4:難事の前夜
人が人を蹴る音の響く、賑やかながら穏やかな夕暮れ。
男と少女は雑談を、笑い混じりに交わしていた。
「じゃあ、クリートで構わないかい?」
「ええ。以後、お見知りおきを」
「これはご丁寧に。こちらこそ」
教会で教わった通りに頭を下げると、完璧に優雅な返礼をされて、エイブスの教養の高さに目を見張ったりもした。
情報屋を名乗った彼は、笑うように肩をすくめると、
「しかし君も、こんな時に尋ねるなんて、運が悪い」
「え?」
「なにも、あの人の機嫌が悪い時に来なくても、ってこと」
動かされたエイブスの視線を、クリーティアも追う。
相変わらず、タイトスカートをものともせずに蹴りあげるカチェスと、ぴくりとも動かなくなったカオルの姿が夕日に眩しくて、思わず目を細めてしまう。
「機嫌は悪そうですけれど、それはあのカーオロイという人が悪いのでしょう?」
「いや、政治的に面倒事が舞い込んでいるんだ。普段なら、膝蹴りに説教で済むけど……」
「まあ、カオルならあれしき、問題じゃないがな」
「おや、隊長さん」
エイブスのしかめられた眉がほどかれると、少女の頭上を飛び越えて、低くてよく通る声が会話に入り込んできた。
驚き、聞き覚えもあったため、すぐさま振り仰ぐ。頭三つは上の空間に、笑顔を浮かべた初老の男が、灰の混じる短髪を掻いていた。使い込まれた革鎧を身につけており、隊長と呼ばれたことから、街の自警団であることが想像できる。
「もしかして、さっきの……!」
瓦礫の向こうから聞こえてきた声の主か。
「おう嬢ちゃん! あいつと一緒にいて、よく無事だったな!」
「え、あ、は……」
「おう、俺の名前か! エリオットってんだ! エリーと呼んでくれ!」
「あ、え? は、私は……」
「女みたいなあだ名だろ? だけど、俺は気に入ってるんだ、これが! がはは!」
ただただ圧倒的。言葉を作る暇がなく、挙句大きな声が、生まれかけた声を呑みこんでいってしまう。
豪快で強大な笑い声を呆然となりながら聞いていると、それとなくエイブスがフォローを入れてくれ、
「隊長さん。その子、怯えていますよ」
エリオットが顔色を怒りに変えた。
「なんだと! くそ、カオルの奴か! こんな小さな子を怯えさせるたぁ、鬼畜魔王め!」
「気にしなくていい、クリート。この人は悪い人じゃない。反省がヘタクソなだけだ」
必要な言葉は、そういう類のものではないと思うのだが。
ごほん、と呼吸を取り戻すために咳払いをして、エリオットの言葉で思い出した本題に入る。
「あの人は、本当に魔王なんですか?」
自分は選ばれたのであり、成すべき重大な使命を帯びているのだ。一刻も早く魔王の所在をはっきりとさせ、神のために打ち滅ぼさなければならず、そのためには彼らの明確な答えが必要で……、
「いや……さあ?」
二者択一のつもりだった答えに、三つ目が存在するとは想像もつかなかった。さまざまな覚悟を用意してあったものの、誠意のない返答のものまでは手が回っていない。
数秒凍りつき、
「で、ですけど! 彼を魔王と呼んでいますよね!」
「がはは! あいつは自分で名乗っているからな! 特に、酒が入ると!」
「……酒?」
「べらぼうに魔術が強くて、片目が赤い。だから、信じている奴も多いんだけどね」
状況証拠は確かに濃度が高い。
しかし、情けない情報が増えるにつれて、疑いも膨らまざるをえない。
……いや、違うなら違うでいい。この街には、魔城へ向かう道程であるのだから、回り道をしたわけではない。決して、無駄足でもないのだ。
だから、まずは情報が欲しい。
「その、あなた方は信じているのですか?」
客観的な断定は困難であることを悟って、目の前の二人、それぞれの主観を確かめようとしたのだが、
「……俺? 俺はいやぁ……エイブスはどうだ?」
「隊長さんと一緒ですよ。別にどっちでも構いませんから」
「だよな。カンケーないもんなあ、あいつが魔王でも」
「関係ないんですか!? だって、魔王ですよ!」
クリーティアには信じられない言葉が吐き出された。
人を堕落へと導く魔族の王が隣人であったとしても、関係がないだなんて。
