を走るかなめいくやまさとも、同じような思い、焦りを抱いているように思えた。それほど、なんだかみんなの動きがぎこちなく見えたのである。


 自分だけでなく、佐原南の選手たちはみな、疲労の蓄積が足にきてしまっているのだろう。


 疲労していることは、実感として半分は理解しているものの、半分は、あまりの疲労のために疲労していることすら感じていない。

 疲労の感覚が鈍いものだから、まだまだ動ける、まだ走れる、と思っているのに、足が思う通りに動いてくれない。と、自分自身が感じた、耐えようのないもどかしさ、それをみんなも感じているんだ。


 もちろん相手だって疲れているんだろうけど、でも、選手の人数に、試合のスケジュールに、うちより遥かに動けるはずだ。


 などと思考しながら走る直子の視界前方で、じまあきからのパスを受けたないとうなつが、自慢の俊足をさらに加速させて佐原南ゴールへ突っ込んでいく。


 内藤千夏の正面、佐原南ゴール前に立つゴレイロのたけあきらが、重心を低く落として構えた。


 攻め上がる境東学館の選手たちを追いかける佐原南のFPたちは、まだまだ遥か後方であり、直子はさらに後ろを走っている。


 武田晶 対 境東学館FP、人数比は一対四。


 佐原南にとって、絶望的ともいえる状況であった。

 ゴール前で内藤千夏は、横パス。

 そして、飛び込んだ米田桃子が鋭いシュートを放った。


 ゴレイロの武田晶は身体に当てて、ブロック。しかし当てるのに精一杯で勢い殺すことが出来ず、真下ではなく大きく前へ頃がしてしまった。


 こぼれを拾った内藤千夏は、右足左足とシュートフェイントを仕掛けながらも打たず、ヒールで後ろへと転がした。


 一対四であり、ただシュートを打っても決まる可能性は高いというのに、境東学館はなぜここまでするのか。


 佐原南のゴレイロを相手に、生半可な攻撃で得点は奪えない。そう叩き込まれているのだろう。


 だから、これだけの絶対的有利な状況になってもなお、より確実なゴールを狙うためにゴレイロを崩そうとしているのだ。


 転がったボールへと駆け込んだ矢島彰子が、右足を思い切り振り抜いた。

 距離二メートルほどの至近距離。佐原南にとって絶体絶命のピンチを、晶は読みと反射神経とで反応し、右腕で弾いていた。

 だが、バランスを崩して、倒れてしまう。


 境東学館が、待ちに待っていたチャンスが訪れた瞬間であった。

 こぼれを拾った米田桃子が、すかさず小さなループシュートで、晶の頭上を通そうと狙った。


 晶は素早く上体を起こしながら、かろうじて右腕で弾き上げた。

 しまった、といった顔。


 前方へと弾いてしまったことに対して、ということか。通常ならば、CKに逃れる場面だからだ。


 境東学館の矢島彰子は、胸トラップから冷静に右足でシュートを打った。

 晶は正面に立ってブロックする。

 足元に落ちたボールをクリアしようとしたところ、そこへ矢島彰子が身を突っ込ませた。


 ばん、と鈍い音とともに、二人の足に揉まれたボールが高く跳ね上がっていた。二人から、逃げるように。

 晶は、手を伸ばし、ボールを追おうとした。

 しかし、その指先を、ボールはすり抜けるように跳ね上がった。


 小さな放物線を描いて落ちる、その先には、境東学館の米田桃子が待ち構えていた。

 冷静に、頭で、ボールを押し込んでいた。


 ゴールネットが揺れた。

 そこへ次の瞬間、生山里子が飛び込んでいた。必死に駆け戻ったが、ほんの僅か、間に合わなかったのだ。


 一対四という状況下で、獅子奮迅といった働きを見せたゴレイロの武田晶であったが、人間の身である以上はこれが限界であった。

 後半六分。


 佐原南 1-2 境東学館


 前半に先制点をあげた佐原南であったが、追い付かれ、そして今、ついに逆転を許してしまった。


     23

「下向くな、下!」


 ゆうは大声を張り上げ、手を叩いた。手のひらが痛くなるくらい、強く何度も。


「まだまだ時間ある!」


 裕子だって下を向きたくなるところ、ぐっとこらえた。


 わらみなみボールでキックオフ。


 得点の動いたことにより、なにか変化するか、均衡が破れたことで、きようとうがつかんがリードを守る立場になったことで、なにか変化するか。


 淡い期待を抱いた裕子であったが、結局、好転するような要素はなにもなく、佐原南は攻められ続けるだけだった。


 追い掛けなければならない、点を取らなければ負けてしまう、だというのに境東学館の試合巧者ぶりに、虚しく時間ばかりが過ぎていく。疲労ばかりが増していく。


 前の試合で不可解ジャッジによる退場者続出さえなければ、もっと優位に戦えたのに。


 自分たちだけ、こんなに試合間隔が詰まってなければ、みんなもっと走れたのに。


 心の中で愚痴をこぼす裕子。

 首をぶんぶん横に振って、その気持ちを、考えを、の彼方にまで吹き飛ばしていた。


 いま目の前にあることだけが現実。それ以外に、現実はない。

 ここで、たらればをいって、なにか良くなるか?

