特別章 卒業

     1

 騒々しい。


 現在の教室の状況を端的に表すならば、この言葉が一番適切であろうか。

 無理もないことだ。

 みな本日から六年生になったばかり。

 新しい教室で、新しい仲間たちに囲まれているのだから。


 生徒たちは体育館で始業式を終え、つい先ほど教室に入って来たばかりだ。まだ担任の教師は来ていないので、みんな好き勝手に騒いでいる。


 元々から友達であったり、五年生の時に同じクラスであった者たちなどが、塊になって、楽しげに、より室内の喧騒を盛り上げている。


 やまゆうも、そんな中の一人だ。

 去年同じクラスだったまきなつぬまえつと一緒になり、年度やクラスが変わったことによる高揚感の中で、実に他愛のないお喋りを楽しんでいた。


「おう山猿」


 ツンツン頭の男子、たてまなぶが近付いてきた。彼もまた、去年裕子と一緒のクラスだった一人である。


 山猿とは、主に男子から呼ばれる裕子のあだ名だ。非常に痩せていて身が軽く、その割に意外と筋力もあってなんとも野生的に思えるところからそう呼ばれている。


 裕子は後に男子と見間違うような髪型になるのだが、現在では可愛らしいさらりとしたショートカットである。


「またお前と一緒かよ。しかし、猿の中でも一番バカな超激バカ猿のくせによく六年になれたよな」


 普通に出席だってしているし、公立小学校で進級出来ないわけがないのだが、とにかく立野学はそうからかった。


「うるせえな、ぶっとばすぞ!」


 裕子は実に簡単に乗せられ、すぐにブチンと切れる。だからよく男子からこのように標的にされる。


 足元に置いてあったランドセルを手に取りつつ、素早く立ち上がると、力一杯に投げ付けていた。

 逃げようとする立野学の背中にぶつけてやるつもりだったが、しかし狙いが外れ、他の男子の腰の辺りを真横から直撃。どす、と重そうな音が響いた。


「てめえなにすんだよ!」


 顔を真っ赤にして怒っているのは、確か去年四組だったむらよしひろだ。


「ごめんねごめんねー♪」


 こっちだってムカついてるし、さしてごめんと思っていないけど、とりあえずそう謝って、床に落ちたランドセルを取りにいく。あれ、そもそもなんでいま怒ってたんだっけ?


 野村義浩だけでなく、数人が集まって、一つの机を取り囲んでいる。その席に座っているのは女子生徒。ちらりと顔を見たが、まったく裕子の知らない子だ。


 裕子はランドセルを拾うと、自分の席へと戻った。

 背後から聞こえてくる男子たちの言葉から、どうやらあの女子生徒は、彼らにからかわれているようだ。


「うわあ、すっげえバカ」

「なんで一桁の足し算も出来ねえくせに六年になってんだよ」


 ぜきこうの言葉に、何故か裕子がドキッとしてしまうが、いまからかわれているのはあの女子生徒だ。


「出来るよそのくらい」


 と、その女子生徒がいったのだなと、裕子が理解するのに十秒かかった。それくらい喋り方がつっかえつっかえで、滑舌も異常に悪いのだ。


「むぇ  うぃ う お ふぉろ ふぉろ    くあ  い」


 より正確に近付けるなら、このような表記になるだろうか。前後の会話の流れを知らなかったら、とても聞き取れるものではない。


 その喋り方のせいであろうか。

 彼女が、からかわれているのは。

 それとも、他になにか理由があるのだろうか。


「誰、あの子。知ってる?」


 裕子は、牧野夏美たちの顔を見ながら尋ねた。


「去年四組だった子だよ」


 沼野悦子が答えた。喋っていることを周囲に聞かれたくないのか、ぼそぼそとした小さな声で。


「え、顔も知らない」


 裕子は隣の三組だったというのに。

 四組とは何回か合同で、イベントを行ったこともあるというのに。


「休むことが多かったらしいし。タギさんっていってね」


 悦子はいったん黙って、辺りを素早く見回すと言葉を続けた。


「知的障害者なんだって」


 背後から、「全然計算出来てねーじゃん」「バーカ」「なんでこのクラスにいんだよ知恵遅れのくせによ」などという男子たちの楽しげな声が聞こえてきた。


 取り囲んでいる男子だけではない。その周囲にいる他の男子も女子も、楽しそうに成り行きを見ていた。


 知的障害、

 知恵遅れ、


 裕子も聞いたことのある、よく知っている言葉だというのに、こうして改めて聞くと、その生々しさに小さな衝撃を受けた。


 本来使うべきでない言葉ということを知っていたし、実際に、生まれて始めてその言葉を音として耳にしたからだ。


 悦子の話によると、彼女は軽度の知的障害と重度の言語障害を抱えている。

 知的障害の軽さと、障害者学校への通学の大変さから、去年より普通の学校、つまりこの小学校で学んでいるとのことだ。


 やがて前のドアが開き、先生が入って来ると、これまで騒々しかった教室がようやくしんと静かになった。


 が、それも一瞬。

 本年度のクラス担任が分かったことで一斉に、「えーーーーっ!」と声が上がった。

 まあ新学年になると、どの教室でも見られる光景である。


 裕子たち新六年一組の生徒たちを、これから一年間担当するのは、よしおかはるひこ先生という、ひょろっとした若い教師である。


 先生が挨拶を終え、生徒たちの自己紹介に入る前に、改めて、先生からも聞かされることになった。

 あの女子生徒、ふみの障害について。


     2

 やまゆうは、坂道を歩いている。


 歩いているというより、急坂を登っている、いやいや、いっそ誇張して登山とでもいった方がよほど正確に近い表現かも知れない。


 アスファルトで舗装された立派な公道ではあるものの、下手な者が自動車を運転しようものなら絶対に上り切れないほどの急な斜面が、延々と続いているのだから。


 裕子の背中には、真っ赤なランドセル。下校途中である。


 丸っこいショートカットの可愛らしい髪の毛が、風にそよそよとなびいている。


 薄地の赤いジャンパーにデニムのショートパンツ、スニーカー。活発な性格だから活動的な服装ということに寸分も間違いはないのだが、過程に紆余曲折がある。


 両親としてはもう少し女の子らしくおしとやかになって貰いたく、以前は可愛らしいスカートを履かせたりもしていたのだ。しかし当の本人が動きにくかろうが破けようが、パンツが見えようが脱げようが、平気で駆け回り跳びはねるものだから、泣く泣くこうした服装に落ち着かせざるをえなかったというわけである。


