背後の足音
逢雲千生
背後の足音
これは、私が高校生の時に体験したお話です。
私が高校生の頃、テレビで心霊番組が流行っていました。
番組があった次の日には、必ずその話で持ちきりになるほどの人気でしたが、怖い話が苦手な私にとっては辛い一日でした。
ある日の事です。
その日はとても暑い日で、学校が夏休みに入っていたこともあり、どこか気が抜けていたのかもしれません。
自習室として、いくつかの教室が開放された学校は新鮮で、下敷きで風を作りながら勉強する私は、少しだけ冒険心が芽生えていました。
前の年までは大勢の人が利用していましたが、この年からは塾に通う人が多かったため、私以外の利用者がいなかったということもあるのでしょう。
ちょっとだけ、という気持ちで、誰もいない校舎を歩くことにしたのです。
それほど広くない学校なので、冒険といっても、人がいる時にはいけないような場所にしか行くところはありません。
一学年に三クラスしか教室がなく、一クラスは三十人しかいません。
ここ数年で社会問題に取り上げられた少子化の影響で、だからこそ、自習に来る人がいなかったのかもしれません。
昔は人で溢れかえっていたという校舎も、今では寂れたように静かです。
独り占めしているような気持ちで歩いていると、遠くから足音が聞こえてきました。
先生だろうか。
振り返っても音は遠く、姿は見せません。
出歩いて悪いとは言われないでしょうが、生活指導の先生が怖い人だったので、その人に見つかったならば最後、長い長い説教が待っていました。
慌てて逃げたのですが、この時にいた場所は自習室から遠く、戻るには歩いてきた廊下を戻るか、別の階から迂回するしかありません。
先生は見回りにでも来たのか、足音は次第に近づいてきます。
ここは二階で、上か下、どちらかに行かなければ迂回は出来ません。
一階は一年生の教室がありますが、長期休みには臨時の職員室になる空き教室があるため、その前を通らなければなりませんでした。
怖い先生に見つかるよりは、上級生に怒られた方がいい。
そう考えて三階に上がることにしたのです。
私の通っていた学校は、上下関係が厳しいところでした。
先生達が使う西校舎と、私達が使う東校舎は、渡り廊下で繋がっているのですが、東校舎の中で三年生は絶対的な存在でした。
『たとえ理不尽なことであっても、逆らえばもっとひどい目に遭う』
部活の先輩に教えられ続けたその言葉は、卒業するまで守らなければならない決まりでもあります。
それを教えてくれた先輩達も律儀に守っていたので、自然と後輩達も守るようになっていたのでした。
あと少しで三年生になれるから、だから我慢しよう。
そう思いながらやって来ましたが、上下関係というものが苦手な私は、それがとても苦痛でした。
それでも、あと少しだからと目立たないようにやって来ましたが、それも今日で終わりだなと諦めた気持ちで、見た目以上に長く見える階段に足をかけたのでした。
おそるおそる三階に上がると、想像していたよりも見慣れた場所に感じました。
けれど、二階と同じ造りなのに、知らない場所に迷い込んだような気分にもなったのです。
ゆっくりと廊下を歩いて行きましたが、誰もいないのかとても静かで、空気がひんやりと感じます。
人がいても怖いけれど、人がいなくても怖い。
早く二階に戻ろうと、足を速めると、また足音が聞こえたのです。
キュ、キュ。
独特の乾いた音が後ろから聞こえます。
先生……?
見つかってしまったのだろうかと、思わず立ち止まりました。
怒鳴られるのを覚悟して目をつぶりましたが、音はゆっくりと近づいてきます。
そこで気がつきました。
これは生徒が履いている上履きの音ではないだろうか。
少しだけ足を動かすと、同じ音が聞こえます。
なんて
先輩か同学年か、それとも悪戯好きの後輩にでもからかわれているのだろうか。
とたんに気持ちが軽くなり、からかわないでと振り返った笑顔が、その瞬間凍ったのです。
キュ、キュ。
音がします。
たしかに、近づいてきています。
キュ、キュ。
どんどん近づいてきています。
なのに、なのに――。
「……誰も、いない?」
辺りを見回しても、窓の外を見ても、どこにも人の姿が見えないのです。
たしかに音は聞こえます。
廊下で反響して、近づいてきているのもわかります。
けれど、姿だけが見えないのです。
こみ上げてきた恐怖から、悲鳴を上げて廊下を走りました。
先生に怒られるだとか、ここで先輩に見つかったらどうしようだとか、そんなことを気にする余裕はありませんでした。
ただひたすら走ったのです。
走って走って、階段を下りて、二階に走り込みます。
誰もいない廊下に背筋が寒くなりましたが、急いで自習室に入り扉を閉めました。
廊下側の窓も、もう一つの扉も全て閉めました。
近づいてくる足音に震えながら、どこに隠れようかと教室内を見回しますが、ちょうどよいところはありませんでした。
これ以上はダメだと、仕方なしに扉の内側に背中をつけて隠れると、背後まで近づいた足音に悲鳴を呑み込みました。
口を手で押さえて、必死に声を殺します。
ここで悲鳴を上げるのはまずい。
それだけはわかっていました。
キュ、キュ、キュ。
ゆっくりと、幅の狭い足音が通り過ぎていきます。
呑み込みきれない悲鳴が漏れ出し、このままでは気づかれてしまうと焦りました。
早くいなくなって――!