 良くなるのなら、いくらでもいえ。

 本当に、本気で勝ちたいと思っているのなら、だったら、現実としてなにが出来るか、ただそれだけを考えろ。


 なにが、出来るか。

 自分に。


 裕子は、深呼吸をした。

 大きく、二回、三回と。

 そして、自分の右の足首と、ふくらはぎを軽くなで上げた。

 薄く、笑みを浮かべた。


「やるしか、ないか」


 覚悟を、決めた。


 後半七分、

 裕子は、交代ゾーンに立った。


 真砂まさごしげが、小走りで近寄ってくる。


「茂美、お疲れさん。後は任せとけ!」


 裕子は高く手を上げた。

 茂美も手を伸ばし、ぱん、と宙高くで裕子の手のひらを叩いた。


 そして茂美は、裕子の耳元に、自分の口をそっと近付けた。

 そっと、口を開いた。


 裕子の目が、驚きに見開かれた。


 信じてる。


 茂美は、裕子の耳元で、そう囁いたのだ。

 笑っていた。無邪気な、これから起こることを信じてまるで疑っていない、そんな、茂美の笑顔であった。


 そういや、あんな声だったっけ、茂美って。


 裕子は茂美の、久々に聞いた声や、初めて見せてくれた言動の数々に驚いていた。

 そして、自然と笑みがこぼれていた。


 あんな顔で笑うんだ。茂美って。


「王子先輩、ぼーっとしてないで! そっち頼みましたよ!」


 いくやまさとの大声。


「大丈夫。任せとけ」


 裕子はスイッチを切り代え、口をきゅっと結び、顔を上げた。


 境東学館のキックイン。よねももは、反対サイドにいるないとうなつへと強く蹴った。


 届かなかった。

 軌道上へと走り込んだ里子が、スライディングでカットしたのだ。

 だがマイボールには出来ず、こぼれ、転がった。


 近くにいた境東学館のじまあきが、拾おうと走り出す。


 絶対に奪ってやる! と、同時に反対側から裕子も走り出していた。

 そしてその瞬間、襲い掛かるあまりの激痛に、裕子はぐっと呻き、顔を歪めていた。

 膝の力が入らず、転びそうになるが、ぐっとこらえて走り続ける。


 やっぱりこの痛み、全然良くなっていない。

 やっぱりこの痛みや怪我、夢でもなんでもなかったか。

 でも、それがどうした。

 受け入れろ、現実を。


 先にボールに駆け寄り、拾ったのは矢島彰子であった。

 だが、裕子が後ろからぴたりとくっついた。


 矢島彰子の足の間に、自分の足を強引に突き入れてボールを奪おうとする。こんなことをしているだけでも、足が痛くて痛くてしょうがないが、そんなことを気にしている暇はない。いま、負けているんだ。あと数分、試合が終ってから思い切り痛がればいい。


 全魂全走ファイト一発! やるぞ!

 しかしこの矢島って主将、上手だな。こんな激しくしてんのに、冷静にキープしやがって。

 ファールを誘ってわざと転ぼうとタイミングを計ってやがるな。くそ、そうはイカのチンコだ。


 裕子は、審判から見えにくい角度で腕を伸ばして、矢島彰子の身体を倒れさせまいと支えつつ、より強引に足を突っ込んで、こそぎ取るようにボールを奪い取った。


 反転。

 足首への激痛に呻き声を上げながらも、全力でドリブルしてスペースを作り、受けに近付く里子へとパスを出した。


 繋がらなかった。

 里子のマークについていた境東学館のよしもとほうが、後ろから回り込むように飛び出してカットしたのだ。


 そこからは、境東学館のボール回しの時間であった。

 無理に攻めず、点を取らねば負けるという佐原南の焦りを待つ。仮に焦らなかったとしても、相当に疲労することは確実だ。


 強すぎるよ、こいつら。……勝ち慣れてる。


「ああ、くそ!」


 裕子は走りながら、そんな声を絞り出していた。

 足の痛みをごまかそうとしたのか、点を取らなければならないこのもどかしさに思わず呻いてしまったのか、自分でも分からない。


 分かっているのは、境東学館のボール回しが続いているということ。

 それを佐原南は、全く奪うことが出来ないでいるということ。


 境東学館のパス回しは続く。

 矢島彰子から、最前線の内藤千夏へ。そこから一気に最後列、ベッキの吉本宝にまで下げたかと思うと、最前線の内藤千夏へのロングボール。


 佐原南は振り回され、走らされ、秒刻みで体力を奪われている状況であった。


 生山里子は、なんとか内藤千夏に追い付き、ボールを奪おうとするが、抜かれかけ、慌てて対応しようとして足をもつれさせ、無様に転んでしまった。


 内藤千夏の前に広大なスペースが出来たが、だが裕子は、独走を許さなかった。全力で走り、スライディングでなんとか掻き出して、タッチラインに逃れた。


 ……いや、タッチを割ったと思われたボールであるが、ぎりぎりのところでよねももに拾われていた。


 里子も裕子も倒れているというのに、米田桃子から、今度こそ内藤へとパスが繋がってしまい、今度こそ完全な独走体制に入られてしまった。


 かなめたけなおの必死の戻りも間に合わず、内藤千夏の背中は遥か前方であった。


 佐原南にとって、ここで境東学館に追加点を許してしまっては、残り時間からして絶望的なスコアになってしまう。

 反対に、境東学館にとっては、ここでの追加点は優勝をほぼ決定づけるということであり、攻めを躊躇するはずがなかった。


 内藤千夏は、シュートを打った。

 豪快に右足を振り抜いて、豪快に爪先で叩き付けた一撃。だが、必殺の、と呼ぶには正直すぎた。


 晶はパンチングで弾いていた。

 どっと観客席が湧く。

 境東学館の攻撃は続く。こぼれを矢島彰子が拾うと、シュートを打った。


 晶は瞬時に巧みなポジショニングを取り、ブロック。ボールは胸に当たり、床に落ちた。


 そこへ、内藤千夏が詰めていた。

 晶のクリアも間に合わず、ボールが跳ね上がった。


 斜めへと飛ぶボールを、二人は追いかける。手が使える分、晶が早かった。なんとか、ボールを殴りつけるようにして弾いた。


 境東学館の波状攻撃はまだ終わらない。

 吉本宝が拾い、ぽっかり空いたゴール前へと、足の内側でゆっくり丁寧に転がした。万が一にも外すことのないようにという、彼女の選択であったのかもしれないが、結果としては、それが裏目に出ることになった。