 急坂を延々と登山していることを説明したが、山の中腹以降は直線がなく、ぐねぐねと曲がっているものだから、勾配こそ若干緩やかになるものの、木々や建物に阻まれてまったく上の方、登り着く先が見えてこない。


 見えてはこないが、よく分かっている。

 裕子は足を止めて、身体を横、麓の方へと向けた。

 眼下に町並みが広がっている。

 この場所が一番、視界が開けていて気持ちいいのだ。


 ここは神奈川県横浜市、海でも見えれば最高かも知れないが、ただ単に住宅地や田畑が見えているだけである。

 奥地の奥地であるさかえ区なので、海を見たいと思ったところでどうしようもないのだ。それに、この眺めだって充分に気持ちいい。


 眺望を堪能すると、また坂を上り始める。

 すっかり慣れ切っているような、一定の歩調。慣れているのは当前、小学校に入学してから五年以上、毎日毎日この道を通って登下校しているのだから。


 ようやく登り終えると、狭いながらも平坦な土地があり、そこにぎっちり敷き詰められたように住居が並んでいる。


 二十軒ほどはあるだろうか。

 その中に、裕子の住んでいる家もある。築三十年はゆうに経っていると思われる、見た目にもところどころガタの来ていそうな一軒家だ。


「ただいま!」


 裕子は玄関のドアを勢いよく開けた。


「いってきます!」


 長い廊下の向こうへとランドセルをぶん投げると、自身は中へ入らずドアを閉め、家に背を向け走り出した。


 家の中からの、母親の怒鳴り声を背中に、登ってきた坂をまた下り始める。

 身軽になったのと下り坂なので、速い速い。


 今日は、悦子たちと、公園で遊ぶ約束をしているのである。

 急がないと。


     3

 家に帰って来る頃には、陽もすっかりと暮れていた。

 とっくに、父親も帰宅していた。


 母のしずからは、勉強しないで遊んでばかりいて、と小言攻勢を受けたが、ゆうは全然気にしたふうもない。毎日のことなので慣れっこなのだ。


 テレビを見たりなどして、しばらく過ごしていると、やがて夕食の時間になった。


「そしたらね、クラスに知恵遅れの子がいてさあ」


 父母と、中学生の兄と、四角いテーブルを囲んでいる。

 今日から始まった新学年について、どうだったかと母が尋ねてきたので、本年度注目ポイントの一つとしてふみのことを話題に出してみたのだ。

 そうしたら間髪入れず父に、


「その言葉はやめなさい。知的障害者、ということ。そもそもあまり、そういう子の話なんかは軽々しくするもんじゃない」


 と注意されてしまった。


「それで病気が治るわけじゃないじゃん。知的障害っていえば、その子は傷つかないのかよ」


 裕子はすかさずいい返した。


「分からん」


 父は出版に携わる仕事をしているらしく、そのため発言自粛傾向にある言葉に対してやたらと敏感なのである。


「言葉をすり代えたって、なんの意味もないじゃん。そういうのって、接する気持ちそのものが大事なんだろ」


 生意気なことをいってみる。

 実は、裕子はわざと知恵遅れという言葉を使ってみたのだ。大人がどんな反応をするのか見てみたくて。

 それは半分は好奇心と、四分の一は反骨心と、残り四分の一は自分でもよく分からない感情から。


「そういう気持ちがあるから、言葉を置き換えるんだよ。もうやめろ、その話は」


 ふーんだ、このメガネザル。裕子は心の中で毒づいた。


 父は眼鏡はかけているものの、四角く実直そうな顔立ちでどこからどう見ても猿には見えない、が、山猿の親だから猿なのだ、眼鏡かけてるからメガネザルなのだ。


 とにかく、だ、大人の反応はよく分かった。

 こういう話題を避けたがる。煙たがる。


 自分の父がこういう言葉により敏感というのを差し引きしても、自分の感じたことにほぼ間違いはないだろう。


 言葉の置き換えにしたって、障害者に対してきちんと接するためなんかじゃない。

 単に面倒なこと考えなくていいように、自称健常者の大人側が適当にラインを引いただけなのだ。


     4

 身体が動かない、

 口が回らない、

 回っても、喋る言葉が浮かんでこない、


 それって、どんな感じなんだろうか。

 自分が自分じゃない感じなんだろうか。

 それは相当にもどかしいものなのだろうか。

 それとも、それがもう完全に楽な自然体の自分であり、違和感も何もないのだろうか。

 むしろぺらぺら喋れてしまうと、それはもう自分でなくて、わけ分からなくなってしまうのだろうか。


 ゆうは、自室で学習机に向かっている。

 五年生の時は、居残り勉強やら強制課題やらで非常に苦労した。先ほどの母の言葉ももっともだと思い、今年こそは予習などという高尚なる行為を自主的にやってみるようにしようか、と席に着いたのだが、やっぱり無理だ。勉強と関係のない色々なことが頭に浮かんでしまい、まったく集中が出来ない。


 むきゃー、と奇声をあげ、教科書をベッドに放り投げた。


「こんなんやってられっか!」


 苦行か! 算数の、簡単な例題の部分すらもさっぱり分からないし、理科なんかルビ振ってないところの漢字がまったく読めないんだもの。ようやく読めても意味が理解出来ん!


 あ……

 もしかして、こんな感じ?


