1:選ばれた者

「あなたは選ばれたのです」

 しわだらけの修道女の厳しい声が、少女の記憶の始まりであった。

 彼女……クリーティア・ボードフィールはそれ以後、幾人の親に取り囲まれ、さらに親の十倍にも届く兄弟たちと寝食を共にしながら、一人だけ同じ言葉を繰り返されながら小さな町にある正神教の教会で、十五年を過ごすことになる。

 選ばれた、という言葉。

 幼い頃には全く意味がわからず、皆よりも遊ぶ時間が少なかったことは恨めしかったし、本の読み聞かせは眠くてしかたがなかった。それでも、八歳を越える頃には、周囲の期待も理解できるようになったし、ほとんど外出する機会などない兄弟たちと違って、週に一度は教会のお使いに出ることもあった。些細な楽しみではあったが、外の世界を知る機会でもあったし、値切り方を覚えたのもこのおかげである。生来の快舌に、技術を取り込み始めたのも、この時の経験が大きい。

 自分の名が、教会の持つ名前と同じボードフィールであることに疑問を抱いたのも同じ頃。最初は、それこそが選ばれた証であろうと、単純に考えていた。しかし、十歳の秋に、自分が見つけた捨て子に同じ名前を付けられているところを目撃したことから、疑問は氷解した。しかしながら、そこからいまひとつの疑問が生まれる結果となる。

 私は、何者なのか。

 何事を成すために、何者に選び出された存在なのか。

 皆から親愛を込めてクリートと呼ばれていた少女はすぐさまに、意識の開闢に存在する老婆のもとへ、薄暗い廊下を駆け抜けて訪れた。

「神です」

 かつての覇気は薄れて落ちてしまった修道女の言葉は、簡潔で、曖昧で、衝撃に満ち満ちた一撃であった。

「かつて、神は勇者を求めました。灼赫の邪眼を持つ、恐るべき魔王を討たねばならんと。あなたは、その十人目となるのです」

 感激に、背中から震え上がり、抑えることができなかった。

 聖典である『邂逅と開闢』は生れてこの方、毎日のように読み聞かされた内容であり、そこに記された神の奇跡により人は生きているのだ。

 その神に選ばれたとは!

 次の日に、自慢だった金髪を短く切り揃えた。

 その次の日から、教会の中庭で戦闘訓練が始まり、その日のうちに腕の骨を折った。

 更に翌日、折れた腕を吊ったまま定時に中庭に現れ、教師たちにしこたま怒られた。

 そうして、六年後。

 隣町の司教より、胸に聖印である正十字を施された白革の鎧を賜って、クリーティアは旅に出る。秋空の下、信念と希望と使命感、健闘惜しくも命を落とした先代勇者の物語とを、小さな胸いっぱいに詰め込んで。

 邪眼を持つと言われる魔王を倒すために、魔城のある『暗黒の剣山』を目指して、東へ。

 ところが、一月ばかり旅を続ける間に、かの宿敵は魔城を出て久しいという噂を耳にした。

 噂を追えば、旅の途上にあるポールスモートという交易都市に、魔王を名乗る男が存在しているらしい。

 クリーティアは真偽を疑うこと深刻であったが、目的地へ向かう中継地点でもあったため、ひとまず、件の街へと向かうこととした。路銀が尽きかけており、大都市の教会より援助を受け取るという、実務的な問題もあったことも確かだ。

 ともあれ、勇者に選ばれた少女は、無事ポールスモートの石畳を踏みしめることとなる。

 正午過ぎに到着するなり、蛇頭の巨大な魔族が暴れながら横切っていったため、砕けて飛んだ城壁の石片に、額をしたたか打ちすえられてしまったが。


      ※


「どうなっているんですか!」

 涙目で額をおさえながらのクリーティア・ボードフィールの叫びは、特別に誰かへ向けられたものではない。

 額の痛みや理解できない状況などへ、当たり散らすように周りにばらまかれたものだ。

「あれが魔王!? 噂の魔王ですか!? うちの教会と同じくらい大きいですよ!」

 風で流された土煙に、白い顔も金の髪も洗われていく。しばらくのあいだ、ああもうああもうと、不平を口にしていたのだが、不毛さにため息をひとつもらすと、強大な魔族へ視線をむける。