 真横からゴール前へと飛び込んできた山野裕子が駆け抜けざまに、境東学館の勝利を確定付けるはずだったそのボールを奪って、走り抜けていた。


「里子!」


 すぐさま、生山里子へとパスを出した。

 里子は前へドリブルしようとするが、米田桃子が迫ってくるのを見ると、ヒールで後ろに流した。


 里子の背後を駆け抜け、パスを受けた裕子が、タッチライン際をドリブルで駆け上がる。


 だがすぐに、矢島彰子と内藤千夏の二人に捕まってしまう。抜くかパスを出すか、必死にキープしながらなんとか状況を打開しようとする裕子であったが、努力も虚しく矢島彰子に奪われてしまう。


 裕子は取り返そうと背後から追いかけ、半ば強引に足を伸ばすが、転がったボールはタッチラインを割って境東学館キックインに。


 それからはまた、境東学館のボール回しの時間であった。

 境東学館の優勝決定の瞬間が、少しずつ近づいてきていた。


     24

 残り時間は、もう五分もない。


 刻々と過ぎていく時間であるが、流れる速度は両者一定ではない。


 リードしているきようとうがつかんには長いだろうし、わらみなみには、あまりにも短い。


 長く感じるだろうといっても、境東学館の選手たちは自信を持ってしっかりとボールを回している。

 失点すれば追いつかれるというのに、もしかしたら優勝を逃してしまうかも知れないのに、不安などまるで感じていない。

 裕子には、そう見える。思える。


 これが、勝者のメンタリティってやつなのかな。

 境東学館、強すぎるよ。

 なんなんだよ、こいつらは。

 やっぱり、敵わないのかな。

 悔しいけど。

 敵わないのかな。

 自分たちの力じゃ。


 裕子は、ふと仲間たちの姿に視線を向けた。


 らしくない必死の形相で声を張り上げて、仲間を鼓舞しているかなめ


 突破はさせまいと、これ以上のゴールは絶対に許さないと、死に物狂いで相手へ食らい付くいくやまさと


 もう目に見えてふらふらだというのに、仲間を信じて、攻守に走り回るたけなお


 ああ……

 なんだったんだ、あたし。


 裕子は、いっそ死んでしまいたいくらいに、どうしようもないくらいに、恥ずかしい気持ちになっていた。

 「あたしたちのこと、そんなに、信じられませんか?」さっきの直子の言葉が、頭の中に浮かんでいた。


 ほんと、ナオのいう通りだ。

 恥ずかしい。

 ほんと、恥ずかしい。

 自分が一人、弱気になっていただけじゃないのか。自分が一人、仲間を心の底から信じていなかっただけじゃないのか。

 結局、仲間というよりも、自分が自分を信じていなかったんだ。自分という自分を、部長としての自分を、そしてみんなの仲間としての自分を。


 試合中だというのに、何故だろうか、

 以前、部活練習の最中に、なにが幸せかという話をみんなでした。その時のことを思い出していた。


 幸せってさ、そもそも、なんだろうな。

 人それぞれといっちゃ、それまでだけど、じゃあ、自分にとっては、なにが、幸せなのだろうか。この前「お嫁さん」などといったら、みんなして笑いやがったけど、別に、おかしくなんかないよなあ。