祈るようにそう思うと、急に足音が止みました。
目を開けて教室内を見回し、おそるおそる上を見ます。
天井から廊下の窓まで全てを見ましたが、そこには誰もいませんでした。
立ち上がって扉から離れると、廊下側の窓から廊下を見てみます。
足音がなくなり、人の気配も感じられません。
いなくなったのかな……?
それとも、まだ近くにいるのだろうか。
ゆっくり、ゆっくりと、扉に近づいて取っ手に手を掛けます。
深呼吸をして横に引くと、勢いよく廊下に顔を出しました。
誰もいない――。
右、左と何度も確認しますが、誰もいません。
本当にいなくなったのだろうか、と思って廊下に出ましたが、足音は聞こえてきませんでした。
「おい、何してるんだ」
「ひゃぁああああああ!」
変な悲鳴を上げて廊下に倒れ込むと、私の肩をつかんだ先生が驚いた顔をしていました。
当直で来ていたその先生は、お昼になるからと私に声を掛けに来たのだそうです。
あまりの反応に驚いていた先生ですが、私の話を聞いて笑い出しました。
「お前なあ。怖い番組の見過ぎだよ。俺の娘なんかもそうだが、ありもしないことに怯えて、学校に行きたくないって駄々をこねるのがオチだぞ」
「で、でも。本当に聞こえたんです」
「仮に聞こえたとしてだ。今はもう聞こえないなら、それでいいじゃないか。ほらほら、早く家に帰りなさい。午後に来るなら、また話を聞いてやるから」
信じない先生は、お昼だからと私を帰そうとします。
午後の二時から午後の部が始まるので、先生も休憩したいのか必死です。
これ以上は
勉強道具を鞄にしまって、教室の中を一度見回してみます。
いつもと変わらない教室は、誰もいないからか、少しだけ寒い気がしました。
帰ろう。
このまま帰って、今日は家で勉強することにしよう。
鞄を背負って電気を消すと、薄暗い教室はさらに寒くなった気がしました。
逃げるように廊下に出て、先生のいる西校舎へ向かいます。
渡り廊下は二階にあるため、このまま真っ直ぐ進めばいいだけです。
早く先生に帰ると報告して家に帰ろうと、走りたくなる気持ちで歩いていました。
キュ。
背後で音が聞こえました。
足を止めると、また聞こえてきます。
キュ、キュ。
最初の頃よりも近くから聞こえ、私のすぐ後ろまで来ました。
ちょっと待って。
これじゃあ、私――。
キュ、キュ、キュ。
聞こえた音がすぐ後ろまで来ると、
キュ、キュ、キュィ……。
ゆっくりと立ち止まったのです。
何だろう、これは。
たしかに今まで、ついさっきまで人の気配はなかった。
なのに、どうして今は人がいるのだろう。
自分の背後、頭にくっつきそうなほど近くに人の顔があり、その息づかいまでが突然聞こえてきたのです。
怖い。怖い。怖い。
一気に押し寄せる恐怖に体が震え、身動きがとれなくなりました。
これはまずい、本当にまずい。
そう頭の中で考えましたが、どうしても体が動いてくれません。
その間にも背後の人は頭を動かしているのか、息づかいが動いて聞こえるのです。
誰か。あの先生は来てくれないのだろうか。
心配した先生が来てくれることを祈りましたが、先生はこの時、電話の対応をしていたそうで、私のことを気に掛ける余裕はなかったそうなのです。
生暖かい息が耳にかかり、顔が近づけられていることがわかりました。
ゆっくりと、顔の横から現れるように背後の人が横に来ると、視界の端に少しだけ見えました。
思わず目をつぶりました。
これは見てはいけないものだ。
とっさにそう感じ、慌てて目を閉じると、生暖かい息が頬にかかります。
覗きこまれていると感じましたが、怖くて目を開けられません。
これは幽霊なのだろうか、それとも得体の知れない何かなのだろうか。
判断のつかない相手に恐怖が増し、立っていることができませんでした。
尻餅をつくように座り込むと、相手は追いかけて顔を近づけてきます。
お尻には相手のつま先があたり、それが不気味で仕方ありませんでした。
早くいなくなってほしい。
早く消えて!