     5

 両輪とも地に着いているというのに、空気を引き裂くこの感覚はまさに自由落下そのもの。


 ガタガタガタガタ、ガタガタガタガタ、細かな振動が凄まじく、いまこの瞬間にバラバラに分解して真空宇宙に身を投げ出されたとしても、なんら不思議ではないだろう。


「うおっほほーーーーーーっ!」


 やまゆうは、兄であるたかしの背中の裏で、けたたましい叫び声をあげている。


 二人は登校中。

 自転車で、通学路でもある急坂を下っているところだ。


 道の上の方は蛇行しているためにブレーキをかけながらゆっくり下るしかないのだが、真ん中くらいから麓までが見晴らしのよいストレートコース、蛇行していない分だけ角度もより急になるので、ろくにブレーキをかけずとなるとそれはもう凄まじい世界が待っている。


 兄としては最後までゆっくり安全に下りたいのであろうが、乱暴者の妹がうるさいので従ってしまっているというわけである。


「ぎょほほー、こえーーー、ジェットコースターよりこひぇぇえええ、むぴぴぴぴぴいいいいいいい」


 どっちにしてもうるさい妹君である。


「ぎゃーぎゃー叫ぶなよ、毎日毎日。舌かむぞ。あと人の首を掴むのはやめろ、腰か荷台のどっちかを持て…てっ、舌かんだ、畜生」

「ちょいストップ」


 もうすぐ坂も終わるという、まさに一番スピードに乗っているこのタイミングで、裕子はいきなり、道路端にある電柱を支えるワイヤーの黄色いカバーにがっしりとしがみついた。


 裕子の身体だけ宙ぶらり。

 孝一人となった自転車は急な変化にバランスを取れず、ガッシャーンというまさに漫画の擬音のような音をあげて転倒し、四回、転がって止まった。


「ストップじゃないよ! お前だけ勝手に飛び降りればいいだろ! その黄色いのにしがみついた瞬間に、自転車を思い切り腿で挟んで止めようとしたろ。アホか! あーあ、タイヤカバーが歪んじゃったじゃんかよ」


 兄の苦情に聞く耳持たず、ぶらりの状態から着地する裕子。まさに山猿のごとき身の軽さ。


 裕子が何故、いきなり自転車を停止させようとしたかというと、別の小さな坂道からふみがこの本道へ合流しようと下りてくるのが見えたからだ。


「兄貴ご苦労、もう行っていいよ」


 しっしっ、と犬猫を追い払うような仕草。


「田木さんっ。うおいっす」


 両腕ぶんぶん振り回しながら、駆け寄った。


「山野さん。おはようございます」


 という意味のことを喋ったのであろうが、田木文恵の滑舌は異常に悪く、なおかつ、つっかえつっかえで、裕子にはよく聞き取れなかった。


 出席の点呼以外ほとんど黙っている彼女であり、それ以外のことで喋るのを聞くのは久しぶりだが、やはり相変わらずの酷い喋り方であった。


「田木さんって、この辺に住んでんだ。途中から道が一緒なのに、全然会うことなかったね」


 一緒のクラスになったのが今年からだから、出会っていても記憶に残っていないだけかも知れないが。


「あたしは、たまに山野さんを見てた。よく自転車の後ろで、お兄ちゃんの髪の毛を両手で引っ張ってる」


 自分の障害を認識しているが故だろうか、彼女は非常にゆっくり、はっきりと喋ろうとする。


「えー、なんだ、見られてたか」


 そのことだけではなかった。

 裕子は田木文恵とこのように話しをするのは初めてだが、いざ会話をしてみると、彼女は実に詳しく裕子について知っていた。

 六年生になってからのことどころか、異なるクラス同士だった去年のことさえも。

 裕子のことだけではない。クラスの他の子のことも、随分色々と知っているようだ。


「え、ちょっと、なんで、そんなよく知ってんの?」


 ひょっとして、仙人様?

 雲から落ちちゃって、いまちょっと下界にいるだけ?


「だって、学校で、そういうこと話してたから」

「え、でも」


 直接話したことなんかないのに……

 よくよく話を聞いてみると、どうやら、周囲の生徒たちの雑談や、授業での発言や、そうした耳から入る情報を、彼女はこと細かく全て覚えているらしいのだ。


「なんだそりゃ、すっげー記憶力じゃん。うらやましいなあ」

「役に立たないよ。テストの用紙を見ると全く答えが思いつかないんだから。あたし、自分の名前もひらがなでしか書けないんだよ。それでもよく間違うし。漢字は『一』しか書けない。脳のね、そういう部分がダメなんだって」


 幼稚園児のような、いや、それ以上にたどたどしい喋り方で、彼女は自分の障害について語った。


 実際その通りで、徐々に裕子も知ることになるのだが、田木文恵は他人の会話を単に音として確実に覚えてはいるが、その会話から情景を想像する能力が皆無であった。また、会話をすべて覚えているくせに、それを文字にすることが出来ない。


 以前に行なった脳の検査で、母親に、テスト問題の解答を事前に読み上げて貰い、耳から取り入れた音の情報として母の言葉を確実に記憶したにもかかわらず、いざ紙を前に何も書けなかったらしい。何年も経った現在でも、その時の母の言葉を一言一句間違わずに口に出せるというのにだ。