 結婚して、子供つくって。

 それはもう、十人くらい欲しい。うお、大家族。


 つうか、出来るんかよ、結婚なんか。

 こんな汗みどろになって、こんなすり傷だらけになって、髪の毛ちょんまげにして走り回って、誰が好きになってくれるってんだ。

 あたしみたいな、みっともないやつを。


 頭は悪いし、態度は乱暴だし、

 実はすっげースケベで、いつかくる初体験を想像してはニヤニヤしたり、一人エッチなんかしてて、

 彼氏がいる子には羨ましくて、ねたんだりして。

 頭の良い奴を見ると、殴りたくなるしさ。

 ひっどい性格だよな。


 奈々とのことだってそうだ。

 園長が、なんか褒めてくれたけど、それは素直に嬉しいけど、でもそれは、自分の感情を満足させたくて周囲をかえりみず勝手にやったこと。


 ほんと、最悪。

 いいところが一つとしてない。


 だから、誰も、好きになってくれなくてもいい。

 嫌われようと構わない。

 とにかくいま、この場所で、体内にまだ残っている力をすべて出し切る。ただ、それだけだ。


「じゃないとさ、あたしがあたしを、嫌いになるもんな」


 荒い息の中、そっと呟いていた。


 自分とは、誰よりもずっと長く付き合っていかなきゃならないのだから。

 嫌いな自分となんか、一緒にいられない。

 誰がどう思おうと、自分くらいは、自分を好きでいないと。


 佐原南ゴール前での攻防が続いている。

 境東学館の選手たちは、佐原南の選手に肩をがつがつと当ててくる。

 敵陣であるため、ファールを取られたら取られたで別に構わないのだろう。

 反対に佐原南の方こそPKを取られる可能性を考えると迂闊なことが出来ないはずで、だから境東学館としては激しく攻めるのは当然だろう。


 それに対し、佐原南もよく戦っている。守っている。

 だが、ボールをキープしようとした裕子が、前後からぶつかられ、踏ん張れず転ばされてしまった。


 境東学館の矢島彰子が、すぐさまボールを奪おうとするが、裕子が倒れざまに足を伸ばしてボールを内藤千夏に当てて、ゴールラインを割らせた。

 佐原南のゴールクリアランスだ。


「王子、サンキュー」


 ゴレイロの武田晶は、裕子に礼をいうとボールを拾った。


 裕子は膝を立て、膝に手を置き、ゆっくりと、立ち上がった。


 全身を襲う疲労に息を切らせ、関節をへらでほじくられるような激痛に、顔を歪めている。

 顔を歪めながら、胸に思う。


 自分は、一体なんだって、こんなことをしているのだろう。

 決まっている。

 好きだからだ。

 みんなと、喜び合いたいからだ。


 ひょこひょこと、片足を庇うようにして、裕子は歩いている。


 ただ立っていることすら辛い。限界を越えて酷使しているそんな肉体を、気力が支えている。ともすれば萎えかけるその気力を、執念が支えている。


 きりきりと、錆びたブリキ人形のように首を動かし、周囲を見回した。


 みんな、へとへとだ。

 この連戦だ。当然だろう。


 自分たちだけではない。境東学館の選手たちも、息があがってきている。


 辛い時には相手だって自分と同じくらい辛い。こういう時に、よく使われる台詞である。


 しかし……

 仲間たちの顔を見る。


 武田直子、

 久慈要、

 生山里子、

 武田晶、


 ここに立つ仲間たちの表情、誰一人として諦めていない。

 既に限界まで肉体を酷使しているというのに。

 リードを許している状況だというのに。

 もう、時間が残り少ないというのに。

 誰も、諦めていない。


 嬉しくなってくる。

 もう尽き果てたと思っていた力、まだまだ、湧き上がってくる。


 ピッチの中だけではない。


「これからこれから!」

「相手もばててるよ!」


 きぬがさはるや、ほしいくしの、そしてかじはなふかやまほのかといった登録外の部員たち、思い思いに力一杯叫び、全力で応援をしている。


 裕子は霞む視界にふらふらとしながらも、わずかに、目を細めた。

 わずかに、口元に笑みを浮かべた。


 ベンチにいる西にしむらの顔を見る。

 ぽーっとした表情の奈々であったが、裕子の視線に気づくと、まるで幼児のように破顔した。


 裕子は奈々の顔を見ながら自分の胸を拳で強く叩くと、次いで小さくガッツポーズを作った。


 武田晶のゴールクリアランスで試合再開。

 晶は、軽く助走を付け、右手に持ったボールを強く放り投げた。


 ボールの落下地点へ走り寄り、腿を上げてトラップする裕子。

 足首の筋が切れそうだ。

 いまこの瞬間に、ぶつっと嫌な音が聞こえてきたとしても、なんら不思議ではない。


 自分の身体に祈った。

 足、もうちょっとだけもってくれ。これが、最後の試合なんだ。だから。


 境東学館の矢島彰子が詰め寄ってくる。

 彼女も相当に疲労しているはずだが、主将としての意地があるのか、表情からはまったく分からない。だが、試合開始時よりも明らかに動きが鈍くなっている。


 裕子は里子へとパス、と見せかけ反対方向へちょんと蹴り、矢島彰子を抜き去った。


 この連戦、向こうだって疲れている。足が止まってきている。ここで踏ん張らなかったら、一生後悔する。

 だから、頑張れ、自分、頑張れ、足。

 裕子はスペースを見つけて、大きなタッチでボールを転がす。そして、全力疾走に入った。


 かつて経験したことのないような凄まじい激痛に襲われた。

 しかし裕子は、そんなくだらないことを気にしている暇はないと一蹴。むしろ、この痛みすらも前への推進力へと変換し、走る、走る。


 連動し、里子たちもぐんぐんと上がって行く。


「逆転するぞ!」


 裕子は吼えた。


     25

 王子先輩や、お姉ちゃんやカナちんと一緒に、絶対に勝つんだ! 優勝するんだ!

 いくぞお! 


 たけなおは、ゆうの叫びに呼応するかのように、ふらつきながらも必死に走る。

 裕子からのパスを受けた。


 視界に矢島彰子が入った瞬間、きゅっとブレーキをかけて素早く反転。

 べっとりと肌にまとわりついていた汗が飛び散った。


 背中に熱。そして、荒い息づかい。

 矢島彰子が背後に密着しているのだ。


 直子は、腕を強く掴まれていた。

 すぐ笛を吹かれてもおかしくない。場合によりイエローカードが出てもおかしくない。おそらく矢島彰子も疲労の限界が近く、無意識に手を伸ばしてしまったのだろう。


 足をもつれさせ、倒れかける直子。

 だが、倒れなかった。

 右足を大きく前へ踏み出して、なんとかこらえると、また走り出した。


 そうだ、境東学館の人たちだって疲労しているんだ。

 疲れるのがフットサル、汗をかいた分だけ結果に繋がるのがフットサル。そんなこと承知の上で入った部活、みんな頑張っているのに自分一人が泣き言なんていっていられない。


「ナオ!」


 自分を呼ぶ声。

 横目に、駆け上がってくる里子が見える。


 パスを出す。半ば、無意識に。


 里子は受け、前を向いた。


「先輩、来てる!」


 直子は叫んだが、遅かった。

 里子の眼前に、米田桃子。油断していたつもりはないのだろうが、いきなりのことに行動が一瞬遅れ、ボールを奪われてしまう。


 だが、里子は気力を振り絞り、すぐさま奪いした。


 米田桃子も負けておらず、二度三度と奪い合い、やがて、二人の足に揉まれてボールが高く跳ね上がった。


 里子は素早く米田桃子とボールとの間に入り込んで、少し腕を広げて全身で守りながら、丁寧に腿で勢いを殺しながら足元へ落とすと、身体を回転させながら、ボールを足の甲、足の甲、と浮かせて、一気に抜き去った。


 突破はさせない! と後ろから伸びる米田桃子の手を、里子は払いのけ、きようとうがつかんのPA内へと入り込んだ。


「カナ!」


 里子は横パス、久慈要が走り込んで受けた。


 すかさず境東学館ベッキのよしもとほうがプレッシャーをかけるが、久慈要は足に吸い付くようなボールタッチでするりかわす。


 上手い! カナちんさすが!


 直子は心の中で叫んだ。


 残るはゴレイロの飛鳥あすかだけだ。


 久慈要は、躊躇なく右足を振り抜いた。

 角度がなく、ゴレイロにとって容易にブロック出来るシュートであったが、

 だが……

 身構える久保田飛鳥の手前、ボールはポストの隅を直撃し、跳ね返ってゴール前真正面へと転がった。


 絶対そこ狙うと思ってた!