一生分の祈りを捧げる勢いで、そう願い続けました。
すると突然、背後の気配が消えたのです。
おそるおそる目を開けて後ろを見ましたが、そこにはもう誰もいませんでした。
良かった、これで帰れる。
急いで落とした鞄を拾い上げると、先生のところに行こうと顔を上げます。
目の前には、顔。
知らない女子生徒が、見た事もない制服姿で、私と鼻がくっつくほどの距離に立っていたのです。
言葉を失った私は、何か言おうと口を開けました。
しかし言葉は出ません。
すると女子生徒は私の肩をつかみ、にやりと笑ったのです。
「つーかまーえたあ……」
ニヤァ。
そんな言葉が似合うほどの不気味な笑みが、視界いっぱいに広がります。
つかまれた肩には痛みが走り、顔には生臭い息がかかっていました。
殺される!
そう思った瞬間、悲鳴が出ました。
そしてそれから目が覚めるまで、私に記憶はありません。
保健室で目が覚めた私は、報告に来ない私を見に来た当直の先生に怒られました。
廊下で寝るやつがいるか、と言われましたが、顔色の悪い私に対する元気づけだったようで、その後でとても心配されたのです。
呆然としながら先生の話を聞いていましたが、すぐに何があったのかを思いだすと、心配そうな先生が私に言ったのです。
「お前、どこか痛いのか?」
言われて気がつきました。
「――先生、他に自習に来た生徒はいますか?」
「はあ? いないよ。今日はお前だけだ」
「……そうですか」
あれほど大騒ぎしていた私が倒れ、ずっと大人しいままだったので、先生も不思議に思ったのでしょう。
親御さんを呼ぼうかと言われましたが、断りました。
すっかり日が暮れてから家に帰りましたが、学校で倒れたことは家族に話しませんでした。
必要以上に心配されるのが嫌だったのと、幽霊が出たなどと話せば、楽しみだったテレビを禁止されるかもしれなかったからです。
元気のない私を家族は心配してくれましたが、大丈夫とだけ伝えると、汗を流すためにお風呂場へ行きました。
制服を脱いで、裸にバスタオルを巻くと、洗面台の鏡で自分の顔を見ました。
汗まみれでぐちゃぐちゃになった顔は、ひどく青ざめていました。
これでは、先生も家族も心配するはずだと思いながら、誰にも言わなかったことを思い出したのです。
『お前、どこか痛いのか?』
先生に言われて気がつきました。
ずきずきとつかまれた肩が痛み出し、今もつかまれ続けているような感覚があったのです。
それを言わないまま、誰にも伝えないまま家に帰りましたが、今でも痛みは続いています。
痣になっているはずの場所。
赤黒くなっていると思っていた場所にあったのは、肌色の手。
思い切り私の肩に爪を立ててつかむようにあるその手は、まぎれもなく人の手でした。
「ひっ!」
肩に違和感を抱き、悲鳴を上げました。
あの時つかまれたから痛いと思っていた肩が、再びグッとつかまれる感覚に変わったからです。
慌てて立ち上がり、洗面台に背中を向けて後ろを確認しますが、そこには誰もいません。
いったい何がどうなっているのか、もうわけがわかりませんでした。
怯えながら確認するために肩を触ると、生暖かい息が顔にかかりました。
肩には自分ではない肌の感触。
耳元にはありえない息づかい。
これは、まさか――。
ゆっくりと、時間がスローで流れているかのような感覚の中で、私は後ろを振り返りました。
鏡の中に居たのは、私ではない女の子。
不気味な笑みを浮かべ、私を覗き込むように立つ彼女は、鏡の中から伸ばした手で私の肩をつかんで笑っていました。
背後の足音 逢雲千生 @houn_itsuki
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