4:彼の道程

 白木の枠に嵌めこまれたガラスが、圧せられる大気に磨かれた身を震わせている。

 神の代行であり、魔王の監視を任とする金眼の美女が、空を降りはじめたのだ。石畳に立って勇者の肩を抱く、赤い瞳の魔王を討つためにであろう。

 人の身ではあまるほどの、危険が迫っているのは間違いなかった。

 それでもカチェスは、取り戻した己の席を占拠して、立派な装丁の本に目を通して、

「で、あなたが言う正神教正典に浮かぶ三つの謎というのは、いったいどれのことだ?」

 板についた不敵さで、揺れる窓に寄る前勇者に問いかけた。

「善徳を糧に星になる、などの寝言も数えたならゆうに千は超える。ぜひ、専門家の意見を聞きたいところだ」

「ええ。もちろんお教えします」

 彼女もまた、逃げるつもりはないようだ。でなければカチェスと同じく、逃げる必要はないと判じたか。

 天使の目的は魔王だ。戦闘の余波に巻き込まれる可能性はあるが、魔王があのカオルである以上、派手にはなるが犠牲を出す真似はしないはずと、たかをくくっていた。

 十年ほどの付き合いで培った信頼に依るのだが、彼女もまた同じなのか。

 観察をするように空を注視するメグの背を見つめていると、彼女はそのままの恰好で講義を始める。

「神学者が唱える三つの大きな謎とは、神の出自、神の目的、魔王の出自です。

 カオルさんの正体に言及するためにエイブスさんがこの本を勧めたのなら、問題になるのは最後の一つですね」

「言われたなら確かに。聖典では、神の降臨の数年後に説明もなく突然現れて……また折り目だ。エイブスの野郎は書を財産とは考えていないのか?」

 目頭を押さえ、見当違いな怒気をどうにか鎮めきる。

「教会の絡まない歴史でも同じだな。イルルンカシウム大陸の各地に、五人の魔王が突然に現れる。『灼赫の邪眼』はその一人だ」

「ええ。それ以前の戦乱期やもっと前の資料にも、魔王どころか魔族の姿すらありません」

「著者も書いてあるしな。魔王たちは確かにいるが、その出自は不明である。わかっているのは神の敵であり、人の敵であることだけでしかない……最後のくだりは歴史学者ではなく、神学者の見解だ」

 カオルが魔王であって、しかしどうして人々の敵であろうというのか。

 隣人として見るならば、正神教の司祭などよりよほど望ましいではないか。

 カチェスの言葉に、メグも首肯を示し、

「魔王たちは突然に現れますが、聖典にはやはり急に、その姿を消す複数人がいることをご存知ですか?」

「一時だけ舞台にあがり以後消息が知れない者など、歴史上では数知れずだ。よしんば特定できたとしても、流れる時に溺れたわけではないと、どうして保証ができるのだ?」

「それが、保証のできる数少ない例があるんです」

 メグに示され、秘書の付けた折り目を順にめくり、鋭い視線で一瞥を繰り返していく。

 本の半ばほどで、細い指を止め、

「契約の十人か」

 符号が噛み合う納得と、常識による不審を混ぜ合わせた声を上げてしまった。

 前勇者が真剣な面持ちで振り返る。

「突然に現れた神と会見するために、当時の大陸にあった十の国から派遣された若者たちです。彼らは、聖典でも歴史上でも、誰一人霊峰から帰っていません」

「魔王の登場と符号は合う。しかし、頭数が合わないのでは?」

「ですが、足りないわけではないでしょう?」

 なんて乱暴な、と眉尻が下がってしまったが、理には適っている。あぶれた五人がどこへ消えたのか、なんて問いは、先に己の言葉の通り。

 流れいく歴史に、溺れて沈んでしまったのだろう。

「自信があるようだが……カオル本人から聞いたのか?」

「直接に、明確にではありませんが。一度、貧乏くじを引いたんだ、と愚痴をこぼされたことがありまして」

 十人のうちから、魔王となる者とそうでない者がいた、という仮説の裏付けにはなり得る。

 なれば、とカチェスは本を投げ出して、苦笑を浮かべた。

「あのバカは五百歳越えってこと? あんな、しわ一つない顔で?」

「ほんと、許せませんよね」

「小娘に言われたくはないな」

 本気の怒気を込めたが、小さな笑いで肩を揺らされてしまうから、肩透かしを食らわされてしまった。

 驚かされる話ではある。

 だが、疑問も当然あって、

「しかしそうなれば、人間の肉体を持つということだ。魔を喰らうという聖剣では倒せない、ということか?」

「ええ。魔族であれば、切っ先を叩き込むだけで消滅し、剣の中に『収めて』しまいますが……ですから彼は瞳、あの『灼赫の邪眼』を狙うよう、私に求めていました」

 どういうことだ、と藪睨む視線で問いかけると、ちらと目を返しながら、

「彼が言うには『燃える瞳だけがあの山で押し付けられた』ものだから、だそうですよ」

「ちょっと待て」

 今の言葉は、宗教を嫌うカチェスであっても、十分な価値観の転倒を誘われるものであった。

「魔王の『邪眼』は『山の主』から押し付けられて、聖剣はその瞳を喰らうことができたということだな?」

「ええ。事実、魔王の『隻眼』は今や聖剣の中です。そして」

 切れた言葉を重い口で継ぐと、市議長は疑惑を明確にする。

「そして聖剣は、魔族であればその全身を『喰う』ことができると言っていたな?」


      ※


「つまりは……なんだ?」

 言葉を明確にしようと前のめりになったところで、背後の窓外にで影が滑りいくのに気がついた。

 こちらの様子にメグも振り返り、その正体を口にする。

「カオルさんですね」

 声音に驚きはなく、いずれ訪れていたであろうという風に、諦めが見え隠れする。

 カチェスも同じ思いだ。

 この数年ばかり魔王を従えていた女は、問う。

「あいつは剣を……魔擢の聖剣を持っていたか?」

 問われたほうは首を横へ。

「エインジドでは完敗でした。同じ条件で、勝てるわけはないのですが」

「それでも行くのか……何か目的があるんだろう」

「勝つわけではなく?」

「なれば、敗れるためかもしれんな」

 メグの頬が苦く歪むのを、鏡のように見つめた。

 こちらの言葉に、渋い肯定を見せるだけの彼女もまた、カチェスと同じく、カオルの気質をよく知る者のようだ。

 相手のために身を切ることを、躊躇うことなどない。

 彼の姿勢に呆れることも多々あったが、救われたこともまた同じほどあった。

「は。あのバカは、言っても聞きやしない」

「では?」

「こっちが、より強引な策を取るしかないさ」

 カチェスは、自身が行使しうる手段の幾つかを紙上に走らせて、メグへと手渡す。

 頷いて、議事室を後にする彼女を見送ると、再び本へと手を伸ばした。

 すでに、自分に尽くす手のなくなったことが、よくよくわかっているから。

 だから、

「五百年か……果たしてお前の胸中は、如何ばかりだろうな」

 エイブスに渡された「五百年前の真実」の一節をなぞって、呟くしかなかった。

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