 跳ね返ったそのボールを、全力で駆け込んだ直子が右足でねじ込んだ。


 境東学館のゴールネットが揺れた。

 ゴレイロの久保田飛鳥は、全く反応することが出来なかった。


 佐原南 2ー2 境東学館


 リードを許していた佐原南であったが、後半十分、武田直子の得点によりゲームを振り出しに戻した。


「ナオ、ナイスゴール!」


 久慈要の声に、直子は振り向き、笑みを浮かべかけた。

 がくり、と、肩の力が抜けたように床に腰を落とすと、直子はそのまま後ろに、ゴールネットの中に、ひっくり返ってしまった。


「ナオ!」


 久慈要と里子が駆け寄った。

 ゴールの中で仰向けになりながら、直子はぜいはあと苦しそうな表情で呼吸をしている。まるで、マラソンを走り終えたランナーだ。


「大丈夫?」


 第二審判が歩み寄り、声を掛けてきた。


「はい」


 直子は、なんとか掠れたような声を絞り出し、なんとか笑顔を作った。


「ナオ、ありがと、お疲れさん。交代だ!」


 裕子が叫んだ。

 交代ゾーンには、西にしむらが立っている。


 直子は大きく肩で息をしながら、なんとか立ち上がると、交代ゾーンへと向かって歩き出した。

 その足取りは、ふらふらとした、頼りないものであったが、疲労困憊したその顔は、非常に満足げであった。


 それはそうだろう。

 武田直子は、数々の困難を乗り越えて、いま、一つのゴールへとたどり着いたのだから。

 そのゴールの名は、「自信」。


     26

、任せたよ」

「任さりぇた」


 たけなお西にしむらは、交代ゾーンで短く言葉をかわし、入れ代わった。


 ピッチに奈々が入った。

 与えられた役割は、ギガモード選抜戦でのづきとのコンビネーションと同じ。とにかくボールを持った相手へと食らい付くこと。


 早速と奈々は、粘りに粘って食らい付いて、米田桃子からボールを奪い取った。

 そして、かなめへとパスを出すと、走り出していた。


 裕子は、ちょっとだけ呆けたように口を開いていたが、すぐに笑みを浮かべ、走り出す。


 すげえな、奈々。

 パスアンドゴーなど、誰も教えていないっつーか教えようとしたけど、どうしても理解して貰えずに断念したというのに。いつの間にか、自然と出来るようになっている。まあ本来フットサルをやる以上は出来て当然の、基本的な連係動作だけど。

 しかも、動きの質がなかなかに高いぞ。

 動き出しも、コース取りも。

 目の前の相手だけでなく、全体を把握していないと出来ない。

 フットサル、実はとてつもない才能があるんじゃないか?


 それだけじゃないだろう。才能があるとかないとか。

 この試合は、頂点を決める戦い。

 退場や、怪我で出られない者、メンバーに選ばれなかった者、戦い敗れていったチーム、現在ピッチに立つ十人はそんな者たちにすべてを託されているということ、そして奈々も自分がその十人の一人であること、それを理解しているんだ。頭ではなく身体で、理解しているんだ。