「テスト出来ないのは、あたしも同じだから。だからやっぱり、そういう、なんていうんだ、スーパーな記憶力があるってだけでうらやましいよ」


 裕子は本心からそう思い、思いのままを素直に口にしていた。でもやっぱりちょっと悔しいので、自分の得意な方向へと話題を変えた。


「来週、運動会あるじゃん。田木さん何に出たいの?」


 五月の中旬、春の運動会だ。

 体育は裕子にとってもっとも得意な、いや、唯一得意な教科であり、当然運動会もいつも楽しみにしているのである。


「動くの得意じゃないから出たくない。みんなにもっと嫌われちゃう」

「誰が嫌うんだよ。……お、エッちゃんだ。じゃ、また学校でね」


 前方に、同じクラスのぬまえつの背中が見えたので、裕子は田木文恵と別れて、そちらへと走り出した。


「エッちゃん、うおーす! 今日もいい天気ィ!」


 裕子は、悦子の背後から、ランドセルをばしばしと叩いた。


「おはよう」


 二人は肩を並べた。


「ね、昨日のさ、鉛筆の神様見た?」


 中学受験をテーマにしたドラマだ。主人公の言動の痛快さから勉強嫌いな子供にも人気があり、視聴率は高い。


「見忘れちゃった」


 悦子は、ちらりと後ろを振り返った。ゆっくりゆっくりと、田木文恵が一人で歩いている。


「あんまり、仲良く話さない方がいいよ」


 普段よりちょっと低めのトーンで、悦子はいった。


「なんで?」


 全く意味が飲み込めなかったので、裕子は尋ねてみた。


「だって……いじめられるじゃん」

「え、なんで。田木さんと話すと、なんでいじめられんの?」


 意味不明だ。

 悦子は、何故そう思うのかごく一般的な理由を答えたが、それは裕子をさらに混乱させるだけであった。


     6

「じゃ、おれパン食い走」

「ヨシオ、楽なのばかり選んでてズルいぞ!」


 四時限目は学活の時間。

 今日の議題は、今月行われる運動会の出場競技を決めることだ。


 学級委員長であるばしゆうろうの進行のもと、立候補や推薦で各競技は次々に決まっていく。


 なおゆうは立候補で、女子の百メートル走に決まった。


 参加競技の決定は順調に進んでいったが、やがて教室に、実に重たい雰囲気が訪れることになった。


 ふみをどうするか。


 学級委員長も他の生徒たちも避けて触れずにいたのだが、よしおか先生に指摘され、うやむやにしておくことが出来なくなった。


「田木さん、なにか出たい競技はありますか」


 学級委員長が尋ねるが、田木文恵は自席で下を向いたままであった。


「誰が推薦する人はいませんか」


 他薦を求めるが、誰も手をあげる者はいなかった。

 それは、そうだろう。

 なんでも彼女は昨年の運動会で、五十メートル走でスタートから逆方向に走ってしまったとのことだ。


 運動神経が鈍い鈍くないという問題ではない。

 競技が成り立つのか否かまったく予測もつかず、誰も、彼女を推薦することにより責任が生じるのが嫌なのだ。


 誰も、といっても全員ではない。やまゆうは、推薦するのなら、なにがいいんだろうなあ、と黒板に書かれているまだ出場者の決まっていない競技名を見ながら、ぶつぶつと呟いている。


 そう、他の生徒は田木文恵に関わるのを避けての無言であったが、裕子は田木文恵に関わって思案中の無言であった。


 と、その時である。裕子の隣席に座るおおさわしんろうが、突然、


「ほんっとバァカがクラスにいると困るよなあ」


 誰の耳にも入るような声でぼやいた。

 しん、と教室が静まり返った。


 生徒たちの顔は様々で、ニヤニヤしている者もいれば、気まずさに硬直してしまっている者もいる。


 その静けさも長くは続かなかった。

 さすがにその発言を注意しようとした吉岡先生、よりも先に裕子が立ち上がり怒鳴ったのである。


「ブァァカで、悪かったなぁ!」


 裕子は慎太郎の言葉の意味どころか、それが誰へ向けた台詞なのかすらも考えることなく、ただ単に普段からバカバカいわれてることから脊髄反射的にカッとなっただけなのであるが。

 どうであれ腹立ったことに変わりなく、慎太郎の机から教科書を取り出して引き裂こうとする。


「てめえ、山猿! なにすんだよ!」

「頭いいんなら教科書なんていらねえだろ! 全部覚えてんだろ当然。うおりゃああ!」

「うわ、ほんとに破ったこいつ、信じらんねえ!」


 慎太郎と裕子の二人は、吉岡先生に怒られ、教室の後ろに立たされることとなったのであった。


     7

 空は快晴。

 雲一つない青い空が、どこまでも広がっている。


 ゆうなのか他の誰かなのか、それともこの学校がなのか、誰が晴れ女、晴れ男、晴れ学校? なのかは分からないが、とにかく裕子がこの小学校に入学してからというもの、春秋の運動会で天気の悪かった試しが一度たりともない。

 まあ、例え悪天候の運動会になろうとも、さして裕子は気にしなかったであろうが。


「大丈夫だって。こんなもん、気楽にやりゃあいいんだからさ」


 先ほどからふみが下を向いてじっと地面を見つめており、それを緊張していると思った裕子は、そういって彼女の肩を軽く叩いた。


 田木文恵はいきなり顔を上げ、裕子の顔を見た。

 ちょっとだけ沈黙、二人は見つめ合った。


「ちゃんと出来る人はいいんだよ」


 それだけいうと、田木文恵はまた下を向いてしまった。


 いい返されて、裕子はちょっと考え込んでしまった。

 確かに、これが算数のテストだったら自分の方こそ答案用紙破って逃げてしまったかも知れないからだ。


 現在、朝礼台の前に女子生徒が二十人、整列している。白いシャツに、紺のショートパンツ。みな六年生だ。裕子たちもその中にいる。


 これから行われる種目はスエーデンリレー。

 実際にはその縮小版で、単なる小学生向けのメドレーリレーだ。第一走者から五十、百、百五十、二百メートルを走るのである。


 裕子は既に個人競技は終えているが、この競技の参加人数が足らず、出ることにしたのである。


 第一走者は田木文恵。

 裕子は第四走者、アンカーだ。


     8

 話は少し遡る。先に述べた、参加種目決めのところにまで。


 スエーデンリレーは誰も立候補者がおらず、まずは、まだなにも選んでいなかったふじしろの二人が推薦で、本人たちも特に拒否しなかったため、決まった。


 その二人が、あまり足の速くない者であったため、もうどうなろうとも結果は同じであろう、と生徒たちの必然的ともいえる意思が働いて、ふみも推薦でそこに当てはめられることになった。