確かに、ポールスモートという街は教会の威光が届いていない、交易中心の実利主義が蔓延していると聞いてはいたが。
「すまんなあ、アテにならなくてなあ」
「だけどクリート。確かなものが一つだけある」
自分は、よほどしょげた顔をしていたのだろうか。エリオットは巨躯を折って心配そうに覗き込んでくるし、エイブスは慰めようとしてか言葉をかけてくれた。
「確かなもの、ですか?」
「ああ、見てごらん」
彼が指すのは、いまなお気絶したままのカオル。
「ああやって議長に蹴られている姿は、どうやっても魔王にはみえないだろう?」
「……議長さんのほうが、書物の魔王より百倍怖いですよ……」
確かにあれでは、魔王がどうこうの以前に、湧きたつ感情で胸がいっぱいになってしまう。
これはなんだろうと一つずつ確かめていけば、
……同情、でしょうか。
※
カチェス・リン・バルバドスは、重大な問題を、いくつか抱えていた。
ひとつは、半ば彼女の手駒であるカオルが行った破壊活動である。
「あいつが一働きすると、私の任期が一月は縮んでいるな」
目元に馴染んだやぶにらみを瓦礫の山に向けると、仕方ない、と肩を落とす。腹立たしいことは否定しないが、かといって責める気持ちはない。
うっぷんの大体は蹴りに込めてあったし、
「カオルがいなかったら、被害はもっと広がっていたでしょうしね」
「……エイブスか」
駆け寄ってきた私設秘書に、足は止めずに口元を歪めて見せた。向こうも立ち話を求めていたわけではなかったようで、いつものように彼女の後に続く。
「自分の立場より、街の利益。不利を承知で、あいつには自由にやらせているんでしょう?」
「は、そんな大層なお題目はないよ。せいぜい、腐れ縁だからな」
カオルと共に、十年来の付き合いだから、考えていることも大体が知られている。だから、苦笑いするしかない。彼らとの間に、言葉ほど無意味なものはないのだ。
「まったく、そんな照れ隠しを……せっかくの白いジャケット、煤けていますよ?」
「構わんよ。街の象徴だから着ているだけで、本当は好きじゃない」
「明日の会議はどうするんです?」
吐き捨てるように喉の奥で笑い、部下の投げやりな心配に、やはり投げやりに応える。
「白のジャケットがないのなら、言い訳には使えるだろう」
「会議に出ない言い訳ですか?」
「着ない言い訳だよ。確かに、明日の議題は捨て置きたい内容だがな」
一枚の親展を、タイトなデザインのジャケットの懐から取りだし、
「代表がすっぽかすには、重大すぎる」
背後の情報屋へと、開いて見せる。
「……ほう、ついにですか」
「ああ、ついにだ。ここ五十年は伝説ですら、人目に現れることはなかったのにな」
憔悴を強調気味に頬へ浮かべるカチェスに、エイブスが抑揚のない声で、一応報告を、とつないだ。
「あの少女、十中八九『名誉の白羽』に選ばれた勇者サマです。鎧に聖印がありました」
「そうか。で、今はどうしている?」
「隊長さんと一緒に、伸びているカオルを回収しています。いずれ教会には顔を出すでしょうが、魔王サマに首ったけだったので、今晩は一緒ではないかと」
「エリーとカオルの護衛か……戦闘以外が不安でたまらんな」
それは、信頼しているという意味だ。
「よもやとは思うが、教会とパイプの太い副議長あたりが、勝手に動く可能性もゼロとは言い難いのが現状だからな」
口の端が、に、と吊り上がるのがわかる。
周囲からは怖いからやめろと言われるのだが、やぶ睨みと一緒で、この半笑いも今さら直すことなどできはしない。
この背にある責任と、足元に築かれた地位と、両手にある力への自負なのだから。
背後の男は、感情をあまり声に乗せることはしない。しかし、好意を込めて言葉を紡ぐ。
「誰であれ、このポールスモートが持つ自治の理念を犯すことは許さない、でしょう?」
「そう、誰であれだ。血に染まった狂信者であれ、鉄の軍勢を率いる征服者であれ、人を超越した魔族の群れであれ」
ぐ、と指の細い右手に力を込めれば、
「神の代行者である『天使』だろうがな」
明らかな敵意と警戒心を双眸に込めて、親展が握りつぶされた。
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