 それにしても、凄いな。奈々。

 このまま、佐原南を辞めたりなんかせず、ずっといて、成長していって欲しいな。

 と、いまはそんな思いに浸っている場合じゃない。


 裕子は、奈々のフォローのため走り出した。

 激痛に歪んだ顔を、隠しもせず。


「王子!」


 奈々からのパスを、祐子は受けた。

 数ヶ月前に初めてフットサルのボールを蹴ったとは思えないほどの、それは優しく丁寧なパスであった。


 だが、パスが優しかろうともそれで裕子の足の状態が良くなるわけではない。走り出した瞬間、また、右足の神経を凄まじい電撃が襲った。


 思わず悲鳴を上げそうになるのをぐっと堪えて、じまあきのプレッシャーをかわすと、奈々へと戻した。

 激痛と疲労とで、ちょっとパスが大きくなってしまったが、奈々は、さっと前方へ加速して、難なく受けた。


 もともといつも楽しげな表情の奈々であるが、よりその表情を強めているようだ。


 成長の実感が、自分なりに嬉しいのだろう。


 そうだ。

 奈々は、ここにいる。


 ふと、裕子の脳裏に、小学生の頃の記憶が甦っていた。

 そしてすぐにそれを、振り払っていた。


 奈々は、代わりなんかじゃない。

 もう、やり直したいなどとは思わない。

 だってそうだろう。奈々は、奈々なんだから。

 奈々は、ここに、いるのだから。

 そうだ。

 奈々が、ここに、いるのだから。


 米田桃子にボールを奪われる奈々。前に倒れそうになったところ、片足を突き出して踏ん張ると、すぐさま背後から追い縋り、抜きざま横へ足を出して、自ら奪い返した。

 反対に米田桃子を背負うと、


「サトちん!」


 ノールックの横パスで、里子へとパスを出した。

 受けた里子はすっと全体を見回すと、


「カナ!」


 サイドにいる久慈要を前へ走らせる、ちょっと長いボールを送った。


 久慈要は、ボールを追いかけて境東学館の矢島彰子と並走。

 パスの来ることを読んでいた分だけ、久慈要の方が早かった。拾うと即、ゴール前へと長いボールを送った。


 その軌道上には、境東学館ベッキの吉本宝が待ち構えているが、しかしそこまで届く前に、軌道上に入り込んだ裕子がボールを拾っていた。

 練習でみっちりと身体に染み込ませた、佐原南のコンビネーションだ。


 裕子はドリブルをしながら、横目で素早く周囲の状況を確認すると、今度こそゴール前へとボールを送った。


 ゴール前には、奈々が入り込んでいる。

 パスを受けようと構えたが、間に入り込んだ吉本宝にカットされてしまう。


 だが、吉本宝の足の間から、奈々が自分の足を突き入れて、ボールを蹴飛ばしていた。


 久慈要が追いかける。米田桃子と奪い合いになるが、先に上手く身体を入れた。

 背後にぴたりと米田桃子が付くが、久慈要は疲労困憊の中を冷静に、ちょんと蹴り上げると、逆の足でまたぐようにしながら、踵で後方へ高く打ち上げた。


 ボールは放物線を描いて、二人の頭上を越えた。


 米田桃子が咄嗟の状況判断が出来ずにうろたえている間に、久慈要はさっと背後に回り込んで自らボールを拾うと、また、ゴール前へとパスを出した。


 里子は久慈要のパスに反応して走り出す。内藤千夏が身体を寄せ、肩をぶつけてくるが、里子はびくともしない。


 境東学館ゴール前には、ゴレイロの久保田飛鳥が一人だけだ。


 ボールに先に追い付いた里子であったが、だが、受けずにスルーしていた。


 久慈要からのパスに、飛び込んだのは、裕子であった。

 飛び込み、右足を思い切り振り抜いた。


 渾身の弾丸シュートは、完全に枠を捉えており、ゴールの隅へと突き刺さるかに見えたが、だが、ゴレイロが咄嗟に振り上げた右腕に弾かれた。


 裕子は、関節を箸でこじくられるような激痛に、ふと意識が遠のいて、前のめりに転んでしまった。

 顔面強打にすぐ我に返り、鼻を押さえながら、残る腕で上体を起こした。


 そして裕子はついに、見たのである。

 生涯、忘れることの出来ないものを。


 こぼれたボールを拾った生山里子は、すぐさまゴール前の奈々へと送ったものの、もう相手も完全に引いていた。ゴール前には、ゴレイロ以外にも矢島彰子と吉本宝の二人が付いている状態だ。


 しかし、

 奈々は、仕掛けていた。

 なんの躊躇もなく。

 がっちりと守られた、その鉄壁の中へ。

 相手守備陣の間ではなく、吉本宝へと飛び込んでいた。


 吉本宝がびっくりして上半身を引きつつも、さっと足を伸ばしてボールを奪おうとするが、既にそこにボールも、奈々の身体もなかった。


 奈々はボールを持ったまま、小さく、真横へと跳んでいたのだ。

 着地、反転するや否、今度は吉本宝と矢島彰子との間に、身体を突っ込ませた。


 身体を寄せ足を伸ばしてボールを奪おうとする二人の間を、針に糸を通せそうなほどの細かいドリブルで抜け出した。


 抜け出た瞬間に、矢島彰子の足にボールが当たって、跳ね上がった。


 奈々はそれに誰よりも早く反応し、駆け寄ると、その身を倒しながら、落ちてくるボールに右足を合わせた。


 バウンドしたボールはゴレイロの股の間を抜け、そして、ゴールネットを揺らした。


 まだ、床に倒れて上体を持ち上げている裕子。

 その表情は、ただ唖然としていた。


 観客席からのどよめきに、祐子は我に返り、ゆっくりと、電光掲示板に目をやった。


 スコア表示が、2-2から、3-2へと変わった。


 ゴール?

 奈々が、

 奈々が……決めた?

 そう、だよな。

 これ、得点だよな。

 ファールないよな!

 ゴール、決めたよな!


「再逆転だ!」


 裕子は床に両手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

 両手を天井へと突き上げ、うおおおと吼えた。


 奈々も天井を見上げていた。

 裕子の真似をした、というわけではないのだろうが、金切り声のような奇声を会場中に響かせると、大声で叫び出していた。


「シャーセじゃない。シャーセじゃないよぞ! にゃなはにゃななんだ! にゃなはにゃにゃにゃにゃんだ!」


 奈々なりの、心の奥の様々な感情を、その声に載せて、叫んでいるのであろう。


 泣いていた。

 奈々は、泣いていた。

 わんわんと、大声で。

 顔をくしゃくしゃにして。


「奈々!」


 裕子は奈々へと近寄ると、抱き着いた。

 強く、抱きしめた。


 裕子もまた感極まって、涙を流していた。

 叫んでいた。


「これ、奇跡なんかじゃない! 神様がめぐんでくれた奇跡なんかじゃない!」


 奇跡でも、偶然でもない!

 自分たちでたぐりよせ、つかみとった、必然。


 それを証明するには、勝つ以外にない、この得点を死んでも守り抜く以外にない。

 裕子は、奈々から離れると、ずずっと鼻をすすり、袖で涙を拭った。


「みんな、引け! もう得点なんかしなくていい。一点もいらない! そのかわり、絶対に守り切れ! 優勝するのは、あたしたち、佐原南だ!」


 会場内に轟けとばかり、叫んだ。


     27

 きようとうがつかんのキックオフで試合再開。


 おにつかおおひとみ、境東学館は疲れていない選手を次々と投入してきた。


 ここで追いつかなければ、あと三分のうちに追いつかなければ、負けてしまう。境東学館は、とにかく前へ、前へ、なりふり構わず、ガムシャラな攻めを見せるようになった。


 先制点を奪われた時には、まるで全てが計算ずくとでもいうような、不敵な態度を崩さなかった境東学館の選手たちであったが--実際に追い付き、逆転してみせたが--だが現在の彼女たちからは、そのような不気味さは完全に失われていた。


 わらみなみという、それほど強いわけでもないくせにまるで計算の成り立たない相手に、常識の通用しない相手に、むしろ自分たちの方こそが畏怖してしまっていた。


 しかし、畏怖していることなど、絶対に認めたくない矢島彰子は、とにかく怒鳴って自分をごまかし続けていた。


 実際、怯えている暇などないのだ。

 落胆している暇などないのだ。

 相手がどうであろうと、自分たちがどうであろうと、なんであろうととにかく追い付かなければ、負けてしまうのだから。


 こんなやつらに、負けてたまるか。

 名も知らない、千葉のどこの田舎だかの高校なんかに。


「上がれ! どんどんヒトミに集めろ!」


 矢島彰子は叫んだ。


 一点。

 せめて、一点。

 追い付けば、延長戦だ。

 そうなれば、きっとこっちが勝つ。

 精神的に立て直せるだろうし、疲労の面でも有利だ。

 負ける要素は、なに一つない。追い付きさえ、すれば。


「どんどん上がれ、攻めろ!」


 矢島彰子にいわれるまでもなかった。

 境東学館は終盤に逆転されて、反対に追い掛ける立場となったことによって、意識付けも、連係も、個人技も、とにかくやることすべてが明確になっていた。とにかくシンプルに。前へ。前へ。