「とりあえず、魔王にしろそうでないにしろ、捨て置けませんね」

 自分は、人類のために選ばれたのだから。

 うん、と力強く頷くと、腰から下がる短杖を右手に握る。

 使命への高揚と初の実戦へ向かう緊張感に、深い青色の大きな瞳を熱くしていき、

「……よし。私はできる、私はできる! ってこの音は?」

「何やってんだ! 嬢ちゃん、あぶねーぞ!」

「は?」

 入れ込んだ勇者としての気持ちは、爆発と破砕の音と、低いがよく通るがなり声にすっぽり抜き取られてしまった。

 声を追って顔をあげると、視界を横切る影が。

 不意を打たれた驚きに、身構えながらそちらを見れば、

「……なに?」

 顔から着地した男が、尻を突き出すという格好で倒れていた。

 あまりの奇跡にしばし呆然となったが、

「だ、大丈夫ですか!?」

 勇者的義務感に我を取り戻すと、足をもつれさせながら駆けだす。

 突っ伏す男は、仰向けに転がりなおすと、秋の高い空を見上げながら、いててと呻く。

「なんとかな……ツラの皮が厚くて助かった」

「嫌な助かり方ですね……」

 年の頃なら二〇代半ばであろう青年。

 体の線よりも大きなジャケットを、腕をまくって着込んでいる。明るい黒色は素人目にも素材の高級さが伺えるのだが、その着こなしがとにかく乱雑で、孤児院で育ったクリーティアには正気を疑うに足りた。

 が、さらに彼女を驚かせたのが、癖のある深い黒髪の間から覗いた双眸であった。

 高い空を眺める左は青で、右が、

「……赤い瞳!?」

 両目の色が違っており、確かに珍しいことではあるが、それだけが衝撃の正体ではない。

 彼女の使命は魔王を討つことであり、その魔王は「灼赫の邪眼」と呼ばれており、この街に魔王がいるという噂がある。

 これらの事前情報が、勇者を敏感に反応させたのだ。

 が、困り眉でこめかみに指を当てる。

「いやいや、片目だけですし、なにより魔王がこんな風体で転がっているわけが……」

 勇者が現実的な判断を下さんとする矢先、家々の向こうから武装する自警団が、

「おい見ろ! 魔王サマが遠目美少女に話しかける事案が発生してるぞ!」

「魔王サマを捕まえろ! 罪状はどうでもいい、遠目美少女に近づいたのが罪だ!」

「じゃあ、魔王サマは頼みます! 俺は遠目美少女を救出してきま……うわー!」

 テンション高めの喚きを残して、駆け廻る巨体に蹴散らされていった。

 クリーティアは彼らの言葉を反芻し、遠目美少女とか遠目美少女とか遠目美少女とかのいらん言葉を打ち消しながら、重要な単語に驚きを得る。

「魔王サマですって!?」

 眼前で蛙のようにひっくり返る青年は、確かに魔王と呼ばれ、そして「ざまあ!」と自警団を爆笑しながら罵っている。

 少女は彼の態度に賛同しながらも、問い詰めなければならない。

「魔王って、魔王なんですか!? あなた、あの魔族の王!?」

 異瞳の青年は、クリーティアの声で彼女の存在に気づいたらしく、口元は半笑いのまま鋭い眼をきょとんとさせ、

「そういや、さっきからいるな。なにしてんだ、ちびっ子? 避難してねぇのかよ」

「な……!」

 初対面で失礼極まりない名称を付けられた勇者は激高し、全力で以て講義を試みるが、

「ちびっ子とはなんですか! いや、そんなことより……!」

「ああ、まさにそんなことよりだ」

 勢いよく体を起こすと、こちらの言葉をつぶしながら、半ば叱るような口ぶりに。

「さっきのでかぶつが、引き返してくるぞ。とっとと、どっかに隠れるんだ」

 言われてみれば、確かに地響きが大きくなっていた。

 だけれども、自分には使命がある。身に危険が近づこうとも、果たさなければならない。

「答えてください! あなたは、本当に魔王なのですか!」

「今じゃなくていいだろ、そんなこと」

「そんなこと!? というか、否定をしないんですか!?」

「なんだよ、面倒くさいなあ。はいはい、俺サマ魔王でがんす、食べちゃうぞー」

 なんと面倒くさげで、なんといい加減な。

 魔王が人里で情けない格好をしているという可能性を、いとも簡単に後回しとした。

「ほら、あっちにでかいおっさんがいるからな、遊んでもらいなさい」

「こちらの熱意を完全に馬鹿にした、えらいあしらいようですね……ですが、言いたいことは、よくわかりました」

「おお、わかったか。よしよし、いい子だ。すぐに追っ払うから、話は……」

「なれば、今すぐに、あの悪鬼をこの手で討ち滅ぼして差し上げます!」

「……は?」

 青年の間抜けで短い反問には答えず、手の中の鉄杖を握り直すとクリーティアは駈け出した。

 魔王容疑者のあの表情もわからないでもない。敵は、二階建ての民家と肩を並べるほどの巨体なのだ。

 しかし、彼女に緊張はあっても、怖れはない。

 だって、なぜなら、

「私は勇者なのだから! 神に選ばれた、魔王を討つべき勇者なのだから!」

 だから、

「だから、魔王の下っ端ごときには負けられません!」

 歯を食いしばり、近づく蛇頭へと、こちらも向かっていく。

 背中へ「あれが今回の……名誉の白羽に……」などと聞こえてきたが、その追及も後回しにすることに決めた。

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