 スエーデンリレーは四人競技。

 あと一人をどうするか、というところで、先ほどの教科書引裂き騒動でまだ教室の後ろに立たされているやまゆうが挙手、立候補した。


 まだあと一種目出ることが出来るから、というだけでなく、田木文恵を邪険にしてるみんなの態度が面白くないという単純な反発心から。


「山猿が全員分走っていいなら一等間違いないけど、田木なんかがいたら、もうドンケツ間違いなしだな。他だって、藤城と羽地だもんな」


 裕子の隣で、一緒に立たされているおおさわしんろうが、また横槍を入れる。


「そんなもん、やってみなきゃ分かんねーじゃんかよ! つうか、一等取りゃいいんだろ!」


 裕子は、慎太郎に激しく肩をぶつけ、どーんと突き飛ばした。


     9

 鉄砲によるスタートの合図が鳴り響いた。

 第一走者、一斉にスタートだ。

 ふみも走り出す。

 BGMは天国と地獄。


 去年は反対方向に走りこそしたが、田木文恵は、スピードはそれほど遅くはなかったという話だ。

 真っ直ぐ走ってくれさえすれば、たかだか五十メートル、ビリだとしても大差はつかないだろう。

 とやまゆうは思っていたのであるが、なんと恐ろしいまでの大差がついてしまった。


 コースを外れずに真っ直ぐ、みんなと同じ、正方向へと進む。それに全神経、脳細胞を集中させているのだろうか。


 手を振る動作は走っている時のそれではあるが、実際には歩いているのとほぼ変わらないくらいの速度しか出ておらず、ようやく五十メートルを走り終えた時には、すでに他チームは、第二走者が第三走者へとバトンを渡そうとしていた。