 境東学館ベンチにいたが、立ち上がり、ゴレイロのユニフォームを素早く上から着ている。


 交代ゾーンに立つと、正ゴレイロの飛鳥あすかと入れ替わった。


 パワープレーだ。

 境東学館としては、失点する確率が高くなるものの、このまま点を取らない限りは負けてしまうのだ。ここでこの選択をしないチームは、地球上にまず存在しないだろう。


 ただし、やることがはっきりしたというのならば、それは佐原南も同様であった。


 一点差というのは点を取りにいくべきか守るべきか、守るとしても、攻めて守るか、引いて守るか、どのようなプレーをすべきか迷いの出るものであるが、佐原南の選手たちに一切の迷いは感じられなかった。


 主将であるやまゆうの指示通り、引いてこの一点を死ぬ気で守り切る、と、それだけであった。


 でも、だからこその、こっちのパワープレーだ。

 絶対に、佐原南のゴールをこじ開けてやる。

 追い付けば、うちらが絶対に優勝だ。絶対に。


 矢島彰子は、そう言葉を胸に唱えながら佐原南の選手たちを睨み付けた。


 FPフイールドプレイヤーが五人になった境東学館は、焦りながらも全員でシンプルにパスを繋ぎ、とにかく前へボールを送り、攻め続ける。


 佐原南もまた、全員でシンプルに、ただ、跳ね返し続ける。たまに攻め上がりを見せるものの、それはあくまで守備のため。


 中央で、が鬼塚美有に倒された。

 笛はない。


 鬼塚美有はドリブルで上がりながら、最前線にいる大田瞳へとパスを出した。


 大田瞳は受けた瞬間に佐原南ゴールへと身体を反転させて、シュートを放つ。


 距離は十メートルほどもあったが、しかし矢のようなその速さに、ゴレイロのたけあきらは弾くので精一杯。


 詰め寄った鬼塚美有に拾われて、再びシュートを打たれた。


 先ほどのものに勝るとも劣らない強烈なシュートを、今度はより至近距離から放たれたというのに、晶はまたしても右腕一本で弾いていた。


 ボールは跳ね上がり、床に落ち、転がった。


     28

 さらに拾われ、打たれたら、さすがのあきらも防げないかも知れない。


 と、焦るゆうの視界に、じまあきの姿が入った。


 やばい、ねじ込むつもりだ!


 裕子は全力で走り、追った。

 足の痛みも気にせず、ただ全力で。


 矢島彰子がこぼれたボールにタイミングを合わせようとしたところ、背後から裕子が追い抜きざまに身体を入れて奪い取っていた。

 ぐっと踏ん張り方向転換。ボールを大きく転がすと、全力でそれを追った。

 と、その時であった。



 ぶつ



 裕子の中で、

 異様な、

 嫌な……

 聞きたくなかった音が、聞こえた。

 ついに、怖れていた時が訪れたのだ。


 焼かれながら全身の生皮を剥かれるかのような、これまで感じたことのない凄まじいまでの激痛に襲われていた。

 痛み以外のすべての感覚が、完全に消失し、踏ん張ることが出来ずに前のめりに倒れていた。


     29

 じまあきはこぼれたボールを奪おうと、呻き倒れているやまゆうの脇を抜けた。


 しかし、奪うことは出来なかった。

 裕子がクリアしたのだ。


 倒れたまま顔だけを上げ、両手の力のみで身体を引きずらせ、ボールへと這い寄り、腕や腰の力で身体を回転させてその勢いで左足をぶるんと振るい、大きく蹴飛ばしたのである。


