1:玉座の主
彼はこの城の王であった。
霧に覆われた剣山に絡みつく異形の建造物は、慄く人々に魔城と囁かれ、尊大な玉座に頭を垂れる異形の者たちは、警句の散りばめられた聖典に魔族と記された。
玉座で気だるげに微笑む彼は、魔王と呼ばれていた。
相対するのは、勇者と名乗った少女。
切っ先に赤い滴りを垂らす剣を握る、殺気立つ魔族に囲まれた人間は、震える声で叫ぶ。魔王が彼らを制していなければ、すぐさまに襲い掛かってくる状況。しかし、のどの震えは決して恐怖に由来しない。
あえて言うなら、迷いだ。
「何故!?」
夜よりも暗い髪に視線を隠し、彼は答えない。ただ、微笑みをつくる左頬を、赤い滴が伝っていくだけ。
焦れたように、勇者が言葉を重ねる。一息に、わだかまりを全て叩き込んでしまおうとするように。
「何故、ただ一騎の私が、魔城の最奥まで辿りつけた! 何故、周りの魔族は私に襲いかかろうとしない! 何故、致命と知りながら聖剣をあえて受け止めた!」
吐き出した勇者は息を切らし、しかしもう一度、何故と呟く。
「……何故、私を助けようとするのです」
携えてきた強い使命感と敵意の向ける先を、少女は明らかに見失っていた。これまでかろうじて支えてきた強い視線も、魔王の真意を探り当てることができず、声音とともに不安に呑まれつつある。
彼は微笑み、そして頷く。
「……十年前の勇者も同じことを尋ねたよ。その前の勇者たちも、な」
相変わらず瞳は前髪に隠し、それでも柔らかな表情を見てとれる。声も同じほど優しげに、
「古い習わしに巻き込まれた君たちを助けるための、俺が定めたちゃちな掟だ」
神のために魔王を討たんと起った彼女には、説明にもなっていないようだった。
「……十年ごとに選別される勇者を、あなたはこうして助けてきたと?」
口を開くことで、言葉を受け止めることで不安を拭い落そう、と必死に。
少女の言いたいことはわかる。だから、魔王は微笑みに自嘲の色を濃くして、
「……罪滅ぼしさ。ただの、己を満たすためだけの」
え、と不意をうたれたように疑問顔になる勇者。
畳みかけるように、魔王は語りかける。
「もう、街に帰りたまえ」
「魔王に助けられた勇者を、教会が放っておくと思っているの?」
ああ、確かに。最初の勇者は、魔族にではなく、教会の人間に殺された。自嘲の源流にあった傷心が現れる。口の端にそいつを引っ掛け、
「君が望むなら、この城で余生を過ごすのもよいだろう」
「……いえ、やはり戻ります」
きっぱりと、彼女は答える。不安の原因であった不審と迷いを、振り切ったように顔をあげた。唇にはすがすがしい笑みが浮かび、笑う時の癖で左目をつむってみせる。
「教会に死ねと言われたこの命を助けられて、さらに世話までかけてしまっては、立つ瀬がなさすぎるでしょう」
「気にすることはないんだがな……そう言うのならば、気をつけて」
「特に教会には、ですか」
剣を鞘におさめると身を翻し、依然殺気立ったままの魔族が居並ぶ帰路へとついた。
溢れる敵意を気にもとめず、彼女はふと、思い直したように立ち止る。剣の柄を撫でるように握り締めると、
「……やっぱり、十年後の勇者も助けるのですか? その目を失ったというのに」
「失ったというのは、少し違うな」
「……そうね、私が奪った」
手に力が込められ、呟くような返事に後悔がまぶされたが、
「それも違う。そうじゃない」
「え?」
強い自省へと落ち込もうとする少女に、軽い驚きを与えて機を制すると、
「君にあげたんだ。いざという時に、そいつは魔王の瞳を奪った証拠になる」
途端、勇者の体が震えた。魔王にはその理由がわからないものの、
「……助けてあげて。十年後の勇者も、そのあとの勇者たちも」
弱々しく頼るその声に、彼は、当たり前だと優しく微笑んで見せた。
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