 田木文恵からバトンを受け取り百メートルを走るのは、ふじしろだ。


 心なしか、先ほど待機していた時よりも緊張のとけた顔であった。実際の心境としても、その表情の通りなのだろう。

 すぐそばに他の走者がいるなら比較されてもしまうが、ここまで差がついているからには、自分の足の遅さなどまったく目立たないからだ。

 と、リラックス出来たためか、他の走者たちもあまり足が速くなかったためか、それは分からないが、走り終えてみれば若干ながら上位と差を詰めることが出来ていた。

 圧倒的な最下位である状況には、なんの変化もなかったが。


 歓声の響く中、続いて第三走者であるが走り出した。

 肥満した身体で、地響きを立てるかのように。


 せっかく少し縮まった先行集団との差が、また少し開いてしまったようだ。他はもう、次々とアンカー、第四走者がスタートしている。


 先行するほとんどの者とは差をあけられてしまったが、六年二組の第三走者がバトンを落としてしまい、先頭集団から大きく引き離されてしまっていた。

 そのチームとだけは、僅かながら距離を縮めることが出来たが、それでもまだまだ遥か前方であった。

 羽地小枝子はどすどすと地響き立てながら、ようやく交代ゾーンへ。


 最後のバトンを、裕子は、ゆっくりと走りながら受けとった。

 瞬発力。足にターボエンジンでも装着されているのか、一瞬にしてトップスピードへ達していた。


 速い。

 実に速い。

 車輪のようにくるくると足が回り、空気抵抗すら無いものかのようにトラックをぐいぐいと突き進んでいく。

 コーナーを曲がり終え、残り百メートルのストレートコースに入った。


 その時、トップの走者がゴールイン。

 残りの走者らも、ゴールまであとほんの少しの距離だ。


 第三走者がバトンを落としたことで遅れた六年二組のアンカーが、まだ残り五十メートル付近を走っている。


 周囲の歓声がひときわ大きくなった。裕子が驚異的な追い上げを見せ、二組との差をみるみるうちに縮めていったからだ。


 ゴールまで残り三十メートル、二十メートル、

 ついに背中を捉えた。

 二組のアンカーは逃げ切ろうと必死に走るが、裕子の方が遥かに速い。

 ぐんぐんと差を詰める。あと一歩の距離で、肩が並ぶ。


 しかし、追撃もここまでだった。

 コンマ何秒というほんの僅かな差で、二組のアンカーが先にゴールインしたのだ。


 こうしてスエーデンリレーは終了。裕子のクラスは最下位になった。


 走り終えた途端にばったりと倒れた裕子は、体操着が汚れるのも構わず、そのままゴロゴロと転がってコースから出ると、大の字になって晴れ渡った空を見上げた。

 田木文恵がやってきて、裕子の傍らに立った。


「ごめんなさい」


 彼女は必死な表情でゆっくり口を動かし、なんとかそう聞き取れる発音をすると、頭を下げた。


「なにが?」


 裕子は尋ねた。本心から疑問であったから。


 また、田木文恵は懸命に口を動かした。

 彼女の発した言葉を要約すると、次の通りであった。


 走ることを頑張れず、酷い結果になってしまった。

 気楽にやろうと声をかけてくれたのに、気楽にやることすらも頑張ることが出来なかった。


 そのようなことを、田木文恵は泣き出しそうな顔で、頭を下げて謝罪したのだった。


「なにいってんだ。田木さん、頑張ったよ」


 見ていて、それは痛々しいほどに。


     10

 七月二十日、水曜日。

 一学期の終業式を数日後に控えた、高温と湿気で蒸しあげられるような猛暑日であった。


 六年一組の教室は現在、気温に劣らずの熱く激しい空気に包まれていた。


 ただしそれは、決して健全なものとはいえなかった。

 教室の中央で、取っ組み合いの大喧嘩が行なわれているのである。


 他の生徒たちは机を周囲に避け、ぐるりと輪を描いて取り囲み、当人たちをはやしたてている。


 喧嘩しているのは、ふじおかふたやまゆうだ。

 お互いの顔を押さえつけながら、ごろんごろんと床を転がっている。


 誰がどう見ても、男の子同士の喧嘩にしか思えないだろう。

 裕子は、ほとんど坊主といっていい短く刈った頭髪になっていたからだ。


 実際、ほとんどではなく完全な坊主頭になったのだ。二ヶ月前に。


 運動会のスエーデンリレーで一等を取れなかった裕子は、おおさわしんろうとの口約束を果たすため、女子としてはちょっと信じられない五分刈りにしてしまったのである。


 二ヶ月も経ってその状態からはだいぶ伸びてきたものの、まだまだどう見ても男の子である。


 取っ組み合いの喧嘩であるが、どちらかといえば裕子が劣勢であった。


 藤岡二也は他の男子と比べても非常に大柄で、裕子より二回りは大きいであろう。体重も、二倍は違うかに見える。

 若干劣勢とはいえ、条件を考えると相当に善戦しているともいえた。


「お、藤岡選手、また上になりました。ここからどんな攻撃を繰り出すつもりなのでしょう」


 男子生徒の一人が、ホウキの柄を口に近付けて、勝手に実況を始めていた。


「いてててて!」


 藤岡二也は突然、悲鳴を上げた。裕子に髪の毛を引っ張られたのだ。

 同じことをやり返そうとするが、裕子は坊主頭、掴めるほどの髪の毛はなく、つるりと滑ってしまう。かわりに裕子の顔をわし掴み、ぐっと押さえつける藤岡二也であったが、


「いててて!」


 また悲鳴をあげた。今度は裕子に、指を噛まれたのだ。


「謝ってやれっていってんだよ!」


 裕子は隙をついて上へと回り、馬乗りになった。


「関係ねーだろバカ!」


 下から伸びる藤岡二也の拳が、裕子の顔面を捉えた。

 ごっ、と骨が鳴るような鈍い音とともに、裕子の軽い身体は浮き上がり、吹っ飛んでいた。

 床を転がった。


 激痛と目眩を堪え、裕子は、隙を作るまいとすぐさま上体を起こした。

 きっと藤岡二也を睨み付ける。


 なんだか、鉄の臭いが漂ってきた。

 と思ったら、ドロリ、と裕子の鼻から何か熱いものが流れ出て来た。


 拭ってみると、それは真っ赤な色であった。

 腕でごしごし擦りつけたことで、顔の下半分が血に塗れて、取り囲んでいる女子の何人かが悲鳴を上げた。


「関係ねえくせにギャーギャー突っ掛かってくっからだよ!」


 流血騒動になったことで、藤岡二也も動揺を隠せないようであった。


 彼は、うろたえたような早口でそういうと、裕子に背を向け、その場から逃げ出そうと、そそくさと教室のドアへと歩き出した。


 逃げるはそちらの勝手、裕子の方はまだやる気満々であった。

 根本が、なにも終っていないからだ。


 そして、鼻血を出したことによって我をなくしてしまっていた。

 立ち上がり、もう一度鼻の下を拭うと、全力で、藤岡二也へと向かっていた。


「死ね!」


 裕子は、飛んだ。


 藤岡二也が丁度ドアに手をかけたところ、背中に容赦ない全速力の飛び蹴りを食らい、彼の大柄な身体はドアごと廊下へと吹っ飛ばされていた。

 ごろんと転がり、そこへ外れたドアが倒れてきた。

 ううー、と唸ったきり、藤岡二也はぐったりと、のびてしまった。


     11

 やましずは、相談室へ入ってくるなり自分の履いていたスリッパを脱ぎ、娘の頭を引っ叩いた

 静まり返った部屋に、ズパーンと凄まじい音が響いた。


「先生は、もう殴りましたか?」


 静江は、真剣な表情でよしおかはるひこ先生へ尋ねる。


「いえ、そんな、とんでもない」


 当然だ。あまりに聞き分けがない生徒なら、廊下に立たせるくらいの先生はいるが、それだって怒鳴り込んで苦情をいいにくる親もいるというこの教師受難の現代、殴りなどしたら大問題になってしまう。


 ズパーン。


 また、音が響いた。先生の分、ということだろう。


「それで先生、うちの娘がなにか?」

「なにも知らねえくせに殴ったのかよ! 二度も!」


 娘、不満爆発だ。


「あんたは黙ってな」


 冷たくあしらわれ、ゆうは憮然とした表情を作り立てた片膝で頬杖をついた。

 右の鼻には、ティッシュが詰まっている。

 先ほど、大量の鼻血を出したのだ。


 裕子のいう通り、静江はまだ何も先生から聞かされていなかった。

 クラスの男子と喧嘩したということまでは電話で聞いたが、「すぐ行きます!」とすぐに切ってしまったものだから。

 どのみち学校へ呼び出されたわけだし、自転車で急坂を下れば十分もかからないのだから、とのことであった。


 相談室にいるのは、六年一組の担任教師であるよしおか先生と、裕子、裕子の母である静江の三人だ。


 喧嘩相手であるふじおかふたは、後で話を聞くため教室に待機させている。

 あと一時間ほどで、彼も母親が来るとのことだ。


 彼もかなりの悪ガキで、親もそれを重々承知しているようで、電話口でまだほとんど話を聞かないうちに申し訳ございませんと謝っていたそうである。


 結局、静江が先生から聞くことが出来たのは、次のような内容であった。



  裕子と藤岡二也が喧嘩をした。

  殴り合いの、大喧嘩。

  どうやら、先に問題行動を起こしたのは藤岡二也らしい。

  先に相手を怪我させたのは藤岡二也らしい。



 というようなこと。


「なんで、そんな喧嘩になったんでしょうか」

「それが、全然話してくれないんですよ。藤岡も、クラスのみんなも」


 吉岡先生は、すっかり困った顔で頭を掻いた。


「裕子、悪いことして迷惑かけたと思ってるなら本当のこといいな」


 静江は、厳しい表情を娘に向けた。


「悪いと思ってないから絶対にいわない」

「口裂くよ!」


 両手を娘の口元に持っていくと、横に強く引っ張った。


「いへへ! あたひれったい悪ふらいもん!」

「だから、そうかどうか、説明しなきゃ分からないでしょが!」

「いいたくない」


 裕子は涙目で、静江を睨み付けた。


「このガキ!」

「クソババア!」

「てめえ、あんまり舐めっと殺すぞ!」


 静江は、裕子の口元を引っ張る手に、さらに力を込めた。


「あの、お母さん……」


 先生が、青いような赤いような複雑な色を顔に浮かべているのを見て、静江は、はっと我に返ったようであった。


「あ、すみません、取り乱しちゃって。でもね、先生もビシバシ殴っちゃっていいんですからね。ほんと意地っ張り娘なんで困るんですよ。たまには裕子の方が正しいこともあるんですが、ごめんねって謝っておけば三歩で忘れますから」