 もう裕子に苦痛の表情を隠す余裕はなく、酷い顔であった。

 残った根性を振り絞って、すぐさま立ち上がると、右足を引きずりながら、けんけんのように前へと走り出した。


 ハーフウェーラインを越えたところで、かなめがボールを拾った。だが、矢島彰子にどんと背中を突き飛ばされ、転ばされ、ボールを奪われてしまう。


 笛が鳴らなかったのは、久慈要の表情が見るからに疲労困憊という状態であったため、スリップと取られたのかも知れない。


 あっという間に、わらみなみPAペナルテイエリア内に、きようとうがつかんの選手が次々と入り込んだ。


 常勝を当然とされているエリート校ならではの、凄まじいまでの勝利への気迫、執念であった。


 境東学館、おおひとみはシュートを打つ振りをして横へパス、飛び込んだが右足を振り抜いた。


 バチン、という音が響き渡り、ゴレイロたけあきらの身体は後ろへのけ反った。凄まじい音であった。

 首がもげそうなほど強烈なシュートに、自分から突っ込んでいったのだから。


 晶は痛みに顔をしかめながら、床に落ちたボールに素早く這い寄ってキャッチした。


 混戦の混乱で、境東学館のおにつかよしもとほうが、晶の身体に躓いてゴールネットの中にどどっと倒れ込んでしまう。


 ぐ、と晶は呻いた。

 故意ではないだろうが、右のふくらはぎを踏まれたのだ。


 痛がっている暇はない。すぐに立ち上がって、ボールを投げた。

 ここで万が一にでも四秒ルールなど取られるわけにはいかないのだ。


 晶の鼻から、どっと血が流れ出た。

 先ほどの、シュート顔面直撃のせいだろう。


 それどころか、鼻の形がおかしくなっている。

 歪み、少し陥没してしまっている。

 鼻骨を骨折しているのかも知れないが、晶は試合に集中するあまり、全く気付いていないようであった。


     30

 じまあきは、対戦相手のなんともいえない不気味さに、改めて恐怖を感じていた。


 自分たちの方こそ意識的に、相手にそう思わせる雰囲気作りやプレーをしてきたはずだというのに。


 なんなの……この連中は……


 この場所からいますぐにでも走って逃げ出してしまいたいほどに、わらみなみの選手たちに対して積もり積もった恐怖心。


 彼女の精神は、ついに耐え切れずに悲鳴を上げた。

 西にしむらからのパスに、ゴールへと全力疾走で頭から飛び込んだいくやまさとが、顔面をポストに強打したのを間近で見た、その瞬間に。


「なんで、そこまでやれる!」


 叫んでいた。


     31

 相手を畏怖させたいくやまさとのガッツであったが、あとわずかの差でタイミングが合わず、報われなかった。

 顔を押さえ倒れている里子の横に、こんこんとボールが転がった。


 きようとうがつかんのゴレイロユニフォームを着た、パワープレー要員のがクリアしようとしたところ、じまあきは叫び声を上げて、そこへ突っ込んでいった。


 突き飛ばすようにして味方からボールを引ったくると、まるで恐怖から逃れようとしているかの形相で、ドリブルで駆け上がり、遥か遠目からシュートを打った。


 ただ蹴っただけといったボールは、クロスバーの上を大きく越えていった。


 わらみなみのゴールクリアランス。

 ゴレイロのたけあきらは、前線の奈々へと放り投げた。


 だが、奈々は処理を誤って、もたつくところ境東学館に奪われてしまった。


 境東学館は、再び猛攻を仕掛けた。

 ゴール前で、おにつかがフリーであった。


 矢島彰子からのパスが、通った。

 だが鬼塚美有は打たず、ワンタッチで横にいるおおひとみへとパスを出した。


 大田瞳には、里子がぴったりついていたが、巧みにマークをずらしてボールを受けると、その瞬間に振り向きながらシュートを放っていた。


 まさかフリーでシュートを打てる選手が、しっかりマークのついている方へパスを出すとは思うはずもなく、体勢を崩しかけた武田晶であったが、本能的といっていい反応を見せて、右手一本で弾いていた。


 こぼれをすかさず矢島彰子が狙い、詰め、強烈に蹴り込んでくるが、晶がボールへと飛び込む方が早かった。

 お腹に抱え込むように守る。


 いや、こぼれていた。

 相手の、矢島彰子の、気迫、プライドなのか、晶はほんのわずか処理を誤ってしまい、ボールはお腹から、こぼれ落ちていた。


     32

 これで同点だ!

 勝つのはきようとうがつかんだ!


 こぼれへと、再びじまあきが詰め寄って、シュートを打った。


 わらみなみのゴレイロはまだ倒れており、今度こそ決まり、同点になったはずであった。


 だが、確信は結果とイコールではなかった。


 呆然自失。

 信じられない出来事に、矢島彰子の頭の中は、真っ白になっていた。


 シュートが決まらなかったのだ。

 幼児でも決められるような状況であったというのに。


 うつ伏せに倒れている佐原南ゴレイロが、後ろへと右足を高く振り上げて、シュートを弾き飛ばしたのだ。


     33

 またまた起きたわらみなみゴレイロによるミラクルセーブに、観客席からどよめきがあがった。


 ゴレイロ、たけあきらは素早く立ち上がると、跳躍し、落ちてきたボールを、両手を使い、大きく前へ弾き飛ばした。


「ナイスパス!」


 生山里子が受け、くるり振り返って前を向き、走り出す。


 武田晶は、電光掲示板で残り時間を確認すると、ゴール前を空っぽにして、全力で、前へと駆け上がり始めた。

 もう残り時間はほんのわずか。もう引くのはやめて、全員で、前から守ろう。

 そういう意味を込めての、攻め上がりであろう。


 示し合わせなどしていないというのに、佐原南の選手たちに驚きの表情を浮かべる者は一人もいなかった。


 ベンチも含めて、感覚が完璧に同調しているのだ。


 晶は、里子からパスを受けた。

 きようとうがつかん主将の、じまあきと向かい合う。


 絶対に渡すわけにはいかない。と、晶は背を向けて、ボールをキープする。

 そこへおにつかが、必死の形相で突っ込んでくる。二人掛かりで、とにかくボールを奪うつもりだろう。


 晶は爪先でボールを浮かせると、反転、鬼塚美有の脇を抜けた。


 だが、次の瞬間、床に転がっていた。

 鬼塚美有が晶の袖を引っ張り、倒してしまったのだ。


 笛が鳴った。

 レッドカード。鬼塚美有に、退場処分が下された。


 泣きそうな顔でベンチへと戻る彼女へと、矢島彰子の狂ったような罵倒雑言の言葉が浴びせられた。対戦相手へ向けられたものではないとしても、あまりに酷く、さすがに審判が注意している。


 佐原南は第二PKを得た。キッカーは、かなめだ。

 パワープレー要員のから戻し、正ゴレイロの飛鳥あすかがゴール前に立った。


 審判の笛。

 久慈要は、隅を突く鋭いボールを蹴った。


 久保田飛鳥はなんとか足に当てて弾いた。素早く駆け寄り、前線へ大きなボールを蹴り込むと、自身も駆け上がった。


 やまゆうは、荒い息を吐き、痛みに顔をぐしゃぐしゃにし、涙を流しながら、ごぎりごぎりと聞く者の全身に鳥肌の立つようなおぞましい音を右の足首から発しながら、ボールの落下地点へと向かった。


 矢島彰子が、どんと身体をぶつけてきた。

 だが、裕子は必死の形相で踏ん張って、会場全体に轟くような大声で絶叫しながら矢島彰子を弾き飛ばすと、落ちてきたボールを頭で跳ね返した。


 そして、裕子は聞いた。


 長い、笛の音を。

 沸き上がる歓声を。


 裕子は、天井を見上げた。

 すべてが、真っ白な光に包まれた。

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