 などと母が無茶苦茶なことをいっていると、唐突に相談室のドアが開いた。

 ふみが立っていた。


 無言で、肩を大きく上下させている。

 裕子たちのことを聞き、走り回って探したのだろうか。


 どうやら、無言ではなく何か喋ろうとしているようだ。口が震えるように動いている。


 だが口からは、はふーっと大きな呼気が洩れるばかりで、全然言葉が出てこない。


 必死な表情で、大きく、口を開いた。

 だがやはり、声にならない音が出ているだけで、なにをいっているのかがさっぱり分からなかった。


 やがて田木文恵は、突っ立ったまま天井を見上げて幼児のように泣き出してしまった。


 泣きながらも、なお必死になにかを伝え続けようと口を動かしている。自らの泣き声に触発されたのか、単なる呼気のようだった声が僅かながら聞き取れるものになってきていた。


「山野さんは悪くないんです」


 どうやら、そういっているようであった。

 何度も繰り返される言葉から、段々といわんとすることが掴めてきた。


 田木文恵は、クラスの生徒たちにいじめのような扱いを受けており、そんな彼女に平気で接する裕子もまた、同様の目にあっていたのである。


     12

  田木文恵とは、徹底的に言葉をかわさないこと。

  何故ならば、喋ると知恵遅れが伝染するから。

  身体に触れても当然伝染。

  口をきいてしまった時はうがい、

  触れてしまった時はその箇所を洗う。

  それにより感染を防げる。ただしタイムリミットは一分。

  クラスの自治自衛のための鉄の掟とすべし。



 そんな文章が授業中に誰からだか回るようになり、でも裕子は回さず破り捨てて、その後も平気で田木文恵と喋っていたものだから、最近すっかりクラス中から無視されていた。


 友達のえつなつも、学校以外では普通に接してくれるが、学校内ではあまり近寄ろうとしなくなった。

 それは仕方のないことと、裕子も理解している。

 むしろ、ほとぼり冷めるまでどこであれ自分に近付くなといっているくらいだ。


 面白い気分ではないが、悦子たちまでがクラスでいじめられるよりはずっとましだ。


 昼休みのことである。

 ふみが、ゆっくりゆっくりと歩いていると、いきなりなにかに引っ掛かったかのように前のめりに転んだ。実際、引っ掛かったのだ。ふじおかふたが伸ばした足に。


「わ、やべえ、触っちまった。早く洗わねえと知恵遅れが伝染するう!」

「こっちくんなよ! 藤岡えんがちょ!」


 藤岡二也の周囲にいる男子は、みんなで楽しげに大笑い。


「お前らの、そのどうしようもない性格のほうが、ネバネバしててよっぽど感染しそうで怖いよ」


 裕子は、机と机の間に立って、手を洗いに教室を出ようとする藤岡二也の通り道をふさいだ。

 自身が受けている陰湿ないじめにも、いい加減我慢の限界というところへ、いまの田木文恵の件が引き金となって、もうブチ切れる寸前の裕子であった。


「お前には関係ないだろ」


 無視の掟を解除して、藤岡二也は思わず口を開いた。


「あるでしょ。たっぷりとさあ」


 裕子は、ニンマリとした笑みを浮かべた。


     13

 そうして、殴り合いの大喧嘩が始まったのだった。

 ふみのたどたどしい証言から、よしおか先生がふじおかふたを追求したところ白状し、判明したことである。


 教室に残っていた男女何人かに、先生が尋ねたところ、やはり間違いのない事実のようであった。

 生徒たちがなかなか真実を打ち明けなかったのは、自分たちがいじめる側であったため、

 そして、ゆうが頑なに口を割らなかったのは田木文恵へのいじめがより陰湿化するのを防ぐためだったのだ。


「お前が頑張らなくていい。先生がなんとかするから」


 吉岡先生の言葉を信じて、裕子は学校を後にすることになった。


 母は自転車で先に帰り、裕子は校門から続く細い歩道を田木文恵と一緒に歩いている。


 二人とも、なんだか元気のない足取りである。

 田木文恵は、ずっと下を向いている。

 いつまでも。


 裕子は、田木文恵を横目でちらりと見る。

 どうやら蟻を探しているわけでは、ないようであるが。


 長いため息をつく裕子。

 二人はゆっくりと歩き続ける。


「ごめんなさい」


 やがて、田木文恵が口を開いた。聞き取りにくい、くぐもった声であるが、確かにそういった。

 裕子はなにも返さず、再び、沈黙が場を支配した。


 三十秒ほど経った頃であろうか。裕子が口を開いたのは。


「つうかさあ、なんでそんなさあ、いつもおどおどおどおどしてんだよ。障害者だろうがなんだろうが、悪いことしてないなら堂々としてりゃいいじゃんかよ。それに、山野さん悪くありませんじゃねえよ、喧嘩してぶっ飛ばしちゃったんだから、あたしが悪いんだよ。それを、なに勝手に背負ってんだか。暗いんだよ!」


 裕子は前方に目をやったまま。田木文恵をちらりとも見なかった。


 横目に、微かになにか口を動かしかけているのが見える。

 田木文恵はなにかいおうとしているようだが、結局それはまったく言葉にはならず、やがて、ギクシャクとした早足で裕子の前から去って行ってしまった。


「なんだよ、ありゃ」


 裕子は不満げな表情を隠さない。

 ちょっときつい言葉をぶつけてしまったかも知れないけど、それが悪いとは思っていない。


 他のやつらなんか、いじめたり、無視したりしてるじゃないか。

 対等と思えばこそ、こうやって指摘してやったんだから。

 なにも、こちらが悪く思う必要なんかない。

 心の中だけど、もう一回いってやる。

 暗い暗い暗い田木文恵!

 逃げてばかりの、下を向いてばかりの田木文恵!

 悔しかったら戦ってみろ!


     14

 夏休みになった。

 ゆうたち六年一組の生徒には、他クラスでは味わうことの出来ないイベントが用意されていた。

 それは、実に不本意きわまりないものであったが。


 今日、この場所にはクラスの全員が集まっていた。

 担任のよしおか先生もいる。

 それだけではなく、見たことのない大人が大勢いる。みな、黒いスーツなど落ち着いた服装である。


 誰もが、暗く、沈んだような表情をしている。


 泣き声が聞こえてきた。

 中央に置かれている木のお棺にすがるように、中年の女性が泣いているのだ。最初は声を押し殺していたが、それはすぐに、喚くような激しい泣き声へと変わった。


 このお棺の中になにが入っているのか……誰が納められているのか、みんな、知っている。だって、大人たちが着ているのは喪服、ここは葬儀場なのだから。


 ふみ。裕子たちのクラスメートだ。お棺にすがって大声を上げて泣いているのは、彼女の母親である。


 数日前の昼、陽炎立ち昇るような炎天下の中、駅のホームから、入ってくる電車に飛び込んだのだ。


 当然、その亡骸は美しいはずもなく、それどころか五体満足であるはずもなく、あらかじめ納棺された状態で、誰にも中を見られないよう閉じられ釘が打たれている。

 上部の小窓が開いて、顔だけは見えるようになっている。

 肌の状態をごまかすためか、一般的な葬儀の時よりも、相当に厚く、化粧が施されている。


 山野裕子は、白のブラウスに黒いスカートといった姿で、場内の隅っこに立っている。

 下を向いている。


 少し前に、仏の顔を見て手を合わせたばかりだ。


 裕子は先ほどから、悔しいような、さびしいような、そんな表情を浮かべている。


 たまになんとももどかしそうに顔を上げ、周囲の子らや、先生を睨みつけるが、負の感情がめぐりめぐって自分に突き刺さり、また下を向いてもとの表情へと戻る。

 そんなことを、延々と繰り返していた。


     15

 やまゆうが自宅へ帰ってくるのと、ほとんど同時に雨が降って来た。


 ぽつり、ぽつりと大きな雨粒。

 あっという間に、少し先も見通せないくらいの土砂降りになった。


 そのため、まだ夕方の五時にもなっていないというのに、家の中はどんよりと暗かった。


 家には母がいたが、裕子は全く口を開くこともなく、すぐ二階へ。自室へと閉じこもった。

 ベッドに横になり、天井を見上げた。


 しばらくは、なにも考えることが出来なかった。

 知っている人間が死んだということを、どうしても感情が受け入れることが出来ないでいた。


 どれくらいの時間が過ぎただろうか。

 雨はやんだようであるが、もう時間も遅く、部屋は完全に、真っ暗闇になっていた。


 感情が少しだけ落ち着いて、考えることが出来るようになると、自分を責めた。

 ふみは、クラスで邪険にされ、知的障害者であることをからかわれ、陰湿ないじめも受けていた。

 自分はそんなことしない、自分は障害者だろうと気しない、と、その程度でしかなかったのではないだろうか。自分の認識、考えというのは。


 しかも、自分は彼女にちゃんと接してやっている、と、どこか上に立った目線ではなかっただろうか。


 ただの一人も、味方がいない。彼女は、そう思ってしまったんじゃないだろうか。


 なによりも裕子を落ち込ませるのが、裕子と田木文恵との最後の会話。

 あの、ふじおかふたと喧嘩した日のことだ。


 すっかり弱気になっている田木文恵に対し、裕子はついイライラして厳しいことをいってしまった。対等に思えばこそだ、などと自分をごまかしながら。


 もしかしたらあれこそが、彼女が自身の人生を終わらせる直接のきっかけだったのではないか。


 どうせ知恵遅れ。

 だから真剣に悩むことなんかない。

 なにを考えてんのか分からない口調だし、表情だし。


 心のどこかで、そう思ってやしなかったか。

 自分のその言葉がきっかけでなかったとしても、まったく関係なかったとしても、とにかく自分はなにもせず、単なる自己満足に浸っていて、悩んでいる彼女を見殺しにしてしまったことに変わりはない。


 なにか、出来たのではないか。

 もっと、なにかをすべきだったのではないか。


 それでどうなったかなんて分からないけど、でもこんなことになってしまうくらいなら、もっともっと踏み込んでおけばよかった。土足だろうとなんだろうと。


 人間なんだから。接する他人の態度で、傷もつけば、落ち込みもする。死にたくだってなる。

 だからこそ、接する他人の態度で、助けることだって出来たはずだ。

 それなのに……


 裕子は自分でも気づかないうちに、泣き出していた。

 ベッドの上で、膝に顔を埋め、涙を流し、声を漏らし、嗚咽していた。


 しばらくして自分が泣いていることに気づくと、感情が一気にたかまって、涙がどっと引き出されて溢れ出た。


 ごめんね、ごめんね、と田木文恵に謝り続けていた。


 涙がいつまでも、いつまでもとまらなかった。

 いまにも干からびてしまうのではないか、というくらいに、真っ暗な部屋で祐子は泣き続けた。


     16

 それから半年が過ぎた。

 ゆうは小学校を卒業。と同時に、親の都合により千葉県へと引っ越すことになった。


 横浜を離れる時、裕子がふと思い出したのはふみのことである。


 自ら人生を終わらせてしまった彼女は、永遠に、卒業することができない。


 でもそれは、自分も同じではないだろうか。

 形式上の卒業はしたが、心はまだ、あの場所に置いてきたままなのではないだろうか。


 卒業、いつか、出来るのだろうか。

 いや、そもそも卒業したいと思っているのだろうか。



 闇。

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